9.嘆きの系譜【R-18】

「それからね、今度はこっち。この時間なら、誰もいないはずだから!」
いつになく、引っ張りまわされた。まるで、これまで散々ふたりで歩き回った夜をたどるみたいに。
薫は、猫を見たいと言ったと思えば、今度は水路で蛍を見た人がいると言って駆け出した。かと思えば、高台から夜景を見たいと三門に登っている始末だ。
石段を駆けあがり、真夜中の三門をよじ登る。楼上から見た京の街は、確かに美しかった。どこぞの芝居で絶景と謳われるのも頷ける。
薫は疾走した名残に息を荒げながら、あれはどのあたりかだの、海は見えるのかだの、他愛のないことを剣心に質問しては、惜しげもなく笑っていた。
「今日は、どうした?」
「え?」
「そんなに急いで走りまわったって、猫も蛍も三門も逃げやしないよ」
「……そうだね」
遠くへ視線をやったまま、薫は答える。もちろん薫の言葉が、額面どおりの真実なわけがないことを、剣心は知っている。
彼女は、何かに怯えている。とても暗い場所から来る何かだ。どんな力を持ってしても、無慈悲に彼女を飲み込む何かだ。
そんなものは認めない。だから、剣心は言った。自分に言い聞かせるみたいに。
「何も、心配しなくていい。君が心から笑える新時代を、俺が―――」
「新時代なんて、来なくていい」
ひどく冷めた声だった。その言葉が好きだ、と言ってくれた少女と同じ人間が発した音とは、思えないほどに。
「今日がこのままずっと、続けばいいのに」
薫の視線は、まっすぐ剣心へと向けられてはいたけれど。その焦点は、もっとずっと遠くに結ばれているように、剣心には思えた。
欄干に手をついて、薫が剣心に顔を近づける。いつものようにくちびるが触れると、ぬるりとした小さな舌が分け入ってきた。
はじめての感触に、剣心は一瞬驚く。けれど、薄目で見た薫が、なぜか泣きそうに見えたから。不器用に動き回る薫の舌をそっと絡め取って、舌先で撫で回した。その感触には、男と女の官能が見せるそれではなくて、不思議な懸命さがあった。
ただそこに剣心の舌があったから、触れた。そんな差し出し方だった。濁流に流される白い手が、もがいて闇雲に枝をつかむように。
「ん……」
「は……ぁ……」
息を継ぐようにくちびるを離した薫の顔は、笑っていたけれど。何かしらの不安を抱えていることを、剣心に雄弁に語っていたから。
それから二人は、何も話さなかった。時折、同じような深いくちづけを、思い出したように何度か繰り返した。

縁と薫の二人で食事を取っていても、そこは食卓とは言えない場所だった。食器が触れる音だけがかちゃかちゃと響く。午後の物憂げな空気がそうさせるのかもしれないし、朝から降っている雨のせいかもしれない。
「見つかった?」
独り言でもつぶやくように、薫が尋ねた。
揺るがない縁の憎悪は、薫を安心させた。日々あいまいになっていく自分の中で、あまりにも明確な縁の位置は見失うことがなかったから。縁もまた、薫のほうを見もせずに、抑揚のない言葉で答えた。
「まだだ。何せ、あいつはここのところ人を斬っていない」
「そっか」
「死んだという噂もある。けど、そんなはずはない」
「どうして?」
「姉さんは笑っている。俺に、あいつを殺せって言っている」
縁が目を閉じると、闇の中で巴は微笑んでいた。江戸で暮らしていた頃、そのままに。
「見つかったら、教えて」
それだけ言うと、薫はまた無言の食事に戻った。
見つからなければいい。薫は思う。
そうすれば、縁は憎悪を持ち続ける。ゆるぎない場所で。そして薫は、自分の位置を見失わずに居られる。
そんなふうに思っては、きっといけないのだ。鬼の子なのだから。

