14.有限奈落

歩くごとに、話すごとに、薫はよく笑った。笑顔に含まれているものが昨日より明らかに少ないことに、剣心は気づいている。隙間だらけの薫の笑い声は、それでも剣心の顔をほころばせた。
「けんしん、楽しそうだね」
「そうだな。きっと、もうすぐ着くからだ」
「着く……? わたしたち、どこへ向かってるんだっけ……」
「家だよ。俺と、薫の。男ばかりで、少しむさくるしいかもしれないけれど」
「そうだったっけ……」
「場所なんてどこでもいい。薫が在れば、そこが俺の家だ」
「うん。わたしも」
「少しの間、男所帯で辛抱してくれ。全部終わったら、二人で静かに暮らそう」
器が空になったのなら、また満たせばいいだけだ。薫さえ隣に在れば、それができる。そう理解した後で、嘘は苦痛でも罪悪でもなかった。
戻って、巴との約束通り新時代を築いて、そうしたら。
そうしたら二人、静かな場所で暮らそう。何もかも忘れてしまっても。そこで新しい記憶を詰め込めばいい。血と鉄の記憶は、覆い隠してしまえばいい。
それは決意と自己欺瞞だ。何もかも、無駄にはしない。斬り捨てた命も、巴の想いも。新時代が来るまで斬りつづける。右手には刀を、左手には薫を手にして、斬り続けてみせる。『幼女趣味』『狂人』『人斬り鬼』。何を言われたってかまうものか。もう、考えるのは疲れたんだ。
開き直りというべきなのかもしれない。けれど、それでいい。
薫の記憶は零れ落ちていく。
結構なことじゃないか。人を殺めていた記憶なんて、追い出したほうが薫のためだ。薫に斬られた人間の怨嗟の声になんて、耳を貸さなければいい。彼らの声は、俺たちの世界を脅かすのだから。
贖罪や罪悪や正義なんて知ったことか。都合のいい部品だけでできた世界を、二人で作り上げる。閉じられた、完璧な箱庭を。
自棄のようなその考えは、ひどく魅力的に思えた。それに身を任せようと決めたら、頭がおもしろいくらいすっきりとした。
何を思い悩んでいたのだろう。自分に都合よく生きようとすれば、こんなにも身軽になれるというのに。そこに大きな欠落があると知っていることにさえ、目を瞑れば。
その欠落は、いつか剣心を飲み込むのかもしれない。構うものか、と剣心は思う。どんな空白を抱えることになろうとも。薫を失う虚空に比べれば、小さな痛みに過ぎないではないか。
「けんしん……ちょっと待ってよ!」
息を荒げる薫の声で振り返る。十間ほど後ろから、薫が駆け寄ってくる。どうやら、この開き直りのような高揚感に注意を削がれていたらしい。剣心は苦笑する。
「はぁ……はぁ……もう、早い!」
「ごめん、考え事をしていたから」
「考えごと?」
「ああ。これからの俺と薫のこと」
「これから?」
「ああ、これか……」
三間先で伸ばしていた薫の手が消えた。無造作に首根を掴まれた薫は、そのまま投げ飛ばされて街道脇の樫に叩きつけられた。樫の幹と薫の薄い肉とが衝突するいやな音が剣心の耳に届く。背骨を強打した薫は、声すら上げず、そのまま崩れるようにうずくまった。
「薫!」
呼びかけに応じない薫に、駆け寄る暇はなかった。右耳と右脇腹、そして左脛に刃が触れようとしていた。
「くっ!」
咄嗟に身を翻し、剣心は遠心力を使って刃を鞘で弾き返す。腰下に繰り出された突きを、刀ごと左足で踏みしめると、そのまま蹴り飛ばした。大刀を失った相手は、なお脇差を抜いて剣心へと斬りかかる。剣心が、脇差の斬撃を剣先で弾いて跳躍する。別の男が繰り出した刀身が、わずかに足をかすめたらしい。ひと筋の冷たさと同時に、ふくらはぎが血で生温かく湿った。
「怯むな! 殺せ!」
「ちぇすとぉおっ!」
薩摩示現流独特の怒号があがる。どうやら、相手はそれぞれ腕に覚えのある者らしい。五人と一人が入り乱れての接近戦だというのに、同士討ちを巧みに避けている。それならば、と剣心は乱戦の輪を抜けて走り出した。
