7.路地裏の残響

二度目の邂逅が仕組まれたものであることは明白だった。
『お嬢さんには、朝まで幾松の小間使いをしてもらうことになっているから』
店に着いた途端、やけに爽やかに笑ってそそくさと部屋に逃げた桂は、心なしか楽しんでいるようにも見えた。
「やさしい人だね、あの人……ええと……」
「桂さんか?」
「ああそう、その人。やさしい人だと思わない? 剣心」
「……そうだな」
大人の思惑など気づきもしない薫は、素直に喜んでいる。何も言えず、剣心はただ同意した。
「お部屋行く? それとも、どこか外へ行く?」
「どっちでもいいよ」
諦めたように剣心が薫を見下ろした。もうどうにでもしてくれ、と天を仰ぎたい気持ちを、なんとか外に出さないよう努める。
「じゃあ、ついてきて。わたし、行きたいところがあるの」
差し出された手に、吸い込まれるように剣心は自分の手を重ねた。引きずられるようにして駆け出す感覚は、不思議と心地よくて。幼い日に見た何かを思い出しそうになる。
「こんな時間にどこへ……」
「着いたら教えてあげる!」
連れ回す笑顔に、思い出しかけた何かが弾け飛んだ。つられて緩んだ顔の筋肉は、ずいぶん久しぶりに動かしたような気がした。
目抜き通りを曲がり、門をくぐって、いくつかの路地裏を抜ける。あまり器用なたちではないのだろう。重い禿装束につっかえつっかえしながら、それでも薫は早く早くと剣心の手を引っ張った。
「なんだ、何もないじゃないか」
たどり着いた空き地は、ただ無造作に雑草が生い茂っているだけの更地だった。すぐ隣に、組まれて間もない屋台骨が見える。この空き地にも、じきに新しく家が建つのだろう。
「しーっ! 静かにして!」
くちびるの前にぴっと人差し指を立てて、薫が声をひそめた。あまりにも真剣な薫の視線に気圧されて、剣心は口をつぐむ。もぞもぞと袖をあさる薫が出したのは、行きがけに幾松からもらった海老煎餅だった。用心深くちぎって、いくらかを剣心に握らせると、薫は息をひそめた。
「声を出しちゃダメよ? ……ほら、きたきた……」
『声を出しているのは君のほうじゃないか。』
喉まで出かかった言葉を飲み込んで、剣心も薫にならって息を潜める。そのうち、かさりかさりと草むらを踏みしめる音が聞こえ始めた。気配を探る。あたりに移動する熱源をいくつか感じ取った。
咄嗟に剣心は神経を尖らせる。が、気配に怯えるどころか、満面の笑みで片目をつぶって見せた薫に、何ごとかと草むらへ目を凝らした。そこには、何匹かの猫が、警戒しながらそろりそろりと集まってくる光景が広がっていた。
「ね? ちょっと、じっとしてて」
言われて固まる剣心の指先を、猫の舌がちくちくとつついた。ざらざらとした感触が手のひらを濡らしたかと思うと、手の中にあった海老煎餅がきれいに消えていた。
はじめは警戒心の塊だった猫たちも、剣心と薫が害をなす存在ではないと認識したらしい。擦り寄ってこそ来なかったが、二人を木石であるかのように、気に留めなくなった。
「かわいいでしょ。ここ、ネコだまりなのよ」
したり顔で薫が胸を張る。『知っていたか』と問いたずねる薫に、剣心が否定を返すと、ますます彼女は気をよくしたようだった。
「わたししか知らないのよ。剣心も内緒にしてね?」
「あ、ああ……」
釘を刺されて頷いたものの、そんなことを伝える相手なんて、剣心はただの一人も心当たりがなかった。
「約束よ?」
差し出された薫の小指は、たやすく折れる細さだった。そっと支えるように、剣心は指を絡ませる。他愛のない契約が成立する。
「約束する」
剣心の言葉に、薫は満足そうに頷いた。それから、しゃがみこんで薫はうっとりと猫たちを眺めた。そんな彼女を見ていると、剣心は不思議と穏やかな気持ちになった。