「すこし、外してくれるか。蒼紫と二人で話があるからの」
襖を開けた翁に、薫が浅くうなずく。立ち上がって蒼紫の私室を出る薫の座布団を片付けながら、翁が背中越しに尋ねた。
「もうじき、蒼紫は江戸に帰る。お前さんも、準備しておけ。もっとも、別れを告げる相手もおらんか。名すら知らない禿など、色街の人間はすぐに忘れる」
その言葉に振り返ることなく、薫は廊下へ消えた。そのまま台所へと吸い込まれる薫の気配を見届けると、翁はようやく抱えていた湯飲みをすすった。
「最近、あの娘は寝てばかりじゃの」
もったいぶった翁の言い様に、蒼紫は答えない。おそらくは、翁も気づいているはずだ。
「ある程度、予想はしていたことじゃ。あの幼さで、あの領域に足を踏み入れ続ければ、どうなるかくらい。頃合を見て退かせねば、じきに脳を病んで廃人になる」
めずらしく、蒼紫が人に分かるようにため息をついた。まだ十も半ばに過ぎない蒼紫に、そんな性質を持たせてしまったことを、翁は苦々しく思う。彼を御頭に推挙したのは、ある意味では間違いだったのかもしれない。
けれどもう、遅すぎる。何もかも。
「儂が京都に来た意味は、分かっておろう。蒼紫、お前は江戸へ帰れ。京都は、儂が預かる」
目線だけで、蒼紫が承知を表する。遅かれ早かれ、御頭たる自分が王城へ呼び戻されることは分かっていたことだ。
「あの娘の処遇も、儂に任せろ」
蒼紫の目が、わずかに鋭さを増す。それが薫を不憫に思ってなのか、無用な血が流れることを憂いてなのかまでは、翁は読み取ることができなかった。
「安心せい。いくら『最恐』と呼ばれる儂であっても、さすがに幼い女子の命を無碍に奪ったりはせんよ。なに、持参金がわりに、抜刀斎の首を持たせるだけの話じゃ」
「あの二人を接触させた理由は、それか」
「縁のほうは、闇乃武とかかわったんじゃ。どのみち、雪代の家は、表立って取り潰しまでいかずとも、ある程度の累が及ぼう。そうなれば、いくら継ぐはずだった入り婿が死んで、縁に家督が回ってきたとはいえ、事前の盟約を重んじるだろうよ。あの父親の気性ならな。神谷家と雪代家の家格を考えれば、それが順当じゃ。なにも、おかしいところはない」
薫と縁の身の上を不憫に思ってなのか、蒼紫は視線を一瞬だけ斜め中空に浮かせた。動揺を見せないこの少年もまた、十と数年しか生きていない。翁はこの世の不条理にふと思いを馳せる。
「黒谷も焦っている。ここのところ鳴りをひそめてはいるが、抜刀斎とやらは生きているだろう。じき、縁が彼を見つける。そうすれば、儂らが何も言わずともあの娘が抜刀斎を斬ろう」
「すべて計算尽く、というわけか」
「斬る理由は多いほうがいい。縁のためと思えば、あの娘も自分に言い訳が立つじゃろう。たかが子ども二人。京の街から消えたところで、不審に思う者も居るまい。それで、終わりじゃ」
終わり。
姿のない人斬りの終わり。白い幽霊の徘徊の終わり。志士名しか知られていない人斬りの終わり。何の終わりが来ると言うのだろう。
蒼紫は思う。確かに、桂の周りの人間が消えていくことで、倒幕派の屋台骨はぐらついている。そこへ抜刀斎が殺されれば、結束は揺らぎ、緊張に耐えかねた烏合の衆が暴走するのは目に見えている。
けれど、それで何が終わると言うのだろう。
幕府は確実に終わりに向かっている。あとは、どう綺麗に幕を下ろすかというだけの話だ。その事実は、鍛え上げられた現実主義が理解している。それでもなお、少しでも崩壊を遅らせることが、おそらくは最後となる江戸城御庭番衆御頭たる蒼紫の勤めだった。

