春早い墓は、秋に訪れたときとは違って、穏やかな静けさに満ちていた。それが、もう声も聞こえず姿も見えない亡き前妻を思い出させて、剣心は静かな気持ちになった。
きっと彼女も、祝福してくれているのだろう。もしかしたら、許嫁と二人で苦笑しているかもしれない。「やっと気づいたんですね」。そんなふうに。
となりで静かに目を閉じている薫を、剣心はそっと観察する。これから先の人生をともにすると決めた女。世間的にいえば、許嫁ということになる。
いい歳をして、と我ながら思う。けれど、ひどくくすぐったいその呼び名は、剣心を甘く満たした。
薫が何を巴に語りかけているのかは分からない。ただ分かるのは、跪いて祈る彼女が、自信に満ちた穏やかな顔をしていることだけだ。それで、充分だった。
薫はまだ立ち上がるそぶりを見せない。時間に余裕があることを知って、剣心がもう一度墓へと向き直る。
巴。十五年近く放っておいて、いきなり何度も顔を見せに現れるなんて、君は驚いているかもしれない。伝えないといけないことは、いくらでもあるんだ。けど、今はうまく言葉にできない。これから何十年もかけて、少しずつ伝えていくよ。薫と一緒に。たぶん、笑いながら。俺はもう大丈夫。歩き出せる。だから君はどうか、縁を見守ってやってほしい。手がかりのない海原に突き出した、峻険な山道のような時間へと踏み出す彼を。それは、君にしかできないことだから。
勝手ばかりで済まない。今まで本当にありがとう。
そして、さよなら。
「ごめん、お待たせ」
剣心が語り終えたと同時に、薫が腰を上げた。帰ろうと剣心が水桶を持ち上げる横で、薫は最後にもう一度、墓に向かって一礼した。その姿に、剣心はやはりこのひとでまちがいないのだと確信する。
「巴には、なにを?」
「……ひみつ」
「おろ……」
「女どうしの、ひみつ」
そう言うと、薫は下駄を鳴らして走り出した。不意打ちに驚いた剣心が、あわてて薫を追う。すんでの所で剣心の指をすり抜けることに成功した薫が、ほがらかに笑った。
涙が出るほど愛しい風景だ。その中に、自分が溶け込んでいることに、剣心は驚く。それから、妙にくすぐったい気分になった。
ああ、きっと俺は永遠に、彼女たちには追いつけまい。
薫がひとりで出かけると言ったのは、翌日のことだった。操と翁が「京都を案内する」と息巻いている客間を抜け出して、薫はこっそり剣心に他行の旨を切り出した。
「そういうわけだから。ごめん、剣心。操ちゃんと翁さんの観光案内、つきあってあげて」
申し訳なさそうに、薫が手を合わせる。
そんな仕草をされたら断れるはずもないことを、彼女は知らないのだろうか。
我ながら骨抜きだなと、剣心は内心苦笑する。
「それはもちろん構わぬが……。薫殿、どこへ?」
「お墓参り。約束……したから」
蒼紫を見送ったときの光景が、剣心の頭をよぎる。鎌足との約束のことを言っているのだと、剣心は合点した。
それもまた、『女同士のひみつ』が作る共鳴なのだろう。若干疑念を挟む余地はあるが、もちろんそこは、剣心が足を踏み込めるはずのない領域だ。
「そうか。あそこは遠い。気をつけるでござるよ」
「うん。それじゃ、行って来るわね。夕方までには帰るから」
「ああ」
心よく送り出す剣心に、薫は笑顔を返す。剣心は薫が足止めを食らわぬように、さりげなく居間に戻って、操と翁の騒ぎに混じっていった。そんな剣心のさりげない心遣いに、薫はすこし後ろめたい気分になる。
「うそは……ついてないもの」
自分に言い聞かせるようにぽつりとつぶやくと、薫は足早に玄関へと向かった。
うらぶれた寺への道は、ほぼ一本道だ。彼岸までまだずいぶんあるこの寒い時期に、墓参りをする人間はそう多くはない。道ばたにある小さな線香屋は、軒先にある何束かの献花がなければ、やっているのかいないのか分からないくらいだ。薫は何度か店の奥へと叫んで、ようやく線香を焚いてもらった後、人気のない参道をゆるゆると歩いた。
縁は寺門の脇の石に、なにをするでもなく腰掛けていた。二町先から薫が歩いてくるのを見つけても、特に立ち上がるそぶりも見せなかった。目が合う距離にまで迫っても、まだ縁は動かなかった。
薫が門の入り口に到達したところで、ようやく縁が動いた。職務に忠実な門番のように、薫を見回す。それから、黙って薫の後ろをついていった。
薫が持つ水桶のちゃぷちゃぷという音だけが、無音の墓地を支配する。『ちゃんと来たのね』とも『元気だった?』とも言わない。それは薫の役目ではない。薫の役目は、あくまで縁を巴に会わせることだ。縁が巴に会いに行く理由を作ることだ。
無言で墓の前に立つ縁をよそに、薫はてきぱきと墓のまわりを清めた。墓石に水をかけ、線香を供える。供花は昨日剣心と来たときに挿したばかりだから、替える必要はない。
柄杓を水桶に戻すと、薫は墓前に跪いた。縁の気配は、ずっと背中に感じている。けれど、薫は振り返らない。
彼の顔は、見ないほうがいい。見たらきっと、心が揺れてしまうから。だって縁は、あまりにも剣心に似ている。
今ならなんとなく分かる。表と裏のように正反対な二人の男を、どうして似ていると思ったのか。
迷いつづけた男と、怨みつづけた男。その根元は、たぶん同じところに埋まっている。ひとりの女を通して。
