8.白い影【R-18】

「儂が気づいていないと思うか? 蒼紫」
昼を過ぎて葵屋へ戻った蒼紫に、翁が静かに口を開いた。無遠慮に部屋に入ってきた翁を咎めるでもなく、蒼紫は続きを聞く態度だけを見せて、書類に目を通し続ける。
「偶然その場に居合わせる者もおろう。多少の犠牲なら、儂だって目をつぶる」
二階の窓から、翁は庭で遊ぶ操を見下ろす。陽の光の下で笑顔を見せる幼い操の姿は、あるべき子どもの姿だ。
無邪気に駆け回る操と、たった一つしか変わらない少女を鬼に仕立て上げているというのに。せめて操だけは、闇に触れず育って欲しいと願う自分の身勝手さに、翁は苛立った。
「あの娘は、予定外の人間を殺しすぎる」
蒼紫は答えない。
外から操の小さな悲鳴が聞こえた。その直後の泣き声からして、石に躓きでもしたのだろう。午後の穏やかな風が、蒼紫の机の影を揺らした。襖の奥の少女からは、浅い眠りの呼吸がかすかに聞こえるのみだ。
「自分のために斬るようならば、策が必要になろう。葵屋まで脅かされては困ったことになる」
となりの部屋で眠っている、孫のような年齢の少女の姿を思い浮かべる。だが翁は、すぐにその姿かき消した。状況と現実は、時に情を排除させる必要を持つ。
「あの娘には言い含めておく。まだ、利用価値はある」
「そうしてくれ。まだ子どもじゃ。片付けようと思えば、どうとでも片付けられる」
渡り廊下を歩く白髪の少年を窓から見下ろしながら、翁は警告のようにつぶやいた。
少女が見せ始めたもうひとつの変化には、二人とも最後まで触れぬままだった。

うっすらと開いた薫の目に映ったのは、あざやかな白だった。それが何かは思い出せない。
ここ最近、ちらほらとそんなときがある。自分がどこにいるのか、そこにあるのは何なのか、自分は何者なのか。真っ白い混沌に飲み込まれそうになる、おかしな感覚だ。
もう一度目を閉じてから、今度は見ようという意思を持って目を開ける。そこには、真っ白な髪をした少年が、不機嫌そうに薫を見下ろしていた。
「食事だ」
縁の傍らには、たしかに膳が置いてあった。けれど、すでに粥も茶も冷め切っているように見える。
「起きるまで、待っててくれたの?」
「……起こすのが面倒だったからな」
「ありがとう」
布団を這い出て、薫はそっぽを向いた少年の脇の膳についた。無言の食事が始まる。
「いつまでここにいるの?」
薫の質問に、縁は値踏みするような表情をする。それから、自分でも分からないことを他人に伝えたところで、害はないと計算した。
「さあな。知らされてない」
「あなた、江戸の子でしょ?」
「……どうしてそう思う?」
「わたしも、江戸から来たから。言葉遣いで分かるわ」
言われてみれば、少女の言葉遣いは関東のそれだった。加えて、物腰を見れば、彼女が武家の娘だということは容易に想像がついた。そこには、ある種の姉と同じ空気があったから。
「もううちを継ぐ人間はいない。江戸に帰るかどうかも分からない」
「そっか」
粥を置いて、薫は沢庵をつついた。味の薄い食事は、血の味しかしなかった。
「だからここでお手伝いしているの?」
「言っただろう。俺を江戸から連れてきた連中は死んだ。連中を知ってるという爺さんが、ついて来いと言った。そうしたら、ここへ連れてこられた。それだけだ」
「ふうん」
「タダではなさそうだけどな」
先ほど薫のもとへ膳を持って行けといわれた折に、翁から後で来るように言われたことを、縁は思い出す。おおかた、闇乃武の連中がさせたのと同じような仕事をさせるつもりなのだろう。
構うものか、と縁は思う。