「めずらしいね。送ってくれるなんて」
音もなく隣を歩く蒼紫を薫は見上げた。花街へ続く目抜き通りも、昼下がりのこの時間は人がまばらだ。仕込み帰りの棒手売や修繕の大八車が行き来する以外は、数えるほどしか人がいない。朝から降っている雨のせいかもしれない。
「名残惜しいから?」
蒼紫が江戸へ帰るという話を、薫は思い出した。薫の言葉は、別段質問しているふうには聞こえなかった。肯定を期待しているわけでもなさそうだった。
「もういいよ。一人で戻れる」
「そうか」
薫が作ってみせた笑顔は、ここで身につけさせてしまったものなのかもしれない。答えながら、蒼紫はそう思った。
「酉過ぎに土方が行く。刻限はそのときに聞け」
「うん」
返事をした薫の目には、何も含まれていなかった。恐れも、穢れも、後悔も、ためらいも。
「決してお前を死なせはしない」
泥を跳ねさせながら花街へ歩いていく小さな番傘に、『すまない』とは言えなかった。けれど、なぜか切実に。死んで欲しくない。そう少年は想った。

「まだ五つだ。もっとのんびり殺ってきたってよかったんだぜ」
窓から戻った薫に、土方が寝転んだまま声をかけた。少女はうなずきもしなかった。どだい、人を斬って来た人間に愛想を求めるほうが無理な話だな、と土方は思い直す。
ただ、雨の中人を斬って戻ってきたと言うのに、血と泥をひと跳ねたりともつけていない少女の姿に、奇妙な薄気味悪さを土方は感じた。
けれどそれも、すぐに忘れることにする。黒谷の本陣から忠告されている。この奇妙な少女について詮索するな、と。隊を守るには、黒谷の令は絶対だ。
「抜刀斎って、見たことありますか?」
刀箪笥に刀を納めて戻ってくると、薫が土方に尋ねた。土方は少なからず面食らう。何にも興味を持っていない、気味の悪い子どもだとばかり思っていたのに。
「いや。噂で聞いているきりだな。長州派の人斬りらしいが、それも噂に過ぎん。なんせやっこさん、ここんとこぱったり人斬り働きをしてねぇ。沖田やら斎藤やら、隊に抜刀斎を斬りたがってる輩はごまんといるが」
「そうですか」
そこから先を聞く素振りを見せない少女に、土方はそれ以上詮索するのをやめた。少女の表情から意図は読み取れなかったし、読み取れたところで、指摘してどうしようという気も起きなかった。
「お前も人斬りならよ、斬る人間は自分で選んじゃいけねぇよ。人斬りってのは、そういうもんだ。分を弁えねぇと身を滅ぼすぜ」
身支度を整えて襖を開ける。皮肉のような忠告を置き土産にした自分を、土方は不思議に思った。
「鬱陶しいな。よく降りやがる」
少女ごしに見えた夜の雨が、いやに神経に障った。

