理不尽なレイニー・ブルー【R-18】

しとしとしとしとしとしと。
秋の雨は冷たくて、どこかやさしい。何もかもが水煙の向こうにかすんで、街は青いヴェールに包まれたように―――
「なーんて、ロマンチックぶっこいて現実逃避してる場合じゃないのよねぇ……」

夜の雨が降り続ける窓から、かなめは視線を部屋へと戻した。向かいに座るむっつり顔も、見事に白紙のレポート用紙も、よそ見する前と何ひとつ変わらない。
虚しい現実からの逃走を中止する。
うんざりとした面持ちで、意味もなくシャーペンの芯を出し入れする。目の前のレポート用紙は、潔いまでに真っ白に輝いていた。
ぱらぱらと気だるげに教科書をめくってみる。『モナ・リザ』、『ヴィーナスの誕生』、『アテネの学堂』、『最後の審判』、『民衆を導く自由の女神』、『落穂拾い』、『ひまわり』……。前髪を揺らすページの風圧とともに、稀代の名画たちが流れていく。『美術のながれ』と題されたその教科書を、もう何度流し読みしただろう。
「そりゃ、綺麗だと思うわよ? けどさぁ、こういうのって心で感じるもんじゃない。 『気に入った絵を1枚選んで、感想をレポートにまとめろ』なんてナンセンスだと思わない?」
同じく、白く輝くレポート用紙を前に脂汗を浮かべている宗介に、かなめは愚痴をこぼした。生真面目な顔をあげると、宗介はにべもなく言い放つ。
「だが、上官がやれといっているのだ。やるしかあるまい」
「そりゃそうだけどさ……。そーだ! ソースケ、水星先生と仲いいじゃない。コツとかヤマとか聞いてないの?」
「期待に添えなくてすまんが、そのような情報は所有していない」
「うー、やっぱりダメかぁ。ま、期待してなかったけどね……」
「うむ。実力で乗り切るしかあるまい」
あくまで義務をまっとうするつもりであるとはいえ、宗介も少なからず困っていた。解決の糸口が見つからないまま、ページをめくる音だけが部屋に響く。
「んー、あたしはモナ・リザでいいや。薀蓄話が多いみたいだから、ネットで検索してバレないように写せば、適当に4ページくらい埋まるでしょ。ソースケは? 決めた?」
「いや、まだだ」
「そっか。あんたもとっとと決めちゃいなさいよ? ただでさえ筆が遅いんだからさ」
「了解した」
レポート用紙に向かい始めた時よりも、心なしかげっそりとしている宗介が頷く。
そもそも宗介にとっては、絵を見て感想を抱く、という行為そのものが理解の範疇外にあった。

『モナ・リザ』
女が笑っている。
『ヴィーナスの誕生』
貝の上に女が立っている。
『アテネの学堂』
人が集まっている。

それ以外に、どう思えというのだろう? レポート用紙4枚分もの文字量を埋める感想など、どう知恵を絞っても思いつけそうになかった。
それでも、提出期限である明後日に向けて、カウントダウンは止まってくれない。絶望的な気分になりながら、何らかの手がかりを探してページをめくり続ける。
時刻はすでに、二十二時を回っている。これでまる二時間半、進捗はゼロというわけだ。
「ちょっと休憩しよっか。コーヒー入れなおすけど、飲む?」
「うむ。頼もう」
マグカップを手に、かなめがキッチンへと消える。いなくなった彼女の席を見てみると、なんだかんだ文句を言いつつも、かなめは順調に課題を進めているようだった。インターネット検索で得たにわか知識と、興が乗った筆のおかげで、レポートはすでに3枚目に突入している。歴然とした差に、宗介は少々落ち込んだ。
が、気を取り直してふたたび教科書をめくり始める。
戦況は芳しくないが、他者をうらやんでもどうにもならない。戦場における彼は、常にリアリストだった。任務遂行のため、今はただ手がかりを熟読するのみだ。

「お待たせ。お砂糖とミルクは……って、ソースケ?」
淹れたてのコーヒーを手に戻ってきたかなめが見たのは、手を止めてひとつの絵を見入っている宗介の姿だった。ついさっきまで、無感動に右から左へとページをめくっていたというのに。
「ソースケ? どうしたの?」
「いや。君に似ている、と思ってな」

