1.二度目の春【R-18】

「はい、本日はこれまで!」
「っりがとうっざっしたぁ!」
修練の終わりを告げた師範代と神前に、弥彦は一礼する。それが済むと、蹴り飛ばされでもしたように、一目散に道場を飛び出した。
「ちょっと弥彦、どうしたの? おなかでも痛いの?」
「ちっげーよ! 時間がねぇんだ!」
すでに日は暮れかけている。着替える部屋の前まで走りついた弥彦へ、不審に思った薫が声をとがらせた。
「こんな時間に用事? 弥彦あなた、ひとり暮らし始めたからって、悪い習慣に……」
「馬鹿野郎、仕事だ仕事!」
「馬鹿とは何よ、馬鹿とは!」
「おろ。弥彦、では今日の夕飯は……」
「悪りぃ、いらねぇ!」
騒ぎを聞きつけた剣心が、たすきがけ姿で廊下から顔をだした。忙しなく障子の向こうで着替える弥彦に、剣心と薫は顔を見合わせる。
二人が共有している疑問を口に出したのは、薫だった。
「仕事って、赤べこの? こんな時間から?」
「ああ。人使いの荒い店だぜ」
毒を含んだ弥彦の口調は、いつもとなんら変わるところがない。またぞろなにか厄介ごとにでも首を突っ込んで夜出かけるつもりなのでは、という剣心と薫の疑問は、あえなく潰えた。
「ねぇ弥彦。お仕事のことに口出しするのは差し出がましいとは思うけど……。あんまり夜遅くまで頼まれているようだったら、わたしから妙さんに……」
「いいって。これも修行のうちだからな」
「でも……」
がらりと開けた扉の向こうにいた薫は、弥彦を真剣に心配していた。『しかたねぇな』と心のなかで毒づきながら、弥彦はふふんと笑顔を作って見せる。
「心配すんな。キツいときはちゃんと自分で言うからよ」
「けど……」
なおも思案ありげに見下ろす薫に、弥彦は心の中でため息をついた。
まったくこの師匠ときたら、いつまでも弥彦を子ども扱いしたがるのだ。男一人に振り回されて泣き臥せったり、はたまた擬似的にとはいえ死んでみたり。
弥彦にしてみれば、薫のほうがよほど危なっかしく思えるというのに。
それでも、数々の闘いと、そこで知った自分の年齢や無力さ、そして心から弥彦を気にかけてくれる薫の気持ちを、弥彦は知っているから。こそばゆく感じながらも、大儀さを装って胸を張った。
「大丈夫だって、出前を一軒頼まれてるだけだ。店ン中じゃ、俺が一番あそこの勝手を知ってるからな。ぱぱっと済ませて帰るからよ。じゃ、行って来る! 剣心! 明日、今日のぶんも食うから。俺の夕飯、残しておいてくれよな!」
「ああ。気をつけるでござるよ」
「出前? でも、もう夜に……」
「もういいって! 薫、お前は自分の嫁入り道具の心配でもしてろ!」
「なっ……!」
薫が怒声を投げ返そうとしたとき、すでに弥彦は通りの角へと消えていた。行き場のない憤りを肺から吐き出すと、薫は着替えようと踵をかえす。振り向いた拍子に、剣心と目が合った。
『やれやれ』と笑顔をつくる剣心は、いつもとまったく調子が変わらない。それが、ちくりと薫の胸を刺した。
「もう、あのコったら……」
「この時間にわざわざ頼まれる仕事だ、弥彦が適任ということでござるよ。それが分かっているから、弥彦だって応えようとしているのでござろう」
「うん……。でも一応、今度妙さんに会ったら聞いてみるわ。一人で暮らし始めて、あのコちょっと気負ってるところあるから」
「ああ、それがいい」
笑顔を崩さない剣心に、薫も笑顔を作る。
もともと女心には疎い剣心のことだ。弥彦の憎まれ口の端にでた言葉など、気にも留めていないにちがいない。
「着替えようと思ったけど……。弥彦が入らないなら、先にお風呂いただいちゃおうかしら」
「その間に夕飯の支度をしておくでござるよ。ゆっくり浸かるといい」
