「あの男は?」
「酔っ払って参っていたところを、助けてもらったの」
「そうか。夜遅くまでご苦労だった」
「いいよ。慣れてるもの」
色街の朝は、静かな活気に満ちている。夜の勤めを終えて眠る準備をする女たちがいれば、居続けの男たちのために朝餉を用意する女もいる。そこには、静かで薄っぺらい、不思議な生活感がある。
「おかえり、おひぃさん」
支度途中の昼三が、嫌味とも歓迎とも取れぬ調子で二人を出迎えた。
「花五つで頼む」
「へぇ、おおきに……」
少年が少女のために買った時間の長さに驚きながら、女郎は線香を用意する。少女は軽く頭を垂れると、少年の後について階段を上った。
残された遊女は、神経質な目つきで二人を見上げていた。通りがかった引舟に、気味悪そうに問いかける。
「なあ、姐さん。あのコら、なんですのん。禿にしちゃ、扱いがよすぎやしまへんか? さっきの若旦那はんの囲いもんなん? 役者まがいの伊達男ゆうのに、あの歳で極まった趣味やんなあ」
「滅多なこと言わんといて。あの娘は預かりものやって、前にも言うたやろ」
「そらそうですけど……。行儀見習いにしちゃ、ずいぶんと大っぴらにお客を持っていきますやんか。今だって、線香五本分やて。うちら、おまんま食い上げや」
「余計な詮索はせんほうがええで。葵屋の口利きや。この意味、分かるやろ?」
「へぇ……。まぁ、うちは物騒なことにならなければ、別にかましまへんけど」
捨て台詞のように言い放つと、女郎はいかにもかかわりたくない、といった素振りで足早に歩き去った。
「夜寝たから、眠くないよ」
布団に入るように言う蒼紫の指示に従いながら、少女は口をとがらせた。離れた場所で壁に寄りかかって本を読んでいた蒼紫が顔を上げる。
「あの男のところでか?」
「うん。……ひさしぶりに、夜ちゃんと眠れた」
陽の光のあるところでないと眠れなくなったのは、京都に来て間もなくのことだ。夜の闇の中で目を閉じると、恐怖がむくむくと頭をもたげる。漆黒への畏怖が少女から夜の眠りを奪い去ってから、すでに久しい時間が流れていた。
「また夜、一件ある。いまのうちに寝ておけ」
「……うん」
蒼紫の言葉に従って、少女は布団にもぐりこんだ。眠れぬまま見つめる天井は、なぜ自分がここにいるのかを問いかけてくる。
答えたくないことは聞かないでほしいのに。
無機質な天井から遠ざかるために、少女はかたく目を閉じた。
「おはようございます、御頭」
「早いな、般若」
「高杉は馴染のところで一晩過ごしました。特に訪ねる者もおりませんでした。だいぶ加減がよくないようです。そろそろ、京を出るかもしれません」
「そうか。他は」
「三条方面で行われるはずだった薩長の会合ですが……。入って直後、桂が店を後にしました。後から分かったことですが、会談相手だった薩摩の者が殺されていました」
「ああ」
「下手人が桂の手のものかどうかは、不明です。が、近ごろの長州は空気が変わりました。新しい遊撃剣士が入ったとの噂もあります。まだ姿や名前は特定できる段階にありませんが」
「そうか」
般若が、必要なことを、必要なだけの言葉で報告する。その後も、立て続けに何人かの報告が続いた。そのほとんどが、昨日殺されたという薩摩の人間の周辺に関する話だった。それぞれの報告に指示を出した後、蒼紫はひととおりの書類に目を通して部屋を出て行った。
年若いとはいえ、十分な貫禄を備えるその少年を前にしていると、さすがに御庭番衆の面々は無駄口を控える。まして、報告の場ともなれば当然だ。
蒼紫が出て行くと、場の緊張感がいくらかほぐれた。みな手を動かしながらも、ちらりほらりと与太話が持ち上がり始める。
「忍装束でもなしに、御頭は夜からどこへ行っていたんだろうな」
「ああ、きっとまた、島原だろうさ」
「島原ぁ? あの御頭が?」
「お前が思っているような用事じゃないさ。内府からの大事な預かりものが居るらしい」
「どっちでも、いいじゃないか、御頭だってまだ十の半ばだ。安らぎが必要なんだよ」
「そうだよな。操ちゃんと居るときの御頭見るとさ、なんか安心するよ。御頭も人の子なんだよなって」
「聞き捨てならんな。御頭は心優しい血の通ったお方だ」
「分かってるよ。まったく般若、お前は真面目すぎるよ」
任務にひと段落をつけると、この時ばかりは親兄弟との団欒ような連帯感が、御庭番衆の面々に生まれる。蒼紫が消えた襖を好奇の目で見守りながら、御庭番衆たちは三々五々に散っていった。
それから幾度も、剣心は行く先々で殺意のない死体が転がる部屋に出合った。まるで、彼を待ち伏せしているかのように、初めの晩と同じような状況が毎晩続く。死者はある時は薩摩、ある時は長州、またある時は、何らかの事情で桂に面会を申し出た幕吏であったりもした。
