10.無の在処

客から預かった刀をもう一度刀箪笥から取り出したところで、怪しむ者は誰もいない。それが仕事なのだから。せいぜいが新しい客の刀を預かって来たか、もしくは帰る客に刀を返しに行くところと思われるのが関の山だ。
刀箪笥から適当に一振りを選ぶ。見知らぬ誰かの刀を持って、窓から出る。禿がよたよたと刀を抱えて歩いていたところで、気にかける者がいるはずもない。酒の追加、酒肴の配膳、来客のことづけ。警戒されずに部屋へ入る用件は、いくらだって思いつけた。
何もかもを忘れる。これまで食べた食べ物の味も、今まで聞いてきた音も、すべて。自分が経験したことすべて。自分が人間であることすらも忘れる。人でなくなれるように。何ひとつ残らないように。
息を殺して目を凝らせば、骨と骨の継ぎ目や筋と筋の隙間が見える。そこだけは、どれほど筋骨逞しい大男であっても、驚くほどやわらかく、脆弱だった。「仕損じれば死ぬ」そう思えば思うほど、頭のどこかが冷えて、斬り裂くべき場所が鮮明になる。
生きようとする意志がそうさせた。それが特別な能力なのかどうかは、分からない。
ただその一点を目指して、抱えた刀を引き抜き、薙ぎ払い、突き立てる。虚を突かれた男たちは、嘘のように呆気なく死んでいった。時おり目が合う断末の視線は、幼い少女に断たれる自分の命の行く末を理解できていないように見えた。
斬った刀は、見知らぬ誰かが何も知らずに腰に差して持ち去っていった。重いもの、軽いもの、反りが浅いもの、深いもの、はばきが一重のもの、二重のもの。時には脇差や小太刀の場合もあった。長さや重さが違っても、刃はどれも人を斬るという単純で純粋な目的なために作られている。選り好みする必要はなかった。
刀を預かるのが武士だと言うのなら。預かることもできずに、ただ人を斬り続けるこの手には、死した後も刃が埋もれ込んで離れることはないのだろう。そうおぼろげに悟った。
口にするものすべてが、血の味しかしなくなった。陽の光の下でしか眠れなくなった。自分がどこにいるのか、何者なのか、分からなくなった。誰からも呼ばれなくなった自分の名前すら、忘れかけていた。なにもかもが、霧の中にいるみたいに曖昧になるばかりだった。彼に出会うまでは。
素性も知らない男だった。おそらくは、好ましくない立場の男だ。
彼と一緒だと深く眠ることができた。甘さと辛さと苦さとが舌に戻ってきた。
だから、斬り続けた。誓約も制約もなかった。親切心ですらなかった。彼にしてやれることは、それしかなかった。ひどく自分勝手だ。
そのうち、彼は名前を呼んだ。
彼が本当の名前を知っていたとは思えない。それでも、彼は誰よりもやさしく、美しく名前を呼んだ。この街で唯一本当の名前で呼ぶ彼が、いつしか手がかりになった。喜びと、苦しみと、自分への。
肌に触れるたび、触れられるたび、生きているのだと実感した。自分がどこに立っているのかを思い出せた。昨日あったことすら忘れていく日々の中でも、彼のことだけは忘れたくなかった。
忘れようと努めていた感情が、生きはじめた。いつしかその心地よささえ、思い出させて。

