6.gold labyrinth

どうしてあんなに屈託なく笑えたのかは、自分でも分からなかった。
だがこの力をくれた源は知っている。
鬱屈した物思いすべてを受け止めてくれた母なる海。
そして、シン。

笑顔でアスランと再会できるとは思っていなかった。
泣いてしまうか、もしくは職務上の威厳を保った顔か。
どちらかだと思っていた。
笑うことはできないだろう、と思い込んでいた。
勝手にごてごてと理論武装して、難しく考えすぎていただけだ。
本当はちっとも難しくなんてないのに。
『ハツカネズミ』と揶揄して、考えすぎるなとアスランに教示していた自分に苦笑する。

(これじゃ、私がハツカネズミだな)

わずらわしい迷いをすべて切り捨てて笑えば、こんなにも楽になれる。
余裕が生まれたカガリとは対照的に、肩透かしを食らってうろたえるアスランが、あぶなっかしく見えてしまうほどだ。
あれから、食卓を囲んでアスランとも近況報告程度に話をした。
今はそれで十分だ。

久しぶりに清々しい気分で、カガリは海の音を聞いていた。
空腹は満たされたし、風は穏やかだった。
星は気まぐれに瞬き、家人はみな夢の住人だ。
やわらかいベッドの上に四肢を投げ出したカガリに足りないものは、ウクレレの音色だけだった。

『お別れ会』の主賓たるラクスとは、それほど話す時間がなかったものの、女二人ならばいつでも時間を合わせられる。
意図した目的は達したのだから、主賓は満足してくれただろう。
アスランとの再会がこんなに穏やかなものになると、ラクスが予想していたとは思えない。
けれど、今が会うべき時だと教えてくれたのは、他ならぬラクスだった。
いつも的確に背中を押してくれるラクスに感謝すると共に、うらやましくも思う。

(ラクスくらい迷わずにいられたなら————)

考えようとしてやめる。
考えたって仕方ない。自分はラクスではないのだから。
ラクスほど器用にも強くもなれないから、迷ってもがきながら、せめて自分が正しいと思う道を進むほかない。
正しいかそうでないかは、後の世の人が決めることだ。

目を瞑り、もう一度聴覚を海に委ねる。
明日の激務を考えると、残された時間は決して長くはない。
けれど、それでも十分明日を戦えると確信する。
この満たされた気持ちがあれば。

(寝る前に、ちゃんと『ありがとう』って言おう)

反動をつけ、ベッドのスプリングを利用して勢いよく起き上がる。借りたままだったシンの上着を片手に、ドアへ向かう。
ドアノブに手を伸ばしかけると、意外にも外側から控えめなノックが聞こえてきた。
闇にそっとまぎれるような、小さな音。

「シン? ちょうどよかった、今行こうと……」

予想した相手の姿はそこなかった。
眉をしかめた来訪者はアスランだった。
カガリの脇に抱えられたシンの上着に目を留めると、アスランの眉間の皺はいよいよ深くなる。

(しまった)

何が『しまった』なのかは自分でも分からなかったが、とにかくカガリは間の悪いことをしてしまったことを本能で理解した。
それが間違いであるように期待しながら、つとめて平静にアスランを招き入れる。

「どうした? こんな夜中に」
「……カガリこそ、こんな夜中にどこへ?」

分かっているのに敢えて尋ねるアスランから、機嫌の悪さを窺い知る。
1分前までの穏やかな時間を懐かしみながら、カガリは現実に立ち向かう覚悟をする。

「あ、ほ、ほら! 上着借りっぱなしだったからさ! 返そうと思って!」

上ずる声に、隠し事ができない自分を呪う。
慌てふためくカガリの脇から、アスランはするりと件の上着を抜き取った。

「これは俺からシンに返しておく」
「あ……う……」

この場を離れる言い訳すら取り上げられたカガリは、小さく呻いた。
一瞬の後、敗北を悟り、心の中でうなだれる。

「まあ……座れよ」

立ち話もなんだし、と窓辺にある椅子を勧める。
が、アスランは漫然と椅子ではなくベッドに腰掛けた。
まるで、自分の居場所を主張するように。
さすがに驚いたカガリは、自分が椅子におさまった。

「女の子が、こんな夜中に男の部屋に行くのは感心しない」

(男がこんな時間に女の子の部屋に来るのは感心するのかよ)