薫に流されるままここへつれてこられたけれど、今は素直に楽しいと思える。この、振り回される感覚は久しぶりだ。巴が転がり込んできたばかりの頃は、ちょうどこんな具合だった。調子が狂う、とやきもきしていたあの頃。もう二度と、手に入らないと思っていた感触。
「猫が好きなんだな」
「うん」
目を細める薫のほうこそ、猫みたいだと剣心は思う。
「剣心」
煎餅のかすのついた指を猫に舐めさせながら、薫が剣心を呼んだ。
「ん?」
「また会える?」
「ああ」
「……いつ?」
「薫が、会おうと思えば、いつでも」
影に潜むべき存在である剣心が、どうしてそんな安請け合いをしてしまったのかは、剣心自身にも見当が付かなかった。ただ、そう言うべきだと思ったし、言ってから後悔もしなかった。
「また、一緒に寝てくれる?」
一瞬どきりとした後で、剣心は自己嫌悪に陥った。年端もいかない少女に、何を想像しているんだろう。
「お兄ちゃんと一緒だと、ぐっすり眠れるから」
そう言った少女の横顔は、危うい儚さを持っていた。だというのに、笑っているようにも見える。愛おしむように子猫の喉を撫でる指が、やけに細く映った。
「眠れないくらいなら、無理にこんなところにいなければいい」
自分でも気づかぬうちに、語尾が強くなっていた。そして、口にした後で苦しくなった。自ら薫を遠ざけようとする言葉は、うわべだけの偽善のように思えたから。
「そういうわけにも……いかないよ」
「行儀見習い……だったか」
「うん」
「そんな歳で?」
「母さまが生きているうちに、お婿さまを決めないといけないんだって。うちにもう男の子が生まれないって決まっちゃってからじゃ、何かと面倒なんだって言ってた」
「……婿?」
「うん。うちは、わたししか子どもがいないから。御家人の家の長男を迎えるんだって」
「長男を? そっちの家は取り潰すのか?」
「そのうちは、お姉さまが他家の次男さんを迎えて継ぐことになってるって聞いたわ。よく分からないけど」
「他人事みたいに言うんだな」
「よく……知らないから……。許婚って人に会ったこともないし……。『家を存続させるための祝言なんてそんなものだ』って、父さまは言ってた」
夫となるべき男と会ったこともないという薫の言葉に、どこかほっとしている自分が居る。家名を続かせるための義務に過ぎないのだという彼女の言葉が、嬉しくもあり悲しくもあった。そして、剣心はそんな自分に戸惑った。
「でもね、島原はきらいじゃないよ。来た人はみんな、すっきりした顔で帰っていくし。ここに居るときは、みんな楽しそうだし……」
ああ、この娘は紛れもなくまだ子どもなのだ。
剣心はあらためて実感した。虚飾にまみれた大人の自己暗示を、素直に信じるほどに。薫は幼かった。
「帰ろうか」
手を差し出したのは、剣心だった。どこへ帰ると言うのだろう。それは誰にも分からない。
「帰って、寝よう」
「うん」
重なった手は、力をこめれば握り潰せるくらい、小さかった。

「その顔を見ると、ゆっくり休めたみたいだな。緋村」
昼前に戻った桂が、剣心に微笑んだ。白々しい微笑だ。けれどなぜか、今の剣心はそれを許す気になれた。
「おかげさまで」
「幾松があの娘を気に入ったみたいでな。幸い、置屋に籍があるわけでもないようだし。私との繋ぎ役を頼むことにしたと言っていたよ」
桂の空々しい言葉を素直に喜んでいる自分に、剣心は驚く。薫との約束を反故にしないで済むからかもしれない。それでも、喜びをそのまま態度に反映できるほど割り切れはしなかった。
「いらぬ世話です」
「幾松がと言っただろう? 口が堅い禿と腕の立つ人斬りには、千斤の価値がある。それだけさ」
