12.忘却した座標【R-18】

 海への道の手前には、いくつもの低い山が連なっていた。『海へ出ようとしているのに、どうして山ばかり歩かなくてはならないのか』と薫は口を尖らせたが、それでも楽しそうにしていた。
木に登っては遠くを眺めてみたり、湧き水があるといっては立ち止まったり。わざとらしいほどの薫の好奇心は、到着を恐れているからなのだろう、と剣心は思う。
それでも、何も言わなかった。いまは、『海へ行く』という漠然とした目標があるけれど。着いてしまったら、そこから先ふたりにはなんの道しるべもなかったから。
道しるべを失った後。その現実から逃げたがる気持ちは、剣心にも痛いほど理解できた。
幸い、追手はないようだった。剣心も薫も、その役目の性質上、顔を知る者は極端に少なかったし、二人を追う者たちにも、人員を割いて探索に当たらせるような余裕はないのだろう。常に周囲に気を配ってはいたが、拍子抜けするほどに二人の周りは穏やかだった。
このまま人を斬らずに、平穏な日常にいられれば。薫はもう何ひとつ忘れることなく、成長していくだろう。思い出を閉じ込めて、やがて本当に落ち着ける日が来る。
ふたりにそんなことができるかどうかは分からない。けれど、今だけは夢を見ていたかった。
「もう疲れちゃった。今日は次の宿場で休もうよ」
「それはいいが、まだ八つ半だぞ」
「だって、歩くとまだちょっと痛いんだもん。剣心のせいで」
「えっ……!」
不機嫌そうに文句を垂れる薫に、剣心が狼狽する。せめて昼の間くらいはと、なるべく頭から追い出そうとしていた昨夜の出来事が、脳裏に鮮明に蘇る。
「そ、その……ごめん……!」
「なんで謝るの?」
「いやその……」
「別に大丈夫だよ。早めに休ませてくれれば。ね?」
にっこり笑って飛び跳ねるように先を行く薫を追いかけながら、どうやらさっそく尻に敷かれているようだと剣心は苦笑した。
たどり着いた宿場は、まだ夕方前ということもあって、さわさわとした賑わいを見せていた。道すがら休息を取る者やら、早めに宿を定めた老人やら、荷駄を下ろす馬引きやらが、ひっきりなしに忙しなく動いている。夜になる前に客を入れようとする呼び込みの声が、さかんに飛び交う。
喧騒に目を輝かせている薫の隣で、剣心も幾人かの呼び込みに声をかけられた。困ったように笑って断り続けるが、海千山千の呼び込みたちは、そうそう簡単には引き下がらない。
「お兄さん、安いよ! 布団も干したてだよ! うちにしときなよ!」
「うちは新米入れてるからね! メシが絶品だよ!」
「なんだい、うちの客だよ。後から口出さないでおくれよ」
「まだそう決まったわけじゃねぇだろ。宿に入るまでは、どこの客かなんて決まっちゃいねぇよ、なあ兄さん?」
「あんた、この間もそんなこと言ってウチの客を……」
呼び込み同士の諍いが始まったところで、剣心はほうほうの体で逃げ出した。人ごみを抜け出してひと息ついていると、一人の客引き女がしなを作って剣心に声をかけた。
「お侍さん、ウチへおいでよ。飯も美味いけど、あっちもウマいよ?」
やたら首筋を強調した襟元と、ぷんとした胡粉のにおいのする女だった。飯盛旅籠への誘いだということは、すぐに察しがついた。ずいと剣心に近づくと、女はぬるりと袖から手を忍び入れた。やわやわと男の腕を撫でるその仕草は、剣心の胸を悪くさせる。一歩下がると、剣心は袖を正した。
「悪いが、そういうのはいいんだ」
「あら、強がっちゃって。疲れてんだろ? たっぷり休んでいっておくれよ」
「連れがいる」
「見たよ。あのおチビちゃんだろ。大丈夫、妹さんが寝た後にこっそり呼んでくれればいいからさ」
「いや、妹じゃない。妻だ」
