「今日も一日お疲れ様。また明日、頼むな」
私室まで送り届けると、雇い主が振り返った。
お決まりの挨拶。
「着替えてまたすぐ出るんだろ? 廊下にいる」
言いながらシンはドアノブに再び手をかける。
「いや、もう今日は出かけない。帰っていいぞ」
「……は?」
言っている意味が分からない。
確かに傍目から見れば一方的な招待ではあったけれど、先ほどラクスと約束したはずだ。
問いただそうと再びカガリのほうを向く。
カガリは困ったようにはにかんでいた。
『言葉にしなくてもわかって欲しい』そんな顔だ。
無性に、唐突に、腹が立った。
分かっている。
カガリが避けているのは、ラクスではなく、そこにいるはずのアスランだ。
かつては像とその影のごとく一心同体に行動を共にしていた二人。
二人の隔たりが、カガリとアスランにとってどんな意味を持つのかは知らない。
けれど、避けるのは卑怯だ。
白と黒を好む少年の心が叫ぶ。
踵を返し、ドアに背を向けると、迷いもせずクローゼットへ向かう。
もちろん、普段なら女性のプライベートを漁るような真似はしない。
けれど、憤りがシンから良識を奪った。
「お、おい!? 勝手に……」
「うるさい! 首長服のまま外に出るわけにいかないだろ!」
「だから! 私は行くつもりは……」
聞く耳持たずにシンはクローゼットを漁り続ける。
適当に羽織れるものを探す。
すぐに見つかるかと思ったが、『オーブの姫』のクローゼットはさすがに広く深く、なかなか適当なものが見つからない。
後ろで抗議の声をあげるカガリを無視して、ばさばさとハンガーをかき寄せる。
すると、数多ある服の中に、どこかで見たことのある服があった。
公務でもない、プライベートでもない場所で、ひどく久しぶりに見た気がする服。
記憶をたどる。
まだ父も母も妹もいた頃、街中で何度か見かけたことを思い出す。
明るい笑い声とともに、同じ服の少年少女が道を行く姿。
オーブ随一のアカデミーの学生服だ。
コーディネイターの中でも優秀だったシンは、いつか自分もそこに通うのだと、かつては思っていたものだった。
「……私も学生だったからな」
戦争が始まるまでは。
そう続くのだと分かった。
カガリもまた、戦禍に日常を奪われた人間なのだ。
単に、お偉い代表首長だと思って敵意をむき出しにしていた頃を思い出す。
痛みは、すぐそこにあったのに。
「休学してもう3年近くなる。そろそろ除籍だな」
口調は穏やかだった。
憧憬の手触りを確かめるかのように、カガリは今一度その服を見る。
シンの手から制服をするりと取り去ると、元通りクローゼットにかけなおした。
ぎぃっと大時代な音を立ててクローゼットが閉まる。
「今日はもう疲れたんだ」
穏やかな、迷いのない、作られた笑顔。
それがシンの中の何かを引き裂いた。
「……脱げよ」
「……え?」
何を言われたか分からないでいるカガリから、赤紫色の上着を剥ぎ取る。
忌々しいといわんばかりに上着をベッドに投げつけると、カガリの手首をぎりりとつかんで引きずる。
「なっ……何するんだ! シン!?」
ようやくカガリは身の上に起こったことを理解する。
しかしすでにカガリの自由はシンが握っていた。
「いいから、来い!」
なかばシンに引きずられながら、カガリは廊下へと連れ出される。
振りほどこうと必死の抵抗を試みるが、シンの手首はびくともしなかった。
弟のように思っていたシンの力の強さに驚く。
日ごろの子どもっぽさに忘れがちだったが、シンがザフトのエリート軍人であったことを思い出す。
かつて同じ立場に居たアスランの白兵戦の強さを思い出し、癪ではあったがおとなしく従うことにした。
言葉遣いも手癖も乱暴なシンではあるが、理由なく不必要な無茶はしないはずだ。
引っ張られていった先は、屋敷の駐車場だった。
無言のままヘルメットをカガリに投げると、シンは愛車のキーをひねる。
すでに公用車が出払ったパーキングに、規則正しいエンジンの回転音が響く。
促されるまま後ろに跨ろうとしたカガリに、今度はシンの上着が飛んできた。
南国とはいえ、夜は海風が強く吹く。
まして、バイクで生身に風を受けるとなれば体温はさらに奪われる。
上着を脱いでワイシャツ一枚のカガリに対する、シンなりの気遣いだった。
憮然としていても、少年らしい優しさを捨てられないシンを、カガリは微笑ましく思う。
羽織りなおすと、自分からシンの後ろに跨り腰に手を回す。
少年だとばかり思っていたけれど、思った以上にシンの背中は広く、胴回りは太かった。