「そうね。『早く出ろ!』ってうるさい弥彦もいないことだし」
「ああ、今夜はふたりでござるからな」
変わらぬ口調と笑顔の間から、薫はかすかに剣心の男の顔を読み取る。おそらくは、剣心本人すら無意識のうちにのぞかせた顔だ。
『きっとこの男は、今夜も私を抱くのだろう』
経験と直感が、薫に告げる。
肌を合わせるようになってから、剣心は急速に男の顔を見せるようになった。
直接的な誘い文句や、女心をくすぐる台詞を吐くわけではないけれど。いつもの笑顔の端々に、句読点を潜ませるようにして、剣心は薫を求める顔を見せるのだ。
その顔は、薫以外の人間が感じ取れる種類のものではない。ある虫の発するにおいが、同種の虫しか嗅ぎ分けられないように。
それはたぶん、男なら誰もが持っている顔だ。そして、剣心がその顔を薫にのみ見せることは、喜ぶべきことなのだ。そのふたつを、薫は手探りながらも理解していた。
きっとそれは、無欲な彼がごく最近に身につけた、数少ない欲望だ。
これまでは、抑えつけていたのかもしれないし、剣心本人がそんなものを持っていたことすら知らなかったのかもしれない。けれど確実に、剣心はそれを手に入れた。そしていま、以前二人で暮らしていた頃と彼はちがう段階にいる。
剣心の中の本能と欲望が急速に肥大していることを、薫は日々その身をもって実感している。三十ちかい男を捕まえて『成長』と呼ぶべきかどうかは一考の余地がありそうだが、とにかく彼は変わった。
けれどたちの悪いことに、肝心の男女の機微についての鈍感さが、まったくもって以前のままなのだ。たとえば、身体の関係を持って数ヶ月が経った女に、要となる言葉ひとつ口にしないように。
生来の気質なのか、生い立ちの特殊さゆえなのか、世間の埒外にいる時間が長すぎたせいなのか。原因はどうあれ、剣心の鈍感さと見当はずれな遠慮は、日に日に薫の頭を重くしていた。
さらに、輪をかけてたちの悪いことに、きっと剣心本人は、そのことにまるで気がついていないのだ。
『嫁入り道具の心配でもしてろ』
薫の心臓を跳ね上げた弥彦の言葉を、剣心はきっと、覚えてすらいまい。
「剣心の、ばぁか……」
自室へ向かう廊下でつぶやいた薫の言葉は、春待ちの風に巻かれて消えた。

「やっぱり、妙さんに聞いてみようかな……」
「弥彦のことでござるか?」
「うん」
鏡台に向かう薫を、剣心は布団から見上げた。鏡に映る剣心などまるで目に入っていない様子で、薫は長い髪の毛先をもてあそんでいる。
「妙殿たちのことだ、無理な労働を強いるとは思えぬが」
「そうだけど……。やっぱり、心配だし……」
剣心に相談を持ちかける形をとってはいるけれど。薫はあきらかに、同意がほしいだけのようだった。
剣心は薫に分からないように肩をすくめた。鏡の中の薫は、物思いに耽ったまま一点を見つめている。
「なるほど。ここに食客が増える理由が分かった気がするでござるよ」
「……なによ、突然」
「なに、薫殿はやさしいなと思っただけでござるよ」
「なにか裏がある言い方よね、それ」
「いやいや、言葉通りの意味で……」
「ぜったいウソ!」
憤慨して振り返った薫の力を利用して、剣心はするりと薫を布団の中に引きずりこんだ。しまった、と思う暇なく、薫の帯が音もなく布団の外へ消えた。
「いいや、本心でござるよ。ただ願わくば、これ以上若い男の食客を増やすのは勘弁願いたいものでござるな」
「そーね。こんな油断も隙もないのが、これ以上増えたら大変だわ」
「それはなにより」
言いくるめられて喉を鳴らす薫の声は、あえなく剣心のくちびるに吸い込まれた。舌を絡め取られ、歯の裏を一本一本丁寧に撫でられる。くちづけが深くなると、自然と身体から力が抜けていく。
「ん……」