狐につままれたような顔をしている飯盛女を置いて、剣心は商店を覗き込んでいた薫を呼び寄せて歩き去った。適当に目星をつけた平旅籠の軒をくぐったとき、そういえば坂本も妻と高千穂を旅したことを自慢げに話していたことを、剣心は思い出した。

「剣心。わたし、見たんだからね」
部屋に着いた途端、薫が腰に手を当てて仁王立ちになった。形のよい眉をつり上げたその表情は、ひと目で怒っているのだと分かる。だが、剣心には彼女が何に腹を立てているのか見当もつかなかった。
「見たって……なにを?」
「さっき、客引きの女の人とウワキしてたでしょ!」
「う……浮気?」
「幾松姐さんが言ってたよ。『男の人は一人を手に入れたら、そっちにいい顔しつつほかの女を探すものだから気をつけないと』って!」
「あのな……」
ごくたまに、この少女は大人びたことを言う。普段は年より初心こい少女だというのに。まったく、こんな女の子を花街に投げ入れようだなんて思った人間の気が知れない。
「オメカケサンにオセイボ贈るとか、わたし絶対いやだからね!」
「意味、分かって言ってるか……? それ……」
苦笑しながら、仁王立ちになったままの薫を捕まえて、剣心は膝に乗せる。腕のなかでなお睨みを利かせる新妻に、剣心は小さくくちづけた。
「これだけ四六時中一緒にいるのに。不安に思うことなんて何もないだろう?」
「……何もなくなんてない」
困ったように微笑む剣心に、薫はむくれたまま視線を向けた。
「どうして?」
「……わたしが、まだ子どもだから……」
「そうだな。薫はまだ子どもだ」
「わたしが子どもじゃなければ、もっと……」
「子どもでも、薫は俺の妻だ。そうだろう?」
「うん……」
「子どもでいられるうちは、子どもでいたほうがいい。どうせいつかは、大人にならなければいけないんだから」
「うん……」
「俺は、ずっと待っているよ。何年でも」
「……うん」
それは、剣心自身の憧憬なのかもしれない。深くなったくちづけを交わしながら、薫はおぼろげにそう思った。
「薫?」
「……わたし、剣心のお嫁さん……だよね……」
剣心の襟口から、薫が腕を差し入れて背中に回す。まるで 剣心の中に収まろうとでもしているみたいに。
「ああ」
「……何年経っても」
「ああ。何年経とうが」
合せ目を広げるようにして、薫は剣心の背中に回した手を降ろしていく。でこぼことした背骨を下ると、肉の薄い尻にたどり着く。腰紐を広げるようにして、薫が剣心の下半身に手を伸ばした。
「薫?」
無言で、薫は剣心の睾丸と陰茎を撫でつづける。剣心の身体はすぐに反応したけれど、薫は下を向いたまま、目を合わせようとはしなかった。
「はぁ……」
薫になされるまま、剣心は力を緩めて応えはじめる。無言で男の陰部を弄びつづける薫の小さな手が、無闇に痛々しかった。
たぶん、どう声をかけても、薫の空洞を埋めることはできない。時間や出会いなんてものは、人の意思の外にあるものだから。今はただ、そばにいて、こうして求められるままに応えることしかできない。たったひとつでも、彼女にしてやれることがあるのは、剣心にとって僥倖だった。
「剣心……」
薫が裾をめくりあげて、剣心の膝に乗ろうとしたところで、剣心は薫を押し倒した。『無理するな』と苦笑する剣心へ、薫は困ったようにうなずいてみせた。
「まだ、痛いだろう?」
「平気よ」
不貞腐れたように、薫は繋がろうとしている部分を見下ろした。未熟な性器で男を受け入れたばかりの身体が、痛まないはずはないけれど。それ以上に、薫は剣心によって空洞を埋められることを求めている。それだけの話だ。何も言わなくても、剣心は理解している。
「……っん……!」
