深夜の倉庫街は、人の気配どころか猫の子一匹すら見当たらないほど静まり返っている。
『荷が日本へ到着するまで、もう時間がない』と言われれば、指示通りに歩き回るしかないけれど、倉庫街を四周した後で、薫はこの行為の生産性に疑問を持たずにはいられなかった。
屋根の上で見張っている剣心と弥彦、それに蒼紫に向かって、薫は『もう疲れた』と目で訴える。そんな薫に、弥彦は怒ったように、剣心は申し訳なさそうに、蒼紫は特に何の変化もない表情で、『歩き続けろ』と合図を送った。
頼みの綱の剣心さえ続行を支持するのならば、薫は歩き続けるよりほかない。肩を落として五周目を踏み出す。一周目にはあんなに強張っていた足取りも、いまやぞんざいなゆるやかさに変わっていた。
倉庫街の真ん中を貫く太い道は、緩やかに蛇行して川沿いへと続いている。海から陸に向かって風が吹くこの時間、荒川から吹く風は潮のにおいがして、薫に東京湾が近いことを教えていた。
見通しのよい大通りから路地に入ると、荷卸しに使う大八車や背負子が道の片側に並べられている。はじめはその影にすら警戒したものだったが、五周目ともなれば、もはや見飽きた光景でしかない。ぶつからないように通り過ぎて、薫はもう一本海よりの路地に移った。
やはり何度歩いても変わらないではないか。そう薫がふて腐れはじめたとき、角から見慣れない人影がふたつ現れた。
「なんやお前、こんな時間にこんなトコロでなにして……」
「だっ……誰……!? け、けんし……!」
突然の遭遇に、薫は一瞬なにが起こったか理解できなかった。ようやく叫び声をあげたとき、すでに剣心は薫とふたつの影の間に割り込んでいた。
「薫殿、こちらへ! 名を名乗れ! そちらが手を出さなければ、拙者も手荒な真似は……」
「なんやお前らかいな。真夜中にガン首そろえて散歩するには、場所の趣味が悪すぎるで」
剣心の恫喝へ返ってきたのは、聞き覚えのある関西弁だった。ひと足遅れて弥彦と鎌足が駆け寄ると、最後に、さして急ぐふうもなく蒼紫がすとんと屋根から降りた。
「あっらー、御庭番衆の色男さん、もう東京に着いてたの? てっきり明日朝着くもんだと思って、今日下見に来たのに」
現れた蒼紫を、鎌足がまじまじと見つめる。初対面で蒼紫の素性を言い当てた鎌足に、張が不思議そうな顔をした。
「なんや、顔見知りか?」
「ってほどでもないわ。志々雄様のアジトで見かけたことがあるだけだもの。あ、そっか。アンタは警察にとっ捕まってて居なかったのよね、あの時」
「いらんこと思い出しよってからに……」
張が不機嫌そうに口をとがらせる。鎌足を睨んでいる張を無視して、弥彦がたずねた。
「それより、下見ってどういうことだ?」
「ん、ああ。そこの伊達男が明日着くと思っとったんでな。明日の夜から探索を始められるように、今夜下見に来たんや。けど、まさか昼港に着いて、その夜におっぱじめるとは思わんかったわ。働きすぎは身体に毒やで」
「のんびり構えている時間はない。今年は季節風が強い。早ければ、三日後には荷が着く」
張の嫌味には応えず、蒼紫はあくまで事務的な返事をする。その言葉に、薫が驚きの声を上げた。
「三日って……! もうほとんど時間がないじゃない!」
「そうなんよ。困ってまうやろ?」
「なにを他人事みたいにアンタは……」
「なに言うとんねん。こうして下見までしとるワイに向かって」
「でもココ、どうやらハズレみたいね。支那人どころか日本人すらいやしないわ」
いかにも疲れた、というように、鎌足が腕を広げて大げさに周りを見渡した。思いのほか捜索に熱心な鎌足を、張は顎をさすりながら眺める。
「意外やな。お前がそんなにお役目熱心やなんて」
「この国はねー、志々雄様のモノなの! 明治政府のヤツらだってシャクだけど、わけのわからない外国人マフィアが踏み荒らすなんてもってのほかよ! アタシが語り部として日本全国を洗脳するまで、綺麗な状態でいてもらわないと困るのよ!」
「動機はとにかく、ここが的はずれだということに関しては、拙者も本条殿と同意見でござるよ。しかし、となると次は……」
「横浜だ」
間髪いれずに言った蒼紫へ、全員が振り返った。五人分の視線を集めた蒼紫は、淡々とその理由を述べた。
「昼、船が着いてから町をひとまわりしたが、上海語の買弁がやたらと多かった。なにより、正規品の手続きを踏んで日本に持ち込むつもりならば、荷卸しの多い港を選ぶのが常道」
「なるほど。考えてみりゃ、雪代縁がタレこんだんも、隠れ家かまえとったのも横浜や。『詰まったら最初に戻れ』ってヤツやな」
「どのみち、ほかに手がかりはないわ。じゃ、明日からの行動はキマリね」
「ほな、明日横浜でってことで」
「今日は解散だな。ふぁ~あ、眠みィ……」
口々に愚痴だのため息だのをこぼしながら、集まった面々は三々五々散っていく。道場近くまで戻って来た頃、難しい顔をして考え込んでいた薫が、剣心に尋ねた。
「ねぇ、剣心……」
「なんでござるか、薫殿?」
向き直った剣心が見たのは、ひどく深刻な顔をした薫だった。眉をしかめて一点を見つめるその顔は、緊張のせいか青白く見える。
「薫殿……やはり不安でござるか?」
「ええ……」
見上げた薫が、切なそうに剣心に返事をした。ほかに適任がいないとはいえ、いわば薫は生きた囮だ。いかに彼女が気丈な娘とはいえ、不安がるのは無理からぬことだろう。そう思った剣心は、穏やかに薫へ微笑んだ。