暗闇を背景に振り返る少女。
象毛色のみずみずしい肌に乗った、ぷるんとした赤いくちびるが、絶妙なコントラストを作っている。きらめく大きな瞳が投げる真っ直ぐな視線が、とりわけ印象的だ。何気なく振り返っているだけなのに、ハッとするほど人の目を吸い寄せる。
劇的とは言いがたいそのシーンには、確かな存在感と、強烈なまでの清廉さが漂っている。

写真の下には、『「真珠の耳飾りの少女」(フェルメール・オランダ)』とだけ、説明文があった。
「……あたし、こんなに綺麗じゃないよ」
「そうか?」
「そうよっ!」

純粋に疑問の目を向けていた宗介を、力いっぱい否定する。
どうしてこの男は、心の準備ができていないときにばかり、ストレートすぎる誉め言葉を投げて寄越すのだろう。普段は、嫌になるほど朴念仁だというのに。
誉められるのは、もちろんうれしい。それが、恋している男からだったら、なおさらだ。
けれど、宗介の言葉は、いつも決まって唐突で。条件反射のごとく、照れ隠しにめいっぱい否定してしまう自分がいやになる。
まったく、どうしてあたしってこうなんだろう?素直に「ありがとう」と言えれば、きっともっと、かわいい女の子でいられるはずなのに。
「気を悪くさせたなら、申し訳ない。ただ……どことなく、君に似ていると思ったのだ。どこがと言われると、うまく言えないのだが……」
かなめが小さな自己嫌悪に陥っているのを余所に、宗介はまじまじと教科書を眺めていた。自らの内に生まれた疑問を追及するように、宗介は頭をひねる。
「と、とにかく! さっさとレポート終わらせよっ! あたしのほうはあと少しで終わるし、終わったらソースケの手伝うからさ」
「うむ」
なんとか話題を転換させると、かなめは大袈裟にシャーペンを持ち直した。
同意した宗介は、それでもしげしげと件の絵を見つめ続けている。レポートを書くふりをしてはいるものの、どうにもかなめは落ち着かない。気になって、とても続きなど書けそうにない。
こっそりと、手元のラップトップ・パソコンに指を滑らせる。
『真珠の耳飾りの少女』、『フェルメール』。
キーワードを検索にかけると、すぐにめぼしいサイトがずらりと表示された。宗介が気づいていないのを確認しつつ、目を通す。
『光の表現の技巧』『静謐で写実的な画風』、『緻密な空間構成』……。
小難しい解説文に、思わず課題を出した美術教師の顔が浮かぶ。うんざりしながら流し読みしていると、ある一箇所に目が留まった。妙に納得し、それから、気恥ずかしくなった。

「ソースケ、さっきの絵だけどさ」
「うむ?」
いまだ飽きもせず同じ絵を見続けていた宗介が、かなめの声に顔を上げる。
「別名、『青いターバンの少女』って言うんだって」
「ほう」
見たままのタイトルに、宗介は別段感動もなく頷いた。「で、その青いターバンの部分ね。『ウルトラマリン』っていう特別な顔料が使われているんだって。何が原料だと思う?」
「検討もつかん」
難しい顔をする宗介に、かなめはなぜか満足した。ぴっと人差し指を立てて、物知り顔で講釈を垂れる。
「ラピスラズリよ。アフガニスタンからオランダへ輸入されてたんだって」
「17世紀にか?」
「そうよ。だから、金と同じくらい貴重品だったんだってさ」
いま一度、宗介は手元の教科書に視線を落とす。鮮やかな群青色が使われている部分に留意して見ると、なるほどその色は、彼が見知った色だった。
故郷を思い出させる深いブルー。
かつて、言葉にできなかった想いを込めて、宗介がかなめに贈った石と同じ色だ。
「なるほど。合点した。どうりで、君に似ているはずだ」
納得して宗介はつぶやいた。
海を思わせる清廉な青は、宗介が抱くかなめへのイメージそのものだった。やさしくて、激しくて、すずやかで、果てがなくて、懐かしくて、ミステリアスで。そのすべてを言葉にすることは、できそうにないけれど。

