薫が目覚めたとき、すでに陽はずいぶん高くなっていた。見知らぬ壁と天井が織り成す逆さまの世界に、薫はしばらくここがどこなのか分からなかった。転がったまま見上げた大きな窓は、舞い上がった塵や埃の粒をきらきらと反射させていて、この部屋の非現実感をことさらにあおりたてた。
「ん……」
起きあがって周りを見渡す。景色は一変していた。カーテンが緑色のサテン地だとか、暖炉が乳白色の大理石でできているだとか。昨日は黒一面だった部屋に色がついていたことを、はじめて薫は思い知った。
そう、世界には色があったのだ。そういえば、島で目を覚ましたときもこんなふうだった気がする。
いつの間にか、白い毛布が体にまとわりついていた。大きさからいって、どこかのベッドで使われていたものなのだろう。この毛布も、時間の経った埃のにおいがした。
身体の節々が痛い。絨毯の上とはいえ、堅い床で一晩寝転がっていたせいだろう。首を左右にひねって血の巡りを整える。乾いた肌がぴりぴりと痛む。薫は残されていた瓶を手に取ると、水を顔にはたいた。
雪代縁の姿は見えない。彼のことだ。用が済んだからには、立ち去っていても不思議ではない。 注意深く周りを見回す。かろうじて動いていた置時計は、午前十一時過ぎを差していた。部屋の中で動くものといえば、その律儀な時計くらいなものだ。
「行っちゃったのかな……」
寝乱れた帯を直して、薫は部屋の扉を押した。ぎぃと低い音を立てて扉が閉まったのを背中で聞くと、吹き抜け沿いの廊下から、階下をぐるりと見下ろす。昨日と違って光で照らされてはいたが、そこには相変わらず人の気配がなかった。
二階にある部屋をおそるおそるいくつか覗いた後、薫は吹き抜けに続いている階段へと向かった。階段の手前まで来たとき、重い音をたてて玄関の扉が開いた。
「起きたのか」
「び、びっくりさせないでよ!」
薫の抗議を無視して、縁はつかつかと階段を上ってきた。そのまま、縁は先ほどまで薫が居た暖炉のある部屋へと入っていく。薫も、なんとなしについていって、その部屋へと戻った。
縁は絨毯で一度かがんで瓶を拾い上げると、窓際へ立った。それから、水をひとくち飲んで、ソファで居心地悪そうにしている薫へ紙袋を投げてよこした。
驚いた薫がそのあたたかい紙袋を開けると、そこには油揚げと乾パンを足して二で割ったような筒状のものが入っていた。食えということなのだろう。おそるおそる口にしてみる。見た目の割りに味はなかったが、朝寝明けの疲れた舌には、それで十分だった。
「場所は伝えておいた。今夜にでも決着がつくだろう。あとは好きにしろ」
窓の外を見ながら、縁が言った。縁の言を信じるならば、昨晩薫が聞きだした倉庫の場所は、警察かなにかを通じて剣心たちに伝わっていることになる。手の中にある見慣れない食べ物から考えると、縁は昨夜乱闘があった華僑街へ出向いていたのかもしれない。昨日の今日だ。華僑街で警察を見つけることは、そう難しいことではなかっただろう。
「……ありがと」
薫が小さく礼を言う。ともあれ、これで剣心たちと落ち合う目途は立ったわけだ。
腹が落ち着くと、気分も大分落ち着いた。周りを見渡す余裕が、薫に生まれる。
昨日は暗闇に遠近感を奪われて気づかなかったが、この部屋の天井はずいぶん高い。東向きの壁にある窓が、惜しげもなく光を取り入れている。空の色を見る限り、外はいい天気らしい。ただし、遠く海の上には雲が浮かんでいるから、夜まで天気がもつかどうかは分からない。窓の前に立つ縁は、海を見ているように見えるが、きっとその風景に興味などあるまい。そこにあるのが白い壁だったとしても、彼は同じように眺め続けるはずだ。
東からの光を受けて、縁の白い髪は金色に輝いていた。根元から白い縁の髪は、色素の薄い瞳とあいまって、彼を異国の人間のように見せた。考えてみれば、遠い国で、違う色の海と空を眺めて、馴染みのない食べ物を食べて育った彼は、なかば異邦人のようなものなのかもしれない。