「逃がすな!」
「薩長の不和を招く逆賊めが……!」
五人それぞれが、剣心の背中を追う。体躯と足の速さから、次第に集団だった追っ手がばらけはじめた。先頭の男を後ろ二間まで引き寄せると、剣心はおもむろに向き直って男の右腕を薙ぎ払う。
「ぎゃぁっ……」
肘から下を失った男が、腕ごと刀を落とす。ひと月ぶりに見た血の飛沫と肉の断面は、胸が悪くなるほど赤かった。
「維新に仇為す人斬り鬼がっ……!」
追いついた二人目の男が、上段に振りかぶる。剣心は身を落としてかがみ込むと、顎をめがけて斬り上げた。男の人差し指と中指、そして顎先が、血を振りまいて宙に舞った。
なお怯まずに左手で脇差を抜こうとした男の肘に、振り上げていた柄尻を思い切り叩きつける。肘の筋を断たれた男は、たまらず脇差を取り零した。
「このっ……!」
「しぶとい若造がっ……!」
三人目と四人目の剣撃は、ほぼ同時だった。突きがひと筋、首の後ろを掠めた。反射的に身を引くと、今度は足元を薙ぎ払う刃が、血のしたたっている剣心のふくらはぎを捕らえようとする。二人相手では分が悪いと悟った剣心は、もう一度走ろうとする。が、交互に繰り出される攻撃に、体勢は崩れる一方だった。
「抜刀斎っ……!」
骨の髄まで染み渡る恨みが滲んだその声で、薫は目を覚ました。どうやら、衝突の際に脳が揺れたらしい。目の焦点がうまく合わない。頭の後ろがぐらぐらと痛んだ。
像を結ばない薫の瞳が、かわしきれなかった剣先で額の薄皮一枚を斬られる剣心の姿を捉える。
「……けんしん……」
いけない。
頭のどこかで警鐘が鳴った。
『そっちへ行ってはいけない』。
古い書き置きのように、力なくその声は薫に主張する。
『もう一度そこへ行ったら、二度と戻って来られはしない』。
それは警鐘ではなく、予感であり、実感だ。同時に諦めを伴う類いの、確定された事実だ。
怖くはなかった。不思議とどこかで納得していた。こんなふうに幸せになってはいけないと、知っていたから。
どこかで払うべきだと分かっていた代償が、今こうして支払われようとしているだけだ。それは、いつどこで支払いのときが来るのかを怯えながら暮らすよりは、ずっと手軽で、単純なように思えた。
だから、迷わない。遠のいていく音と、色を失う世界と、研ぎ澄まされた神経と、真っ白に凪いでいく頭に身をまかせる。
ぬかるみに刺さっている誰かの大刀を拾い上げる。それは、はじめからそこに生えていた指先のように薫の手に馴染んだ。
「人斬り抜刀斎っ! 貴様のせいで、維新が五年遅れ……っ……」
背中から左胸をひと突きにされた最後尾の男は、声すら上げなかった。前のめりに倒れ込んだ後で、ぐしゅうと重い血の音が聞こえた。斃れた男は、それが自分から流された血の音だと、残留したわずかな命の間では理解できなかったようだった。
断末の声を、薫の耳は捕らえなかった。それはもう必要のないものだと、薫の五感は判断していた。自分以外のすべてが、もったりと細切れに動く世界で。薫に見えていたのは、今まさに剣心に向けて振り下ろされようとしていた四人目の男の太刀筋だけだった。
血飛沫の音と、一人分の気配の消失とで、剣心は異変に気づく。すでに、薫は右上段に構えていた四人目の男の懐に飛び込んでいた。
「なっ……なんだこの小むす……!」
言い終わるまで言葉を紡げなかったのは、喉笛が骨と一緒に掻き切られたからだ。大刀の遠心力にまかせるまま、薫は一直線に男の喉を払った。大の男の頭を支える太い首骨が、まるで人参でも捌くかのように、何の抵抗も見せず断たれた。返す刀で男の右腕を斬り落とすと、薫はいったん地に沈んだ。
「かお……」
額から流れる血を拭いもせず、剣心が振り向く。そこには、剣心の呼びかけに微塵も反応を示さぬまま、四尺先にいる男に向かって跳躍しようとする薫がいた。
