2.ジオラマ

報道で何度も見たことはあったが、実際中に入ってみると、アスハ邸はなるほど国の重要文化財に指定されるだけのことはある建物だ。植民地時代に建てられたという、ゴシック様式の威厳に満ちた外観。アール・ヌーヴォー様式でまとめあげられた、隅々まで磨きぬかれた居住区。
さすがにそのままでは技術の進歩についていくことができないため、ところどころ改装されてはいたが、内部はテクノロジーと旧時代の美観の調和を考慮された造りを保っていた。
官舎との往復に使っているバイクからキーを抜くと、シンは居住区域をすり抜けて仕事場へ向かう。居住空間と執務空間では内装様式が異なっているため、仕事場が近づくにつれ、自然と襟を正すことになる。
『前当主の意向により、政務を行う区域は機能的なアール・デコ様式に改築された』と、この邸宅に出入りするようになって間もない頃に聞かされた。
小難しい話に興味はなかったが、ごてごてと装飾された豪奢な空間よりも、シンプルで直線的なこの空間のほうがシンは好きだった。その点だけは雇い主の父親と気が合いそうだ。

階段を駆け上って廊下を渡る。つきあたり、南向きの角に位置する部屋が当主の執務室になっていた。シンが目指す護衛や秘書に割り当てられた部屋は、執務室からふた部屋ほど手前にある。ひと部屋を数人でシェアする形式をとってはいたが、対外関係を担当する第二、第三秘書たちにシンが会うことはほとんどない。会ったとしても、挨拶をひと言ふた言交わすだけだ。年の離れた同僚たちとの距離を測りかねていたシンにとって、ビジネスライクさはありがたかった。

護衛交代の時間まであと20分。
バイクのヘルメットをロッカーにしまい、汗で濡れた頭をタオルで乱暴に掻き回す。ぼさぼさになった髪を整えるため部屋の片隅にある洗面台に向かうと、鏡の前には誰かがしまい忘れたタオルが無造作に転がっていた。拾い上げ、備え付けのクリーニング・ボックスに投げ込む。
弧を描いて飛んでいくタオルを見ていると、静まり返ったこの部屋に自分以外の誰かが居たことを実感する。
『誰か』。
つい数ヶ月前までここにいたその男を思いだす。

着任してはじめてこの部屋に連れてこられたとき、案内役のメイドに尋ねたことがある。
『なぜ護衛の部屋が執務室の真隣ではないのか?』

護衛という役割の性質と職務の効率を考えると、それはいかにも不自然に思えた。メイドは少し困ったように答えた。
「以前は、護衛兼第一秘書の方が個室としてお使いだったのですけれど……」
不可解な空き部屋の理由を、シンはメイドの行間から読み取った。

「おはようございます」
「おはよう、シン。今日もよろしく頼む」
雇い主は、本日最後となるであろう屈託のない笑みで出迎えてくれた。ここから先に見ることができる彼女の笑顔は、作られた外向きの笑顔だ。
「今日の予定は午前中が行政府で閣議。南アメリカ合衆国大使と迎賓館で昼食後、帰って執務だったな」
「はい。あと15分もしたら車を回します」
「分かった。午後に来客が何人かあるから指示を頼む」
「了解……で……あります」

今週の来客のアポイントメントをざっと確認しながら、シンはため息をつく。
この仕事が一番苦手だった。いわゆる、おもてなしというやつだ。
例えば中東出身者には豚を使った食材はご法度だから、調味料の原料にまで気を配らねばならない。はたまた英国からの来客に出す紅茶には、栽培園までこだわる必要がある。ドイツからの来客ならミネラル・ヴァッサーはミット・コーレンゾイレ、ギリシャならどろっとしたグリーク・コーヒーにウゾー、キューバからの来客にはキューバ産以外の砂糖は使用不可。
さらに個人のアレルギーまで調べ上げたうえで調理係に指示を出し、ベストなタイミングで給仕せねばならない。こまごまとした雑事は生来苦手だったが、そこは仕事と割り切るしかない。
カガリ・ユラ・アスハ、彼女はオーブの顔なのだから。それでも、ぽろりと不平が口をつく。

「ったく、なんだって茶の一杯二杯でこんなに指示があるんだよ……。出されたものは文句言わずに食えっての!」
今日も今日とてずらりとならぶ来客者たちの多種多様ぶりに毒づく。そんなシンを見て雇い主は、ははっと軽やかな笑いを投げかける。
「昔は私もそう思っていた。だが、政治の世界ではそれが武器になるんだ」
「武器?」
「私は若輩者で、しかも女だ」
唐突なカガリの言葉。悲観しているのかと思いきや、顔は笑っている。
「『さすがは女性元首ならではの細やかな気遣い』と、思わせられれば私の勝ちだ」

政治の世界で女であることは決して有利ではない。まして、それが十代の少女であるならばなおさらだ。だが、逆手にとって利用することもできる。
「……アンタ、案外狡猾なんだな」
「『女らしさが大事』ってな、前の婚約者が教えてくれたのさ」

そう言いながら、シンの横をすり抜けて車寄せに向かうカガリが、どんな表情をしていたかは分からなかった。けれど、望まぬ婚姻を強要し、政治的に無力なカガリを利用しようとした亡き婚約者が、彼女を成長させたことだけは確かなようだった。おそらくは、彼が望まぬ方向に。
慌ててカガリを追おうと、シンは今日必要な書類を引っつかむ。そこで初めて、本日のアポイントメント一覧の一番下に、昨日までなかった名前があるのに気づいた。
緊急来客用の付箋に書かれた文字は、彼も知る人物。

ラクス・クライン
プラント亡命者
市民番号 XXXXXXXXX
C.E.72年3月 市民権取得
アレルギー等特記事項 特になし

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