遠く海を見つめ続ける縁の目からは、かつてあった青黒く暗い炎は抜け落ちている。日本にも上海にも行き場をなくした縁のからっぽの眼は、薫の胸を締め付けた。
縁はこれから、からっぽになった入れ物を満たしていかねばならない。自分の方法で、自分が得たもので。こんなにも何も持っていない男が、この先何年もかけてその作業を模索するのかと思うと、薫はその険しすぎる道程に、気が滅入りそうになった。
「海、行こうか」
ぽつりと薫が言った。場違いで不可解な提案に、縁は振り返って怪訝そうな顔をする。
『なにを言っているんだ』
『わけが分からない』
縁の顔はそう言っている。言った薫本人だってそう思っている。けれどそこに、否定はない。
「どうせお互い、夜まで時間あるし」
薫は、返事を聞かずに立ち上がった。すたすたと歩いていく薫を、縁は窓際で見送っている。
「早く来なさいよ。ここで舌噛み切られたいの?」
意味のない脅し文句だ。縁は、薫にそんなことができないことを知っている。自ら命を絶つには、彼女はあまりにも多くのものを背負いすぎている。
それでも、薫はその脅し文句が必要なことを知っている。縁が動くためには、何かしらの口実が必要なのだ。
案の定、縁が足を動かし始めた。薫が階段の踊り場までくると、縁は階段を下り始める。薫が門を出ると、縁が玄関を出る。それを繰り返して、薫は潮の香るほうへと歩いていく。浜辺に着くまでの間、二人の距離が縮まることはなかった。
その距離感にどこか安心していることに、薫は気づく。剣心との関係が変わったあとでも、この人との関係は変わらない。
時間が経っても変わらない距離。もしかしたらそれは、諦めと言うべきものなのかもしれない。けれどこの距離は、薫にとってひどく居心地がよかった。いつまでも甘えていられる場所ではないと、知っていても。
「すこし、寒いわね」
砂浜に点在している乾いた場所を選んで、薫はしゃがみこんだ。晴れているとはいえ、春の海風は思いのほか冷たかった。風を遮るものがない砂浜は、容赦なく砂を巻き上げて薫の足をからめ取る。
下駄で砂浜を歩いたのは、あの島以来だ。夏の名残の太陽が照りつける中、雑木林をぬけて、振り返りもせずに進んでいく背中を追いかけた。
不思議なものだ。あの日追いかけた背中が、今日は薫の後ろにある。
「海の色は、上海も横浜も変わらない?」
長い沈黙のあとで、薫が言った。
薫の問いかけは、答えなくて構わないものだ。そう縁は知っている。思いついたから口にしただけの、意味のない問いかけ。それでも、その問いかけは縁に波紋を投げかけた。
海の色も空の色も、あの頃とは変わって見える。いや正確には、あの頃はそんなものを見回す習慣も余裕もなかった。だから単に、記憶にないだけなのかもしれない。もし変わって見えるとするならば、それは縁自身が変質したからだ。
「そう簡単には変わらない」
ほとんど自分に向けていった言葉だった。見える風景が変わっても。自分だけは変わらない。動いていく周りを、見送ることしかできない。流れる川にいつまでも鎮座している岩みたいに。
十五年間、止まった時間の中にいた頃は、それにすら気づかなかった。けれどもう、立ち止まることは許されない。だが、どう進んだらよいのかは分からない。どっちが右で、どっちが左なのか。踏みしめているのが下で、見上げているのが上で、本当に正しいのか。基軸となる場所すら、縁は見つけることができない。これまで拠り所にしていた姉の笑顔さえ、今はもう失った。
「お前も、俺も」
薫が縁へと振り返る。薫は、ゆっくりとうなずいた。
なにもかも変わったと思っていた。剣心は答を見つけて、自分はその答と彼の人生を支えるために笑うと決めて。『剣心に笑顔でいてほしい』。その信念にとらわれて、どこへも行けなくなって。どうしたって、剣心のためだけには生きられないことに気づいて。
いつの間にか、がんじがらめになっていた。気づかずに摂取していた毒素が身体に溜まって、知らぬ間に動けなくなるみたいに。、
けれど。変わっていないと、縁は言う。ただの天邪鬼から出た回答だったのかもしれない。それでも、半年前と同じ尺を保った縁との距離が、薫を安心させた。