膣への入り口を、剣心は亀頭でぐいと押し上げる。馴れない薫の入り口は、昨日の行為など知らないという顔で、頑なに抵抗をみせた。陰唇を指で押し広げながら、そろりと侵入する。すると、今度は驚くほど素直に、あたたかい粘膜が剣心を奥まで受け入れた。
「……あ……」
唸るように薫が息を吐いた。はじめて最奥を突かれる感覚は、奇妙な満足感を薫に与えてくれた。
「剣心……あったかい……」
「そうか……」
乱れた薫の前髪を、剣心は手の甲であらわにした。上半身を折り曲げて、額とくちびるにくちづけると、身体を擦り付けるようにして律動する。
「あ……あ……」
「ふ……ぅ……」
剣心の動きに合わせて、薫が溺れたように口を開いては閉じる。痛みよりも行為に彼女が夢中になっていることが分かると、途端に剣心の射精感は高まった。
「ん……!」
身体の中で震える剣心の性器を、薫は目を閉じて感じ取った。長い放出に、剣心は歯を食いしばる。目を瞑った薫の顔が、寝顔のように安らかだったから。これでよかったのだ、と剣心は安堵した。
この安らかな笑顔を守れるならば。生涯、埒外の人間のままでかまわない。強がりではなく、そう思えた。
その日暮らしでも、貧しくても。たった二人ならば、なんとか糊口は凌げるだろう。誰からも忘れられて生きていく。それでも駄目なら盗めばいい。めずらしい話じゃない。そうやって生きている人間を、剣心は何人も見てきた。
どうしたって守りたいものを、守り抜くことと。正しいことと正しくないことと。すべてを同時に成立させられないのならば。いま、目の前で見えているこの小さな笑顔を、この手で守り抜く。その実感を優先させることは、許されないのだろうか。
浅いまどろみの中、腕のなかにいる薫の身体は、手がかりのようにあたたかかった。

「まだ見つからんがか?」
「ああ。あいにく長州も緋村一人を深追いする余裕がないものでね。それに、人斬り抜刀斎はその名だけで威嚇になっているところがある。大っぴらに戦力が落ちたことを喧伝するわけにもいかない」
「じゃが、そうは言うたち、護衛がおらにゃぁ困ったことにならぁよ」
「手は打ってある」
時代を憂う桂の横顔には、私情を廃した静けさがあった。時代を変えるには、時に私情を冷たく切り捨てる必要があるのだ、と桂は自分に言い聞かせる。たとえ、そのために年端もいかない少年少女の人生を台無しにすることになっても。たとえ、反する者を問答無用で斬り棄てる狂の正義をふりかざしてでも。
たまらなく、幾松に会いたかった。

「けんしーん、もう少しのんびりしてから出発しようよー」
「駄目だ。そう言い続けて、もう昼前じゃないか」
「だってわたし、まだ痛くって……」
「そ、それは……悪いと思っている……! けど、少しずつでも進んでおかないと……」
「『ひとところに長く留まるのはよくない』」
「分かってるじゃないか」
「剣心に何度も聞かされたもん」
「そういう憎まれ口が叩けるなら、大丈夫だな」
「うぅっ……!」
苦虫を噛み潰したような顔で見上げる薫に、しれっと見えないふりを決め込みながら、剣心は脚絆を締めなおそうとかがみ込んだ。
小さな宿場ではあったけれど、昼前という時間帯のせいか、往来には人がひっきりなしに行き交っていた。
「オイ、見たか? あの札場の……」
「ああ。京の街には長居したくないもんだよ。くわばらくわばら」
「あんな大物までねぇ……。逃げの小五郎なんて仇名までついてたってのに」
そこまで耳に入れて、剣心は瞠目した。無意識に、隣にいた薫を見上げる。薫もまた、顔色を白くして剣心を見ていた。
高札場には、すでにぱらぱらと人が群がっていた。昨今の朝令暮改のお達しを伝える制札のとなりには、旅先での噂や物々交換の呼びかけ、口入りの案内などが所狭しと並んでいる。その中に、『桂小五郎暗殺』の報はあった。