「今日はどこにも行かないんだな」
二人が取ったかるたの枚数を数えている薫へ、剣心が面白そうに話しかけた。薫は、一瞬剣心が何を言っているか分からないという顔をしたけれど、すぐにこの前のことを言っているのだと理解したようだった。
「今日は……雨だし……」
ばつ悪そうにそう言って、再び薫は取り札を数え始める。数え上げる声のわざとらしい明るさに、剣心の何かが焦れた。
「おいで」
剣心は布団に滑り込むと、掛け布団を片手で持ち上げて薫に声を呼んだ。小さくうなずくと、薫はすべての札を箱にしまって、剣心の隣に収まった。
「また、店の人たちに何か言われたのか?」
しがみつくように剣心の脇に収まっていた薫の髪を、剣心がさらさらと撫でた。聞こえないふりをするように、薫はどんどん布団の中を潜行していく。途中、剣心のわき腹辺りで、薫が小さく首を振った。
「なんにもないよ」
それだけ言うと、薫はしゅるしゅると剣心の服を剥いだ。
何もなかったはずがない、と剣心は思う。けれど、聞くことはしない。言いたくないことは聞かない。その規律は、薫が最初に剣心に提示した優しさであり、不用意に距離を縮めることのできない束縛でもあった。
「ん……」
赤い舌で、ちろちろと薫が剣心の性器を舐める。赤黒く獰猛に立ち上がった男根に小さなくちびるが添えられたその光景に、もう違和感はなかった。
「はむ……」
「……っん……」
それは、たぶん心細さを埋める行為なのだ。身体を満たしてもらいたいとか、抱かれたいとか。そういったことを具体的に求めるには、薫は幼すぎた。けれど、ぽっかり空いた穴を放っておけるほど強くはないから。
分かりやすい反応が返ってくる行為を、薫は求めているのだろう。駆け引きでも引き留めでもなく。ただ、誰かの近くにいたい、という薫の素直さが、幼い心根とは裏腹に、悲しいほど成熟した行為で具現化された。それだけの話だ。
「あ……かおる……っ……」
だから、場違いなのだと思う。薫を抱きたいと思うのは。手と舌で滾らされた熱を、薫の中に吐き出したいと思うのは。きっと相応しくない行為なのだ。そう思っていなければいけない。あらゆる意味において。
「ぁ……む……けん……ひん……」
「んっ……!」
鈴口を舌先で割りながら、薫が強く剣心の亀頭を吸った。剣心は、腰を撫で回されるような寒気をなんとか堪える。腕をついて上半身を起こすと、股のあいだにうずくまった薫と目が合った。
「けんしん……」
半開きにした口を陰茎につけたままで、薫がとろんとした目を向ける。汗と体臭のまじった、饐えた雄のにおいに酔った顔だ。
途端に、一度は抑えた射精感が剣心をとらえる。
この、熱に浮かされたように見上げる薫の股を開いたら。その奥にある、小さく未熟な膣に自分の性器を打ち込んだら。
都合のよい想像は、泣き叫ぶ薫の姿ではなくて、幼い入口に不似合いな男根を咥え込んで善がる薫の姿を剣心に提示した。生々しいその想像とほぼ同時に、薫がもう一度強く剣心の亀頭を吸った。その吸引に搾り出されるようにして、剣心は深く射精した。
「ぅんっ……」
「ん……んぶ……っ……」
口の中に精液を放出された薫が、苦しそうに眉根を寄せる。それでも、最後の一滴が零れるまで、口を離そうとはしなかった。
「あ……はぁ……は……ぁ……」
「んれ……」

口内に溜まった精液を、薫は両手で受け止める。出されたばかりの精液と唾が混じったそれは、ぽたぽたと薫
の手に滴った。
「ごめん……。ほら、拭いて」
かろうじて肩にだけ引っかかっていた寝巻きを引っつかんで、剣心が薫の口にあてがおうとする。が、それより先に、薫は顔の半分を覆うようにして、手に溜まった剣心の精液を自分の顔に擦り付けた。
「薫……?」
頬と顎にべっとりとついた剣心の精液は、手のひらを見つめた薫の指との間に、ねばついた糸を作った。咽せかえるような甘ったるい動物のにおいに、安心したように、くしゃりと薫は笑顔を作った。

「雨の日にサボンを吹いたって、遠くには飛ばないんじゃないか?」
夜半過ぎ、隣の気配が消えていることに気づいて、剣心が目を覚ました。すでに冷たくなった抜け殻の主は、雨の空に向かって、ゆっくりと細管を吹いていた。
「うん、そうみたい」
困ったように薫が剣心に笑い返す。が、言葉とは裏腹に、彼女は真っ暗な空に向かってサボン玉を作り続けた。
窓を離れたサボン玉は、容赦なく滴り落ちる雨粒に、一間と持たず次々と消えていく。それでも薫は、半ば機械的にサボンを吹き続けた。
「やっぱり、すぐ消えちゃうな……。どれ」
布団を抜け出し、剣心も薫の隣で細管に口をつけた。剣心の管から離れたサボン玉は、やはり二尺ほど飛んだところで雨粒に弾けた。
「無理かなぁ……やっぱり……」
雨音に混じって聞こえた薫のつぶやきと、いくら吹いても弾けて消えるサボンの儚さが、剣心に何かを思い出させそうになる。
薫はたぶん、何かの秘密を隠している。
聞き出したい衝動に駆られる。
けれど、五色の泡ごしに見えた薫の姿は、剣心に、いま薫に触れてはいけないような錯覚を起こさせた。
薫を映しこんだ小さな玉が、ぱちんと小さな音を立てて消えた。その時ふと、剣心は今日に限って、まだ「おかえり」と「ただいま」の言葉を交わしていないことに気がついた。
秘密はいつも、裏切りの予感に満ちている。