「こんなに冷たくなって。冷えは身体に毒でござるよ」
たんに一般的な健康への危惧なのか、それとも女としての薫の機能を心配しているのか。小さな言葉ひとつを勘繰ってしまう自分に、薫は少しばかりうんざりする。
「いいじゃない……べつに……」
「よくないでござるよ」
『どうしてよくないの?』
そう聞けるだけの勇気と自信と図々しさを持っていられたら。もう一歩先の段階へ進めるのかもしれない。
「薫殿……」
すでになにも纏っていない薫の素肌のうえを、剣心の手が滑りまわる。ぷっくりとたち上がった胸の突起を指で擦られると、喉が勝手に声を吐き出す。
「やぁ……ん……」
「端から端まで、あたためないと……」
右手の指で乳頭を撫で上げながら、剣心はもう一方の胸に吸い付く。わざと音を立ててちゅくちゅくと吸い上げると、もどかしそうに薫の腰が浮き上がった。
「んぅ……もぉ……」
「ああ……こっちも……」
じんわりと愛液がしみでてきている薫の陰部に、剣心は指をあてがう。しっとりと内側に閉じた薫の陰唇を、人差し指と中指でそっと開いてみる。とろりと漏れ出した粘液に親指をひたすと、愛液をまぶすようにして陰核を転がした。
「ひやぁあっ! それっ……もぉ……っ……」
「ん……見せて……薫殿……」
剣心の指をより奥にくわえこもうと、薫の身体は自然と足を開いていく。それに応えるようにして、剣心は爪の先で円を描くようにして薫の陰核を撫であげる。緩急をつけて指を動かしながら、剣心はすでに惜しげもなく暴かれている薫の陰部を、正面から覗き込んだ。
「どんどん……あふれてくる……薫……」
熱に浮かされたような剣心の声と、無遠慮に注がれる陰部への視線が、さらに薫の中から愛液を誘い出す。
「やぁ……! じっと見ちゃいやって……言ってるのに……。どうしていつも……」
それでも見つめることをやめない剣心に、薫が弱々しい抗議の声をあげる。羞恥からか、声は涙で震えていた。
「済まない……。その……不安で……つい……」
言葉通り若干意気消沈はしているものの、それでも剣心の声は興奮を多く含んでいた。『やめてほしい』という薫の要請をもう一度受けた後で、ようやく剣心は薫の足の付け根から顔を離した。薫に覆いかぶさりながら、指先でもう一度薫の性器を撫で回し、潤っていることを確認する。
「んっ……不安……て……なにが……? ……剣しん……」
「いや……その……」
「ンぅっ!」
膣口にあてがわれた剣心の亀頭が、じゅ、と小さく音を立てて薫にめり込む。奥深くまで潜り込んでくる期待に、薫はさらに大きく足を広げた。
「ン……こんなふうに……薫殿の奥深くまで……入ることが……」
「ふぇ……? ど……して……?」
ぼんやりとした目のまま、薫が剣心に尋ねる。剣心はゆるゆると薫の中を往復しながら、そっと二人のつなぎ目に触れた。
「その……こんな……小さな入口に……拙者を全部と思うと……。薫殿は……痛かったり、怖かったりするのではないかと……。頭では分かっているつもりだが……やはり……」
まるで、自分が薫に怪我をさせでもしたかのように、剣心は済まなそうな顔をする。そのいっぽうで、抗えない快楽に顔をゆがませる男の表情を見せる。
「けんしん……」
少年のいたわりと、男の欲望と。ふたつの相反する愛情を受けながら、薫は思う。
ああこの人は、ほんとうにほんとうに、自分をしまいこんで生きてきたのだ。
人のことばかり優先して。自分に願いを持つことを禁じて。いつからか、その痛みを感じることすら忘れて。
けれど今、剣心は手に入れてしまった。
誰かを欲しいと思う気持ち。
剣心の願いが、自分に向けられた想いだということを、薫は知っている。剣心がどれだけその願いから遠い場所で生きていたのかも。