清里明良が死んだ以上、他家へ出されるはずだった縁が、雪代の家を継がねばならないと姉は言っていた。だが、家格を考えれば、雪代家より入り婿先を優先させられるのは目に見えている。人の善い父がそうするだろうことは火を見るよりも明らかだ。それに、家名すら知らない入り婿先とやらに忠義立てする気なんて、これっぽっちも起こりはしなかった。
どの道、裏社会の者とかかわった以上、今さら御家人の長男として元の鞘に納まれるとは思っていなかったし、そうしたいとも思わなかった。姉を奪った憎い仇さえ討てれば、他のものはどうでもよかった。
「早く江戸に帰って」
少女の目は、怒りと、驚きと、怯えとが絡まった複雑な色に染まっていた。その目が、縁の中のなにかを刺激する。
『帰りなさい、縁』
そう言った姉も、これと似たような目の色をしていた。
「こんなところにいちゃ駄目よ」
目の前の少女が、なぜ泣きそうになっているのか、縁には理解できなかった。
ただ、姉と同じ目をしていることが縁を無性に苛立たせた。部外者を、蚊帳の外に置こうとする目だ。
「お前に、何が分かる」
何も教えてもらえなかった無念。無言で、巴は縁を置き去りにした。
「話したくないことは聞かないよ。言いたくなったら、教えて」
姉とは違う、と縁は直感する。
この娘は、踏み込んでくる。
「気が向いたらな」
挑みかかるような目で見つめる少女の視線に耐えられず、縁は窓の外に顔を背けた。

「浅き……ゆ……ゆめ……ゆめ……」
「貸してごらん」
難しい顔をして半紙と睨み合っている薫から、剣心が筆を取り上げる。筆が止まっている場所の下に、『夢』の字を書き足すと、薫に笑ってみせた。
「はいどうぞ」
「……ありがと」
納得いかないと目で訴えながらも、薫はとりあえず剣心に礼を言う。そこから先は、時折考え込みながらも、最後まで書き通せた。
「……見……し……酔ひも……せ……ず……。できた!」
「どれどれ。……ん、上出来だ。薫は字が上手いな。それに、覚えも早い」
「剣心は字、下手よね」
悪気なく事実をありのままに突きつけるその言葉に、剣心はぎくりとする。子どもに教える機会が巡ってくると知っていたら、もっと真面目に手習いをしていたかもしれない。人斬りに学はいらない、なんてひねくれいていた頃のツケが、こんなところで回ってくるとは。
「……悪かったな」
「悪くないよ。剣心も一緒に練習したらいいじゃない。ね?」
にっこり笑って筆を差し出す薫に流されるまま、剣心も筆を握る。ああでもない、こうでもないと言いながら、しばらくの間二人で奮闘した。
「あーあ、頬にそんなに墨つけて」
「えっ? どこどこ?」
「ほら、こっち向いて」
思わず頬をぬぐう薫の指で、墨の雫は筋に変わる。苦笑しながら剣心が手ぬぐいで薫の頬を撫でた。
剣心の指が頬から離れようとした時、目をつぶって剣心のされるがままになっていた薫が目を開けた。
「剣心のこれは、消えないの?」
伸びてきた指が、左頬の十字傷をこすった。消えるはずのない傷をなぞる。何度も、何度も。
「これは……たぶん消えない。一生」
「そう」
悲しいのか、愛おしいのか分からない色を浮かべる薫の瞳に、剣心はなぜだか泣きたくなった。薫の真っ白な頬が、不思議でたまらない。なぜ、彼女の頬にはなにもないのだろう。なぜ、彼女は想いの証すら、持っていないのだろう。
小さな顎を指先に乗せて、薫の頬にくちづける。幼い熱を持った肌は、しっとりと剣心のくちびるを受け止めた。そこにいのちがあることを保証するみたいに。
「どうしたの?」
耳元で囁く薫の声は、直接脳髄に響いた。それが驚きや嫌悪を含んでいるとは思えなかった。
「……したいから。じゃ、おかしいか……?」