数日前からの雨は、曇天と雨空を行ったり来たりする長雨になった。いつになく食欲がわかないのは、昼だというのに薄暗い部屋のせいかもしれないし、刻々と迫る終焉のせいかもしれない。
「わたしのぶんも、食べる?」
箸の進まない薫とは対照的に、縁はいつになく忙しなく箸を動かしていた。どういう取り計らいか、縁と遅い昼餉を共にするようになってから、そんなことははじめてだった。
「今日は、よく食べるね」
「食っておく必要があるからな」
「必要?」
「ああ。そういえば、あの爺さんがお前にも知らせておけって言ってたな。見つかった。あの男が。必ず、殺してやる」
「人斬り抜刀斎って……ひと?」
「ああ。灯台もと暗しだ。あの男、桂にべったり張りついてやがった」
薫の鼓膜が震えるのを止めた。首の筋からぞわぞわと這い上がる寒気を、必死に押し留めようとする。桂の護衛についていた人間は、剣心の他にも幾人か知っている。なにも、彼だと決まったわけじゃない。そう、薫は自分に言い聞かせようとする。
黙りこんだ薫を、縁は不思議に思ったようだった。けれど、もとよりほとんど会話のない食卓であったから、別段気に留めなかった。膳を下げようとした縁と入れ替わりに入ってきた翁に、縁はじとりと粘ついた視線を投げつけると、挨拶もせず出て行った。
「聞いたようだな」
大儀そうに畳に胡坐をかくと、翁が薫に話しかけた。薫は、一点を見つめたまま動こうとはしなかった。
「皮肉と言うべきか、幸運と言うべきか。お前が懇意にしている男だそうじゃな。やり易かろう」
やはり何も答えない薫に、翁は髭を撫でつけながら続ける。口調はあくまで、やわらかい。
「約束したのじゃろう? あの子と」
声色はやさしかったけれど。そこには、有無を言わせない威圧があった。それでも、薫は喉から声を絞り出した。
「あの人は……人を斬っていません……」
「ここひと月ほどはな。じゃが、これまで数え切れない闇剣を振るった男だし、これからもそうするじゃろう」
泣き叫ぶわけでも、怒るわけでもないこの小さな少女を、翁は不憫に思う。けれど、これも時代と職務の巡り合わせの悪さと、自分を納得させるしかない。なんの怨みもないこの娘を、奈落へ叩き落すには。
「こんなことは言いたくないが。殿中で刃傷に及んだお前を、無傷で江戸に戻すためじゃ。この仕事が終われば、お前は江戸へ帰り、婿を取る。そして神谷家は存続する。抜刀斎を見つけたあの少年も、無事にここを出られる。何もかも、元に戻る」
『時代が続くなら』。翁はその言葉を飲み込む。状況と、家名と、命と、めぐり合わせと。こんな少女ひとりを、何重もの輪を作って追い詰める自分が、いつになく汚らしい生き物のように思えた。
「悪いが、約束は果たしてもらう。それが済めば、すべて終わりじゃ」
約束なんて、しなければよかった。 薫は思う。
それが、どの約束ごとを差しているのかは、自分でも分かりかねた。
目の前に広がるのは、閉塞された畳の海だけだった。そこに何度、血溜まりを広げてきただろう。
薫はすべてを飲み込んだ。流れに逆らおうと抵抗しているのは、自分のみであること。そして、その抵抗は無駄にほかならないことを悟ったから。
薄暗い部屋に響く雨音が、やけに耳についた。

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