ころり。
指先で、青い石が転がる。なめらかな楕円を描くその石は、深く青く、ひんやりとしていた。中心に向かって、黒いひとすじの渦が巻いている。潮の流れが封じられているみたいに。
青金石の化学式は―――(Na,Ca)7-8(Al,Si)12(O,S)24[(SO4),Cl2,(OH)2]。それから、(Na,Ca)8(S,SO4,Cl)2(Al6Si6O24)。Na3Ca(Al3Si3O12)Sなんてのもあったっけ……。
色気のない知識ばかりが、頭の知らない部分から湧き出てくる。
そんなことは、どうでもいい。
かなめにとって大切なのは、ただ『宗介がくれた』という一点のみだ。台座も縁取りもない剥き出しの宝石は、彼の一途で純粋な想いそのものだった。ラピスラズリが12月の誕生石だなんて、彼が知っていたとはとても思えない。
裏の意味や、こじゃれた謎かけなんてものも、ありはしない。粗くていびつで、無骨な想いが、かえって宗介らしい、とかなめは思う。
ダイニング・テーブルにうつぶせになって、横目で石を転がす。

『前からずっと……なんというのか……君に似合うような気がしてな』

学期末の教室で、おずおずと手をとってくれた。 あれからもう、1年近くが経って。不器用だった宗介とかなめの絆も、すこしずつ変化した。
たとえば、宗介がほとんどかなめのマンションで過ごすようになって、セーフハウスが物置化した。朝と晩は、一緒に食事をとるようになった。
今では当たり前になった日常が、かえって在りし日を遠く思わせる。

ラピスラズリ。
呪文みたいな、エキゾチックな響き。砂漠の夜空みたいに、吸い込まれそうなほどひたむきな青。
こんな綺麗な色があたしに似合うって、アイツは思ってくれてるのかな。
そう考えると、なんだかくすぐったかった。うつぶせのまま、なんとはなしに手の中の宝石を見つめ続ける。
雨音だけが、やけに大きく聞こえる。
記憶がシフトする。
1年前。10月の雨の日。
ソースケがいなくなって、不安でたまらなくて。ひとりで戦わなくちゃいけなくて。裸も同然の格好で、殺されかけて。あの男があらわれて。かけがえのないものを奪われて。

『世の中には、二種類の女性がいると思う。雨の似合う女と、そうでない女だ。君は間違いなく前者だね』
『君を好きになったから』
『儚いようで猛々しく、粗野なようで高貴……とらえどころのない、水のような君がね』