「ぬぉおっ……」
突如現れた少女の驚くべき挙措に、五人目の男は混乱していた。が、仲間の一人が一瞬にしてこの少女に殺されたことを、興奮しながらも理解していたから、迷わずその刃を薫へ向けた。
「やめろ……!」
剣心が、男と薫のどちらに呼びかけたのかは分からない。剣心の目は、薫の足が土を蹴ったところを、やたらとゆっくりと映し出した。額と足と、身体のいくつかの箇所から流れる血の音が、体中に響く。なのに、痛みは少しも感じなかった。
「やめろ……やめろ……!」
薫の目には、何も映っていなかった。殺気も、闘気もなかった。いやでも肌が感じ取るはずの、人の体温さえ。そこには、なにもなかった。
あったのは、小さな身体に不似合いな刀身だけだ。鈍い光を放つ白い刃だけが、手からそのまま生えたように、不吉な滑らかさを持って動いていた。
「やめてくれ……!」
悲鳴のような剣心の叫びが響いたのと同時に、五人目の男の首が落ちた。男の血が、音をたてて身体の外へ飛び出す。範囲を広げていく血の海のほとりに立った薫には、一滴の血もついてはいなかった。
「けんしん……」
ゆっくりと、薫が剣心へと歩く。擦りつけるように剣心の胸に頬を寄せたところで、がくりと薫は崩れ落ちた。その仕草は、糸の切れた人形そのものだったから。剣心は隠しもせず、ただ泣いた。
「薫……」
『どうして』。とは聞かなかった。それはもう知っている。この後に及んで、薫の気持ちを確かめるような真似はできなかった。
抱きとめている薫の身体から、力が抜けていっているのが分かる。身体じゅうすべての支力を剣心に頼ってなお、薫は悲しいくらい軽かった。
「よかった……けんしんが……無事で……」
「薫……」
満足そうなその笑顔は、かつての雪の日を思い出させた。『思い残すことはない』という、死に逝く者の笑顔だ。
「ごめんね……けんしん……わたし……なんだか……すごく……眠くて……」
「かおる……俺が……分かるか……?」
鼻先が触れるくらい近く、剣心は自分の顔を薫の顔に押し当てた。今まさに消えようとしている、かすかな光を薫の目の中に見つけたかった。
「けんしん……」
何度か声を出そうとして、ようやく薫がかすれた声でつぶやいた。
小さな薫の身体を押し潰すほど強く、剣心は抱きしめる。身体は昨日と変わらず、こんなにもあたたかいのに。薫は死んでいこうとしている。
「薫……君は……」
「わたし……は……」
薫の目の中の小さな光が、不安定に左右へと揺れた。見つからない答えを、見つからない場所から取り出そうとするように。
「わたし……は……緋村剣心の……妻……それ以外には……名も……身分も……持ちません……」
自分の名前を忘れてなお、薫は剣心の名を呼んだ。今はもう、自分自身の存在すら、剣心の付随物に過ぎなくなっていても。
「けんしん……泣かない……で……」
「薫は……大丈夫だ……大丈夫だから……」
涙を拭おうと左頬に触れた薫の指を、剣心は左手で捕らえる。先ほどまで刀の一部のようにすら見えていたその指は、ただ細くあたたかかく、頼りなかった。
「ね……けんしん……」
「薫……」
涙を隠しもせず、剣心は薫の顔を覗き込んだ。哀れなこの男の表情を見て、彼女が少しでも留まってくれるのなら。何千、何万人の前でだって泣いて見せるのに。
「新時代に………なったら……」
とろりと、薫のまぶたが重くなっていく。揺り起こすように、剣心は薫の背中を撫でた。
「けんしんと……いっしょに……ずっと……」
消え入るようにそれだけ言うと、薫は目を閉じた。

「あのときの……」
桂川の手前で、その男に会った。いつかの青い朝に、薫を先導していた少年だ。初めて会ったときに感じた彼の威圧感に、剣心のぼんやりとした頭がいまさら納得した。