縮まらない距離。縁の中にある薫は、今も半年前と同じ場所にいる。微かで確かな救いだ。
「そっか」
「ああ」
そっぽを向いたままの縁の視線を、薫は懐かしく思う。この人のとなりは変わらない。窮屈で容赦のない場所だったとしても。ここに居る限りは、わたしはいつでも、あの夏の等身大の小娘のままだ。
息を吸い込む。薫の肺を満たした空気は、あの島の懐かしい潮のにおいで満ちていた。
大丈夫。わたしはまだ、ここにいる。そしてなお、あの人を愛している。
それを確かめられたから、平気。もう、大丈夫。
半年前のわたし、今のわたし。結局どこに居ても、わたしはあの人を愛している。だからこれは、もう受け入れるしかないのだ。諦めや決意ではなく、ひとつの固定された事実として。
またいつか、自分がどこにいるのか分からなくなったとしても。雪代縁はわたしの場所を覚えている。わたし自身が忘れてしまっても。縁だけは、律儀に、正確に、わたしの原点を覚えている。無鉄砲な小娘が、ひどく純粋な衝動から、一人の男を支えたいと願ったあの場所を。
だから平気。わたしは、歩き出せる。道しるべは、いつだってこの人の中にあるのだから。
「わたしね、剣心と一緒になる」
遠く海を見ながら、薫が言った。
縁は答えない。ただ薫と同じく、西陽にさらされた海を眺めているだけだ。
薫のつぶやきは、縁にとって別段意外なものではなかった。その言葉は、一の次には二が来るのと同じ程度の凡庸さに満ちている。縁に限ったことではない。いずれはそうなるだろうと、誰もが予測していることにすぎない。
だが、本人にとっては、ある程度の決意と熱意が必要な、不確定事項だったのだろう。それが今ようやく、安定した場所を得たらしい。 驚きも興奮も含まれていない薫の報告は、縁にそう思わせた。
薫のほうへ振り返ろうとして、やめる。今、薫を見たら。これ以上薫にかかわったら。今以上に薫を知ってしまったら。きっと、なにかしら不愉快なことが起きる。
それは、不幸と不運と不穏に慣れた縁が持つ、一種の予知能力のようなものだ。遭遇を避ける手段として身に付けた、特殊な技能。見なかったことにする能力とともに、縁が育ててきた脆い盾だ。
「つっぱったって仕方ないし。それに……」
薫は、そこで数秒言葉を探した。言葉にしようとすると、ひどく自分勝手で稚拙な想いだ。上手く伝えられそうもない。
けれどきっと、伝えたほうがよい。自分にとっても、縁にとっても。
「剣心のこと、『ずっと側で支えていたい』って……思ったときの気持ち。そういう、原点みたいなものは、あなたの中にあるから。もし、わたしがまた見失いそうになっても……戻ってこられると思う」
不器用で抽象的なもの言いだった。それでも、縁にはなんとなく薫の言わんとすることが分かった。
あの男の道しるべとして機能しているこの女にもまた、拠り所にする道しるべが必要なのだ。
それが自分であったことに、縁は不思議な気分になった。拠り所も、目的も失った自分が、誰かの道しるべとして機能している。至極自分勝手な理由からとはいえ、必要とされている。
奇妙な感慨だ。ずいぶん昔に失った、何かを思い出しそうになる。こんな気持ちを味わったのはいつぶりだろう。それは、どこで、そこには誰が居たのだったか。
「だから、生きてて」
まっすぐに向けられた薫の視線に耐えられず、縁は何秒かしてから視線をずらした。それはまだ、縁には眩しすぎた。
少年くさい縁の仕草が、ぴんと張っていた薫の神経を緩ませた。願いや期待を受け入れるために、縁にはまだ理由が必要だ。本人が『仕方なく』と思えるだけの理由が。
「この件が終わったら、京都に行くわ。巴さんに報告しに」
秋の墓で見た花と簪から推察した、ただの直感だった。けれど薫は確信していた。おそらくあの一件の後、縁は巴の墓に参ってはいまい。笑顔を失った今、縁はまだ巴をまともに見ることはできずにいるだろう。もう一度巴に明確に拒絶されることを、縁はきっと怖れている。