そういえば、貸された上着も腕が余り、肩がずり落ちる大きさだ。
急激にシンを異性として意識する。
『少年』じゃない。
『男』だ。
アスランと同じように。
男のアスランをカガリは知っていた。
たくましい腕も、引き締まった背も、広い胸も、その内にある激情も。
封じていたはずの思いが、生々しくよみがえってシンに重なる。
気恥ずかしさからか、もしくは警戒心からか、カガリは無意識に腕を緩めていた。
緩んだ腕に気づいたシンは、ふんと鼻を鳴らして呆れるふりをしながら、カガリの腕を掴んでしっかりとホールドさせ直す。
安全のためと分かってはいるものの、カガリは妙に動揺する。
カガリの思惑など知る由もなく、シンはクラッチを蹴って発進させた。
夜が深まったせいだろう。
二人を乗せたバイクは、さしたる渋滞に巻き込まれることなく、高台にあるアスハ邸からの道をほとんどノン・ストップで滑り降りた。
喚くだろうと予想していたカガリが、大人しく背に体を預けていたことが、シンは意外だった。
張り合いがないと思えるほどだ。
しおらしいカガリの態度は、ちくりとシンの胸を刺す。
けれど、それでも自分は間違っていないのだ、と心の中で虚勢を張った。
否が応でも女を感じさせる翳った表情を思い出すと、背中に当たっている二つの膨らみが妙に生々しく思えてしまう。
カーブを曲がったりブレーキをかけたりするたびに、柔軟に形を変えるそれは、見た目よりずっと豊かに思えた。
少年らしさは、時に凶暴だ。
触覚が想像を刺激し、あらぬ姿のカガリが脳裏に浮かびそうになる。
雑念を振り払うために、今一度頭の中に地図を思い浮かべる。
マルキオ導師が営む孤児院へ足を運んだことはなかったが、ラクスの来訪記録から住所は知っていたし、所在地さえ分かればあとは土地勘に従えばいいだけだった。
街中をすり抜け、島と島を渡す大きな橋を渡る。
幹線道路を外れると、潮風が海の近さを告げる。
エンジンの回転音のはざまに波の音が雑じりはじめた。
目的地は近い。
シンが無理やり連れ出したんだ、だから会ってしまっても仕方ないじゃないか————
シンの背で揺られながら、カガリは自分に言い訳する。
そして自己嫌悪に陥る。
会いたくないわけじゃない。
会いたい。
たまらなく、会いたい。
けれど、会うのが怖い。
アスランに会ったら、張り詰めていた糸がぷつりと切れてしまうことが分かっていたから。
ひと目でも見たらきっと、せっかく築いた政治家の顔を投げ捨てて、少女のように泣いてしまう。
弱音を吐いて、守って欲しいと思ってしまう。
そして自分がそう願えば、望むままにアスランはカガリを守ってしまうから。
今は、守られるべきときではないのだから。
『いつか』を願いはするけれど、それが今ではないことは分かっているから。
何を優先させるべきかが分からないほど子どもではないが、恋心を割り切れるほどは大人ではない。
今は国を元に戻し、未来への種を蒔く。
それが最優先だ。
いつか。
いつか、アスランの隣で『カガリ』でいられることを願うけれど。
今は鋼の獅子の『アスハ』でなくてはならない。
自分が不器用なことも、ひとつのことにしかのめり込めないことも知っているから。
けれど。
分かっていても、時々女の自分に負けそうになる。
ふとした瞬間に、縋りたいと、甘えたいと、守って欲しいと思ってしまう。
居心地のいい場所に戻ってしまいたくなる。
アスランの名前を聞くだけでも、こんなにも動揺してしまう。
(ああ、私は、こんなにも女だったんだ————)
孤児院からはまだ淡く明かりが漏れていた。
子どもたちの声はすでに聞こえなかったが、大人は起きているのだろう。
眠りを妨げぬよう、音を立てずゆっくりと裏手にバイクを止める。
カガリはなお諦め悪くためらっていたが、シンに促され、のろのろと降りてヘルメットをはずした。
(泣かせてしまう————)
ヘルメットから現れたカガリの顔に、シンはぎくりとする。
口より手が出るほうが早いカガリは、抗議があれば大人しく座ってなどいないはずだ。
それが珍しく文句ひとつ言わずにシンにしがみついていたから、てっきり覚悟を決めたものだと思い込んでいた。
「そんな仏頂面じゃ、アスランに嫌われるぞ」
いつもの調子を取り戻させようと、皮肉で挑発する。
が、困ったように唇の端を上げただけで、カガリは無言のままだ。
実際、カガリはどんな顔をしたらいいのか分からなかった。