「剣心……桂さんが……」
「分からない……。こんなことは、これまでも何度かあったし……。確かに、ここ最近、いつにも増して不穏な気配はあったが……」
言葉を失う剣心の袖を、薫はそっとつかんだ。剣心が護衛から離れた途端、桂が死んだ。その報せが、剣心に悔恨と懺悔と自責とを与えているのが手に取るように分かった。
どう声をかけてよいのか分からない。生きている人間が死んでいたり、死んだはずの人間が生きているなんて事態は、今の京都には当たり前のように転がっているけれど。真偽を確かめる術を、今の二人は持ち合わせていなかった。 それでも海へ向かって歩き出した剣心に、薫はついていくことしかできなかった。

潮風が吹き込む夜の旅籠で、剣心は縋りつくように薫を抱いた。理由も理屈もなにもなかった。あったとしてもそれは言葉にできる種類のものではなかったし、薫は聞こうとも思わなかった。
無言で何度も求める剣心に、薫は不思議と昨日までの痛みを感じなかった。自分は何度でも剣心を受け入れるべきで、それができるようにできているのだと、どこからともなく薫は理解した。時おり窓から香る潮のにおいは、待ち望んでいたはずなのに、少しも薫の心を躍らせなかった。
海を見たら。
漠然と、そう思った。
そこから先のことは考えないように、回路を閉じる。
海を見たら。目的を失ったら。二人はどうなるのだろう。どこへ行くのだろう。
呼ぶ声を残して。死ぬはずではなかった人たちの命を見捨てて。これまで築いてきた屍の山に背を向けて。
その道の先に見えるものを、薫は想像することができなかった。
「明日には……海に着くね」
「ああ……」
「晴れるかな」
「きっと……このぶんなら」
「剣心」
「うん?」
「わたしが大人になっても、好きでいてくれる?」
「もちろん」
「いつでも、どこにいても?」
「ああ」
「なにもかも、忘れてしまっても?」
「そんな日は、来ない」
「そっか、ありがとう」
「薫……?」
「けんしん」
「ん?」
「けんしん」
「どうした?」
「けん……しん……」
小さくなっていく薫の声をかき集めるように、剣心は薫の肩を抱き寄せる。闇夜に浮かぶ白い肩は、握り締めたら砕けてしまいそうなほど薄かった。『忘れたくない』。そんな悲しい言葉を、薫に言わせたくはなかった。
「大丈夫だ。俺がすべて覚えている。もし薫が忘れてしまっても。ひとつひとつ、薫に伝えるから。何度忘れても、何度でも伝えるから。何回だって忘れていい。ずっと一緒なんだから」
繰り返し口にすればするほど。嘘を覆い尽くすための言い訳をしているような気になるのはどうしてだろう。靄がかった胸のかたまりが気持ち悪くて、剣心はもう一度薫にのしかかった。
「時間はいくらでもある。そうだろう?」
「……うん」
見上げた薫の目の虚ろさが気に障った。無遠慮に指先で薫の性器を検分する。薫の入り口は、何度目かの情事の名残を残して、二人分の体液でねとついていた。勃起しはじめた陰茎をあてがう。ぬるりとした精液を亀頭にまぶすと、すぐに剣心の性器は硬さを取り戻した。
「っん……!」
前触れなしに押し入ってきた剣心の違和感に、薫が喉を鳴らした。揺さぶられながら、薫は剣心を見上げる。
迷いと、焦りと、葛藤と。いろいろな感情がぐちゃまぜになった、幼い顔だった。あまりにも大きなものを抱え込んで、それを外に出すことができない少年の顔だ。自分の身体より大きい鉛玉を飲み込んで、吐き出せず苦しむ蛇みたいに。
「けんしん……」
詮索はしない。薫が剣心の迷いに気づいていることを、剣心は知らずにいたがっている。胎の中に放出される体液を感じながら、薫はただ剣心の左頬を撫でて、名前を呼んだ。
「はぁ……はぁ……」