「あなたがちゃんと生きているところ、見せてあげたい」
確約はいらない。縁には、その言葉だけで十分だ。
もうひとつ、薫は確信している。巴は縁を拒絶したりはしない。
まだ微笑みはしないかもしれない。けれど、きっと見守ってくれるはずだ。よろよろと頼りなく歩き出す弟を。ずっと、そばで。剣心にそうしてくれたのと同じように。
始まりと終わりの場所に、縁をつれて行く。巴の居る場所こそが、縁の道しるべだから。人生を代わることは出来ないけれど。せめて、背中を押してあげたい。だからきっと、わたしたちはもう一度出会った。
「きっと、巴さんも喜ぶわ」
そう微笑むと、薫は砂をはらって立ち上がった。陽はすでに橙色に傾いている。赤い光で輪郭をふちどられた薫の姿は、理由もなく縁の心を波立たせた。
薫は、ここを後にしていく。
当たり前だ。ここは通過点に過ぎない。縁にとっても、薫にとっても。そんな当たり前のことが、どうしてこんなにも心を揺さぶるのだろう。
「寒いね、やっぱり」
別れを先触れる言葉だ。こめかみが痛くなるのを、縁は感じる。あるいはそれは、つかの間得た平穏への、わずかな執着だったのかもしれない。
「そろそろ、行こうか……」
それは、巴の墓で薫が剣心から言われた言葉だ。思えば剣心もまた、あの場所を後にしたのだ。この人がこれからそうするように。
往時の剣心が見せた安らかな笑顔を、薫は思い出す。その手をとった自分が得た、幸福な気持ちも。
でもきっと。わたしは、目の前のこの小さな青年の手を取るべきではない。きっと。
「あーもう、こんな生活してたら昼夜逆転しちゃうわ!
おまけに寒いし! あとは警察の三下どもに任せて帰れると思ってたのに!」
「我慢しい。人手不足なんや」
指定された保税倉庫の裏手に陣取りながら、鎌足が不平を爆発させた。夜に着くという曖昧な情報のおかげで、かれこれ三時間ほど張り込みが続いている。
時刻はすでに夜十時を過ぎていた。となりで鎌足の不平を冷ややかに見上げていた弥彦は、両手をこすりあわせて暖を取った。
「夜に入港する船って珍しいんだろ? なんだって今日に限って三隻も来やがるんだよ」
「同時に何隻かが到着すれば、自然、検疫もおざなりになる。それに、潮の流れや天気が荒れれば、入港日が重なることは珍しくない。連中はそこまで計算に入れている」
「三隻のうち、当たりは一隻……と。お嬢ちゃん、そのへんはなんか聞いてないんか?」
「さぁ……。そこまでは……」
申し訳なさそうに薫が首をひねる。視線をそらした拍子に、剣心と目が合った。ぎこちなく薫は笑ってみせる。剣心もまた、どこか固い笑顔を薫に返した。
夕方、指定された保税倉庫街で、薫は剣心たちと合流した。ばつが悪そうに「ただいま」と言った薫が、昨日の夜とは違って、普段どおりの薫だったから。ひとりで現れたことについて、薫を詮索する者はいなかった。合流してすぐに鎌足が事務的な話をはじめたこともあって、薫はそのまま一同のなかに溶け込んだ。
剣心とは、事務的なことをひと言ふた言しか話していない。今は二人で話せるような場合ではなかったし、よしんば二人きりになったところで、なにをどこから話したらよいのか、お互い見当もつかなかった。
さらに三十分ほどが過ぎだ。張が何度目かのあくびを噛み殺したところで、長い汽笛が聞こえた。
一同が色めきだつ。港には、中型船が三隻入港しようとしている。三隻とも、大きさにも船形にもこれといった特徴はない。港に停泊している船にまぎれたら、どれがどこにあるのか分からなくなるような代物だ。
「まーた、ありきたりなカタチの船ばっかり来よってからに……」
「木を隠すなら森の中って言うものね。まさか真っ黒な船にドクロを描いた旗を立てておくわけにはいかないでしょうよ」
張と鎌足が、腕を組んで港に進入する船を観察する。汽笛の音で、深夜の倉庫街の静けさは一転した。水夫や荷夫たちが、係留や荷揚げの準備をするべく慌しく走り回りはじめる。手に手に器材を持つと、彼らは手馴れた様子で、それぞれの船が入る三方向の岸壁へと散っていった。