「大丈夫でござるよ。拙者も蒼紫も弥彦も、それにあの二人も居る」
「でも……」
「薫殿が不安に思うことは、なにひとつないでござるよ」
「そうね……蒼紫さんもいるし……」
「ああ。どうか拙者たちを信じて……」
「そんなこと言ったって、剣心も弥彦もお金なんて持ってないじゃない! 駅で領収書は書いてもらえるとしても、ちゃんと警察から横浜までの切符代、出るんでしょうね!? 四人分よ!? 四人分! あーもう! 頼みの綱は蒼紫さんだけよ!」
切羽詰った薫の叫びに、剣心は思わず後ずさる。頭を抱える家主に、彼がかけられる言葉はなにひとつ見当たらなかった。
「休まぬのか。長旅で疲れているでござろう」
深夜の仏間でひとり座禅を組んでいた蒼紫に、剣心が声をかけた。持っていた盆から急須と湯飲みを下ろすと、剣心は茶托に載せて蒼紫に手渡した。
「今夜は一人寝か」
音もなく茶をすする蒼紫に、剣心が顔をあげた。この男が男女の機微について言及するなど、冬に氷売りを見かけるくらい珍しいことだ。
思わず剣心は、蒼紫の表情の中に意図を探した。が、もともと表情の変化に乏しいせいなのか、口にはしたもののさして興味がないせいなのか、蒼紫の表情からはうまく感情が読み取れなかった。
「さすがに、客人が居るときにはな」
手の中の湯飲みを覗き込みながら、剣心が苦笑した。
我ながら露骨な物言いだとは思ったが、ほかにうまい言葉を思いつけなかった。はるばる京都から駆けつけた男に、『お前のせいで』とも言えないし、かといって、今さら『そういう関係ではない』と体裁を繕ったところで、蒼紫がそれを信じるとは思えない。
「邪魔をしたか」
その言葉は、剣心に薫の寝顔を思い出させた。
きっと今ごろ、彼女は安らかに眠っているのだろう。剣心の居ない部屋で。
自分の居ない場所で安寧を得る薫の姿は、わけもなく剣心を苦しくさせた。
脳髄にからみつく、どろりとした感情の正体を考える。たぶんそれは、ひどく自己中心的な支配欲だ。『自分なしでも、薫は安らぎを得られる。』ここ数日、認知しそうになっては、知らぬふりをしていた違和感だ。その疎外感は、剣心の脳をじりじりと焦がしていく。
「お前が居たほうがよいのかもしれぬ。薫殿にとっては」
ぐるぐると沈み込んでいきそうになる気分を、剣心は虚ろな笑顔でごまかした。
「なーにキョロキョロしてんだよ。ボケっとすんな!」
港町を珍しそうに見まわしている薫を、弥彦が小突いた。昼下がりの横浜は、朝の荷卸しがひと段落して、ひとときののんびりとした顔を見せていた。夕方の混雑までには、まだすこし時間がある。
「し、してないわよ! ちょっとだけ、あっちのお店がかわいいなーとか、あの洋館に住んでる人ってどんな人かなーとか、思ってただけじゃない!」
「それがたるんでるっつーんだ! なにしに来たのか分かってんのか?」
「まぁまぁ。そのくらいの余裕があるほうが、安心でござるよ」
相変わらずのやりとりをする三人の前を、蒼紫が先導するように歩く。その迷いのない足取りを不思議に思った薫が、蒼紫に追いついて質問した。
「どこへ向かっているんですか?」
もっともな疑問を掲げる薫に、弥彦が後ろから相槌をうった。
「そういえば昨日『横浜で』ってことは決めたけど、横浜のどこでいつ、とは言わなかったよな。大雑把にもほどがあんだろ」
「なによ、弥彦だって居合わせてたじゃない! そう思うなら昨日に……」
「まずは、倉庫街をひと周りする。しかるのち、昼の間に集めた情報を元に、夜もう一度心当たりを捜索する」
「常道でござるな」
「でも、心当たりっていっても……」
「居留地近くに、華僑の集まる通りが何本かある。表通りは普通の商店が並んでいるが、後ろ暗い連中が集まる場所など、相場は決まっている」
「なるほど……ある程度は絞り込めている、と。でも、いったいいつそんなこと調べて……?」
「以前京都から着いた折と、昨日着いた折の二回も周れば、おおかたの地図は頭に入る」
それを聞いて、薫は目を丸くした。たった二回の来訪で街の地形と構造を頭に入れる蒼紫の記憶力にも驚くが、なにより薫が目を見張ったのは、その洞察力にだった。蒼紫の言を信じるならば、彼はずいぶん前から阿片密輸に目を光らせていたことになる。
ひと通り驚いた後で、薫は蒼紫に対してある種の痛々しさを感じずにはいられなかった。
この潔癖で責任感の強い男が、阿片売買の片棒を担がなければならなかった事実。その役割に収まることになった経緯。そして、誰にも分からない場所で、誰にも分からない形で、長いこと自分の行いを悔いてきた、他人から理解を得づらい生き様。
そのすべてを内包してなお、どこまでも平静に現実的に自分と向き合う蒼紫は、薫に禁欲的な修行僧を思わせた。
「すごいんですね、蒼紫さんって」
いろいろな想いを経て出てきた言葉は、そんなありきたりなものだった。
蒼紫が薫を見下ろす。その表情はそれまでとなんら変わりがなかったが、目の中に驚きが隠されているのを、薫はたしかに読み取った。
「そうか」
見上げている少女の素直な言葉に、蒼紫はたった三文字で返した。ほかにもっと返すべき言葉があったような気もしたが、それ以外の返答を蒼紫は思いつけなかった。
『すごい』