見上げる剣心は、鬼気迫る表情をしているのに、今にも泣き出しそうにも見えた。知らないふりをしていたいことに、無関心を装いきれない。そんな顔だ。
剣心はそんな自分の幼さと、徐々に確かになる予感に苛立っている。薫の身体を気遣いながらも、何度となく求めるのは、きっと他に発散の方法を知らないからなのだろう。剣心の射精後の茫洋とした頬を撫でながら、薫はそう思った。
「もう寝よう、剣心」
「……ああ」
自分のしたことの罪悪とやるせなさを、誰よりも感じているのは剣心だ。だから薫は、せめて笑ってみせた。
「おやすみ、剣心」
「……おやすみ、薫」
鼻になじみはじめた潮のにおいは、どこか生命のにおいがした。

「どちらにしても、今回の仕事であの娘は終わりにするつもりじゃった。これ以上あの領域へ踏み込み続ければ、遠からず脳をやられていたじゃろう。抜刀斎が京の街から消えたなら、過程はどうあれ同じことじゃ」
淡々と事実を述べる翁に、蒼紫はなんの反応も見せなかった。過ぎる静けさは、この少年の長所でもあり短所でもある、と翁は思う。
「ずいぶん前から兆候は見えていた。あの幼い身体で、極度の緊張と脳内物質の分泌をあれだけ頻繁に繰り返せば、脳機能が萎縮するのは当然だ」
「お主が、江戸からとんぼ返りした理由はそれか?」
「いや、五稜郭の件だ。北前舟から情報を収集する」
「箱館のか。どうしてまた? わざわざお前が出向くような案件でもあるまい」
「いよいよとなれば、最後はあそこだろう」
蒼紫もまた、ひとつの時代が終わることを確信していた。それでいてなお、終わり行く時代を守るのが努めであると自覚していた。敗者という役割を、時代が必要としているから。指名されたものは、その役割を演じるしかない。
「戻ってきたら、元通り江戸へ連れ帰って家のために婿を取らせる、か。あれだけの人間を斬り捨てた娘が、そんな場所に納まれるかの」
「そろそろ頃合だ。あと一度斬れば、ここであったことをあの娘はあらかた忘れるだろう」
「そうそう都合よくいくかの。あるいは、脳そのものを蝕まれて廃人になる可能性もある」
「多少ほかのことが犠牲になるのは、やむを得ん」
それが本人自身の記憶であっても。どんなに忘れたくないと願っていても。憐れみたくなる気持ちを押さえつけることに、すでに蒼紫は慣れている。
「多少度が過ぎても、江戸に戻れば、じき生活に必要な知識は思い出す……か……」
翁は煙草盆の端を煙管でかつかつと叩いた。その音で、仕事の話をしているときに煙草を吸うのは、苛ついている証拠だと自覚する。
「縁のほうは、もう戻れないじゃろう。思い込みが激しすぎる。何らかの形で復讐に決着をつけねば、先には進めないじゃろうな。正月明けに間に合わなければ、身の振り方は本人に決めさせる」
「そうだな。それを決めるのは俺たちではない」
歪んでいく少女と少年が、家の存続のためにその人生を終えるのか、もしくは、なにかしら違う形で生きることになるのか。決めるのは、新しい時代を継ぐ者たちだ。蒼紫たち取り残される側の人間が口を出せることではない。
数多くの人間を誘い込んでおきながら、最後は他者に処遇を任せなければならないことが、蒼紫には歯がゆかった。そして、自分だけは醜い裏切りをすまいと、静かに思った。

「すごい! 水が線みたいに見える!」
草履と足袋を脱いで、薫がまっしぐらに波打ち際へ駆け出した。砂浜に残る小さな足跡は、彼女の興奮を教えてくれる。
「あんまり深いところまで行くなよ。足をとられたら大変だ」
「そんな愚図じゃないわよーだ! わ、つめたっ!」
薫が裾を捲り上げて、くるぶしまで足を水にさらす。水遊びをするにはそぐわない季節だ。水の冷たさに、思わず悲鳴のような声が上がった。