人夫たちの間では、日本語に加え、上海言葉、広東言葉、それに聞いたこともない異国語が飛び交っている。ただでさえ夜の闇の中だ。どの船の荷卸し人夫に、どこの国の人間が多く携わっているのかなど、分かろうはずもない。
「まいったな。これじゃ、目星なんて付けられねぇじゃねぇか。俺らん岸壁が当たりならとにかく、他が当たっちまった日にゃ、あの巡査どもじゃ頼りに……」
「通関審査は慣例として、入港順に行われる。この岸壁に入る船は最後に進港した。当然、検分も最後だ。精査前の荷捌きは御法度だが、もとより法を気にするような連中ではない」
「加えて、この岸壁は倉庫の中でも、もっとも北側。月明かりすら差さぬとあらば、密事を為すにはうってつけの場所でござる」
剣心と蒼紫は、張り込んでいる岸壁につけられた船を、食い入るように観察している。そこまで分かっているなら、と弥彦が痺れを切らして叫んだ。
「だったらもう行こうぜ! 先手必勝、だろ? ほら見ろよ、積み下ろし始まってんじゃねえか!」
「まだ早い。もし件の品が船に残っていて、船で逃げられでもしたら、こちらは手出しできん。海に捨てて証拠隠滅を図られる可能性もある」
「荷揚げが済んだ後、かつ通関審査が入る前。奴らが動くのは、そのときでござるよ」
荷揚げする人夫たちから目をそらさずに、剣心が言った。弥彦も、剣心と蒼紫にならって岸壁を注視する。握り締めた竹刀は、じっとりと汗ばんでいる。
「針に糸通すような仕事ばっかりね……。さて、そろそろ、いい頃かしら」
十分ほどすると、荷揚げに使われていた何艘かの小舟が船を離れていった。舷梯に人がまばらになったのを見計らって、鎌足が進み出る。ゆらりと立ち上がったその目には、静かな残虐さが漂っている。
「よっしゃぁ! じゃ、行……」
「待ちぃな坊主。いきなり押し入って『ブツを出せ!』って暴れてみぃ。そら、強盗と変わらんやろ」
勢い込んで駆け出そうとした弥彦の首根っこを、張がつまみあげた。じたばたと中空で暴れる弥彦を尻目に、鎌足がすたすたと倉庫へ歩いていく。
「あっちから来るように仕向けないと。恋愛と同じ。ね?」
振り返った鎌足と目が合って、薫がびくりとする。頬を赤くした薫を見て、鎌足は満足そうに唇の端をあげる。それから、悠々と倉庫の扉を開いた。
「はーい、こんばんは。税関の者よ。荷物、見せて頂戴な」
明朗にして挑戦的な鎌足の第一声に、倉庫の中にいた男たちがどよめいた。ただの驚きではない。予想外に現れた招かれざる客への戸惑いが含まれた声だ。
「ようお嬢ちゃん、夜中までご苦労さん。だがね、いつもなら港に入った順に審査じゃなかったかな? そう思って、こっちものんびり作業してたもんでね。まだ準備が整っていないんだ」
進み出た男が、慇懃無礼に鎌足に言った。男の言葉はしっかりとしていたが、発音はどこかふにゃふにゃと舌足らずだった。上海訛りの日本語の特徴だ。口調は諭すようなものではあるものの、その態度はあきらかに大きな体躯に物を言わせた威圧を漂わせている。
「そう。でもね、こっちも夜に三隻重なったもんだから、とっとと済ませちゃいたいの。特にこういう夜にまぎれるように運ばれた荷物ってね、足が早い場合が多いから。分かるでしょ?」
流々と挑発する鎌足に、男はぴくりと眉を動かした。女の後ろに控えている人間に目をやる。短身の剣客に、長身で物腰に隙のない黒づくめの男。闘争心に爛々と目を燃やした少年に、髪を逆立てた軽薄そうな男。そして、場違いな町娘。誰一人として、税関の人間が連れてくる人間には見えない。
「失礼なこと聞くようだけどね、お嬢さん。アンタ、本当に税関の人間かね? ずいぶん面白い同僚を連れているようだが」
「アンタが『貿易商だ』と名乗る程度には、アタシも税関の人間よ」
「おもしろいことを言うね、お嬢さん。だが、冗談は場を弁えて言ったほうがいい。出て行ってくれるね?」
「イヤだって言ったら?」
「分からず屋は身体に分からせるしかな……ぐあっ!」