ひどく単純で、稚拙な言葉だ。そんなありふれた言葉を、こんなにも真っ直ぐにかけられたのは、考えてみればはじめてだった。蒼紫を敬愛してやまない操でさえ、その言葉を彼にかけたことはない。おそらくは、無意識に彼を『別格で当然』だと認識しているのだろう。
いつだって蒼紫は『天才だ』と、人から区分けられて勘定されてきた。元服してすぐに人の上に立つ立場になってから以降は、そうあるのが当然となって、賞賛されたことはあれど、誉められたことなどありはしなかった。周囲の人間は、多くの人間の頂点に立つ彼を誉めることは、失礼にあたるとさえ考えた。
あらためて考えてみれば、目の前で微笑んでいるこの娘は、多少の事情を差し引けば、蒼紫がこれまで生きていた世界とかけ離れた世界で生きてきた人間なのだ。朝に夕にあくせくと働き、食べて、歩いて、怒って、笑って。
彼女にとって世界は大きくもなく、小さくもない。きっと緋村剣心も、そんな彼女の地に足の着いたゆるぎなさに惹かれたのだろう。
まぶしさに、蒼紫は目を細める。返ってきた薫の笑顔は、真夏の太陽のように強烈でありながら、春の木漏れ日のような暖かさを持っていた。
「間に合いますね。これなら、きっと」
「そうなるように動いている」
素っ気なくそう言って、蒼紫はその光から目をそらした。一番うしろで見守っていた剣心が、誰にも気づかれずにその光景に目を細めた。
昼下がりの港湾は、夕方の繁忙までのひとときのけだるさに包まれていた。ある者は煙草を燻らせ、ある者は碁盤を挟んで、人夫たちは思い思いにひとときの余暇を潰している。時おり、買弁や商館からの小間使いが小走りでやって来た。そして彼らは用事が済むと、用がなければこんな場所へくるものか、という顔で足早に立ち去っていった。
「あの……」
ふいに現れた和服姿の娘を、人夫たちは無遠慮に値踏みした。敵意や勘ぐりではない。『なぜこんなところに、こんな娘が』そんな、純粋な疑問の目だった。半裸の男たちが力仕事に精を出すこの埠頭で、小奇麗な街娘を見かけることは、海で山猫を見るのと同じくらい稀有なことだ。
「背が高くて、髪の白い日本人の男の人……見かけませんでしたか?」
現れただけでも奇異だというのに、あろうことかその娘は、荒くれたちに声をかけた。男たちは面食らうが、すぐに口々に知らないと答えはじめた。
「オイ、誰か心当たりあるか?」
「いんや。白髪ってこたぁ、あんたが探してる男ってのは、ジジイなんかい?」
「いえ……。歳はたぶん……二十代半ばくらいです」
「へぇ、白髪頭で?」
娘の探す男の容貌の特殊さについて、しばし男たちの間でやりとりがなされる。窓口役を担う人夫は、強面ながら朴訥な人柄であるらしく、遠くで煙草をふかしていた男たちにも呼びかけて心当たりを尋ねてくれた。
「若けぇ男で白髪なんて目立つ風貌してりゃ、イヤでも目につきそうなもんだけどなぁ」
「なんせ港だからよ、けっこう人の入れ替わりがあるんさね。昨日居たヤツが今日は海の上ってのも珍しくねぇ。出稼ぎのヤツも多いしな」
「異人さんなら、若くて髪が白いのやら黄色いのやらを、たまに見るがなぁ」
口々に意見を言う男たちの言葉に、薫はいちいちうなずいてみせた。思ったとおりというべきか、収穫らしい収穫は得られそうにない。
議論を続ける男たちに気づかれないように、薫はそっと倉庫街の路地に視線を送る。視線の先にある目抜き通りの死角では、剣心と弥彦、それに蒼紫がことの成り行きを見守っていた。
「オイオイ……。あんな目立っちまっていいのかよ?」
「ここで有用な情報が手に入るとは思っていない。こちらが探している意図を相手に伝えることが目的だ」
それを聞いて、弥彦はなぜ尋ねる役目が薫に回ったのかを理解した。男所帯の倉庫街を、若い女が歩いているだけでも十分目立つ。その女が人を探しているとなれば、おのずと関係筋に噂が流れるだろう。
「陽動ってワケか……。けど、それじゃ、顔が割れちまった薫が……」
「これが一番効率的な方法だ。動くなら夜が定石。いまは一刻が惜しい。もとより、あの娘も危険を承知でこの役目を受けたはず」
「だからって……! アイツだって一応、女だぞ!? オイ剣心、この冷血野郎になんとか言ってやれよ!」
「時間がない。蒼紫が言うとおり、これが最短距離でござる」
「だからって……」
「大丈夫でござるよ。そのために、拙者と蒼紫、それに弥彦がついているのでござろう?」
にっと剣心に笑われれば、弥彦は黙るよりほかない。それでも納得しきれない弥彦は、せめてもうひと言くらい文句を言ってやろうと、息を吸い込んだ。が、そこから先の言葉は、発することができなかった。
事態を見守る剣心の目のぎらついた鋭さと、羽根が触れただけでも飛び出していきそうな緊張感は、弥彦に剣心の焦燥を雄弁に物語っていた。薫を囮にすることに誰よりも抵抗を持っているのは、ほかでもない剣心だ。
「……痩せ我慢してんなよ」
ぼそりと口のなかだけで、弥彦はつぶやいた。
手の届かない存在だとばかり思っていたこの男は、存外、普通の男なのかもしれない。
華僑街は、夜遅くまで細々と賑わっていた。食堂では男たちが延々と話し込んでいた。すでにあらかたの注文を終えて長居するだけとなった客に、給仕は迷惑そうな顔をしている。後から来た男たちは、別の輪を作り、やはり同じような作法にのっとって店に居座ろうとしていた。