彼こそが始まりであり、終わりを告げる存在だ。夜の闇に馴染む少年の黒装束は、いかにも象徴的で。剣心はひどく刀を抜きたい衝動に駆られた。
「終わったようだな」
それが剣心と薫の旅のことを言っているのか、絵空事のような関係のことを言っているのかは、剣心には分からなかった。どちらであったとしても、不愉快で完全な事実であることには変わりがない。
「あれだけ脳を蝕まれたんだ。廃人にならずに済んだだけでも僥倖というものだろう。その娘は江戸へ戻す。明後日、大坂から出る船に乗せる」
「……薫は……俺の妻だ……」
剣心は薫を背負ったまま、下ろそうとはしなかった。
背中で規則正しく寝息を立てる薫は、目を開けたら、また笑うかもしれない。『剣心』。満面の笑顔で、そう呼んで。
在り得るわけもない期待だった。それはすでに、失われた風景だ。
「同情はする。だが、何も知らないこの娘が、京で人斬りの妻として育つのと、江戸で親に育てられるのと、どちらがよいかは分かるだろう。親のもとに居れば、じきに必要な記憶は戻るはずだ」
蒼紫の言っていることは、紛れもない現実だ。自分の名前も、生い立ちも、なぜここにいるのかも忘れた少女を、剣心の境遇で養っていくことなど不可能だった。まして、その少女に救いを求めようとするのなら。
「江戸で……待ってるのか……薫を……」
肩口に乗った薫の顔を、剣心はじっと見つめた。すうすうと寝息を立てているその寝顔は、親と枕を並べて眠る子どものものだ。男に身体を開いて、気だるさの中で眠る女のものではなく。
「ああ」
薫を背負ったまま棒立ちになっている剣心の脇をすり抜けて、蒼紫は橋口近くの石に腰掛けた。瞑想でもするように目を閉じる。薫が目を覚ますまで待つ、という意思表示だ。
薫を連れ去る気配すらもう見せない剣心と、剣心の背中で眠り続ける薫と、静かに目を閉じたままの蒼紫と。星のない夜は、時間の経過を教えてはくれなかった。そうしていくらかの時間が経った後、剣心の背中で薫が小さく身じろぎした。
「……ん……だれ……おにいちゃん……」
もう涙は出なかった。肩口から覗き込む幼いだけの瞳に、剣心は振り向いて微笑んだ。
「目が覚めたか……」
「うん……ここ、どこ……?」
「さぁ……どこだろうな……」
もう、どこに自分が立っているのかさえ、分からなかった。中心にあった座標を失ってしまったから。どこであろうと同じことだ。薫がいない場所なら。
「おにいちゃん、迷子なの……?」
「ああ……家をね……失くしちゃったんだ……」
「そっか……」
薫はただ、剣心をできる限りの力で抱きしめた。『大丈夫か』とも『元気を出せ』とも言わない。そんなところが、失った妻そのままで。なくした妻は、消えた幻想の中ではなくて、血肉を持って確かにこの腕の中に存在したのだと、剣心は実感した。
「わたし……そばにいるから……だいじょうぶだよ……」
同じような科白を、出会った夜も彼女からもらったことを思い出す。その言葉通り、薫は誰よりも剣心のそばにいて、剣心を守ろうとした。悲しいくらいに。
「ありがとう……。でももう……行かなくちゃ……いけないんだ……」
もう一度手を引いたら。薫は何も知らないまま、ついてきてくれるのだろうか。
おそらくは、ついてきてくれるだろう。そして何度でも、この救いのない輪廻を繰り返すのだろう。身体と精神をすり減らしながら。成長することなく。同じ場所をくるくると回り続ける歯車のように。
自己欺瞞と開き直りで心を埋め尽くせたら。どんなに楽だろう。
それができない自分の面倒な性分が、剣心はひどく煩わしかった。けれどそんな情けない性分こそを、この幼い妻は愛してくれたのだと、知っているから。
「行くって……どこへ……?」
分からない。どこへ行くのだろう。けれど、この足は動かし続けなければならない。この腕が、剣を振るい続けなければならないように。
「まだ……分からないけど……」