つかみ掛かった男の腕を、鎌足がひねり上げた。男が、信じられない、といった顔で鎌足を見上げる。男に見せ付けるようにして、鎌足はにやりと笑った。ひねりあげた腕に、そのまま力を加える。やがて外圧に耐えかねた骨が、ごきんと鈍い音を立てて肩から外れた。
それが、合図だ。
「ぎゃぁああっ……っこの女……!」
かろうじて保たれていた倉庫内の緊張の均衡が、一気に崩れる。口々に怒声をあげた男たちが、一気に入り口へと殺到した。
「美味しいトコ、持っていきよってからに……!」
「あらぁ、先に手を出したのはあっちからよ」
鼻歌でも混じりそうな笑顔で、鎌足が大鎌を振るう。その間を縫って、張は柔らかな刀をしならせた。
「てめぇ! そのあぶねー刀、やめろっつったろ! 背中に差してる刀を使えよ!」
張の刀の跳筋を避けながら、弥彦が叫んだ。文句を言いつつも、その動きは確実に昨日の張の剣筋を学習している。張が左に太刀を振るうと、自然と弥彦は右へと避けた。が、その先には二人の男の棍棒が迫っていた。
「っく……!」
「目の前だけを見るな。常に先を読め」
一人を正面から受け止めた弥彦に向けて、もう一人を斬り払いながら蒼紫が言った。そのまま蒼紫は、舞うようにして周りをなぎ倒していく。
「……ィアアッ!」
「はっ!」
回天剣舞の軌道を避けた男が、剣心の陰に居た薫に襲い掛かった。普段着姿のまま武器を持たぬ薫が、背中を逸らせて跳躍する。薫が宙に居る間に、剣心が男の水月に剣撃を叩き込んだ。
「薫殿!」
「……っ……大丈夫!」
薫の声は生気に満ちたものではあったけれど、さすがに女帯と下駄のいでたちでは不利に過ぎる。加えて、彼女は今、武器を持っていない。
「神谷薫、お前は知らせに走れ。斃すだけならばとにかく、捕縛するとなるとこの人数では少々足らん」
「は……はい!」
薫の離脱を図るべく、蒼紫が声をかけた。その声に応えるようにして、剣心はじりじりと出口へと薫を導いた。
「出口まで連れて行く! 薫殿、絶対に拙者から離れるな!」
「……うん!」
背中に庇っていた薫を、剣心は左腕で抱きこんだ。右手で剣を振るっている以上、丁寧とはいえない扱いではあったけれど。その土くささは、薫を安心させた。
こんな状況の中だからこそ分かる。ここ以上に安堵できる場所なんてない。
単純な話だ。やっぱり、わたしはこの人が好きだ。
絶対の信頼。彼もまた、私にそれを持ってくれているのならば、それ以上なにが必要だろう?
そっと握られた襟の重さに、剣心は気づく。預けられた体重と、剣心の動きに合わせた薫の足運びは、彼女の信頼を、雄弁に剣心に伝えた。
言いようのない充足が剣心を満たす。身体が軽い。神経が昂ぶる。山の中にひとりきりで居るときのように、五感が研ぎ澄まされていく。耳は息づかいひとつひとつを聞き分け、目は血しぶきひと粒ひと粒までを捕らえる。
今なら、なんだってできる。
理由のない自信がわきあがる。
「ぎゃあっ……!」
鉄の棒を振りかぶった男の顎を、剣心が斬り割る。それと同時に、薫はするりと剣心の懐を抜け出した。薫が、ようやく到着した出口へと駆け抜ける。一瞬だけ、二人は瞳を交わす。
「いってきます、剣心」
「ああ。いってらっしゃい」
戦場にあって、そこだけが二人の日常に変わる。次の瞬間、剣心は向き直って剣を振るい、薫は背を向けて走り出した。
「はぁっ……はぁ……」
汗だくになって、薫が走る。今このときばかりは、倉庫街の広さが呪わしい。なんだってとなりの係留所までこんなにも距離があるのだろう。
二区画目を抜けたところで、薫は背中に違和感を感じた。頭で考えるより先に、身体が右へと跳躍していた。一瞬後で、ちゅいんと乾いた音がして、薫が居た場所に弾痕ができた。
「な……」
振り返った薫が見た男は、聞き慣れない言葉を叫びながら、薫に銃口を向けていた。
失念していた。なにせあの倉庫は、大掛かりな密輸が行われている現場なのだ。外に見張りを立てないほうがどうかしている。
とっさに見回して、薫は身を隠す場所を探す。だが生憎、周りには荷箱どころか木の板ひとつ落ちてはいない。