「黒猫が、すっかり三毛につきっきりだな」
「うん」
「もうじき生まれるよ。ひと月もすれば、三毛も薫に子猫を抱かせてくれるんじゃないかな」
一度は忘れかけた猫たちも、今では記憶の底に定着していた。重ねた肌とともにある記憶は、不思議なほどすんなりと薫の脳に染み込んだ。
しゃがみ込んで笑いかける剣心の顔は、見られなかった。きっと彼が浮かべているのは、自分と同じ子どものにおいがする笑顔だ。
剣心が相当数の人を斬っているだろうことくらいは分かっていた。必要とあらば、これからも斬るだろうことも。彼の目には、薫と同じ人斬りの空白があったから。少しでも斬る人間を遠ざけたいと思うのは、薫都合の身勝手だ。
剣心の横顔を覗き込む。細い月が透かした色素の薄い前髪が、不思議に頼りなげに見えた。それで、十分だった。
「三毛の赤ちゃん、見れないと思う」
思ったよりも、明るい声が出せた。薫が頭をひと撫ですると、三毛は気持ちよさげにくるると喉を鳴らした。
「どうして?」
「江戸に、帰るの」
剣心は一瞬、薫が何を言ったか分からなかった。予感はしていた。薫は何かを隠している。
それでもなお、剣心は混乱した。薫が本当に隠しているものは、いま聞いたものではないと直感していたから。
「人斬り抜刀斎って、知ってる?」
剣心の頭の中で警鐘が響く。薫は猫を撫でながら続ける。
「その人を斬ったら、帰るの」
咄嗟に柄に手をやった自分に、剣心は心底嫌気が差した。
「約束もしたの。お姉さんを亡くした子と。わたしが斬るって」
女を斬った覚えは一人しかない。薫が誰と約束を交わしたかは想像がついた。道は連鎖している。剣心の目の前に、終わりのない風景が広がる。
「剣心のこと?」
動けずにいる剣心から、薫は答えを受け取った。立ち上がった薫の動作に驚いたのか、猫はすばやく走り去って、草むらへもぐりこんだ。
薫が見せた笑顔は、諦めでも自嘲でもなかった。無垢な笑顔だった。そしてそこには、なにひとつありはしなかった。
「どうぞ」
跪いてうなだれた首筋を落ちる髪のひとふさは、少女のやわらかさを象徴していた。薄い皮から透けて見えそうな背骨の湾曲は、刃を振り下ろせば、こともなげに首を手放すだろう。
「闘ってみたところで、結果は分かってるわ。それにわたしは、剣心に刃を向けたくない」
そこにあるのは、静かで、揺るがない決意だった。生命の淵から、当たり前のように手を離そうとする薫を止めたいのに。何を手がかりにしたらよいのか、剣心には分からなかった。
ただひとつ分かることは。この穏やかな日々の根底にあった、暗い澱のようなものの正体だ。修羅の底に居るはずの剣心に訪れていた、不自然なほどの平穏の正体は、いま目の前で首を差し出していた。
「俺の代わりに斬っていたのは……」
「わたしが、勝手にしたことだよ」
薫は顔を上げすらしなかった。ただ正座して、白い首筋を月明かりに惜しげもなくさらしていた。
「この先、わたしは殺されるか、知らない誰かのところへお嫁にいくだけだから。わたしが嫌いじゃないなら、選ばせて。何もかも失くしてしまう前に、剣心の手で殺してほしい」
それが心からの言葉であることは、剣心にも理解できた。巴の最後の笑顔に、どこか似ていたから。
「ここには、わたしを知っている人は誰もいないから。わたしを殺しても、罪にはならないよ。わたしは、はじめから在ない人間だから」
細い首には、介錯を待つ凛然さも、自棄になった鷹揚さもなかった。
なにもない。なにひとつ。
「俺は……薫を知っている……」
強がりのようにそう言った後、剣心は薫について何ひとつ知ってはいないことに気づいた。名前も、歳も、生まれた場所も、なぜここにいるのかも。
足元がぐらぐらと揺れる。今ここで薫を斬ったら、確
かに彼女の存在は消えるのだ。剣心が与えた薫という名前も、彼女が背負っている罪も。
そこまで思い至って、初めて剣心は薫の意図を理解できた気がした。
誰にも知られず、自身の存在とその罪を消去する。それだけが、薫にとっての雪兔なのだ。
薫が死ぬところを想像する。己が握り締めた刀が肉を切り裂く。少女の薄い肉は、苦もなく剥がれ落ちるだろう。やわらかい骨は手ごたえすらない。滴る血で刃が染まる。薫の肺から鉛のような最後の息がでていく。思考が途切れる。そして、終りが来る。
「薫……」
「そんな名前で呼ばないで」
泣き出しそうな声だった。うなだれたままの薫の表情は読み取れなかったけれど。
「わたしがわたしで居られるうちに、どうか殺してください」
剣心は悟る。思いつくままにつけた『薫』という名は、おそらくは少女の本当の名前だ。はじめて『薫』と呼んだときの懐かしい感触と、おどろくほど馴染んだ舌触りを思い起こす。
「薫」
「やめて!」
悲痛な叫びが空気を変える。御伽噺に出てくるような、不思議な女の子なんかじゃない。薫は、幼く小さい、それだけの少女だ。ただ、命を背負いすぎただけの。
薫の後ろには屍の山が築かれ、足元には亡者の腕が絡みついて彼女を血潮の沼に引きずり込もうとしている。手にした刃はすでに骨の一部と化し、柔らかい肉に埋もれている。
なのになお、彼女は透明さを保ったままだった。
「薫……」
「やめてよ……!」
「『剣心』って、名乗ったの。薫が初めてだったんだ。妻にすら、名乗ったことがなかった」
理解する。幾人もの命と、愛した女の命をもってして剣心が理解したことを、薫も識ってしまっている。知っていても、どうすることもできなかった。知っているからこそ、修羅に身を置くことになった。結局は、知るのが遅いか早いかの違いなのだ。行き着く先は変わらない。斬り続け、命の重みを背負い続けて。落ちる先は同じ奈落だ。
ああ、この小さな少女は。自らが生み出した地獄で塵になろうとしているのだ。業火燃え盛る修羅場で。跡形もなく消えようとしている。
それが薫自身の意思であり、願いであったとしても。
そんなことは、許さない。

「はじめは、おかしな女の子だと思った。けど、薫といると眠れるようになった。意味なんてなくても楽しんで
いいって、君が教えてくれたんだ」
顔を上げた薫の目は、赤く燃えていた。怒りに彼女は泣いていた。
悪辣に向けられる薫の視線に、剣心はなぜか心の底から安堵した。薫がここまで激しい感情を剣心に見せたのは、初めてだったから。
これでいい。そう思う。
「名前なんて呼ばなければ、剣心の中にわたしは残らなかったのに……! わたしを殺した感触だけ覚えていてくれれば、それでよかったのに……」
剣心を詰りながら、薫は涙で顔をゆがめる。拙く悲しい、少女の泣き顔だった。
「誰も薫に未来を約束してくれないのなら、俺が君の未来を約束する」
かがみ込んで、薫に目線を合わせる。覗き込んだ瞳は、涙で真っ赤ではあったけれど。
奥底には、生きることへの願いが確かにあった。その願いを与えられたのが自分だったとしたら。
「俺はこんなだし、どこまで行けるかは分からない。必要になったら、俺の首を持って薫は帰ればいい」
雫が乗った薫の睫毛を、剣心はそっと指でぬぐった。手を引いて薫を立たせる。薫の背丈は、小柄な剣心の胸までしかなかった。
「心中なんて、御免よ……」
手の甲でごしごしと薫が涙を拭いた。拗ねたような目は、剣心を安心させた。
「そうか。それじゃ、生きよう。ふたりで」

求むれど楽土は彼方
振り返れば屍の山
堕ちてゆくなら もろともに

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