桂に会おうとする者ばかりが殺される。
この状況は、無論桂とその隣にいる剣心を孤独にさせていった。猜疑心に駆られる者の中には、積年の鬱屈した思いを募らせる者もいた。
「あの太刀傷は薩摩のお家芸の示現流だ」と吹聴する者もいたし、「いや桂が嗜む北辰一刀流の斬り口だ」と言う者もいた。
もちろん、その流言が人斬り抜刀斎に及ばぬはずがなかった。
遺体に残された太刀筋は、どれも今まで見たこともない太刀筋だった。一刀流、無外流、明智流、無念流……これまで、それこそ幾千もの太刀筋を剣心は見てきたが、死体に残る太刀筋はそのどれにも属さないものだった。そして他の者からすれば、それはとりもなおさず、彼が操る飛天御剣流の特長でもあった。
疑心暗鬼のいやな日々が続いていた。
しかし、改めて振り返ってみると、自分があの夜以来人を斬っていないことに剣心は気づいた。そして日増しに、あの日触れた手の温もりが鮮明になっていくことにも。
眠れぬ夜にあの少女を思い出すと、不思議と心が凪いでいく。だが、だからといって、何をどうできるというものでもなかった。剣心の眠りは、相変わらずあの日以来浅いままだったし、男たちは殺されていった。
役目の前後で、少女が戻った置屋を通りがかることが何度かあった。そのたびに、剣心は知らぬうちに横目で少女の姿を探していた。けれど、考えてみれば、夜にばかり動く剣心が彼女に会えるとは思えなかったし、会えたところで、人斬り働きの前後にどんな顔をして会えばよいのかなど、見当もつかなかった。
それでもなお、心のどこかであの不思議な出会いを剣心は反芻していた。自分でも気づかぬうちに。
そしてまた、幾つもの夜が彼の上を過ぎていった。
「戻り……ました」
月が中天に懸かる頃、少女がふらりと葵屋に立ち寄った。足取りはおぼつかず、心なしか頬が赤らんでいる。
「終わったか」
「ぅん……」
迎える蒼紫が、本から顔を上げる。少女は頼りない言葉を返すのみだ。
「まだ、慣れないか」
「うん……まだ駄目みたい……」
「悪いが、ここでゆっくりしてもらうわけにもいかん。禿の外出が長すぎれば、不審に思われる」
蒼紫が水差しから茶碗に水を注いで、少女に手渡す。それを一気に飲み干すと、少女は幾分落ち着きを取り戻したようだった。
少女の様子を見計らい、蒼紫がすらりと襖を開け放って、続く廊下へ視線を送った。
音もなく少年が歩み出る。歳は、蒼紫よりもいくらか幼いくらいだろうか。歳のわりには背が高く、鋭い双眸をしている。ひょいと街で見かければ、人目を引くことは間違いない整った顔立ちだ。
だが、何よりも彼の印象を深くしていたのは、その年齢に見合わぬ真白い髪だった。
「今日からしばらく、ここで世話をさせる」
蒼紫に言われて、少女は少年をさらりと見る。
「こんばんは」
「……」
「一人で、京へきたの?」
「俺を江戸から連れてきた連中は、死んだ」
顔を曇らせる少女に、少年は素っ気なく言った。その目は、行き場のない感情をただらんらんと瞳に宿している。一点を見つめている少年の目は、まるで憎悪をぶつける先を探しているように見えた。
少女に早く戻るよう伝えた後、蒼紫は何も言わず出て行った。そんなことは常だから、少女が声をかけるわけでもない。
少女は考える。
この少年は何を失って、あんな昏い目をしているのだろう。
衣擦れの音ひとつ立てずに近寄った少女に、少年はびくりとした。
野良犬のように警戒心を露にし、「近寄るな」と目で警告する。少女は構わず、少年に手を伸ばした。
「疲れてるの? もう、寝なよ。馴れないところで眠れないかもしれないけど、寝たほうがいいよ」
「…………」
「私が怖いの?」
思いのほか鋭い少女の眼差しに、少年の警戒心が怯んだ。
「……そんなわけない」
やっと言葉を口にした少年に、少女は笑みを浮かべる。
「そう、それならよかった」
少女の朗らかな声に、少年は背を向けて窓の外を見る。その膠着がいくらか続いた後、少女はもう行かねばとぽつりと言った。少年は答えない。
「寝るのが怖いの?」
まっすぐな少女の瞳に、刹那、少年は苦しそうな顔をする。それから、ぎっと睨みつけた。
「大丈夫だよ。もうすぐ……朝がくるから……」
それに近いものを、少年はかつて持っていたのかも知れない。けれど、それは永遠に失われてしまった。それこそが、少年の心を穿ち続ける楔だった。
窓の外を見つめ続ける少年に、少女は背を向けた。大きな闇空は、小さなふたつの影を包みこむことすらできない。月の光は、ただ二人を淡く濡らし続けていた。