言っていて自分でおかしいと剣心は思う。年齢だとか立場だとか。常識で考えたら、おかしいに決まっている。
「ううん。おかしくないよ」
薫の頬にあった剣心の顔に、小さな手が伸びる。包みきれない剣心の頬を挟むようにして、薫が剣心のくちびるにくちびるを寄せた。
しっとり馴染むその感触は、やわらかくて温かくて。剣心に眠気さえ起こさせた。
でたらめな理屈でしたくちづけが、静かに、確かに、形を持とうとしている。ゆっくりできあがって行くその塊のような想いを、止めようとは思わなかったし、止めようとしたところで止まるとも思えなかった。
「わたしも、したかったから」
はにかんだ薫の表情は、もったいぶった駆け引きや出し惜しみではなくて。ただ、彼女の本能がそうさせたのだと、剣心に物語っていた。
「冷たいね、剣心のくちびる」
人差し指の先で、薫が剣心のくちびるをそっと押した。あたたかい部分を探すように、そのまま指は頬骨をたどって、首筋にたどり着く。
「剣心はいっつも……ひんやりしてる……」
それは、男を求める女の仕草では決してなかった。常に自分より体温の低い剣心に、不思議そうに触れている。ただそれだけの好奇心だ。憐憫や同情なら、少しはあるかもしれない。
すとん、と薫は足を伸ばした剣心の膝のうえに座り込んだ。剣心の冷たい指を、小さな両手で包み込む。その姿が、祈りを捧げているように見えて、剣心は無性に切なくなった。
「へへ……よかった、あったかくなったみたいだね」
祈りから目を覚ました薫は、それまでの静謐な表情が幻だったかのように表情を変えた。小さな歯を見せて、得意げに笑って見せる。
「そうか……?」
「うん、ほらここ」
「う……うぁっ……!?」
遠慮ひとつせず、薫が剣心の股間に触れた。恐慌状態の頭とは裏腹に、確かにそこは悲しいほど健康的に熱くなっていた。
「……こ、こら……やめっ……! これは……ちがう……っ!」
慌てて剣心は薫の手首を掴みあげる。剣心の身体の変化がどういった意味を持つのか、彼女は分かっていないようだったけれど。かといって、そのまま触らせておくわけにもいかない。
「ご、ごめん……痛かったの? 見せて!」
「え……ちょっ……!」
無邪気な薫が巻き起こす、奇想天外な展開に、剣心はついていけない。剣心が呆気に取られているうちに、薫は真剣な表情で剣心の寝巻きを剥ぎ取り、下帯を緩めた。
「腫れてる……!」
もうどうにでもしてくれ。
想像の範疇を超えた展開に、剣心は天を仰ぎたくなった。痛いくらいに勃起している性器を、年端もいかない少女にまじまじと見られるなんて。これ以上情けないことは、この先おいそれとあるものではないな、と混乱しすぎた頭のどこかで思った。
「ごめんね……痛そうだね……」
傷を愛おしむように、薫が剣心の陰茎を撫で上げる。痛みを与えぬように、そっと触れる指の柔らかさは、ますます剣心の性器に血を集めた。
「……はぁ……」
熱いため息が、鼻から漏れた。今にも泣き出しそうな薫の表情と、労わるようにおずおずと性器を包み込む十本の指先が、剣心の思考を麻痺させていく。局部から送り込まれる刺激に、なにもかもどうでもよくなる。
陰茎を包み込んでいた薫の手のうえに、自分の手を重ねる。数度、導くように薫の手ごと上下させた。
剣心の頬が上気していくのを見て、薫は剣心がそれを求めているのだと理解する。剣心が手を離した後も、薫は指を使って、不器用に剣心の性器をしごきつづけた。
「けんしん……」

「はぁ……あ……」
うっすらと目を開けて、荒い息を吐き出す剣心の変化
を、薫はなんとなくしか理解してはいなかったけれど。それが、剣心が求めることだったから。大切なものを磨くように、剣心に応え続けた。