結局、ここがふりだしだ。どこへ行こうとも最後には、剣を抱えて奈落の沼でずぶずぶともがくこの場所が、剣心を呼び寄せる。
それでも。戻って来られる場所があるなら。意味はあるのかもしれない。螺旋のような、もどかしい前進だったとしても。薫が剣心の分まで斬りつづけたように。薫の分まで沈んでいけるのなら。
するりと薫を地面に降ろす。虚ろにでも、笑顔を作れる自分が剣心は不思議だった。
「新時代に……かならず、迎えに行く」
どうしてだか、二度と会えないとは思わなかった。
どこを何年流離うことになったとしても。たとえ、彷徨半ばで命を落とすことになったとしても。
薫さえ在れば、大丈夫だ。歯車の支点は、ここにある。
「うん。待ってる」
その笑顔が、道しるべになる。
時代が変わっても。そこがどこか分からなくても。かならず出会う。名前も、手がかりもなくても。
「いってらっしゃい」
「ああ。それじゃ……行ってくるよ……」
その夜、京の大路にふたたび血の雨が降った。

新しい時代とやらは、あっけなくやってきた。
「新時代の幕開けだ」、「俺たちの勝利だ」。鳥羽の戦場で、同志たちは興奮して叫んだ。他人事のようにそれを見ながら、剣心は自分の責務が終わったと思った。人波の狭間に、縁の姿を見るまでは。
真っ白い髪と暗く燃える瞳を持ったその少年の行方を、剣心は折にふれて探した。けれど、外海へ出る船にそれらしい姿があったという話を最後に、縁の行方は杳として知れなかった。江戸に帰ったのだろうと剣心は思ったが、よしんば江戸に帰ったのだとしても、縁が収まるべき『御家人家の長男』という身分すら、すでに新時代が奪おうとしていた。
風変わりな刀工からおかしな刀を餞別にもらい、馴れない信念を振りかざして、足の向くまま流離った。飄々とした時間の中で、白い追憶と、夢のように現れて消えた海の思い出は、時折それが本当にあったことなのかすらおぼろげになった。
袂を分かった桂は、木戸孝允と名を改めた。そして、脳を患って死んだ。
桂の最後は、奇しくも彼が消失させた少女と同じように、夢と現を前後不覚に往来する苦しいものだったらしい。『ろくな死に方をしない』。『いつか相応の見返りが来る』。坂本の予言が、いみじくも的中したというわけだ。その坂本も、新時代を見ることなくこの世を去っていた。
薫の行方を捜さなかったわけではない。けれど、政府の体制が変わって、成り上がりの維新志士たちに職を食い荒らされた挙句、解体・吸収を繰り返した陸軍所の周辺には、すでに彼女に繋がる痕跡は残っていなかった。何より、誰かの手を使って薫を見つけたくはなかった。誰にも知られることなく消えた彼女の存在を掘り起こすような真似は、したくなかった。そう自分に言い訳をして。
気がつけば、十年が過ぎていた。


廃刀令が敷かれて、すでに丸二年が過ぎようとしていた。刀を差す人間が必要なくなったことは、きっとよい変化なのだろう。後ろ指を差されるたび、頑なに帯刀しつづける自分が、完全に時代に逆行する存在となったことを実感する。剣心は、自嘲と安堵を持ってそれを受け入れた。
さすがに東京府下で、昼間から刀を差して歩くのは憚られたから、自然と歩き着くのは夜になった。坂の多い下町を、ゆらりゆらりと歩く。東京は、徳川時代の名残そのままに、他の街とは違った趣を持った街ではあるけれど。こと一般の人々が住む地域ばかりは、ほかの街と大差がない。若干、大きすぎたり、人が多すぎるきらいがあるだけだ。
火消し桶の前まで来たところで、曲がったばかりの角から物騒な気配が近づいてきた。名を呼ばれる前に振り向いたのは、予感があったからかもしれない。
「人斬り抜刀斎!!」
十年後。彼女は彼を、そう呼んだ。

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