遅い船便で着いた人夫が、こんな時間まで働かねばならない我が身を大げさに嘆く。飼料やら香辛料やらのにおいがまじった、華僑街独特の空気が立ち込めている。鶏が神経質そうにこつこつと首を動かしている。調和を乱すものなどなにもない、典型的な華僑街の夜だ。
だが、よく目をこらすと、そのうちの幾人かの目はそわそわと落ち着かないのが分かる。なにか変化があったら即座に対応しようという、ぎょろりとした胡乱な目をしている。それが、その日常空間に別ちがたい緊張感を練りこんでいる。嗅ぎなれた人間だけが嗅ぎ取ることの出来る、ねっとりとした暗いにおいだ。
「妙な空気だな、なんだか」
「昼のことが知れ渡ったようだな。人の動きが変わった」
「ああ、この街の人間たちも探しはじめたようでござるな」
「探しはじめたって……雪代縁を?」
薫と弥彦が首をかしげる。身を潜めるにしても、組織を抜けた縁を華僑街の人間が匿うとは思えない。
「密輸組織と売人ってのは一蓮托生や。裏切り者が出れば、そこからイモヅル式に一網打尽になる。せかやら、ヤツらはそういう動きには野良猫みたいに神経質やし、もし裏切り者が出たら、徹底的に制裁を加える。まして、今回は正体不明のヤツが情報を漏らしたんや。かかわってる連中は、ただいま絶賛猜疑心最高潮ってとこやろな」
「そっか……。警察に捜索願いを出すわけにもいかないものね」
「そのとおり。ヤツらにしてみれば、騒動も裏切り者の処理も、外に漏らすわけにはいかないのよ。あくまで秘密裏に、内部の問題として処理しないといけない。華僑の人間ってのは、そのへん実に綿密な仕組みを持ってるわ。闇から闇に葬り去られる流れ作業に乗る前に、雪代縁をふん捕まえないと」
「けどよ、上海ならいざ知らず、日本の話だろ? 警察が動けばなんとかなるんじゃねえのか?」
「華僑っていうのは、どこの国でもヨソ者なの。なにかあればすぐに排斥されかねない、もろい地盤のうえに成り立ってる集落なわけ。だから、『私たちは人畜無害です。なんの問題も起こしません』って看板を掲げてないといけないのよ」
「そして、その看板を守るためならば、彼らはあらゆる脅威を迅速に排除する。動きがあるとすれば、今夜でござる」
言葉を継いだ剣心に、鎌足が頷いた。改めて言われずとも、弥彦も薫も『今夜何かがある』ことを空気から読み取っていた。薄皮一枚の穏やかさの下で、じっとりと張り詰めながら膨張していく緊張感が、この街を包み込んでいる。
「早くしてくれないもんかしらね。夜更かしと潮風はお肌に悪いわ」
「お前らは夕方からなんだから、まだいいだろ。こっちは昼間っからだぜ」
「あら、女の支度に時間がかかるのは当然でしょ」
「そんなバカでかい得物を振り回す女はいねーよ」
「坊主、そら禁句やで」
「失礼なコねー! 身体は男でも、アタシの心はだれよりも……」
「……本当に間諜でござるかお主らは……」
ぎゃいぎゃいと騒ぐ三人を、剣心が力なくたしなめた。気配を殺しながらとはいえ、これだけ派手に言い争いをしていたら、死角に隠れている意味がないというものだ。
声を落としてなお論争を続ける三人にため息をつくと、剣心は足がしびれたと後ろへ下がっていた薫へと振り向いた。
薫はしびれた足をぶらつかせたりつっぱらせたりしながら、荷箱の上に腰掛けていた。『サボるな』と毒づいた弥彦に、ひと言反論した後で、彼女は隣に積んであった木箱によりかかった。昼に歩き回った疲れがたまっているのだろう。夜になって冷えた空気は、無慈悲に薫の残り少ない体力を奪おうとする。
「羽織っていろ。少しは寒さがしのげる」
薫が見上げたとき、蒼紫はすでに視線を大路に戻していた。顔をあげた拍子に、薫の肩にかけられたコートがずり落ちそうになる。薫は慌ててコートを羽織りなおして前を合わせた。
「ありがとう……ございます……」
薫の感謝に、蒼紫はただ一瞬だけ視線をよこした。それ以上のものは何もない。まるで、それが当然だといわんばかりに。
蒼紫から返ってきたのは、素っ気ない返事ひとつではあったけれど。そこに、確かな彼の温度と人柄を感じ取ることができたから。薫は、コートの広い襟ぐりに首をうずめた。
「あったかいです。……とっても」
「そうか」
大きすぎる蒼紫のコートは、薫が着るといかにも不恰好だ。それでも、ほんの少しだけ残った汗のにおいは、蒼紫がさまざまな経緯を経て、たった今ここに存在し、生きているのだと強く薫に印象づけた。
「オイ、剣心」
「なんでござる?」
「『なんでござる』じゃねぇよ。いいのか、アレ」
とぼけた答えを返した剣心に、弥彦がいらついた様子で眉を吊り上げる。こっそりと指で差した方向には、荷箱の影で蒼紫のコートにくるまった薫と、別段変化なく華僑街をうかがっている蒼紫がいた。
「あのよぉ剣心……、ちゃんと薫の相手、してやってんのか?」
「おろ……」
少しの間、弥彦は剣心からの次の言葉を待った。だが、剣心はただ居心地悪そうに、きょろきょろと視線を彷徨わせるのみだ。
五日前の苦悩を、弥彦は思い出す。まだ夜が明けきらぬ時間に、重い頭を働かせたあの葛藤だ。
しばらく迷った後、弥彦はこれから口にしようとしている言葉について自問した。
本当に今、自分が言うべきことなのだろうか。いくらなんでも、出しゃばりすぎなのではないだろうか。
右斜め中空に視線を泳がせる。だが結局、落ち着かなげに柄に手をかけたり離したりしている剣心を見て、口にすることに決めた。