きっと彼は、日に日に肥大していく願いや欲求を、扱いあぐねているのだ。同時に成長していく、人間らしい醜い思いに戸惑って。いったいどれだけの欲望を相手にぶつけてよいものか、分からずに怯えて。
「ね……剣心……。わたし、大丈夫だから……。そんなにやわにできてないわ」
「それは……分かっているでござるが……」
「でしょ。なんたって、一度死んで甦った女よ。わたしは」
「…………」
身体の中にある剣心の陰茎が、急速に体積を失っていく。きゅうっと下腹部に力を込めながら、薫はあわてて笑顔をつくった。
「だ、だからね! あの……剣心がどんなふうになったって、わたしは大丈夫ってこと! そりゃ、戸惑ったり、時間がかかることだってあると思うけど……。その……ちゃんと、全部受け入れるから……」
「かお……」
驚いたように薫を見つめる剣心の目は、痛いくらいに幼くて。薫の胎の奥が、きゅんと締めつけられる。とたんに、力を失いかけていた剣心の性器が、びゅくんと跳ね上がるようにして硬さを取り戻した。
「あ……薫……」
「ン……」
急激に太くなった剣心の陰茎が、やんわりと包み込んでいた薫の内肉を押し戻す。内側深くに握り込まれるような感覚が、剣心の腰を撫で上げる。
「ね……けんしん……だから……」
「はぁ……かおる……」
「ぜんぶ、ちょうだい」
その言葉を合図に、剣心は縦横無尽に動き出した。奥を探るようにして動く剣心に、薫は大きく足を開いて応える。
「う……薫……っかおる……」
「あ……出して……っ! ぜんぶ……わたしの……なかに……出して……!」
動きを早める剣心が、溺れているように見えて。胎の奥に精を受け止めながら、薫はかき寄せるようにして剣心の頭を抱え込んだ。
待っていよう。
そう薫は思う。
このひとが、『願いも欲求も持った緋村剣心』を受け入れられるまで。わたしは、待っていよう。
それで、十分だ。未来への誓いも、永遠の約束も。その後でいい。
今すべてを求めるのはきっと、欲張りすぎだから。

「剣心! お待たせ」
「お疲れ様、薫殿」
稽古着に羽織姿で現れた薫から、剣心は道具袋をすいと取り上げる。すでに当たり前になった所作ではあるけれど、それでも薫は照れながら小さく礼を言った。
「ありがと……。でもいいわよ、剣心。今日は弥彦の分もあるから、重いし」
「ははは。重いものを持つのは、普段の買い物で慣れているでござるよ」
「なによ、その言い方! ……でも、ありがと」
「礼を言ってもらうほどのことでは、ないでござるよ」
薫から弥彦の道具袋を受け取ると、剣心はこともなげに左手一本で二つの袋を担ぎ上げた。歩く速さも、話す息遣いも変わらない。
『やはり自分と剣心は違うのだ』
一歩先で揺れる色素の薄い髪を見ながら、薫はあらためてそう思った。
「弥彦は、先に赤べこでござるか? 弥彦がいては、妙殿に話しづらいのでは?」
「長屋へ帰ったわ。今日は井戸の掃除当番なんですって。それが終わってから、赤べこへ行くって」
「なるほど。立派にやっているようでござるな、弥彦も」
「そうね。ウチじゃ、掃除なんてろくすっぽしなかったくせに」
つれづれと話しながら、二人は赤べこの暖簾をくぐる。昼の混雑がひと段落した赤べこでは、客にまじって店の者が数人、遅い昼食をとっていた。
「あらぁ薫ちゃん、剣心さん、いらっしゃい!」
「こんにちは、妙さん。二人、お願いします」
「あいあい、燕ちゃんお席……」
「はい、ご用意できてます。薫さん、剣心さん、こんにちは」
すでに二人分の準備が整っている座敷に、燕は剣心と薫を導き入れた。つづいてそつなく茶を運んできた燕に、妙と薫が、感心したようにうなずきあった。
「燕ちゃん、サマになってきたわねぇ」