「あ……ぁ……っ!」
剣心の性器が、ひときわ大きく膨れた。なけなしの理性で、剣心は薫の手を払いのけようとする。薫はそれを拒んで、その手で生あたたかい精液を受け止めた。
「……ぁ……かおる……」
陶酔から冷めきらないまま、剣心が薫の手を見下ろした。小さな両の手のひらに飛び散った白い精は、独特のにおいを放ってなお、どこか幽玄だった。
「これ……」
べったりと両手に精液をつけて、薫が剣心に尋ねた。それが何かしら秘密めいた想いの証なのだとは分かっていても、どう対処したらよいかまでは、薫には分からなかった。
「済まない……」
懐紙を取ると、剣心が丁寧に薫の手をぬぐった。清められた手を閉じたり開いたりしながら、薫はただ不思議そうに剣心を見ていた。彼女は、なぜ剣心が謝ったのかすらも理解していない。それが、剣心の罪悪感を余計に深くさせた。
「これで……あってた?」
「え……?」
「剣心が、してほしいこと」
伺うように首をかしげる薫は、どこまでも純粋で。剣心は、素直に礼を言うことしかできなかった。
「あ、ああ……ありがとう……」
後ろめたさを背中に隠して、剣心が礼を言う。待っていましたとばかりに、薫が微笑んだ。
「また、したくなったら言ってね、剣心」
「えっ……いや……」
「おかしくなんて、ないんだから。ね?」
そう言って、薫は先ほどしたように剣心の左頬にくちづけた。薫の言葉を狭義に取り違えたと理解した剣心は、ほんの少しの自己嫌悪と、大きな自由の手触りを味わった。
薫の額にくちづけて、気だるさに任せるままごろりと寝転がる。剣心を追いかけるようにして隣に転がると、薫は剣心の肩に頭を乗せた。
「剣心……」
同じ温度になった体温に安心しながら。そこにある手触りを確かめるように、薫はつぶやいた。

「幽霊?」
「ああ、ここ数日の噂だ。聞いていないか?」
「ええ……」
何のことか分からない、という顔を向けている剣心の表情に、桂はこれまでなかった安らぎを見て取った。どうやら、あの少女と剣心を会わせたことが、思った以上に効を奏しているらしい。瓢箪から駒とはよく言ったものだ。
桂の話を知らないという剣心をからかうように、窓際で億劫そうに三味線を弾いていた高杉が口を挟んだ。
「嘘かまことか分からんが。幽霊が街を徘徊しているって話だ。外套で顔は見えないらしいが、見た者によれば、真っ白い髪をした子どもの幽霊なんだとさ」
「へぇ……」
幽霊だとか、物の怪だとか、生きているはずの人間が死んでいるだとか、死んでいるはずの人間が生きているだとか。そんな話はこの京都で珍しくもない。どうせまた、酒に酔った連中が、疑心暗鬼の中で流した噂話だろう。うんざりと頷いた剣心に、茶をすすっていた桂が言った。
「大方、酔っ払いどもの流言だとは思うがな。気をつけろよ緋村。幽霊は、若い総髪の男を探しているんだそうだからな」
「なんですか、それは」
「斬られたての死体を、幽霊が漁っているところを見た連中がいるんだってよ。何人分もの死体が転がってたってのに、幽霊が検分するのは、決まって若い総髪の男だけなんだそうだ。そして、それを見て声をかけようとしたやはり総髪の男を、食い殺そうとしたとか」
高杉は三味線の節に合わせて、怪談じみたあおりを効かせる。それを無視して、剣心が答えた。
「また、凝った噂話ですね」
「噂には、人の深層心理が隠されているものだよ。知っておいて損はない。その幽霊は、自分の白髪頭を、総髪の男の首にすげかえようとするという話だ。生きていようが死んでいようが、おかまいなしに」
「ハハッ、さすがにそこまでいくと、ウソくさいけどな」