思わず口にしそうになる反論は、心のうちに留めた。

「上着を返しに行こうとしただけだ。 それに、シンは私の護衛なんだぞ」
「俺だってカガリの護衛だった」

不貞腐れたようにベッドを見る。
かつてそこで行われた行為を思い出すように。
アスランの思惑通り、カガリは頬を熱くする。

「お、お前とシンは違うだろう!?」
「どう違う?」
「だってお前は、私の……」

誘導されたことに気づく。
その先の言葉を紡げない。

「俺は、カガリのなに?」
「…………」

黙り込むしかなかった。
思いが途切れたとは思わなかったが、言葉にした途端その立場に溺れてしまいそうだった。
だから沈黙する。
今は、それが正しい。
そう信じて。

「友達?」
「……ちがう……と……思う……」
「部下?」
「見ようによっては」
「戦友?」
「少し当たってる」
「恋人?」
「…………」

絶対悪があるとするならば、それは嘘と沈黙だ。
切なそうに目を伏せるカガリに、アスランは焦れる。
カガリにではなく、自分に。
本当は、こんな詰問をするつもりなんてなかった。
皆の居る席ではなく、二人だけで話そうと、ただそれだけだった。
自分が見てきた世界をカガリに知ってほしくて、カガリが見てきたものを教えて欲しくて。
『いつか』を待つ今だって、それくらいは許されるだろう。
けれど、目の当たりにしてしまったシンとカガリの距離の近さが、アスランを追い立てた。
『俺がそこにいたはずなのに』
自ら後にしたはずの彼女の隣が、ひどく遠くて、羨ましかった。

そしてもうひとつ思いもしなかった誤算が、アスランを甘く苦しめていた。
夜に染まるカガリの姿がひどく官能的であることだ。
日ごろ自分からは身に着けない白いワンピースを身にまとうカガリはどこか別人のようで、余計に生々しく感じられた。

「……な……ひと……」

しばらくの沈黙の後、聞こえるか聞こえないかの声でカガリは声を絞り出した。

「すきな、ひと」

宗教を持つコーディネイターは皆無といってよい。
もちろんアスランとて神を信じたことはないが、無性に、猛烈に何かに感謝したくなった。
その言葉には、安堵と絶対的な許しがあった。
泣き出しそうになるのを抑えて、動揺を見せまいとする。
が、それでも口調が優しくなることを制御できなかった。

「カガリも、俺の好きな人だ」

『やめて』

頭が真っ白になるくらい嬉しいのに。
それ以上聞きたくなかった。

『これ以上、女の私を引きずり出さないで。やさしくしないで。十分だと思い込んだままでいさせて』

「お互い思いは同じなのに…………」
「やめろ!!」

ほとんど悲鳴に近い叫び声をカガリは上げた。
『一緒にいることは許されないのか?』
そう続いてしまう前に。

「やめて……くれ……」

歯を食いしばりながら、『今はこれで十分』だと思い込んでいたのは自分だけだったのだと悟った。
思いは同じだなんて傲慢もいいところだ。
アスランはちっとも十分だなんて思ってはいない。
焼けそうな喉から声を絞り出す。
泣いて誤魔化すことこそが、なにより卑怯だと分かっているから。

「……すまない……アスラン……私は……ラクスみたいに器用じゃないから……さ……。……一度に一番を……2つも3つも抱えられない……」

(酷いこと、言ってる)

『お前は後回しだ』
そう言ったも同然だった。
けれど、それが正直な気持ちだった。
正直で居ることだけが、今アスランに見せられる唯一の誠意だ。
なんて汚い人間になってしまったのだろう。

「よかった」

どんな罵りの言葉を返されるかと思っていた。
なのに目の前のアスランは、なぜか安堵しているようだった。

「まだ、一番を争える立場に居られてるんだな、俺」

アスランはつっぱったように不機嫌を気取る。

(まったくどうして俺は、こんな時にこんな態度しかとれないんだろう)

笑いながら言えたなら、結果も違ってくるだろうに。
素直になりきれない自分の性格が恨めしい。

「なんだよ……それ……」

むっとした表情でカガリが答える。

(そうだ。素直じゃないのはお互い様だった)

アスランは思い出す。
普段は危なっかしいくらい素直なのに、こと男女の機微となると、カガリの素直さは影を潜めるのだ。
静と動のごとく正反対な二人の性格は、こんなところだけ瓜二つだった。
キスをしても、体を重ねても、一緒に暮らしても、こればかりは変わらない。
たった今、この瞬間でさえ。
それがたまらなくくすぐったかった。

「順番待ちしてれば、そのうちお鉢が回ってくるんだろう?」
「……いつになるか分からないぞ」
「生憎、こう見えて気は長いほうなんだ」

言い込められて、カガリは悔しそうに喉を鳴らす。
恨めしそうに目を吊り上げるカガリは、金色の猫を思わせる。
数ヶ月前まで、毎日のように繰り返されていた日常がそこにはあった。
張り詰めた空気は、いつの間にかやさしい夜に戻っていた。
笑うカガリに合わせて、洗い立ての金髪と白いワンピースがさらさらと揺れる。
月明かりに浮かび上がるカガリは、白と金だけで構築されている硝子細工を思わせた。
先ほどの緊張から解かれたアスランを、別の緊張が襲う。