「ほんま。助かるわぁ」
「い、いえそんな……。あの……弥彦くんもがんばってますし……わたしもがんばらなきゃって……」
恥ずかしそうにそう言うと、燕はぱたぱたと調理場へ引っ込んだ。残された大人たちは、話題の中心人物が消えてなお、話に花を咲かせ続ける。
「くぅう、泣かせるやんか! ええ従業員に恵まれて、うちも商売人冥利に尽きるわ」
「ほんと、どうしてあんないいコが弥彦なんかを……。ねぇ、剣心?」
「ははは、答えに困るでござるな、それは……」
留まることなく盛り上がり続ける女二人の隣で、剣心は茶をすする。薫と妙が弥彦と燕の未来像を勝手に作り上げたところで、剣心は頃合を見て口を挟んだ。
「弥彦といえば、聞きたいことがあったのではござらんか? 薫殿」
「とと、そうだったわ。ね、妙さん、お店のことに口出ししたくはないんだけど……」
「なんやあらたまって?」
「弥彦って、いつも何時まで働いてるんですか? 昨日、お昼までお店に出ていたと思うんですけど、夜にも出前があるって、夕方にも……」
「ああ、昨日の! 堪忍な、薫ちゃん。ここのとこちょっと忙しゅうて……。弥彦くんがええ言うから、つい無理頼んでしもうたんよ。ああいう性格のコやさかい、甘えてちゃいかんと思ってはいるんやけど……」
「ああ、そういうこと……。うん、そうですよね」
手を合わせて何度も謝る妙に、薫は安堵する。
『考えすぎだったみたい』
目でそう伝える薫に、剣心は笑みを返した。
「あれ? そういえば、赤べこって出前なんてやってましたっけ? 鍋物屋さんなのに……」
「看板には出しとらんよ。けど、お得意さんや大口さんに頼まれれば、ね」
「へぇ。でも、弥彦が懇意にしてるお得意さまなんて……」
「警察署なんよ。弥彦くん、署内に知り合いも多いし、間取りも勝手も知っとるからなぁ。あちらさんも重宝がってくれはって」
「あー……なるほど……」
若干十一歳にして、弥彦を警察署に馴染みのある人間に仕立て上げた原因へ、薫はちらりと振り返る。視線の先では、剣心が所在なさげに黒目をさ迷わせている。
「つい先ごろ、なんだかの捜査本部を置いたゆうことで。お夜食の注文がしょっちゅう入るんよ! なんやらばたばたしとるみたいやね。うっふっふ……!」
「へ、へぇ……。それじゃ大勢でしょうし、大変でしょうねぇ……」
「それはちがうで! 薫ちゃん!」
熱弁を奮う妙に気圧されて、薫は居心地が悪くなる。そんな薫には目もくれず、妙はますます熱く商論を展開し始めた。もはや彼女の視線は、目の前の薫を通り越してどこか遠くを見ている。
「大変やいうて、お客様に応えなかったら商人失格や!五を要求されれば十を答える! これが大事なんや! 現に、気張って出前続けさせてもろたおかげで、今度盛大に開かれるっちゅう留学生慰労会の給仕も、うちの店に決まったんよ! これぞ、エビでタイを釣るちゅうやっちゃ!」
「わ、わぁ。すごいわねぇ……。そ、それで妙さん、わたしたち、そろそろご飯食べたいんだけど……」
「それや! わたしら、お客様に尽くす心を忘れたらおまんま食い上げっちゅう話で……」
「た、妙さん……あの……」
「ごめんくださーい。三人、空いてますか?」
「はーい、ただいま! いらっしゃいませー!」
薫の声の届かぬ場所で口角泡飛ばしていた妙は、来客の声でくるりと振り向くと、何事もなかったかのように去って行った。いつもの調子に戻った妙を見送ると、薫はぐったりと壁にもたれかかった。
「た……助かったぁ……」
「うむ。天晴れでござるな、妙殿……」
食べる前から胃もたれした二人は、珍しくその日、二人前を残して帰った。

出前桶の重さを心配する燕をなだめながら、弥彦は赤べこの暖簾をくぐる。見送りに出た妙の言葉に、弥彦は顔をあげた。
