5.在る

「お待たせしました。お迎えが来はりましたよ、桂はん」
襖からの声で、桂と剣心が腰を上げる。結局解決策はないままだった。だが、幾松の名を聞いた桂の周りの空気がいくらか和らいだことで、自然と今宵はここまでという運びになった。
「お待たせいたしました。こちらです」
二人の足音を聞いて、玄関先に立っていた禿が静かに頭を下げた。
それを見て、剣心は少しばかり暗い気持ちになる。幼い子どもをこんな時間に、大人の街で働かせることを嫌悪し始めたのは、巴との生活で子どもたちと触れ合うようになってからだ。
が、目が合った禿を見て、そんな暗澹とした気持ちはどこかへ吹き飛んでしまった。
「君は……この間の……」
「お兄ちゃん」
ただでさえ大きな少女の瞳が、さらに大きくまん丸になる。まるで瑠璃玉みたいだ。剣心はそんなところだけ妙に冷静に観察した。
なぜここに、と考えようとして、やめる。少女が帰った店の立地を思えば、十分ありうる可能性だった。
「なんだ緋村、知り合いか?」
「え……ええ……まぁ……」
「こんにちは、お嬢さん。いつも緋村がお世話になっています」
「あ……いいえ……。あの……こちらこそ……」
桂が膝に手をついてかがみ込むと、わざと剣心に聞こえるように馬鹿丁寧な挨拶をした。面食らった少女は、咄嗟の受け答えと笑顔をなんとか返した。
「知らなかったよ、緋村にこんな可愛らしい知り合いがいただなんて」
「道すがら助けただけです。奇妙な裏読みはよしてください」
「いいじゃないか。これも何かの縁だ。お前も来ればいい」
「送りますよ。……店までは」
額に手を当てながら、剣心は先導する少女の後を追う。心なしか跳ねるように歩く少女と、それを追う剣心の後姿に、桂は目を細めた。そこには、この煌びやかな街にはない明るさがある。虚飾の輝々しさではない、透明な光だ。真夜中に見たその光は、桂には少し眩しすぎた。

「桂はん、えらいお待たせしてしまって」
恋人を玄関で迎えながら、幾松が申し訳なさそうにする。何度気にしないと言っても、会うたび謝る恋人に、桂は安らぎを得る。
「それじゃ、お兄ちゃん……」
「ああ……」
言葉をかわしながら、少女の小ささを剣心は実感する。少女の視線は、板の間へ上がってなお、玄関にいる剣心よりも低かった。間を持たせるように、そわそわと指を摺り合わせたり袖を振ったりする少女は、出会った夜よりもずいぶんと幼く見えた。
「あの……これ……」
思い出したように袖から懐紙を取り出すと、少女は剣心に手渡した。訳の分からぬまま受け取った剣心が、ぱらりと紙包みを開く。
「花ぼおろ。あの……お駄賃にもらったから……」
「あ、ああ……。ありがとう……」
手の中の菓子をまじまじと見つめながら、剣心がうなづく。少女と菓子を交互に見渡した後、懐にしまいこんだ。
「お兄ちゃんも、おつかい終わったんでしょ? だから、お駄賃。はんぶんこ」
花のように笑ってみせる少女に、桂と幾松が顔を見合わせた。どちらからともなくくすりと笑うと、桂が少女に声をかけた。
「お嬢さん、今夜は空いているかい?」
「え……あ、はい」
「それじゃ、こいつを頼むよ。朝まで」
「か、桂さん! 何を……!」
桂の申し出に、剣心が泡を食って叫んだ。くすくすと笑う幾松のとなりで、桂は表情をひとつ変えない。
「禿が客を取るのは、それほど珍しいことではないだろう。いい機会だ。緋村も息抜きしたほうがいい」
「何を言うんです! こんな小さな子を……」
「あらぁ。そのコ、そう見えてえらい上客持ちなんよぉ。うちなんて、引込禿や思うとったくらいや」
客を見送って玄関に戻ってきた端女郎が、通り抜けざま、不愉快さを隠しもせずに言い捨てた。息のにおいから、酒の勢いで言った言葉であることは明らかだったが、少女は苦しそうに俯いた。
守られている立場とはいえ、身体を売る女たちの苦境を感じ取っているのだろう。後ろめたさからか、少女は何も言わなかった。
「だ、そうだ。我が藩の財政は豊かではないが、金なら出そう。すっきりして来い、緋村」
桂は、敢えて少女の気鬱には気づかないふりを決め込む。それでもなお、剣心は食い下がった。
「冗談はやめてください! 俺は……」
「そうか。そこまで言うなら仕方ない。お嬢さんも、時間が空けば他の客が取れるだろうしな」
刹那、剣心の脳裏に、見知らぬ男相手に肌を鬻ぐ少女の姿が、ありありと思い浮かんだ。桂が値踏みするような視線を少女へ送ったとき、剣心は自分でも知らぬ間に少女の手を引いていた。