「ん、本当にしょっぱい! ほらほら、剣心!」
人差し指で海水をすくって、薫が剣心に指を差し出す。一瞬怯んだ後、剣心は薫の指を口にふくんだ。
「本当だ」
剣心の返答に満足そうに頷くと、薫はまたひとしきりはしゃいだ。波打ち際を駆け回って、砂浜で山を作って、足をとられて転びそうになって。昼過ぎの太陽の下で、それはどこまでも健康的で、非現実的な風景だった。
どうやら薫は波の動形を気に入ったらしく、しばらく飽きもせず波に足を洗わせていた。もう身体が冷えるから上がって来いという剣心の言葉を無視して、彼女は波に追われては笑う。砂浜に腰を下ろして、剣心はいつまでも波打ち際で行ったり来たりしている薫を眺めていた。
あまりにも満たされた幸福な時間があると、それが終わったときのことを考えてしまうのはなぜなのだろう。その喪失感を味わうくらいなら、明日なんて来なければいいのに。
『逃げている』
それは分かっていた。分かっているけれど、気づかないふりをしていたい。今だけは。
志なかばで剣を捨てれば、今まで築いた屍の山も巴の死も、すべてが無駄になる。かつて、巴が死んだ際、桂に自分で言った言葉だ。
それすら、今は忘れていたかった。逃げて何が悪いというのだろう。そもそも生きる意味なんて、あるかどうかすらあやしいのに。
「だんだん、波が近くなってきた気がする」
波打ち際で遊んでいた薫は、満ちてゆく潮に追われて、着いたときより大分剣心に近づいていた。陽はすでに赤く染まりはじめている。
「潮が満ちてきているんだろうな。そろそろ危険だ。あがったほうがいい」
「うん」
薫は素直に頷くと、剣心の膝の間に収まった。身体の力を抜き、剣心によりかかる。まるで祠にぴったりと収まっている地蔵みたいだな、と剣心は思う。
「きれいだね」
「ああ」
「はじめて見たのが、剣心と一緒でよかった」
「そうか……」
「いろんなはじめて、剣心がくれた」
「そんなこと、これからいくらだってある」
「ずっと……一緒だから……」
「そうだ」
「ありがとう」
その先の言葉を、剣心は聴きたくなかった。波の音だけで、耳を満たせてしまえればいいのに。どうしてこの耳には、悲鳴も呼ぶ声も、悲しみも届いてしまうのだろう。
夕暮れの海はあまりにも美しくて。不吉さの前ぶれのように見えた。あの美しい雪の日のように。
「戻ろう。剣心」
剣心の腕のなかで、瞳を海に染めながら。薫はそれでもきっぱりと言った。
「……薫は俺を殺してない。だったら、戻れないはずだ」
もっともらしい理屈を並べてみる。そんなものが、彼女の決意の前で意味をなすとは思えなくても。
「それでも」
いくら言葉を並べたところで。薫は剣心が抱えている自責と煩悶を知っている。斬り捨ててきた人間への義務と贖罪と懺悔。それを忘れて生きていけるように、剣心ができていないことも。
「戻って……殺されるか、なにもかも忘れて他の男の妻になるのか?」
剣心の問いに、薫は答えなかった。薫は今にもこぼれそうなほど目に涙をいっぱい溜めて、それでも俯こうとはしなかった。
「だって……このままじゃ……全部……なかったことになっちゃうよ……」
今まで斬ってきた無数の命も、幸せの意味を教えてくれたかつての妻の想いも。剣心が目を背けようとしていた事実へ、薫は薫なりのやり方でたどり着いていた。
「それでも俺は……」
「できないくせに」
非難なのか、悲鳴なのか、泣き声なのか。か細くて、鮮明な声だった。
「わたし知ってるよ。剣心がそんなことできる人じゃないってこと」
たぶんそれは、漠然とした実感なのだ。あまりにも命を斬りすぎた薫の。自分の贖罪を思いつけるほど成熟してはいないけれど、誰かの贖罪に便乗できるだけの狡猾さは持ってしまった彼女の。