「なんにせよだ。お前も気をつけろ、緋村。ただでさえ近ごろ不穏な空気が続いているからな」
剣心の赤い総髪を眺めて、桂が言った。
自分が標的なら容易いものだ。これが、幼い女の子を狙った幽霊だと言うのなら、うろたえるかもしれないけれど。
そこまで思って、剣心は自分が無意識のうちになにを想像したのかを知った。内心の焦りを周囲に気取られないように、冷めた茶をすする。
「前にも言った通り、幽霊に人は殺せません」
「そうだな。それが、幽霊だったらな」
「幽霊じゃなきゃ、緋村が斬るさ」
三味線をかき鳴らしながら、高杉が歌うように節にあわせた。そしてその後に、ねとついた嫌な咳を二、三度吐き出した。

「三毛の腹、だいぶ大きくなってきたな。もうすぐ生まれるんじゃないか」
「……三毛? なんだっけ……?」
「……薫? あんなに楽しみにしてたのに。……眠たいのか?」
つい昨夜見たばかりの話を、薫は心底不思議そうに剣心に聞き返した。そもそも、剣心を猫だまりに引っ張っていったのは薫だと言うのに。なんのことかさっぱり分からないという顔をしている薫の頭を、剣心はぽんぽんと撫でる。瞬間、あせったような顔を見せた薫が、大げさに思い出した仕草をしてみせた。
「あ、ああ! あの三毛ね? いつも一緒にいる、あの……黒いネコがお父さんかな?」
「きっとね」
話しながら、薫は押入れから枕を出した。枕を並べ終わると、仕上げにぱんぱんと掛け布団を叩いて、満足そうに口の端を上げた。
傍らで見ていた剣心の笑顔につられて、胡坐をかいたその足のうえにぽとりと腰掛ける。近づいてくる剣心のくちびるに、薫もちょこんとくちびるを突き出した。あれから、すでに当たり前になっている仕草だ。それが済むと、二人はするりと布団へもぐりこむ。
布団をかぶって、しばらくは他愛のない話をする。誰が寝ぼけて向こう脛を打っただの、どこそこで新しい菓子を売り出しただの。普段なら頭には残らない世間話も、薫が話すことで息を吹き込まれたように瑞々しい輝きを持った。薫の話を聞いているだけで、剣心は自分も市井の人間の一員である気になれた。
たとえば。剣心がいて、薫がいて。刀なんてものには縁がなくて。時代の変化にも、極端な正義にも、他人事でいられたなら。
俺たちは、ごく普通の男と女として暮らせるのだろうか。何にも、捕らわれることなく。
「少し……冷えるな……」
思い描きそうになった、悲しく美しい絵を忘れるために。剣心は言い訳を口にして、薫を抱きしめた。こじんまりとした薫の身体は、剣心の両腕で作った輪より、ずっとずっと小さかった。
「けんしん……」
冬の猫がそうするように、薫は剣心の胸元にもぐった。薫が剣心の胸元に鼻先をすりつける。やわらかい黒髪が、裸の胸にくすぐったい。
「けんしん、これ……」
「……ああ……」
剣心の腕と足のあいだに納まった薫は、その変化に容易く気づいた。体温の低い剣心の身体にあって、高まった局部の熱は、雪原に迷い込んだ黒うさぎのように隠しようがない。
「ん……」
薫の手は迷わなかった。腰まで剣心の寝巻きを捲り上げると、以前そうしたように、やわやわと両手を剣心の陰茎のうえで往復させた。
「はぁ……」
剣心もまた、迷わない。拙く性器をもてあそぶ薫の手に、身を任せる。まるい爪やすべらかな肌の無垢さと、している行為の落差が、驚くほど剣心を興奮させた。
「ふ……はぁ……」
粘度細工でもするように、薫は一心に自分の手の動きを見つめている。つんと赤くとがっていく男根は、理解しきれない剣心の中にあって、唯一薫が一から十まで理解できる生き物のように思えた。
「ん……ちゅ……」