容貌も、物腰も、口調も、考え方も、なにもかも宗介とは対極にある男だったのに。不思議と二人とも、あたしに抱く印象は似通っているみたいだ。
「千鳥? 眠っているのか?」
「……起きてるわよ」
リビングで黙々とレポートと向き合っていた宗介が、いつの間にか背後に立っていた。かなめはダイニング・テーブルにうつぶせになったまま返事をする。
「終わった? ソースケ」
「いや。だが、めどは立った。提出期限までにはカタがつきそうだ」
「そっか。よかった」
あの後、勢いにまかせて、かなめは課題を片付けた。
宗介も進みは遅いながら、なんとか終わらせることができそうだ。
「題材、あの絵にしたの?」
「肯定だ」
「どんなこと書いた?」
「……それは、機密事項だ」
「あっそ」
あっさりと追求をやめたかなめを、宗介は意外に思った。
テーブルに突っ伏したかなめの背後に立っている宗介からは、かなめの表情は伺えない。怒っているのか、泣いているのか、笑っているのかさえ分からない。
なにせ、宗介にとって彼女は、AES暗号を暗算で解読するのと同じくらい難解なのだ。前に回りこんで、対面の椅子に座すべきなのか。それとも、立ってこちらを向いてくれるように頼むべきなのか。
どう声をかけたらよいものか考えあぐねたまま、かなめの背中を見つめ続ける。沈黙を、雨の音だけが埋めていく。
「あたしってさ、水みたいなイメージがある?」
「唐突にどうした?」
「ラピスラズリ。あたしに似合うと思ったって、ソースケがくれたでしょ?」
「ああ」
「違う人にもさ。前に言われたことあんの。『世の中には、二種類の女性がいると思う。雨の似合う女と、そうでない女だ。君は間違いなく前者だね』なんて、キザったらしく」
「レナード・テスタロッサか」
「うん」
不可解な不快感が、宗介に湧き上がる。それが何に起因しているのかは、彼自身にも理解できなかった。
ただ、レナードがかなめにそう言っている場面を思い描くと、ひどく不愉快な気分になった。自分の脆弱な想像力が、こうまで感情を掻き立てるなんて驚きだ。
「いつの話だ?」
「アンタが、あたしを置いて香港へ行っちゃったときの話よ」
その言葉が、宗介の渋面をますます深くした。
また戻ってきたとはいえ、一度はかなめを見捨てたという事実は、宗介に深い罪悪感を植えつけていた。
かなめとミスリルからの報告書によって、その間何があったのか、大まかな話は知っている。だが、ことレナードとの出会いに話が及ぶと、かなめは多くを語らなかった。
「千鳥、その……すまなかった」
その時のことをかなめ謝るのは、これでもう何度目だろう。謝罪のたび、かなめは、気にしていない、と宗介を笑い飛ばすけれど。
「なんで謝んのよ」
「俺しか頼る人間がいなかったのに、俺は君を見捨てた。あんな、くだらない命令のためだけに―――」「気にしてないって、何度も言ってるじゃない」
無意識に、責めるような口調になってしまったことを、かなめは後悔した。本当に、咎める気なんてないのに。
まったくあたしって、口も手も悪い、かわいくない女だ。自己嫌悪が、さらに語調を荒くする。
悲しい悪循環。

「謝るだけ?」
沈黙が、宗介の戸惑いを伝える。
これじゃ、怒ってると思われたって仕方ない。どうしてあたしって、いつもこう―――
ふわり、とかなめの身体をあたたかさが包み込んだ。いつの間にか屈みこんだ宗介に、後ろから抱きすくめられていた。
「もう2度と、あんなことはないと約束する。確かに、君から見れば、俺は愚鈍でどうしようもない臆病者かもしれないが……君を守るためならば、努力は惜しまない」
意固地に凍っていたかなめの心が、跡形もなく溶けていく。
そう、彼はひたむきなのだ。ほとんど、痛々しいほどに。純粋でまっすぐで、時としてかなめが困ってしまうほどに、愛し抜いてくれる。
「ソース……」
潤んだ瞳で宗介に振り返って、かなめはぎょっとした。
「……なんで怒ってんのよ?」
振り向いたら、きっと軽くキスなんかして、それから抱き合って、そのままベッドに―――
なんて甘い乙女の幻想は、鼻先にあるむっつりへの字口に砕かれた。 およそ、恋人を抱きしめている最中とは思えないしかめっ面で、宗介はかなめの身体に腕を回していた。
「俺にも分からん」
「女の子を抱きしめるときにする顔じゃないわよ、それ。なにが気に入らないっての?」
思わず喧嘩腰になるかなめに、宗介があわてて否定する。
「すまん。千鳥に落ち度はない。ただ、レナード・テスタロッサと千鳥が二人でいるところを想像すると……なぜか……ひどく不愉快になるのだ」
「へっ?」
「不可解だ。実際目にした光景でもないというのに。こんなことははじめてだ」
「……ぷっ」
理不尽な不愉快さに自問自答する宗介を余所に、かなめは思わず噴きだした。くっくっくと笑いを噛み殺すかなめに、宗介はますます混乱する。
「なにがおかしい?」
「ぷっ……くく……。ゴメン、おかしいわけじゃないんだよ……あははっ……」
「では、なぜ笑う?」
『ゴメンね』と謝りながらも、かなめはなおも楽しそうに笑いをこぼす。
本当に、彼女の行動は理解の範疇外だ。宗介は困り果て、なんとか笑いを止めようとしているかなめの言葉を待った。