「この間アイツらが来た時……俺、泊まったろ? そん時もさ、『たまには泊まりに来い』って……アイツ……」
「薫殿が?」
「ああ……。あんま薫に、さびしい思いさせんなよ。巻き込まれる俺だって迷惑だ」
早口でそこまで言うと、弥彦は不機嫌そうに横を向いた。それから、少しばかり強引に張と鎌足の会話にもぐりこんで、剣心のとなりから去っていった。
積みあがった貨物に寄りかかっている薫を、剣心はそっと伺う。荷箱の影が風を遮っているとはいえ、底冷えするのだろう。薫は蒼紫から借りたコートをぴったりと前で合わせて、肩を縮めていた。
その象徴的な姿を見て、剣心は反射的に総毛だった。
息を深く吸い込む。そうしなければ、腹を満たしていく黒いわだかまりに、飲み込まれてしまいそうになるから。何度か深呼吸を繰り返す。それでも、その黒いかたまりを腹から追い出すことはできない。べっとりと川底に張り付いた、頑固なへどろみたいに。
気持ちが悪い。腹の底を、冷たい手で撫で上げられているような気分になる。足が竦みあがるような、心もとない感覚だ。
得体の知れない感情は、剣心をひどく怯えさせた。自らの死を知覚したときや、巴を斬殺したとき、薫の死を目の前に突きつけられたときでさえ、こんな感情を持ったことはなかった。そこには確かに喪失や悲壮や絶望があったが、怯えは含まれていなかった。
剣心の視線に気づかず、薫はふいに吹いた突風から身を守るために、コートの広い襟に顔をうずめた。俯いてはにかんだその仕草が、どろどろと渦巻くだけだった剣心の感情に、少しずつ方向性を与える。
不吉な影を帯びたその形を、剣心は拒否しようと試みた。けれど、頭は勝手に映像をつむぎ上げていく。
薫が去っていく映像が、ゆっくりと剣心の脳内で像を結ぼうとする。彼女が剣心から去っていく理由は、暴力でも死でもない。そこにあるのは、ただ彼女の意思だけだ。そして理由は、剣心が剣心だからという、単純で堅固なもののみだ。
不可抗力ではなく、純粋に緋村剣心と居ることを否定して薫が去っていく。ひどく明快な原動力は、それゆえに捻じ曲げることはできない。理由は単純であればあるだけ、議論の余地を失っていく。
「どうした。何か見えたか?」
蒼紫が怪訝そうに剣心へと振り返った。はっとした剣心は、瞬時に意識を切り替えると、なんでもない、と首を振った。それを聞いて蒼紫はなにか言いかけたが、結局は何も言わずに、再び路面を注視する作業に戻った。
じっとりと汗がにじんだ右手のひらを、剣心は二、三度振って乾かした。無意識に柄に手をかけていたことに気づく。蒼紫が振り向いたのは、そんな剣心の挙措を察知したからだろう。彼が声をかけなかったならば、おそらくは殺気すら迸らせていたはずだ。
足が勝手に薫のほうへと踏み出す。
指先だけでもいい。たまらなく、薫に触れたい。薫が、自分に触れられることを拒まないと確かめたい。
微笑みかけてくれるだけでもいい。俺が君のそばに居ることを、君が肯定してくれさえすれば。
動きがあったのは、今まさに剣心が第一歩を踏み出そうとしたそのときだった。
「閉まったわよ、店。見張ってる間に中に入っていったのは、合わせて四十二人。けど、出て行ったのは……」
「たった十一人や。店じまいの手伝いにしたって、三十人以上の人手が必要とは思えんわな」
「けどよ、他にも店はいくつかあるぜ? もっと大きな食堂だって……」
「間口の広さと建物の大きさが不釣合いでござる。店構えのわりに、倉庫が広すぎる」
剣心に言われて、弥彦はあらためて件の建物を観察した。言われてみれば、店構えは赤べこの三分の二程度だというのに、倉庫と思われる部分は神谷道場ほどの大きさがあった。窓が極端に少ないところをみると、居住区が広いとも思えない。なにより、大通りに面した正面はとにかく、建物の側面すべてが、入り組んだ路地へとつながる出入り口を確保している。裏の水路に係留されている荷下ろし用の小船も、逃走にはもってこいだ。
「……なるほどな。で、どうすんだ? ヤツらが雪代縁を探し出すのを、こっそりつけて横からかっさらうのか?」
「そんなコトを許すようなヤツなら、こうも見事に警察から逃げおおせたりせえへんわ」
張が馬鹿にしたような顔で弥彦を見下ろす。激昂する弥彦が口を開く前に、蒼紫が口を挟んだ。
「組織の図体が大きくなれば、指揮の統一に時間がかかる。今夜連中が集まったのは、指示がまだ下されていないからだ。華僑のやり方に精通している雪代縁も、それは重々承知しているはず」
「これだけ派手に動きがあれば、死人だって気づくわ。雪代縁も、どこかでこの様子を見ているはずよ。アイツの性格を考えれば、相手がそろったところを皆殺しにしようとする。そうなれば話はカンタン、雪代縁ともども一網打尽よ」
不敵に笑う鎌足の笑顔は、明るさの裏にどこか残虐性を秘めていた。かつて十本刀と呼ばれた剣士の顔だ。
「一網打尽って……一応、まだ何もしてない連中をぶっとばしていいのかよ?」
「そういうキレイごと言っとる場合やないからこそ、ワイらが働かなあかんのやろが。おおっぴらに踏み込めるなら、あのツリ目狼がとっくにやっとるわ」
張の言葉に、弥彦は喉を鳴らした。言われてみればそのとおりだった。馴れ合いを嫌う斎藤のことだ、正攻法が通じる相手ならば、さっさと自分で片付けてしまっているだろう。