薫は、剣心の告白を聞いた日を思い出す。その告白から受けた衝撃と納得も。
知っていたのだ。剣心が、決定的な何かを隠していることを。より正確にいえば、それはあの時点で『隠そうとしている』に変化していた。
ずっと感じていたことだ。剣心の覚悟は、たとえば、蒼紫だとか斎藤だとか、ほかにも幾人か出会った闘いの人生を送る者とは、決定的に違っていた。
彼の覚悟は、生き方や信念といったものではなくて、もっと個人的な種類の覚悟だ。時代だとか人道だとか、そういう大まかなぼんやりとしたものではなくて、もっと一人よがりな種類の贖罪だ。心のどこかで、薫はそう感じていた。
愛した人を殺めた自分を許せずに、贖罪を汎用化した剣心と。愛してくれた人がいなくなった世界に耐えられずに、時間の止まった場所に閉じこもった縁と。なにがちがうというのだろう。
苦しくなる。彼らの人生を代わることはできない。時代という名の巨大な肉挽き機を恨むのも、筋違いだ。
だからせめて、わたしはちゃんとここで見ていよう。あなたの生き方を見ている人間がここにいるのだと、伝えよう。
いつも笑っていることは、難しいかもしれない。なにがあっても支えられると請け負えるほど、強くはなれないかもしれない。けれど、わたしは決して見放さない。そんなことしか、できないけれど。
「姉さんは、なんて」
ぼんやりと墓を見つめながら、縁が口を開いた。小さな質問が、途方にくれた少年を思わせて、薫は切なくなる。
「今はもう、姉さんの声が聞こえるのはアンタだけだ」
寂しそうな縁の眼を、はじめて薫はまっすぐに見た。寂しさを糧にした怒りが混じった眼ならば、何度か見たことがある。けれど、今の縁の眼の中には、いろいろなものが抜け落ちて、かろうじて寂しさだけが残っている。
「分からない。けどきっと、笑ってるわ」
巴が目の前に現れてそう言ったわけではない。そこにある親密な空気が、薫にそう言わせただけだ。縁だって、正確な答えを求めているわけではないだろう。
「あんたがそう言うなら、そうなんだろう」
独り言のようにそう言った後、縁はもう一度懐かしそうに墓を見下ろした。それから、背を向けた。
たぶん縁とはもう、しばらくの間会えない。今このとき、わたしの役目はここで終わりだ。ここから先に必要なものは、時間と縁本人の手足だけだ。
「わたしたちは、いつでもここにいるから」
振り向かない背中に語りかける。参道を踏みしめる縁の背中は、まだ虚ろだけれど。
「いってらっしゃい」
きっと巴さんも一緒に笑ってくれている。
縁の背中を見送りながら、薫は今はじめて、巴の声をはっきりと聞いた気がした。
「あっれー? 薫さん! 今帰り?」
「丁度良かった。これから湯豆腐でもと思っとったところじゃ。腹ごしらえして、夕方からは北山へ……」
「……まだ歩きまわるのでござるか……」
嬉々とした表情を浮かべる操と翁の後ろで、剣心がげっそりとつぶやいた。
薫を見つけた操が、あっという間に一行の中に薫を加える。最初のうちはあまりの温度差に面食らっていた薫も、操と話すうち、すぐに輪になじんだ。
女同士とはこういうものか、と剣心は小さな疎外感を味わいながらも感心する。
「そういえば、聞いたよ薫さん。お墓参りに行ってたんだって?」
何気ない操の質問に、薫はどきりとする。剣心へと視線を送るが、剣心は慌てて首を振って、『言ってない』と弁明していた。
「比叡までなんて、けっこう距離あったでしょ? あんなヤツとの約束なんて、守らなくったっていいのにさ」
「あんなヤツって……」
「蒼紫様が言ってたよ。あのオカマとの約束を果たしに行ったんだって。律儀だよねェ、薫さん」
思わぬところから出ていた助け舟に、薫は人知れず驚いた。
横浜で蒼紫が見せた洞察力の鋭さを思い出して、少しばかり背筋が寒くなる。もしかしたら蒼紫は、剣心ですら気づかなかった今日の秘密に、気づいているのかもしれない。
「で? アイツになに伝えてって頼まれたの?」
『悔しいけれど、あの一途さは共感できた』と、操はひとり納得したように続けた。鎌足と剣を交えたときのことを思い出しているのだろう。操は、『次こそ雪辱を果たす』と息巻いて腕を回した。
操の共感に、薫も同意する。それから、少し考える素振りをして、笑ってみせた。
「女どうしの、ひみつ」
『わたしも女じゃない』と口をとがらせる操の文句を、薫は笑ってかわした。
誰との間の秘密か。それこそが、本当の秘密だ。
前方で気にしていない素振りをして歩いていた剣心に、薫は追いついた。おまたせ、と微笑みかけると、剣心はばつが悪そうにぎこちなく笑った。
すこし広い剣心の歩幅に、薫は歩く早さを合わせる。十歩ほど進んだところで、今度は剣心が薫の歩幅に気づいて、歩調を緩めた。
視線が触れ合う。無言のうちの何気ない仕草に、二人は自然と微笑む。
ここを、歩く。
なんの突破口も見えない海原の真ん中でも。途方もない高さで聳える山の上でも。今踏みしめているこの場所以外に、この先につながっている場所などありはしない。
ここを、歩こう。足を止めずに。そして。なるべく、笑っていよう。
「薫殿」
手がかりをくれた薫に、どう伝えたらよいのか分からなくて。剣心は、懐かしそうに薫の名前を呼んだ。