何に導かれるでもなく、薫は自分の意思で剣心の亀頭にくちびるを寄せた。惜しげもなくさらけ出された弱い性器が、無性に愛しかった。
「あ……かおる……」
「んむ……」
唾液と先走りで濡れた剣心の亀頭に、舌を這わせる。薫の小さな歯ですら噛み砕けてしまいそうなこの弱い器官に、なぜだかとても親近感を覚えた。
「あ……む……っ……」
腹へと反り返っていく剣心の陰部を、薫は口内におさめようとする。奥行きのない薫の喉には、半分程度しかおさまらなかった。
「んっ……んんぐ……っ……」
「あ……かおる……」
薫の口蓋を何度か叩いた後で、剣心は耐えることなく射精した。薫が求めているのは、剣心が奔放に振舞うことだと、理解していたから。
「ん……らぁ……」
剣心の鈴口から、薫が口を離す。受け止め切れなかった精液は、無遠慮に薫のくちびるや頬や顎に散っていた。
「……ありがとう、薫」
「……ん」
手の甲で、ごしごしと男の精をぬぐうその仕草は、まるで少年だ。『どういたしまして』と隠しもしない達成感を見せるところも。
奇妙で、淫らで、背徳的で、無茶な作法ではあっても。二人は、お互いの求めているものを与え合うことができた。世界のどこにもおさまらない場所で。誰にも認められないやり方で。二人は満たされた。

「どうした?」
剣心の肩に頭を乗せたまま、天井を穴が開くほど見つめている薫に、剣心が尋ねた。薫が布団で無言になった後、すぐ目をつぶらないことは珍しい。
「三毛には、女の子しかいないんだって」
「ああ。聞いたことがある」
仰向けのまま、剣心が首だけで薫を見下ろす。あいにく角度が悪く、薫の表情は分からなかった。けれど、なんとなく言いたいことは読み取れた。
「大丈夫だ。約束しただろう、君が心から笑える新時代を必ず作るって」
「うん。……でも、危ないよ。今日もまた、人が死んだわ」
小さな声だった。今夜もまた、剣心はここへ来る前にあの死体の転がる部屋を見たばかりだった。
「大丈夫だよ、薫を残して、死にはしない」
薫は答えなかった。剣心の腹の上にあった小さな手のひらが、心細そうに寝巻きを握り締めたのを、剣心は感じた。
「約束する」
薫の頭を乗せたまま広げていた手を、剣心は寝巻きを握り締める薫の手に重ねる。折れそうなくらい細い薫の指は、驚くほど冷たかった。

「じきに、江戸へ戻れる。派手には動くな」
墨を摺る手を止めて、薫が蒼紫へと顔を向けた。傍らには、何枚かのいろは歌が書き散らかされていた。
「……いつ?」
赤くともる少女の瞳を、蒼紫ははじめて見た気がした。昼に眠ることなく、目を開いている少女自体、ここ最近になってやっと見られるようになったところだ。
「いま、翁が最後の仕事を探させている。それが済めば帰れる」
自分について言われていることなのに、まるで他人の話のように薫には聞こえた。帰還の命令は、当たり前といえば当たり前の話だ。そこには父も母も、名も知らぬ許婚もいる。それでも、それが自分について言われていることだと、薫にはどうしても思えなかった。
「帰るって……どこへ……?」
「江戸以外のどこがある」
「えど……どうして……?」
それは、純粋な疑問の目だった。駄々をこねているわけでも、とぼけたふりでもない。何も分かっていない人間の目だ。蒼紫の目に、疑念が走る。
「答えろ。お前が昨日斬った人間は何人だった?」
「昨日……人を……斬った……わたしが……」
蒼紫が言った言葉をそのまま繰り返す少女の目には、何の答えも含まれていなかった。なにひとつ。
分かりづらく蒼紫が眉間に皺を寄せる。
「無理に思い出さなくてもいい」
「思い出す……何を……?」