その言葉通り、それから剣心は、桂が幾松に会いに行くたび薫と会うことになった。桂の護衛に就いては、待ち合わせた部屋で死体を見る。そして幾松から桂を呼びに遣わされた薫に会う。そんな夜が幾度も繰り返される。
秘密の猫だまりを二人で覗きに行ったり、寝物語に絵草子を読んだり、幾松にもらった菓子に舌鼓を打ったり。底のない闇のようだった夜の時間が、他愛ない生活の時間に変わっていった。
そして剣心はいつしか、薫との深い眠りを心待ちにしていた。薫と会えない夜は、彼女がさびしがって居ないか、泣いてはいまいか、思いを馳せることが当たり前になった。外には出すまいとしていた剣心のその変化を、目聡く見取った桂と高杉の視線にさらされるときだけは、居心地の悪い思いをしたけれど。
幾夜かが繰り返された頃、剣心は自分がもうひと月近く人を斬っていないことを思い出した。

「ネコってさ、好き嫌いないのかな」
手のひらの金平糖を舐める猫を見下ろしながら、薫が剣心に尋ねる。『こんなものを食べるだろうか』と、道々二人して首をひねっていた金平糖を、猫はうまそうにぺろぺろと舐めていた。
「口に入るものなら何でもいいんだろう。選んでる余裕なんかないんだろうさ」
「ふぅん」
そんなものか、と薫はかりかりと歯を立てている猫の頭を撫でた。
「わたしみたい」
言葉の真意を汲めず、剣心が薫に振り返る。薫はちらりと剣心を見てから、猫に視線を戻した。
「選びようがないってところ」
婿取りのことを言っているのだと思った。会ったこともない、名前も知らない男と、この先何十年もの人生を共にする自分の身の上のことを言っているのだと。
同情しようとして、剣心は気づく。自分も同じ境遇にあることに。
人斬りは、自分の意思で人を斬る。けれど、斬る人間は選ばない。選びようもない。なぜ斬るのかの理由も。奈落の底の苦しみも。
わけもなく急激に、剣心に怒りがこみ上げる。あまりにも全方向に過ぎて、何に対して憤っているのかは、自分でも分からない。
「時代は変わる。誰もが平等になって、笑って暮らせる新時代が来る。『家を存続するため』なんて理由だけで嫁ぐ意味なんかなくなる」
顔をあげた少女は、剣心の言葉の意味を汲めていないようだった。当の剣心自身も、どうして自分がそんなことを言ったのか分からなかった。
「ほんとに、そう思ってるの?」
「甘っちょろい戯言かもしれないけど……。俺は……」
どくん。
左頬が脈打つ。
そうだ。世の中が平等になるなんてことが、あるはずがない。人斬りの俺が生かされて、ただ幸せになろうとしただけの巴が命を落としたように。
気づいていたのに。それでも大儀に縋りつかないと、崩れ落ちてしまいそうで。
「でも私、そういう甘っちょろい戯言、好きよ」
少女は微笑む。混沌を照らす月光のように。
「いつか新時代のどこかで、そんな綺麗事が真実になったらいいよね」
まぶしくて、悲しいくらいに透きとおった笑顔だった。
零れ落ちてしまいそうな儚い温さ。
剣心の本能が警鐘を鳴らす。
薫は、終焉を待っている。それがどんな種類の終焉かは分からない。ただ確実にいえるのは、薫は終焉の到来を知っていて、滅びに身を任せていることだけだった。言いようのない焦燥感が、もったりと剣心の身体にまとわりつく。
「時間はかかるかもしれない。けど、君が心から笑える新時代を、俺は必ず作る」
薫が静かに剣心を見上げる。その大きな瞳は、ただひたすら驚いているようでもあったし、剣心の真意を値踏みしているようでもあった。
「約束する」
いつかの夜、薫がしたように、剣心が小指を差し出す。薫はもう一度剣心をじっと見つめると、かすかに笑って小さな指を差し出した。
「うん、約束」
ふたつめの誓いは、誰にも聞かれることなく路地裏に転がった。

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