「……触れても、いいか?」

きしりと短い音を立ててベッドから立ち上がり、窓辺にいるカガリに向かい合う。
正面から見下ろすカガリは、驚くほど小さく、細かった。
折れそうな体で必死に戦う彼女と、そんな小さな彼女すら守りきれない自分に、やりきれない気持ちになる。
揺れる金色の瞳に、縋るような新緑の瞳が重なる。
カガリは、再び女に立ち戻っていくのを感じながら、思考が麻痺するのを自制しようと試みる。

「……体で……繋ぎ止める……みたいで……」

潔癖な彼女らしい答えだった。
同意を得られなかったのは確かに悲しい。
けれど、それでも拒否しきれないカガリが、痛々しく、そして愛しかった。

「それじゃ、犯してもいいか?」

それまでの甘い雰囲気にあまりにもそぐわないアスランの言葉に、カガリは目を丸くする。
およそ彼に似つかわしくない言葉だ。

「お前っ……何言って……!!」

あまりのことに声を荒げるカガリに、アスランがずいと近寄る。
ほとんどくちびるが触れそうな距離。
人中にかかる息が、直接鼻腔にアスランの雄を伝える。

「カガリは、『無理やり俺に犯された』だけだ。カガリのせいじゃない」

近さを保ちつつ、なおアスランはカガリの返答を待つ。
野蛮な言葉を口にしてはいるけれど、本当に拒否すれば退くだろうことは、容易に想像が付いた。

混乱する。
『抱かれたい』
本能が叫ぶ。
けれど、一度抱かれたら思い出してしまう。
愛される心地よさを。
愛することの快さを。
居心地のよい場所に溺れてしまう。
けれど情けないことに、『だめだ』と拒否しきれるほどの鉄の心は持ち合わせていない。
アスランに『犯される』誘惑はあまりにも魅力的だ。
でも、ずるい。
アスランの優しさに甘えるのは卑怯だ。
潔癖さが、カガリを完全に女に引き戻してくれない。

「……それじゃ私……甘えっぱなしじゃないか……」

ようやく言えた台詞が、なお逃げを含んでいることに嫌気がさす。

「それは丁度いい」

ほとんど泣き出しそうなカガリは、1センチも離れていないアスランの目に真意を探した。

「好きな女に甘えられたいと思うのは、当たり前じゃないか」

もう、抗えない。
だからせめて笑う。

「お前、バカだな」
「そう、俺はバカだから」

顔が近づく。
もうそこに躊躇いはない。

『言い忘れた。バカのうえに、『カガリ』がつく』

短く口づけたその後に、耳元でささやかれる。
急激に顔が赤くなっていくのを感じながら、普段は照れ屋のアスランが、時々箍が外れたように恥ずかしい台詞を口にすることを思い出した。

「……ほんと、バカだな」

怒ったふりをするカガリの肩から、ワンピースが落ちる。
窓辺から零れる月明かりに照らされた白い裸体は、しばらく見ない間にずいぶんと大人びて見えた。
戦後益々の激務のせいか、ただでさえ少年のようだった手足や腹からはさらに肉が落ちていた。
相対的に豊かな胸や腰の丸みが強調されて、まるで見知らぬ女の身体だった。
自分しか知らない、けれど見知らぬ女のような身体。
けれどそれ以上にアスランを驚きと興奮、そして混乱に陥れたのは、カガリがワンピースの下に何も身に着けていなかったことだった。

「カガリ……その……ずっとこのまま……だったのか?」
「へ? ああ、下着を借りるわけにはいかないからな。サイズも違うし」

甘い空気を吹き飛ばすアスランの尋問に驚きながらも、カガリはけろりと答える。

「あのなぁ……キラもシンもいるんだぞ? ……しかもそんな、真っ白な服で……」
「別に気にしてないだろ、二人とも」
「……はあ……」

(これじゃ、うかうか順番待ちもしていられない)

大人びたかと思えば、てんで無頓着なカガリに、アスランは大きなため息をつく。
そして思い出す。
一緒にいた2年間に、幾度となく同じ思いをした。
変わらない。
名実共に代表首長となった今も、中身はまったく、驚くほどに『カガリ』のままだ。
記念すべき出会いの日、下着姿で襲い掛かってきたそのままに。

「なんだよ、ため息なんてついて! 私のほうが年上なんだからな!」
「でも俺のほうが先に成人してる」
「コーディネイターだからだろ!」
「成人は成人だ」
「……未成年に鼻息荒くしてるくせに」
「そっ、それは関係ないだろ!」
「そうだ。年も人種も遺伝子も関係ない。お前はアスランで、私は私だ。それだけだろ?」

その通りだった。

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