「そしたら弥彦くん、出前終わったら、今夜はそのまま帰ってええからね」
「そりゃ、ありがてぇけど……。引き取りの食器はどうするんだ?」
「明日の朝、仕入れのついでに厨房衆に寄ってもらうさかい」
「分かった。じゃ、いってくらぁ」
「あんじょう頼むわ」
「オウ。じゃ、っつかれさまっしたぁ!」
「あいよ、おつかれさま! 気ぃつけてな!」
店じまい後の片付けが始まっている店内に向かって、弥彦は声を張り上げる。負けじと威勢のよい挨拶を背中に受けると、弥彦はがちゃりと音を立てる出前桶を担いで駆け出した。
通いなれたゆるやかな坂道を駆け抜け、近道の石段を下りる。深夜の目抜き通りは、昼間の喧騒が嘘のようにしんと静まり返っている。街が、限られた者にしか見せない顔だ。自分ひとりが特別な場所にいるような不思議な感覚は、弥彦に奇妙な満足感をもたらす。
「チィーッス」
「オウ、今日も出前か、坊主。たまにゃ一杯寄ってけよ」
「そのうちな!」
毎晩通るうちに顔なじみとなった夜鳴きそばの主と、短い挨拶を交わす。そのまま二町ほど進めば目的地だ。
「おー弥彦くん! 待ってたよ!」
「新市お前、来訪者の確認くらいしろよ……。一応、部外者だぞ、俺は」
「大丈夫! 僕の人を見る目は確かだから!」
「大丈夫かよ、そんな気ぃ抜いてて……。急ごしらえで捜査本部作るような事件の捜査中なんだろ、今」
「捜査本部とはいっても、実際やることといったら、見張りや巡回くらいなんだ。夜警の延長みたいなもんだよ。平気、平気」
「大丈夫なのか、この街の治安は……」
手放しで弥彦を招き入れる門衛の新市に、弥彦はひと言文句を言う。口ではそう言ったものの、勝手知ったる警察署だ。弥彦は手際よく部屋を巡って、部署ごとに注文を届けていく。食べ盛りの若い男所帯に、夜食の来訪はひとときの和やかさを作り出す。
「んー! うまい!」
「やっぱ肉だよなぁ! 出前、赤べこに変えてよかったよ」
「そりゃ、どうも。これからも贔屓にしてくれ」
「もちろんだよ。うまいし、早いし、ソバと違ってのびる心配もないし」
「前はひどかったもんなぁ……」
「ああ、毎日ソバだったもんなぁ……」
「あっという間に休憩終わっちまったもんなぁ……」
肉を噛みしめながら、しみじみと思い出に浸る巡査たちの異様な空気に、弥彦はたじろいだ。巡査たちはみな一様に遠くを見ている。
「なんだそりゃ。出前の注文先くらい、言えば変わ……」
「言える雰囲気じゃなかったんだよ!」
「そう! 超怖かったんだからな!」
「かけそば以外を頼んだら、なんか怒られそうだったし!」
「な、泣くことないだろ……!」
涙目で猛然と抗議する三人に、弥彦は圧倒される。戸惑う弥彦をさておいて、巡査たちは口々に思い出話を始めた。
「あの人が食ってるの、見たことあるか?」
「ああ。すっげぇ速いよな」
「胃に歯でも生えてんのかな」
「オレ食堂で一緒になったことがあってさ。職務中はいつでも臨戦態勢でいろって言われたぞ」
「だからって、あの速さは尋常じゃないだろ」
「強さだって尋常じゃなかったからな。俺らとはどっか身体のつくりが違うのかもしれん」
眉をひそめる巡査たちの話を聞くうち、弥彦の頭のなかに、ぼんやりとある人物像が浮かんできた。今はこの街を去った、孤高の男だ。
「なぁ、もしかしてそれって……」
「「「藤田警部補」」」
三人同時に発したその名前を聞いて、弥彦は力ない笑いを漏らした。
『藤田警部補伝説』を語り続ける三人を後にして、弥彦は巡査室を後にする。空の出前桶をぶらつかせて廊下を歩いているうち、噂の的の『藤田警部補』の部屋をかつて訪ねたことを思い出した。残暑の中、消えた薫を追って駆けずり回っていた頃だ。