「ソースケ、あたしのこと好きなの?」
ひととおり落ち着いた後、かなめが唐突にたずねた。
満足そうな笑顔。どこか、お姉さんぶった余裕が伺える。面食らいながらも、宗介は律儀に答えた。
「肯定だ」
「想像だけで嫉妬するくらい、好きなの?」
意地悪に見上げる瞳。
ようやく、かなめの言わんとすることを理解する。なぜか言い負かされたような、罠に嵌められたような気分になったが、宗介は素直に頷いた。
「肯定だ」
ちゅっ。
鼻の頭に、くちびるが吸い付いた。
「素直でよろしい」
妙に偉そうにかなめが言う。不意打ちのキスによって行動不能に陥る宗介を、楽しそうに眺めている。
「ソースケって、物騒な方面には無駄に想像力が逞しいのにねぇ」
仕方ないなあ、と笑うかなめは、満面の笑みを湛えている。不本意な理由ではあったが、笑う彼女を見るのは嬉しかった。
怒ったり、笑ったり、猛々しいと思ったら、頼りなげにしおれて。くるくる変わるかなめの気性と表情は、本当にとらえどころのない水のようだ。
それが指の間をすり抜けていってしまうものだったとしても―――それでも捉えようと、俺は無様にあがくのだろうな。
「さて。課題の提出は明後日だし、今日はもう遅いから寝……」
ぬっと宗介の顔が目の前に現れたと思うと、次の瞬間にはくちびるが塞がれていた。
ムードもへったくれもない。少しずつ甘やかな方向へ持っていく、なんて芸当がこの男にできるはずもない。けれど、哀しいくらいの不器用さとひたむきさを目の当たりにすると、かなめは許さずにいられなくなる。
角度を変えて、何度かくちびるを合わせると、自然とくちづけは深くなっていく。それ以上を求めようと、宗介がかなめのワイシャツに手をかける。
と、かなめの手がそっと遮った。
「ここじゃダメ。割れ物もあるし」
「了解した」
出鼻を挫かれたような気持ちになりつつも、気を取り直して宗介はかなめから離れる。無言のうちに行為を了解したことが恥ずかしいのか、かなめは拗ねたように椅子から立ち上がった。
照れ隠しからか、顔を見せないように俯く。こういうとき、長い髪は便利だった。 不機嫌を気取って歩調を早めるかなめの背中は、暗闇の自室へと消えていった。

振り向いたら、きっと軽くキスなんかして、それから抱き合って、そのままベッドに―――
数分前のかなめの予想が、回り道をしながらも、なんとか成就する。

明かりはなくとも、迷ったり蹴つまづいたりすることはない。家具の配置や状況は把握済みだし、なにより、目標とする人物は、すぐ目の前のベッドに腰掛けているのだから。見逃しようもない。
背の高さごとにそろえられた本や教科書、シンプルな机、飾られた何枚かの写真、壁のハンガーにかけられた制服。そして、その中心にいるかなめ。彼女で満たされた空間。
かなめの部屋に足を踏み入れると、宗介はいつも思う。自分はこの空間の平和と均衡を乱す、招かれざる闖入者なのではないかと。
それから、自分の殺風景な部屋にいるときの、かなめの異質さを思い出す。結局は、それと本質的に変わらないのかもしれない、と思い直す。
先立って自室に入ったかなめは、ベッドの隅に浅く腰掛けていた。正面へ回って、ベッドの上に片膝をつくと、自然な動作で宗介はかなめの肩を押し倒す。
予定調和。抵抗ひとつなく、かなめがベッドに仰向けになる。
不馴れな手つきで、宗介がかなめの着ているシャツのボタンを外していく。銃の手入れや爆発物の解体ならば、震えひとつせずこなせる器用な指先が、このときばかりは、油のきれた機械のようにぎこちない。
シャツの下からあらわれた下着をはずそうと試みるが、うわずった指先は言うことを聞いてくれない。宗介が何度か失敗を繰り返した後に、かなめが恥ずかしそうに自分ではずした。
訳もなくいたたまれない気持ちになりながら、すでに捲れあがって意味をなしていないスカートに手をかける。こちらは、何とか自力で剥ぎ取ることに成功した。
「あたしだけ脱がして、ソースケは脱がないの?」 すでにショーツ一枚の姿になっているかなめが、不服そうに口をとがらせた。裸同然のかなめとは対照的に、宗介は詰襟を脱いだだけの学生服姿だ。
自分の裸身がかなめのそれと等価とは思えなかったが、彼女の不満には応えねばならない。膝立ちになってワイシャツのボタンを2つほどはずし、その下のTシャツごと無造作に脱ぎ捨てた。
見飽きた、傷だらけの身体があらわれる。見る価値があるとは到底思えない。
「……キズだらけだね」
仰向けのまま、かなめが指で傷のひとつをなぞる。
ふさがった古傷に、痛みは走らない。かわりに、ぞくりと背中を撫でる感覚が襲った。

