2.不帰の朝

……ちゃん、おにいちゃん………
誰の声だろう?
あたたかくて、やわらかい………
…………いちゃん、おきて………
どうして、こんなに懐かしいんだろう………
………おにいちゃん、おきてよ………

女!?

がばりと音を立てて、剣心は体を起こした。同時に、熟睡してしまった己の不覚さに、冷たい汗が背中をつたう。
「おはよう、お兄ちゃん」
起き上がった少女が、となりで剣心を見上げていた。少女は唐突な剣心の行動に、少なからず驚いているようだった。
「…………あ………俺は……寝ていたのか………」
「うん、よく眠ってた。よっぽど疲れていたのね、お兄ちゃん」
そう言われて、昨日の夜のことが頭を駆け巡る。
いつもの仕事。殺意のない部屋の死体。道すがら拾った少女。引きずり込まれるように誘われた眠り。

…………巴…………

思い出す。同じように夜、仕事の後に出逢った女性を。
冷えていく剣心の瞳に、突然少女の顔が大きく映し出された。
「おはよう、お兄ちゃん。もう大丈夫よ」
屈託のない笑顔と、『大丈夫』というあいまいな言葉。その言葉が、少女自身の体調に関して向けられているのか、消えぬ思いに魂を歪める男への労わりとしてなのかは、剣心には測りかねた。
「おはよう………。もう、朝か?」
「うん、まだ明け六つだけどね」
「ああ、そんなに眠っていたのか………」
見れば、窓の外はまだ闇に近かった。魂が死を迎える青黒い時間だ。
今だ夢と現の区別があいまいな剣心を背に、少女は身支度を始めた。手馴れた手つきで寝乱れた着物を正していく。桜色の襟袖を直し、濃紺の帯をたくし上げ、帯留めをとめる。少し迷ってから、禿装束を丸めて畳み込んだ。小袖姿のまま、少女は帯を結い上げた。
鮮やかな少女の手つきを、剣心は舞い踊る蝶を見るような心持ちでぼんやり眺めていた。剣心にとって、それは限りなく非現実的な光景だった。
くるり、と少女が振り返る。ふわりと揺れた髪は、剣心に手の届かない遠さを思い知らせた。
「私もう、帰らなくちゃ。心配してると思うの」
家人の心情を懸念してだろう、少女は顔を曇らせた。その仕草に、ふいに、現実が近づく。
少女を眺めながら、心のどこかで思っていた自分に気づく。彼女も巴と同じように、いつの間にか居付くのではないかと。
そして。
そしてもしかしたら、再びあの悲劇が起こるのではないかと。
その思いが憧憬なのか、恐怖なのかは、剣心自身皆目見当が付かなかった。
だが、そんなことがあろうはずもない。
彼女は巴ではないし、剣心もあのときのただ闇雲に人を斬っていた男ではないのだから。
「心配しているだろう。送っていくよ」
「ありがとう、お兄ちゃん」
仕上げに髪を手櫛で梳いて、少女が応えた。そして、思い出したように襖へと振り返った。
「どうした?」
「ううん。さっき襖から、おじさんが覗いて笑ってたから」
「……本当か?」
「うん。目が合ったらすぐにどこかへ行っちゃったけど」
「…………そうか」
予想はしていた事態だ。その手の話題の切り込み隊長だった飯塚は見なくなって久しいが、男所帯の仲間うちにこんな所を見られたとあったら、何を言われるか分かったものじゃない。
今朝階下に降りればきっと、自分は『幼女を誑かした変態』として、しばらくの間おもちゃにされるのだろう。
「行こう、お兄ちゃん」
少女が立ち上がる。笑顔と力強い眼差しと共に差し出された手を、剣心は自然に握り返した。そのあたたかさに縋るように。そこに、この奈落から抜け出す術が隠されているわけでは、ないけれど。