「この国の人間ではない者に、この国の法を適用するのは難しい。特に、この街ではな。そういう意味では、奴らも外法の人間だ」
『外法の悪党は外法の力を持って、さらなる闇へと葬り去る』。それが、苦悩を乗り越えた蒼紫が出した答えなのだと、薫は剣心から聞いていた。責任感の強い彼が、この件を請け負おうとしているのは当然だ。ましてそれが、ひと時とはいえ、自分が手を貸した災禍に通じているのならば。そう思うと、表情の読み取りにくい蒼紫の横顔が、どこか悲壮なものに薫には見えた。
「でも……ちょっと待って。それなら、あの人……」
四人の憶測がおそらくは正しいことを、薫は知っている。雪代縁は、たしかに彼らの言うとおり、彼を探す者を排除しようとするだろう。徹底的に。容赦なく。二度と彼らが縁を探せないように。
「縁にこれ以上、人を殺させはしない。そのために、拙者はここに来たのでござるよ」
薫の言葉が続く前に、剣心が薫に笑いかけた。『分かっている』、そう言うように。
縁がこれ以上人を殺めることのないように。それは、剣心と薫が抱える、決意に似た想いだ。そして、今は亡き巴の願いでもあるはずだ。
「うん、そうだよね」
薫が剣心に微笑み返す。そこには安心があり、信頼がある。志を同じくする戦友としての連帯感がある。けれど、そのあたたかさに、剣心はわずかな棘を疑う。
結局俺は、剣によって生きているのだ。
剣がなければ、薫に必要としてもらえないのではないか。少しずつではあるけれど、確実に剣を振るえなくなるこの身体は、いつか彼女の興味を引くに値しないものになるのではないか。
先ほど形を作ろうとしていた恐怖が、再び剣心の腹の底で渦巻きはじめる。
それでも、笑顔はうまく作れたらしい。あまりにも自然な剣心の微笑みに、薫は何の疑いも持たずに微笑み返した。
せめて、この仮面を脱ぎ捨てることができたならば。恥も外聞もなく、泣き喚いて彼女を問い詰めることができたのならば。
彼女に心配してもらうことだってできるのに。彼女の注意を引くことだってできるのに。
十年近くの歳月をかけて身体に馴染ませた仮面は、すでに分かちがたく剣心の表情に張り付いてしまって、勝手に上っ面だけの笑顔を作らせる。
これまではそれでよかった。十年間、それでうまくやってきた。誰からも距離を保って。誰からも踏み込まれずに。笑顔でいられる安全圏を確保して。
けれど、出会ってしまった。一人きりの安全な場所から這い出してまで、そばにいたいと思う女に。
それを自覚したときはじめて、剣心は自分自身の手で作り上げた檻から脱出する方法を失っていたことに気がついた。十年以上繕ってきた自分の鎧が、あまりにも身体に馴染みすぎて、取り外せなくなっていたことに。
「『これ以上人を殺させないように』、ね……。言うは易いけど、為すは難いと思うわよ。こっちが先に中の奴らをやっちゃってたら、雪代縁は当然近寄らないだろうし。かといって、雪代縁が全員をブッ殺した後じゃ意味がないし。雪代縁がおっぱじめた隙に乱入して、彼より先に全員を殺さない程度にブッ飛ばして、なおかつ彼を生け捕りにしないといけないわけでしょ?」
「面倒くさいのう。まとめて全員ブッ殺したったらラクやのに」
「いかなる者であろうと、拙者はこの手が届く限り誰一人たりとて死なせはしない。それは、お主とて同じでござるよ、張」
鋭く尖った剣心の眼光に、張は寒気を覚える。張は『けったいな性格やのう』と茶化すと、頭の上で腕を組んで、ぷいとそっぽを向いた。
「とにかくやな。あとものの数分もすれば、ヤツがおっぱじめる。なんぞ、手はあるんか? 中のヤツらは全員雪代縁に殺されました、雪代縁は逃亡しました、じゃ話にならんで」
張の質問に、答える者はいなかった。ここにいる全員が、それがいかに困難な作業かを知っている。中の華僑たちはとにかく、縁の動きを一瞬でも見落とせば、目的の完遂は破綻するのだ。加えて、雪代縁が今現在どの程度の戦闘力を有しているかは、憶測するしか手がなかった。
「手はあるわ。……賭けだけど……」
沈黙を破った薫に、全員が注目する。鎌足が首を傾けて、薫に続きを話すよう促すと、薫は言葉を選んで説明を始めた。
「雪代縁が闖入したら、その混乱に乗じてわたしたちも乱入する。ここまでは、さっき鎌足さんが言っていたとおりです」
「ま、突入するっていったら、その時しかないでしょうね。……それで?」
「中に入ったら、わたしは雪代縁を探すことに注力します。なんとかして彼の目の前を塞ぐことさえできれば、雪代縁は身動きが取れなくなるはずです」
「なるほど。奴の特殊体質を利用するわけか」
「特殊体質?」
「あいつは、若い女を殺せねぇんだ。人誅の時と島の時、薫が無事だったのはそのおかげだ」
「あら、だったら、あたしでいいじゃない」
「厚かましいこと言うな」
「ふんだ、冗談よ。……それで? お嬢ちゃんが張り付いたら動きを止められるのは分かったわ。けど、肝心のその方法はどうするワケ? 結構な凄腕なんでしょ、雪代縁って。追いつけるの?」
「半年前の件で、あの人の左耳の機能は失われている、もしくは、著しく低下しているはずです。左から不意打ちできれば、たぶん……」
「その活路をワイらが作ったったらええんやな?」
「はい。あとはわたしが雪代縁に振り切られる前に、他の人たちをなんとかしてもらえれば……」
「まかしとけ!」