「行こう。こんなところ、いつまでも居るもんじゃない」
引きずるようにして少女の手を引きながら、剣心が大股で階段へと消える。残された幾松は、たまらず噴き出した。
「くくく……桂はんも、役者ですなぁ」
「私も、伊達に魑魅魍魎、二枚舌、二枚腰と遣り合っているわけではないよ」
穏やかに笑うこの男を、幾松は頼もしくも、空恐ろしくも思う。けれど結局は、見守るしかないのだ。何を言ったところで無駄なことは分かっている。
「さ、桂はん。子どもは子どもどうし、大人は大人どうし。今宵もお話、聞かせておくれやす」
にっこり微笑む幾松に、桂はようやく心からの笑顔を見せた。自分の難しい性質と立場を理解した上で微笑んでくれるこの女を、心底愛しいと思いながら。

「お兄ちゃん、刀ちょうだい」
「え……?」
部屋へついた途端、手を差し出した少女に、剣心は思わず柄に手をやった。知らぬ間にほとばしる殺気が、周りの空気をびりりと冷やしていく。
だが、誰もが恐れる人斬りの殺気を、少女はそよ風とも感じていないようだった。
「ほんとは、入り口で預からないといけなかったんだけど。お兄ちゃん、ぐいぐい引っ張るんだもん」
「あ……そうか……ごめん……」
少女の言っている意味を理解した剣心は、気が抜けた顔で、刀を差し出した。
腰に手を当てた少女に謝る自分の姿は、まるで姉と弟みたいだと、剣心は思う。大人と子どもという体格の差が、よけいにその光景を滑稽にさせた。
少女が出て行った部屋で、壁を背にして目を閉じる。置く刀のない肩は、剣心を落ち着かない気分にさせた。
目を閉じる。とたとたと小さな足音が階下へと遠ざかって、また戻ってくる。
近づく足音にほっとしている自分に戸惑う。足音は、警戒し恐れるべきものであるはずなのに。いま自分は、ひどく待ち遠しく思っている。刀を持っていないことで、心細くなっているのかもしれない。
「お待たせ」
襖を開けた少女が、畏まって一礼する。両手に茶と茶請けを持って危なっかしく立ち上がったのを見て、剣心は思わず駆け寄った。
ただでさえぼったりと思い禿装束だ。そこに茶を持って裾でも踏んだ日には、目も当てられない。案の定、重そうに袖を振る少女の手は、見ているこっちがひやひやするほど危なっかしかった。見ていられなくなった剣心が、茶と茶請けを取り上げる。
「ありがと。ただいま」
「……おかえり」
無防備な笑顔に、思わずそう返していた。こんな、仮初めもいいところの場所だと言うのに。その笑顔には、なぜかそう答えさせる説得力と自然さがあった。
「どうぞ」
「……どうも」
まるでままごとみたいだ。差し出された器の上等さが、どうにも場違いに思える。
「あ、お酒のほうがよかったのかしら」
「いや、いい」
見上げる少女の申し出を剣心は断る。再び味を失って久しい酒も、今日ここでならば、美味いのかもしれないな、と柄にもなく想像する。
「酒は、苦手なんだろう?」
「……うん」
困ったように、少女が照れて見せる。無造作な少女の姿と瀟洒な置屋造りが、ひどくちぐはぐに見える。
壮麗な装束と整った顔立ちで分かりづらくはあるが、ごく普通の少女だ。夜の街ではなくて、真昼の大通りを駆け回っているような。
「それじゃ、なにする?」
言われて、剣心はどきりとする。この場所ですることといえば、思い当たることはひとつしかない。
少女にも、幾人か客がついていると聞いた。だが、この純真な瞳でたずねる少女が、男と女の享楽を提供するとは到底思えなかった。
なぜか、少女のそんな姿を想像すると、先ほど玄関で思わず少女の手を引いたときのように、奇妙な焦りと怒りがこみ上げる。頭が混乱する。
「ほかの客とは何を?」
刹那、少女の目の奥が奥行きを失くす。そのすぐ後で、少女はぽつりと言った。
「そういうのは……ほかの人に話しちゃいけないって、言われてるの」
そこには、うすぼんやりとした諦観のようなものがあった。笑おうとしているのは分かったが、彼女は笑いきれていなかった。
「済まない。言いたくないなら、言わなくていい」
「……うん」
「何かして遊ぼうか?」
「えっ……」
少女が目を丸くする。剣心自身、なぜそんなことを言ったのか分からなかった。
『君はこんなところに居るべきではない』
そんな勝手な気持ちが、どこか分からない場所から湧き出そうになる。何も知らないのに。知らないはずなのに。
「何でもいい、なにがしたい?」
「お兄ちゃんは、なにして遊んでた?」
「俺は……」