「痛む?」
「いや」
「……あたしのせいでできたキズも、あるよね」
「千鳥のせいではない。俺の未熟だ。それに、傷は教訓だ。二度と同じミスをせずにすむ」
「あんたってほんと、へ理屈」
かなめが、上半身を起こす。くちびるを寄せて、鎖骨と胸の間にある宗介の傷にくちづける。ぴりりとした熱い電流が、宗介の脳髄を刺激する。
「ソースケのカラダ、好きだよ」
傷だらけの不恰好な身体を誉められて、身体の心が熱くなる。この熱は、指とくちびるだけから与えられたものではない。
首に、胸に、わき腹に、あらゆるところにある傷に、かなめの指とくちびるが這いまわる。繰り返されるうち、膝が崩れそうになる。
だが、膝の間に差し込まれているかなめの細い足に、自分の体重をかけることは躊躇われた。 かなめに体重をかけないよう、なんとか足に力を入れてこらえる。
「気持ちイイの?」
尋ねるかなめの表情は、あいにく肩に埋まっていて見ることができなかった。
長い髪が、さらさらと肌を撫でる。髪のひと筋ひと筋ですら、肌を刺すような刺激に変わる。
「苦し……そうだね」
かなめが宗介のベルトに手をかける。たどたどしくファスナーを下ろし、下着ごと制服のズボンをずり下ろす。
そのまま、手で筒を作るようにして、かなめは宗介の性器を往復させる。
上半身裸で、下半身も腿まで露にして。だらしなくて無様な格好に違いなかったが、そんなことはどうでもよかった。
傷へのくちづけを繰り返していたくちびるが、徐々に手が愛撫している場所へと近づいてくる。とうとう同じ場所へたどり着くと、手と口を使って、かなめは愛撫を続けた。
ちゅ……くちゅ……じゅ……
小さな舌が、ちろちろと宗介のペニスに這い回る。時おり、先端の切れ目に舌を差し入れたり、全体を口内に納めたりしながら。飲み込まれるように一気に吸引されたかと思えば、触れるか触れないかのもどかしい刺激に切り替わる。その間も、指は転がすように両の睾丸を撫で回し続ける。
「……っは……あ……」
痛みにも恐怖にも屈しない傭兵の精神が、いともあっさりと快楽に陥落する。声を殺そうと試みるが、滑稽なほど翻弄される。
「んっんっ……ぅんむ……」
根元まですべてが、口の中に消える。脊髄がびりびりと、痛いほど反応する。
先端が、喉の奥に当たったのが分かった。
この小さな口のどこに、こんなものを収める空間があるのだろう?
「……ち……どり……」
一気に上ろうとする快感に、身を任せたくなる衝動をなんとかこらえる。かろうじて名前を呼ぶと、引きずり上げるようにして宗介はかなめを組み敷いた。
膝下に引っかかっていたズボンと下着を放り出し、残っていたかなめの下着に手をかける。かなめが軽く尻をあげて、宗介の手助けをした。勢いに任せて、ショーツを脛までずり降ろすと、片足にかかっていたショーツを、かなめが器用につま先で放り出す。
一糸纏わぬ姿で、確かめ合うように抱きしめ合う。
本当は、慈しむように抱きたいのに。すでに、戻れないところまで血液を集めた下半身が、宗介をせっつく。
『早く撫でろ、早く舐めろ、そして早く挿れさせろ!』
野蛮な本能に辟易しながらも、それに逆らうことができない。
「あっ……やぁん……」
すでに固く尖った胸の先端を口に含んで、幼子のように吸い上げる。
『手に入れたい、今すぐ欲しい、早くしろ!』
声が意識を叩き続ける。意識の手綱をしっかり握らねば、吸い付いている桃色の実を、噛み潰してしまいそうだ。無軌道に漏れる甘い声が、どれだけ俺の理性をゆさぶっているか、君はまったく理解できていない。
「ひゃぁん……っ……!」
口で肌を味わいながら、すでに潤っている下半身に手を伸ばす。指先に蜜を絡めて、固く尖る敏感な部分にこすり付ける。申し訳程度に乗っかっている皮を剥いて、またかぶせて、もう一度剥いて。円を描くように繰り返す。
激流となって押し寄せる快感をどうにか逃がそうと、かなめは背を弓反りにしたり、胎児のように丸まったり、力の限り枕を握り締めたりと、小さなベッドの上でもがく。それがさらに宗介を煽っていることに、彼女は気づかない。
「ソースケぇ……んぅっ……」
肌を蹂躙していた宗介の舌が、再びくちびるに戻ってきた。下半身から引いた手が、ベッドサイドの引き出しから手際よく避妊具を取り出す。苦しいくらい屹立したペニスに避妊具を纏わせると、かなめの入り口に宗介はソレをあてがった。
「ソースケ……」
薄目で見下ろすように、かなめがこれから繋がる部分を見遣る。とろんとした目つきは、ぞくりとするほど扇情的だ。
「千鳥……」
無意識に名前を呼び、ゆっくりと宗介が下半身を埋めていく。
いつも、思う。いったい、この細い腹のどこに、男を受け入れるスペースがあるのだろう?
自分の半分くらいしかなさそうな腰。こんな小さな空間に、男よりもいくらか多くの臓器が詰まっていて、そのうえ猛ったペニスを受け入れるだけのスペースがあるとは。
ともすれば、抱き潰してしまいそうなほど細い腰が、歓喜して猛ったペニスを受け入れるさまは、挑発的にすら見える。
感嘆と小さな感動。そのどちらもが、侵入によって得た心地よさで霧消した。
「んんぁ……っ……ぁん」
「……っく……」
不規則で粘着質な水音と、荒い吐息が部屋を支配する。抉るように中を往復する宗介と、肌が触れ合うたび陰毛でこすれる固いつぼみから、涙がでるほどの悦楽がもたらされる。
(一生懸命な……顔……しちゃって……)
揺さぶられながら、かなめが宗介の頬に手を伸ばす。
ぼんやりと潤んだ瞳、半開きの口、乱れた呼吸、ときどき漏れる、苦しそうな吐息。動物の顔。
このときばかりは、いつもの無表情さが鳴りを潜める。
(きっとあたしも……同じ顔……してんのね……)
自然と多くなっていく悲鳴のような喘ぎを、止めようとも思わない。教室での明るくはきはきとした声でも、宗介を怒鳴り散らすときの怒号でもない。男を誘う、あられもない嬌声。身体中を弄り回されて、好き放題に突かれて、それによがってる、メスの声。
パラジウム・リアクターの熱伝導性だとか、電解コンデンサの分解効率だとか、そんなくだらない知識が全部吹っ飛んでいく。
だらしなく喘いで、好きなだけ感じて。最後に宗介とかなめ、理性や知識が吹き飛んだ後には、二人だけが残る。
「……ソースケ……だいすき……だよ……」
「俺もだ……あいして……る……」
かつて、不安定な電波の中で交わした言葉。今は、違う原因で声が途切れる。
「んー……んん…っあー!」
「……ぐっ……」
かなめの嬌声がひときわ高くなる。急激に収縮する膣の圧力に、宗介は搾り取られるような感覚を得る。すでに首の皮一枚で耐えていた宗介は、たまらず、あらん限りの熱をかなめの中に放出した。