「オッケー! 合図があり次第、三つの入り口から同時に突入するってコトで」
「合計で三十人ちょいとして、ひとり頭七人か。余裕やで」
「オイ、今俺を勘定に入れなかっただろ……」
「スマンスマン。チビっこくて忘れとったわ」
「てめ……!」
「ちょっとぉ、突入前から仲間割れしないでよ」
「「誰が仲間だ!!」」
声をそろえて、弥彦と張が鎌足に反論する。そんな騒動には触れず、剣心がそっと薫に歩み寄った。
「薫殿……いくらなんでも……」
「大丈夫よ、剣心。私は、『今ある選択肢から一番確実な方法を選んだ』だけ。……そうですよね? 鎌足さん?」
いつか自分が言った台詞を唐突に引用されて、鎌足は面食らった。そしてその後で、にやりと口角を上げた。
「上等! あの時の顔になってるわよ、お嬢ちゃん」
鎌足に応えて、薫が挑戦的に笑った。その後で、薫は剣心の指先を、誰にも分からぬように握った。
「それに……守ってくれるんでしょう? 剣心」
「無論。拙者のすべてを賭けて」
頼もしい言葉を聞きながら。薫は、握り締めた剣心の指先が小さく震えていることに気づいた。柄を握りなれた固い指は、冷たく乾いている。彼が何よりも誰よりも強いと知っていても、その指先の心細さは、薫の庇護欲を絞りあげた。
「剣し……」
薫がもう一度剣心の指を握り締めようとしたとき、件の倉庫から一斉に声があがった。
「始まったみたいやな」
「お先っ!」
いち早く飛び出した鎌足が、一番近い倉庫の扉に飛びついた。中ですでに始まっていた乱闘に、嬉々として飛び込んでいく。
「あっコラ! 俺の食い分も残しておかんかい!」
叫びながら、張がもうひとつの扉を蹴破った。腹から薄刃乃太刀を抜き去って振り下ろす。ひゅおん、と空気を裂く音をたてて、薄い刃が中にいた人間に襲いかかった。刃は二人ほどを巻き込んだらしく、男二人がぎゃあっと悲痛な声を上げた。その声に、張は楽しくてたまらない、といった表情で聞き惚れる。
「ばっかやろう! 真っ暗闇ん中でそんなエモノ使うヤツがあるかよ!」
「避けられんのやったら、外で待っとってええんやで!」
「なんだとぉ!?」
張と同じ入り口から飛び込んだ弥彦が、額をかすった薄い刃に文句を叫んだ。鞭のようにしなる刃が何度か身体をかすめた後で、弥彦はようやく張の背中こそが安全な場所と気づき、背中合わせで張り付いた。
「なかなかええ位置取りやで、ボウズ。そこで見物でもしとき!」
「ぬかしてろ!」
言いながら、弥彦は頭上に振り下ろされた棍棒を竹刀で受け止めた。数秒の間力比べをした後で、一瞬の隙を見て相手の力を横に受け流す。武器を失った相手のわき腹に一撃を叩き込むと、相手は痛みにがっくりと膝をついた。
「おお! なかなかヤルやないか、ボウズ!」
へん、と弥彦が鼻を鳴らす。そのとなりで、鎌足はもう一人を仕留めていた。
「あらあら、コレもハズレ。どうやら、当たりの扉はあっちだったみたいね」
大鎌を振るいながら、鎌足は残るもうひとつの扉を見遣った。すでに十数人の人間が、最後の扉から飛び込んだ剣心と薫、そして蒼紫へと殺到している。
「思ったより人数が多い。見逃すな」
長い鞘からすらりと二本の小太刀を抜き去ると、蒼紫は一瞬の動きで三人を沈めた。一見無作為に思えるその動きが、実は後続への道を切り開くための動きであることを、剣心は瞬時に理解する。
「緋村、奴と直接やり合ったのはお前だけだ。闇の中で探すのはお前が適任。探索に集中しろ」
「心得た。薫殿、拙者から絶対に離れるな!」
「はい!」
闇の中で斬り結びながら、剣心は縁の気配を探ろうと集中する。しかし、以前対峙した縁の気配を、この空間内で見つけ出すことはできなかった。
怨嗟や憎悪や悲憤といった負の感情の塊のような闘気は、ここには存在しない。おそらくは人誅を経て、縁の気配は一変してしまったのだろう。
「剣心、うしろ!」
「ああ……」
薫が言うより早く、剣心は後ろから振りおろされた青龍刀をはじき飛ばしていた。いったん引いた刀をかえして相手の肩口に叩きこむと、男は肩を押さえてうずくまった。
「オイ、まだ見つからんのかいな!? 倒れた奴らが、何人か起き上がってきよる! 一発目とちがって、サジ加減難しいんやで!」
「すまぬ! もう少し時間を……」
剣心がうまく縁の気配を探れていないことに、薫は気づいていた。以前の縁の禍々しさに満ち満ちた気配ならば、薫でさえ感じ取ることができた。だが、ここにそれはない。人誅という支えを失った縁の変質は、本来ならば喜ばしいもののはずだが、いまこの状況にいたっては剣心の足かせとなっていた。集中しようにも集中しきれない乱戦という状況も、剣心に不利に働いている。
「剣心……!」
目を閉じて、薫は気配を探る。
手がかりはわたしの記憶だけだ。
剣心も蒼紫さんも弥彦も分かるはずがない。だって彼らは、『緋村剣心を目の前にした雪代縁』しか知らないのだから。憎悪と怨嗟と悔恨と怨念に満ちた、復讐鬼としての彼しか。
けれど、わたしだけは知っている。ひとりぼっちの彼を。やり場のない怒りや寂しさや悲しみや涙を、どう処理したらよいのか分からずに、たったひとりでのた打ち回っていたあの人を。復讐という支柱を失ったときの、穴だらけの雪代縁を。
思い出して。
心の傷をさらけだしたときの彼を。行き場のない恨みをわたしに向けて殺そうとした、あのひとを。わたしを殺せない無力感にとらわれていた、あの少年を。母性を無理やり毟りとられた子どもの悲憤と喪失を。