子どもとして扱われていた日々を思い出す。いくつかの死別を繰り返した後は、剣を握っていた思い出しかない。知っている遊びと言えば、巴と暮らした里山で子供たちから教わったものくらいだ。
「里山の子たちは、鞠つきや鬼ごっこなんかで遊んでた……かな」
「里山かぁ……いいなぁ……。どこの子も、同じような遊びをするんだね。ね、ほかには?」
見たことのない暮らしに、少女の好奇心が膨らんでいくのが分かる。里山を知らないというのならば、少女は街の生まれなのかもしれない。尋ねたところで答えが返ってくるとは思えなかったけれど。
「ほかには……そうだな、チャンバラとか……」
「刀は……あんまり、好きじゃない」
華やいでいた空気が、静かに冷めていく。どこか心細げにすら見えるその目には、不思議な諦めと透明さが共存していた。
「そうか。こんなご時勢だものな」
「ごめんね、お侍さんに……」
「構わないよ。俺も、刀が好きかと言われれば分からない。剣術は好きだけどね」
「わたしも、剣術は好き」
まるで、遠くにある思い出を眺めるような声だった。預けられているという身の上を考えると、郷里の父でも思い出しているのかもしれない。
「それと、お兄ちゃんは好き。刀を持っていても」
「え……」
素直すぎる言葉に、剣心は声を失う。真っ白な笑顔には、裏も表も駆け引きもない純真さが凝縮されているように見えた。
昼でも闇の中のようなこの都で。それはあまりにも純粋で。おそろしく貴重なものに思えた。
もし仮に、本当に大の男が彼女に惹かれてやってくるというのなら。この灰泥の中の真珠のような光がそうさせるのかもしれない。
「失礼します。おひぃさん。これ、幾松姐さんからや」
控えめに空いた襖から、女中が皿にのった金平糖を差し出した。
目を輝かせて駆け寄る少女の姿は、ちょうど廊下を通りすがった女郎の目に、忌々しく映ったらしい。卑屈さを隠しもせず、女郎は吐き捨てるように言った。
「あらまぁ、吾妻夷のおかざりさんやないの。まったく、おるだけで稼げるんやから、いいご身分や。こっちは身ィ削ってやっとこ食うてるいうのになぁ」
どすどすと廊下を去っていく女郎に、少女は目を伏せただけだった。女中も困った顔をしてはいたが、少女を
庇いはしない。女ばかりのこの場所で、表立って味方につけば、同じような槍玉にあげられるのは目に見えている。
そそくさと襖を閉めた女中に礼を言うと、少女は皿を持って剣心に振り返った。困ったように笑うさびしそうな表情と、手元できらきらと無邪気な光を放つ金平糖の不相応さが、やけに痛々しかった。
何か呼びかけようとして、剣心は気づく。少女の名を知らない。名ばかりではなく、何もかも。足元が、ぐらぐらと揺れる。
「名前は?」
「え?」
「君の名前は?」
「ないわ」
見習いという立場の手前、本名は名乗れないだろうし、身分ある預かり者ならば、源氏名をつけるわけにもいかないのだろう。事情は察しがつくし、筋も通っている。
けれど剣心は、そこにどうしようもない不吉さを感じ取った。骨まで冷える、手ごたえのある冷たさがそこにはあった。
「俺には、名乗れないということか?」
糾弾したつもりはなかった。けれど、不思議と語尾が荒くなった。
どうしたらよいかわからない、といったふうに少女が首を振る。その小さな動きさえ、少女のかたちをぼやけさせる。名前という輪郭を持たない彼女との思い出は、いまにも霧散して消えていきそうな気がした。
ただ、かすかに流れる風が運ぶ、少女の甘く清しく薫る体温だけは、確かに彼女がここに在ることを証明していた。
「かおる」
「え……」
「薫って、呼ぶよ。名がないと、不便だろう」
「……どうして?」
「さっき来た女の人が言ってただろう。在るだけでって。それに……」
「それに?」
「なんでもない。なんとなくだ」
『薫』。
懐かしい名だった。どこで聞いたのかも分からないし、そんな名の知り合いが居たためしもなかったけれど。
はじめは単純に、『おる』と少女を呼ぼうとした。けれど、少女から薫る懐かしさが、剣心の何かを呼び覚ました。知らないうちに口をついて『薫』の名がこぼれた。その名で彼女を呼ぶと、ひどくしっくりきた。それだけだ。
「似合わないよ……そんな名前……」
「それでもいい。俺はそう呼ぶよ、薫」
なぜそこまで頑なに彼女をそう呼ぼうとしたのかは、剣心自身にも終ぞ分からなかった。

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