せめて剣心だけは、斬り捨てた命を無駄にしないでほしい。そう願うことしかできない人間と、剣を振るい続けなければいけない人間と。どちらが苦しいのかは分からない。
「剣心……言ってたじゃない……。時代は変わるって。だからきっと……大丈夫だよ……」
『誰もが笑って暮らせる新時代』。そんな口あたりのいい絵空事を、信じると薫は言った。剣心がそう言ったから。それだけで、無条件に。盲目的なまでの信頼が、剣心に痛みを残す。
「それに、あんなことを続けていたら、どちらにせよ、わたしは遠くないうちに在なくなると思う。死ぬよりも、もっと遠い場所に行ってしまう気がする」
それは確かだった。
剣心も何度か味わったことがある。周りの時間が止まって見える、あの感覚。先鋭化された集中力がすべての感覚を研ぎ澄まし、何でもできるとすら思える未知の空間。ひどく純粋で、ひどく危険なあの領域。
その領域を頻繁に訪れれば、確実に命を縮める。あそこは、そういった種類の領域だ。
極限までの緊張と能力の発露は、後にひどい揺り返しを求める。その領域を往復し続けることは、薫の小さな身体にとって恐ろしい負担となるだろう。
予感は持っていた。けれど、気づきたくなかった。薫はもう、かろうじて形を保っているだけなのだ。おそらくは、緋村剣心という人間を手がかりにして。今にもばらばらにほどけていきそうな記憶や言葉を、嵐の中の歌声をかき集めるようにして形にしている。かき寄せる力を緩めれば、そこには何も残るまい。
日暮れ前、戯れに波打ち際に作った砂山が、ひと波ごとにさらわれて崩れていく。そんな当たり前の風景が、いやに剣心の気に障った。
「剣心のことを忘れて死んでいく寂しさになんて、耐えられそうにないから……」
照れたように、薫は笑った。笑顔は美しいほど不吉で、等身大だった。
「あなたを覚えているうちに……わたしを……殺してください……」
薫が本心からそう言っているのが分かるから。剣心は泣きたくなった。薫の決意は、京都を後にしたあの夜から何ひとつ変わってはいない。ただ少し、わがままになったというだけで。
「薫を殺したら、俺は帰る場所がなくなるよ」
膝の間にうずくまっている薫の髪を撫でる。足元にせまる波が、彼女をさらってしまわないように。
あるいはもしかしたら、忘れてしまったほうがよいのかもしれない。多くの人間を斬った記憶など、まっさらに失くして。どこにでもいる娘として、歳を重ね、子を産み育て、老いていく。分かりやすい幸せの形のなかで、生きていく。そこが薫にふさわしい場所のように剣心には思えた。それなのに。
「忘れたくないよ……けんしんのこと……」
そう言った薫の目の中には、確かに自分の居場所があったから。決して手放せないと分かってしまう。どれほど薫が、彼女にふさわしい場所へ運ばれようとしていても。
「もしも……忘れるときがきても……」
薫の足元を洗う波が、砂をさらさらとさらっていく。
「ずっと……待ってるから……」
「薫……」
「剣心以外の誰のお嫁さんにも、ならないから……」
二夫には仕えないという薫の言葉は、武家の娘のそれだったけれど。
きっと彼女が、誰よりも望んでいる。新しい時代の到来を。
政を執る人間が変わったところで、身分だとか家だとかに縛られない世の中が来るなんて単純さは、期待していなくても。停滞した魂の変化を、彼女は切に求めている。
顔をうずめた薫の頭ごしに、金色の海が見えた。暮れゆく空と流れる銀色の雲を上に乗せた海は、呆れるくらい美しかった。その完璧さは、今立っているこの場所を、どこか絵空事のように剣心に感じさせた。

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