彼女の変化に、気づいていなかったわけではない。気づくには、それがあまりにも悲しい事実だっただけだ。
「足跡は、少ないほうがいい」
それだけ告げると、蒼紫は音もなく部屋を出た。少女は一人、ぼんやりと書き綴った歌を見つめていた。
「わたしの、帰る場所……」
散乱した半紙には、剣心と綴った一節が、繰り返し書かれていた。まるで、不吉な予言のように。
足元に散る紙と同じように散乱した記憶を、薫は手繰り寄せようとする。けれどそれは、雲のように薫の指をすり抜けていった。薄闇の記憶の中で、たったひとつくっきりと思い出せるのは、夜にしか見られない剣心の笑顔だけだった。
あの笑顔のためならば。鬼としてでも羅刹としてでも、生きることは苦にならないのに。

「食事だ」
入ってきた少年は、幾日か前と同じように遅い昼餉の膳を携えていた。ただし、今日ばかりは前とは違い、二人分を抱えていた。
「あなたも?」
「ああ。今さっき起きた」
無造作に薫の前に膳を置くと、挨拶もなしに少年は箸を取った。気を使っている素振りはなかったが、その仕草は、確かな育ちを薫に感じさせた。
「ずいぶん、お寝坊だね」
くすりと薫が笑いかける。縁は薫を見もせずに食事を続ける。
「仕事が夜だからな」
まるで独り言のように少年は言った。歳のわりに高い背丈にもかかわらず、食はそれほど太くないようだった。
「それに、ここ最近眠れたためしなんてない」
相変わらず無愛想に箸を動かし続ける少年に、薫が尋ねる。
「眠れないの?」
「眠ることはある。だが、頭のどこかがずっと起きている」
理由は分からなくとも、少年の真白い髪を見れば、何かしらの重い記憶を彼が持っていることは明白だった。かける言葉に迷う薫より先に、口を開いたのは縁だった。
「だがそれも、もう終わる」
「……どうして?」
「もうじき俺は、あの男を見つける。アイツを殺せば、また眠れるようになる」
「あの男?」
「人斬り抜刀斎。姉さんの幸せを奪った挙句、殺した男だ。絶対に許さない。必ず、殺す」
その言葉が、少年特有の大袈裟なものではなく、彼の中心に据わる決意なのだと薫は知る。
悲しく、深く、暗い、奈落の決意だ。
「その人は、見つかったの?」
「まだだ。だが、必ず見つける。あの爺さん、そのためにあの男の顔を知っている俺をここへ引き取ったらしい。ようやく合点がいった。あの男の姿を知っているのは、ここでは俺だけだ。誰にも先を越されずに済む」
薄く笑ってすらいた縁の表情に薫が見たのは、おそらくは悲壮なまでの怒りと悲しみだった。縁には、彼の周りのすべてが、仇に刃を向けろと駆り立てているように見えているのだろう。
「その人、わたしが殺す。あなたは、殺してはだめ」
勝手に言葉が転がり出た。
殺す。どうやって。そんなことは知らない。知らなくていい。頭が何も覚えていなくても、この手は確かに血と命の重みを覚えている。そのときが来れば、勝手に身体は動くはずだ。
どうせ、すでに鬼の子として生きている。鬼はひとりで十分だ。背負う命がひとつ増えたところで、もはや重荷ですらない。自分は、すでに羅刹の国に生きる身なのだから。
「お前が?」
何事もなかったように箸を動かす少女を、縁は不思議な生き物のように眺めた。
悲しんでいるように見える。それなのにこの娘は、敢えて自分の代わりに人を殺めようとしている。頼んでもいないのに。そしてなぜか、そんな少女の態度を自分は苦しいと感じている。
深くて、熱くて、苦しい。熾火のようなその痛みの名を、縁はまだ知らなかった。

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