「アイツも、ココで働いてたんだよなぁ……。剣心と同じで、あんま『働く』って言葉の似合うヤツじゃなかったけど……」
かつて彼が仕事場にしていた資料室の扉を見上げる。ここにいた男も、弥彦が目標とする男同様、動乱の時代を駆け抜けた絶対の強さを持つ男だった。
明かりが消えたその部屋の扉に、弥彦は何の気なしに手を伸ばした。違和感に気づいたのは、取っ手を回そうとしたその手に、じんわりと空気の塊のようなものがまとわりついたからだ。
扉ごしに、部屋の中の気配を探る。耳を澄ますと、微かにではあるが、風の音に混じって、木の床が軋む音や金属音が聞こえた。
背中の竹刀を握り締める。唾を飲み込んで、ひりつく喉を湿らせた。一瞬息を止めて、心臓の音と呼吸の音を重ね合わせる。大きく息を吸い込むと、弥彦は腹の底から声を上げた。
「誰だッ!?」
「なんや、抜刀斎ンとこの坊主やないか」
勢い込んで飛び込んだ弥彦に返ってきたのは、気の抜けた西方訛りの返事だった。部屋に廊下の明かりが差し込むと、次第に男の顔がはっきりと見えてくる。
「張! お前、斎藤についていったんじゃなかったのか?」
驚く弥彦をそのままに、張はせわしなく棚やら机やらを漁っていた。悪びれもせず引き出しを開けては、出てきた物品を目を細めて鑑定していく。
「なんであの性悪狼にくっついて、あんなクソ寒いところに行かなあかんねん」
「じゃ、東京で何してんだよお前……」
「ちょいと野暮用でな。それに、あのスダレ頭に本土の情報を送ってやらなあかんねん。寒さでちっとはヘコめばかわいいモンを、ガミガミ人をコキ使いよってからに」
「……で、斎藤への情報とサツ机のガサ入れが、どう結びつくんだ?」
「いやなに、行きがけの駄賃に金目のモンでもと思ってな」
「警察に盗みに入るんじゃねーよ」
「人聞きの悪い。盗んで価値の出るようなモン、ひとっつもなかったわい」
自信満々に言い切る張に、弥彦は反論する気をそがれた。ぐったりとした顔で竹刀を背中に差しなおすと、くるりと部屋に背を向ける。
「待ちぃな坊主。ここで会ったのも何かの縁や。酒ってわけにゃいかんから、ソバでも一杯どうや」
「おごらねぇぞ」
「アホ! いくらなんでも、ガキにたかるかいな」
忍び込んだくせに、張は堂々と警察の廊下を歩く。すれ違う巡査たちと挨拶すら交わす張の社交性に、弥彦は呆れを通り越して感心すらした。
「ああ張さん、お疲れ様です! 藤田警部補はお元気ですか?」
「オウ! 心配せんでもあの性悪、殺しても死なんわ。ほな」
「ええ、お疲れ様です!」
「本気で不安だぜ、この街の治安……」
門衛の新市がにこやかに張を送り出したのを見て、弥彦は一抹の不安を抱いた。

「久しぶりやなあ、屋台でソバ食うのも」
注文したかけそばを受け取ると、どこか懐かしそうに張は箸を構えた。隣では、先にどんぶりを受け取った弥彦が、ずるずるとソバをすすっている。
「あのツリ目がおったころは、よぉ来たもんやけどな」
「警察のやつらも、斎藤はソバばっか食ってた、みたいなこと言ってたな」
「せや。馬鹿のひとつ覚えみたいにな。おかげで、何度も東京中のソバ屋を探し回るハメになったわい」
「ふぅん。お前も案外苦労してるんだな」
「まったくや! ま、仕方ないけどな。志々雄様が負けたんは事実やし。勝てば官軍、負ければ賊軍。晒し首にならんかっただけでも、めっけもんやで」
しみじみとソバをすする張を見ていると、あの京都での戦いから、まだ一年も経っていないことが、不思議に思える。考えてみれば、命を賭けて戦った相手と、こうして並んでソバをすするというのもおかしな話だ。
「ほかのヤツら、元気か?」