他愛ない会話をしているうちに眠ってしまったかなめに、肩まで毛布をかける。
時刻はすでに午前1時を回っている。周囲に不穏な気配がないことを確かめると、宗介はスウェットだけを履いてキッチンへ向かった。
かなめが立っていれば、なぜか魅力的で楽しそうな場所に見えるキッチンは、今はただ冷蔵庫のぶぃいんという低いモーター音だけが響く、無機質な空間に成り下がっている。冷蔵庫からペットボトルを取り出し、ミネラル・ウォーターを半分まで飲み下す。報告書を書くため、リビングの片隅に物々しく設置されている通信用端末のスイッチを押し込んだ。
起動するまでの間に、リビング・テーブルのうえに散乱している文房具を整頓する。スクリーンセーバーだけが動作しているかなめのラップトップ・パソコンの電源を切り、シャーペンや消しゴムを、それぞれペンケースにしまいなおす。
カラフルなシャーペンやカラーペンで彩られたかなめのペンケースと、なんの飾り気もない筆記用具しか入っていない自分のペンケースと。何気ない日用品にすら、これだけ違いがあるというのに。
平和な日本の女子高生と、ゲリラ育ちの傭兵と。どうして二人出会い、こんな関係になったのだろう?
それは、決まってこんなふうに行為の後、宗介を襲う疑問だった。
課題のレポートを束ね、教科書を意味もなくめくってみる。流し読みをしていた時には気づかなかった、見覚えのある絵に目が留まる。南海の島の、管に繋がれたベッドの上で見た絵だ。
青い密林と、半裸の人々。無気力なのか、くつろいでいるのか、苦悩しているのか。無作為とも思えるほど、いろんな情景が組み込まれていた。中央では、半裸の男が、天に向かって手を伸ばしている。
『われわれはどこから来たのか? われわれは何者か? われわれはどこに行くのか?』
「ああ、見たな」、という以上の感慨は生まれなかった。溜め息をついて、教科書を閉じる。
やはり、自分には芸術なんて向かないらしい。
分かっていたことを再確認したところで、起動した端末の前に腰を下ろした。報告書のフォーマットが表示されたのを確認すると、日付や必要事項を入力していく。若干送信時間が遅くなってしまったが、誤差の範囲内だろう。今日起こったことを簡潔にまとめて、ある一点で、ふとキーボードを打つ手を止めた。
『エンジェル』
ミスリルにおける、かなめのコード・ネーム。
唐突に、先ほど見た絵の男を思い出す。天からの恩恵を逃すまいと天を仰ぐ男と、自分の姿が、なぜか重なって見えた。
落ちてきた天使を逃すまいと、貪欲に手を伸ばす男。きっとそれが、今の俺だ。
なるほど、言い得て妙だ。ある日天使が舞い降りてきたと、そういうわけか。
柄にもなく、叙情的な風景が思い浮かぶ。