いや、分かっていたはずだ。
『ここに来たのはラクスを見送るためで、それ以外の意図はないのだ。ただそこに偶然アスランが居合わせただけだ』そんな顔で、普段通りのカガリを演じればいいだけの話だ。
それでも、扉一枚隔てた向こうにアスランがいると思うと、少女らしい恋心を抑えられそうにない。
シンによって物理的な距離という言い訳が取り払われてしまった今、カガリは混乱していた。
一度に複雑な感情が絡み合い、擬態を保つことはできそうにない。
混乱を極めると、時に人は天変地異を願う。
例えば、『今この瞬間に大地震があれば』などと物騒な祈りを捧げる。
巨大な何かに自分と周りの人間の意識が支配され、目の前にある困難を考えなくて済むように。
必要なのは、時間ですらなかった。
ぐちゃぐちゃになった気持ちを、何か大きなものにぶち撒けたかった。
そして、そこに海があった。
突拍子もないカガリの行動に、シンは一瞬何が起きたか分からなかった。
カガリは靴とシンのコートを脱ぎ捨てると、迷いもせず夜の海へ駆け出していった。
派手な音をたてて水しぶきがカガリを浸していく。
慌ててシンが追いかけたときには、すでに全身ずぶ濡れだった。
「なっ 何考えてるんだよ!? 危な……!!」
ざぶざぶと波をかきわけ、シンはカガリを追う。
「あはー 気持ちいー!」
怒鳴るシンの声が聞こえているのかいないのか、カガリからは能天気な言葉が返ってくる。
イルカを思わせる奔放さは、まるで最初からそんな生き物がいるかのようだ。
ひと泳ぎすると、満足したようにすいっとシンの元に戻ってきた。
「アンタなぁ!! 服着たまま夜の海で泳ぐなんて自殺でもするつもりなのか!?」
「悪い悪い」
言葉とは裏腹に悪びれず、言葉だけで謝る。
いつものお転婆なカガリだ。
声をかけづらい雰囲気が払拭されたと分かると、シンも調子を取り戻して悪態をつく。
「なんか頭がぐしゃぐしゃになってさ。無性に泳ぎたくなったんだ」
考えるより体を動かすのは、いかにもカガリらしい。
けれど、無性に悲しくなった。
彼女が手放しで飛び込めるものは、今は海くらいしかないのだと分かってしまったから。
アスランにさえ自分を預けられないカガリが、不憫でたまらなかった。
そして、四六時中そばにいるのに、当てにすらしてもらえない自分が妙に歯痒かった。
「……ちゃんと、話せよ」
「え?」
「アスランと。会う機会、あんまりないんだろ?」
「…………そう……だな……」
「逃げるなよ」
「…………」
「まだ、取り戻せるチャンスがあるんだから……!!
………せっかく……まだ……生きてるんだからっ……!!」
「シン…………」
言葉を紡ぎながら、シンは次第に自分の言葉に激昂していく。
シンの言葉の裏に隠された経験を察して、カガリは胸を刺された。
時期を見るなど、生者にのみ許された傲慢だ。
生きていなければ、話すことすら叶わない。
当たり前だと思っていたものも、いつ無くなってしまうか分からないのだから。
もしかしたら、次の瞬間失ってしまうかもしれないのだから。
長い睫毛に影を落として俯いているシンを、カガリはぎゅうっと抱きしめる。
生きている人間のぬくもりが伝わるように。
冷たく濡れた生地越しではあったが、カガリは確かに暖かかった。
『生きている』感触。
「ありがとう」
「……何が…………?」
「なんでもだ」
「……なんだよ……それ」
「シンがいてくれて、よかった」
心臓が飛び跳ねる。
他意はない、カガリ一流の直接的な表現だとは分かっているけれど。
意識してしまうと、今の彼女の格好が妙に艶かしく見えてしまう。
頬や額に張り付いた髪、湿ったくちびる、綺麗な弧を描く顎から滴る雫、水を含んで肌に吸い付いたワイシャツ、その下に透けて見える若草色の下着と、白い肌。
水の重みを得た服は、華奢な身体のラインをくっきりと浮かび上がらせる。
細い首、薄い肩、豊かな胸、引き締まったウェストとヒップ。
日ごろ、首長服やパンツスーツなどユニセックスな衣装に身を包んでいる分、垣間見たカガリの『女』の身体は妙にリアルだった。
急激に体温が上昇する。
どうしてよいか分からないまま、手だけが操られるようにカガリの背中を探ろうとする。
小さな背中はシンの腕にすっぽりと納まるだろう。
納めてどうする?
分からない、分からないけれど————
「まあ、泳いでいらっしゃるとは思いませんでしたわ」
門灯を消しに出たラクスが二人を見つけたのは、シンの腕がカガリの背中に届く寸前だった。