きっといまの彼は、あのときと同じのはずだ。血を流す傷口をふさぐことができずに。ひどく膿んだ傷をさらけだして、かばう術を知らずに途方に暮れて。抱えきれない感情を受け流すことができないまま、ひとりぼっちで。
おそらくは、本人すら気づいていない。知っているのは、わたしだけ。
世界にたったひとり、わたし、だけ。
「薫殿!」
剣心の声が背中から飛んでくる。剣林弾雨の中へ飛び出すわたしに、彼は驚愕している。『絶対に離れるな』。ごめんね、約束破って。でも大丈夫、心配しないで。見つけたの。わたししか知らないあのひとを。だから、大丈夫。うまくいくわ。
「なっ……貴様……! 離せ!」
「おとなしくしなさいっ……このッ……!」
左から縁に飛びつこうとしていた男の影を利用して、薫が縁の前に躍り出た。案の定、左からの唐突な動きに、縁の反応がほんのわずかに遅れた。
薫が巨躯の男の懐をすり抜ける。振りかぶって今まさに男の脳天を割ろうとしていた縁の右腕に縋りついた。縁は一瞬躊躇したが、構わず薫ごと刀を振り下ろした。が、あと三寸で男に刃が届くところで、身体が突然動きを止めた。
「離せ……!」
「離さない! 絶対、離さない!」
「なにを……」
「もうこれ以上、あなたに人を殺させないわ!」
がむしゃらに薫が右腕にしがみつく。その隙をついて、相手の男は縁のわき腹を青龍刀でなぎ払おうと身をひねった。大ぶりの刃が背中に迫っていることにも怯まず、薫はなお必死に縁の右腕にしがみついている。
ふたたび、縁の動きが止まる。
『このままでは、神谷薫が目の前で死ぬことになる』
そう認識した途端、身体が鉛のように重くなった。めきめきと音を立てて、胃が内臓を押し上げる。抵抗しがたい嘔吐感がこみ上げてくる。
「チィッ!」
「きゃ……!」
縁が薫ごと身を翻して、男の刃をかわした。薫がぶらさがっている右腕を忌々しそうに一瞥すると、刀を左手に持ち替えて、今度こそ男にとどめを刺そうとする。が、縁の刀が男を貫く前に、男はくぐもった声をあげて倒れた。
「薫殿、大丈夫でござるか!?」
肩で息をしながら頷く薫を見て、剣心はつかの間安堵する。けれど次の瞬間、その安堵に暗い影が差した。
彼女の安全が脅かされているからではない。そんな美しい義務感ではなくて、どろりとした肉感的な暗いなまぬるさだ。
今それを持つことが、甚だしく場違いだということは理解している。けれどその黒いしみは、剣心の身体の真ん中から、どうしようもなく広がっていこうとする。
「わたしは大丈夫! この人を外に連れ出すわ!」
「ああ。任せたで……ござるよ……」
薫へと振り返る間もなく、剣心は新手の剣筋をはじいた。複数人を相手に乱戦を続ける剣心が一歩、二歩と離れていくと、後には薫と縁だけが残された。
「お前か……。何の用だ」
先ほどの俊敏な動きが嘘のように、縁の声からは感情が抜け落ちていた。ようやく暗闇に慣れた薫の目が、縁を捕らえる。その目はどろんと曇っていて、ただ目の前にあるから、というそれだけの理由で、薫のほうを向いていた。
「話は後で! とりあえず、ここを出ましょう! 蒼紫さんがうまく道を拓いてくれたわ。今なら抜け出せるはずよ」
縁の右腕にしがみついたまま、薫が一歩踏み出した。が、縁は腕こそ薫にされるがままにしているものの、足を動かそうとはしなかった。『どうして俺が行かなければならない?』そういう態度だ。
「ほら、早く!」
「…………」
急かす薫の声が聞こえているのかいないのか、縁はその場から動こうとしない。業を煮やした薫は、乱闘の際に誰かが落とした小刀を、草履のつま先で蹴り上げた。それを左手で受け止めると、そのまま自分の喉下へとあてがう。
「言うとおりにしないと、今、この場で喉を掻っ切るわよ!?」
突然の薫の奇行に、縁がわずかに眉をしかめた。同時に、根を張ったように動かなかった縁の身体が、薫の力で傾いた。薫が縁の右腕を引きずるようにして歩き出す。縁はもはや抵抗はしなかった。ただ、呆れとも諦めともつかぬ顔で身を任せていた。
頭ひとつぶん大きな縁の身体を、薫は背負うようにして引きずっていく。もはや闘う意思は見えなかったが、それでも念のため、右腕にがっちりとしがみついておく。少々歩きづらいが、この際仕方がない。
暗闇の中では、まだ乱戦がつづいている。時おり目の前を刃物やら棍棒やらが、ひゅんと音を立てて通り過ぎていく。どうやら、蒼紫が拓いた道が塞がりかけているらしい。
「三秒待て。拙者が東の出口への道を拓く。外の路地で待っているでござるよ」
「……うん!」
いつの間にとなりに来ていたのか、剣心が低い声で薫に囁いた。心臓の音をたよりに、薫は頭の中で三秒数える。三秒後、剣心の言葉通り、そこには人ひとりが通れるだけの道ができていた。薫は力まかせに縁をひっぱっると、肩で押し開けるようにして重い扉を開いた。転がるように路地へと出ると、その後ろでごぅんと音を立てて扉が閉まった。
「どうやら、無事回収に成功したみたいね」
「じゃああとは、コイツらを片付けるだけだなっ!」
再び暗闇が訪れた倉庫の中で、乱戦はさらにつづく。剣先で火花を散らしながら、剣心は二人が消えた扉をちらりと横目で見遣った。先ほど飲み込んだ感情は、まだ腹の中をぐるぐると回遊している。