「……ふむ」
これが、絵画を見るということなのかもしれない。
相変わらずのむっつり顔で、宗介は一人ごちた。

「水星先生、どうですか? 採点、はかどってます?」
邪魔にならないよう、教員机の端にお茶を置きながら、神楽坂恵理が尋ねた。
「こ、これは神楽坂先生……。実は、お恥ずかしい話ですが、このレポートについての評価を考えあぐねていまして……。内在からくる衝動をダイレクトかつラディカルに表現しているとは思うのですが、作品に対する評価そのものにおける真理との解離性が……」
「そ、そうですか……」
途端に難解な弁舌を振るいだす水星にたじろぎながら、恵理は懸案のレポートをすいっと拾い上げた。
「あら、ラブレターが課題ですか?」
『真珠の耳飾りの少女』について書かれたそのレポートは、教科書や解説本の説明書きを丸写しにしたようなレポートとはちがっていた。真摯に考え、自分の言葉で書かれたものだということが、一読しただけで分かる。
だが、少々感想の域を出ているような気がする。読みようによっては、まるで個人から個人へ当てたラブレターのようにも読めた。
「いえ。絵画における感銘と感動を個人的な文章に落とし込むことにより、より一層プリミティブな(中略)つまり、絵画と向かい合うことによって自分自身を見つめ直すための……」
「つまり、絵の感想文ですね? うーん、確かにちょっと個人的すぎるとは思いますけれど、わたしは好きです。一生懸命で、微笑ましいじゃないですか」
恵理の感想を聞いて、もう一度そのレポートを見直すと、水星は評価ランクを書き込んだ。

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