「十本刀全員と仲が良かったわけやないからなあ。その後詳しくは知らんが……。アイツらのことや、元気やろ」
「元気じゃないヤツもいただろ。薫に膝やられた……」
「鎌足か。膝もあらかた治ってな。ついこの間まで諜報員として留学生に混じって、海の向こうにおったで」
「ついこの間までってことは、戻ってきたのか?」
「いやまだ、海の上やろな。あと二、三日もしたら横浜に着くやろ」
「じゃ、来週赤べこが任された留学生慰労会って……」
「そら、おるやろな」
「げ! 俺、アイツを歓迎するのかよ……」
「狭い世の中、そんなもんやで、坊主。昨日の敵は今日の客ってな」
苦虫を噛み潰したような表情をする弥彦に、張は汁をすすりながら訳知り顔でうなずく。弥彦は、うーむと唸って、しばらくの間どんぶりの底に残るソバを探していた。
「東京に野暮用って、もしかしてそれか?」
「自分のついた嘘や。見届けんと、寝覚め悪いやろ?」
『生き残って、語り部になれ』。それを志々雄からの言葉だと鎌足に刷り込んだのは、ほかでもない張だった。
肩をすくめた張は、弥彦のどんぶりに蕎麦湯を注ぐ。つづいて、自分のどんぶりにも注ぐと、うまそうに口をつけた。
「その鎌足のことでな、坊主」
それまでどんぶりしか見ていなかった張が、横目で弥彦を見下ろした。
張は、それまでの世間話とは違う種類の話をしようとしている。
そう直感した弥彦は、どんぶりから口を離した。
「なんだよ、あらたまって」
「慰労会んとき、こっそり神谷の嬢ちゃんを連れてきてほしいねん」
「薫を?」
「ああ。実は、まだ膝治りきってないねん、アイツ。けど、あのお嬢ちゃんに会えば、アイツも少しはケジメつけられる思うんや。そういう役目は、闘った相手が一番ええ。坊主なら分かるやろ?」
無言で弥彦がうなずく。弱肉強食を謳った志々雄の理論ではないけれど、闘いに身をおく者にとって、剣を交えて敗れた相手の言葉がもっとも説得力を持つことは、身を持って知っている。
「アイツもワイ同様、恩赦奉公中の身や。報告が済んだら、また海の向こうにトンボ返り。今生の別れにならんうちに、ケジメつけさせといてやりたいねん」
「……お前、案外いいヤツだな」
「ドアホ。今ごろ気づいたんか」
「分かった。任しとけ! 首に縄つけてでも、薫のヤツを引っ張っていくぜ!」
「ホンマにやると亭主にぶった斬られるで。ほどほどにな」
「おう、じゃな! ごっそさん!」
意気揚々と屋台を飛び出していった弥彦を見送ると、張は勘定を支払って鼻を鳴らした。
「いいヤツ……なぁ……。けったいなやっちゃ」
数歩進んだところで、張は風に混じる紫煙のにおいを感じ取る。振り向きもせず歩き続けながら、独り言のように暗闇に話しかけた。
「これでええんか」
「お前にしては上出来だ」
「こないなまどろっこしいマネせんでも、頼めば来てくれたと思うで。あのお人好しのお嬢ちゃんなら」
「俺やお前の頼みとなれば、抜刀斎がうるさい。あの小僧と神谷薫の間の話で終われば、それに越したことはない」
「ホンマ、底意地の悪いやっちゃ。お嬢ちゃん巻き込んだちゅうこと知れたら、抜刀斎のヤツ血相変えるで」
「常に最短距離をとるのが俺のやり方でな。それに、ヤツが出張ってくれれば、警察の労力が省ける。一石二鳥だ」
「計算尽くってわけかい。いい死に方せぇへんで」
「どのみち、あの二人もあながち無関係なわけではない。協力してもらっても、バチは当たらんだろう」
冷めた声でそう言った男は、紫煙とともに音もなく闇の中に消えていった。まだ冬ざれた風だけが、ばたばたと防火桶の蓋を揺らしていた。

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