まだ青暗い朝霧の中を歩く。未明の街には、すれちがう者は誰もいない。
本来なら、これから陽が昇って朝が始まる再生の時間のはずだ。だというのに、最近ではこの時間に街を歩いていると、これから深い闇が訪れる前兆のように剣心は思えた。今朝に限ってそう思わないのは、左手を繋ぐ少女のぬくもりのおかげかもしれない。
先導する少女の行き先に、剣心はいささか驚いた。花街の大門を、少女はためらいもせずくぐり抜けた。
「ここが……?」
「うん」
少女が指し示した場所は、大路沿いにあるさほど大きくはない店だった。亭主と女将と手伝いの何人かが切り盛りする、といった類の店構えだ。奥まった入り口からは、常連客しか受け入れない、という無言の姿勢が伺えた。
仕事柄、よく来る場所も近い。花街に来ると、自然と心が冷えていく。すべてが嘘でできた、うわべだけの男と女の騒乱。そして、訪問先で確実に出合うであろう血と悲鳴。そのすべてが、剣心にとって快いものではなかった。
「送ってくれて、ありがとう」
少女が見上げる。この少女がこの周辺に住んでいると聞くと、不思議と街は普段とは違った景色に映った。
自分の中で死しか存在しなかったこの場所にも、「生」が息づいていることに、現実感を見出せたからかもしれない。
ふいに、少女が先導するその先に人影が見えた。
朝靄のせいかもしれない。その人影がひどく唐突に現れたように感じられて、剣心は思わず身構える。
「お兄ちゃん」
少女がそう呼んだのは、視線の先に立っていた少年だった。彫りの深い整った目鼻立ちと蒼い黒髪を持った、美しい少年だ。まだ少年と呼べる年齢だというのに、不思議と落ち着いた物腰をしている。
「帰ったか」
「うん」
薫の隣にいる剣心を、少年はついと見た。歳はそれほど剣心と変わるわけではなさそうだが、すらりと背の高い少年の視線は、すでに剣心のそれよりも頭半分高いところにあった。
少年と少女の容貌は、似ても似つかないものだった。ふたりとも、それぞれ美しくはあったけれど、それは同じ線として交わる種類のものではない。おそらく、二人に血の繋がりはないのだろう。
波紋ひとつない湖のような瞳をして、少年が剣心に軽く頭を下げた。
「手間をかけました。礼を」
「いや…………」
少年の態度に無礼なところは何もなかったが、不思議と静かな威圧感が滲んでおり、それが剣心を戸惑わせた。見れば少年は、線の細い体をしているが、無駄な肉がひとつもない逞しい腕をしている。武道を嗜んでいるところをみると、おそらく武家の子息なのだろう。
それならば、その威圧感も頷ける。自分が守っている人物もまた、育ちのよさを窺わせる柔らかい威圧感と説得力を兼ね備えた人物なのだから。
「入るぞ」
心なしか微笑んで、少年は少女を促す。ごく自然で、ありきたりな流れだというのに、剣心はなぜだか少女を奪われるような錯覚に襲われた。
意味も分からず惨めな気分になっていると、ぎゅうっと左手が締め付けられた。
「またね、お兄ちゃん」
まっすぐな目で剣心の瞳を覗き込むと、少女は黒髪の少年の元へたたた、と走っていった。そしてそのまま、二人は奥まった玄関へと踵を返した。
剣心は頭の芯が麻痺していた。
それが、魂の暗黒を運ぶこの時間のせいなのか、眠りから醒め切っていない頭のせいなのか、少女を奪われた虚無感のせいなのか、それともそのすべてのせいなのかは分からない。
まるで、御伽草子から抜け出してきた人物が、再び手の届かぬ本の中に帰っていくのを見送っているような気持ちだった。
美しい容姿をした年端も行かぬ少年と少女。その二人が朝靄に連れ立っているのは、幽玄に過ぎてどこか不吉ささえ覚えさせる。
今ここで彼女を攫ったらどうなるのだろう。
突拍子もないことを考える。柄にもない想像に、自分自身戸惑いながら。
少年に導かれて、少女の背中が玄関に吸い込まれる。見送りながら、この名の知れぬ感情を剣心は持て余していた。
少女の姿が視界から完全に消えてしまうと、剣心もまた、ほの青い朝靄の街に踵を返した。
家とは呼べない場所へ戻るために。

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