「くっ……」
男はにやりと嘲笑すると、今度こそ薫に狙いを定めた。薫は周囲に遮蔽物がないと見切りをつけると、全力で走り出した。
もう一区画走りきれば、横道に入ることができるはずだ。弾より速くたどり着けるとは思えなかったが、今はそれしか方法がない。あとは、運よく銃弾が軌道をそれるか、銃が弾詰まりでも起こしてくれることを願うばかりだ。
呼吸をするのも忘れて、薫が走り出す。男が笑いながら何かを呼びかけた。おおかた、『無駄なあがきだ』とか『死ね』とか、そんな言葉だろう。
冗談じゃない。わたしには、待っている人が居る。それも、一人じゃない。死ぬわけにはいかないんだから。
もがくようにして薫が走る。大地を蹴る薫に飛んできたのは、銃弾ではなく、くぐもった男の叫び声だった。
立ち止まって声のしたほうを見る。そこには、いつかと同じように、拳を振り下ろした縁の背中があった。
「あなた……」
するりと向き直った縁の目は、ぎょろりと不安げに揺れていた。縁の行動の理由自体は、島のときと同じなのかもしれない。目の前で若い女の死を見られないという、消極的な理由だ。けれど今薫を眺めている縁の目には、あの時とは違う色が混じっている。
「俺に人を殺させないんだろう。だったら、責任もって俺に殺させるな」
そう言うと、縁は足早に薫のいる方向へと歩き出した。そのまま薫の前を通り過ぎる。足を止めない縁のあとを、薫は慌てて追った。『ついてこい』そういうことなのだろう。
幸い、その後は何者とも遭遇することはなかった。もしかしたら、薫に追いつくまでの間に、縁が何人かを沈めていたのかもしれない。
人気のない倉庫区画をふたつほど抜けたところで、二艘目の係留所が見えた。そこで、縁は足を止めた。ここから先は一人で行けということなのだろう。
「……ありがと」
後ろから縁を追い越して、薫が言った。縁はなにも言わない。聞こえていたのかすら怪しいものだ。けれど、それでいいと薫は思った。
「それじゃ、京都で」
振り向いたとき、縁はもう居なかった。
昼過ぎ、港湾の警備詰所で薫は目を覚ました。所内では、事後処理に追われる警察官たちが慌しく走り回っていた。
巡査たちは大量に捕縛された人夫たちの確認や対応に追われ、忙しなく倉庫街と税関を往復していた。鎌足は一部始終の報告書をまとめて英国大使を脅すのだと息まいていたし、張はさっそく明日から違う仕事に取り掛からねばならないと、斎藤の人使いの荒さに文句を垂れていた。
取り留めのない関係者の方向性をひとつにまとめたのは、蒼紫の「今日夕方の船で横浜を発つ」というひと言だった。
剣心と薫は、蒼紫にもうすこし疲れを取ってからにしてはどうかと薦めたが、蒼紫が自分で決めたことを覆すはずもない。ではせめて蒼紫を見送ってからと、剣心に薫、それに弥彦は、船が出る夕刻を待って帰宅することにした。
「神谷薫はどうした?」
「風呂でござるよ。丸二日潮風にさらされていたからな。女子にはきつかったのでござろう」
蒼紫がうなずいた。薫が風呂に入るより先に、男衆は身体を拭いていた。それで、緊張の糸が緩んだのだろう。弥彦はソファを陣取って眠っていた。
「寝てしまったか。弥彦も、今回はがんばってくれたでござるからな」
寝返りを打った拍子に落ちた毛布を、剣心が弥彦にかけなおした。深く眠っているのだろう。弥彦はそれにすら、気づいていない様子だ。
「蒼紫も。今回の件では随分と世話になった。礼を言う」
「個人的な理由だ。礼を言われる筋合いはない」
礼を言う剣心に、蒼紫は静かに言った。そうか、と剣心がうなずく。蒼紫も蒼紫なりに決着をつけたのだろう。その表情は、来たときよりも穏やかに思えた。
「出航までは少し時間があるな。……少し、外してよいか?」
「ああ」
部屋を出ていく剣心を、蒼紫は見送る。剣心の行く先は、もちろん想像がつく。
帰ったら、操や翁に伝えてやろう。きっと喜ぶ。近いうちにまた、あの二人と京都で会うことになるのだから。
洗い髪をぬぐいながら廊下に出たところで、薫は剣心を見つけた。えらく唐突に出てきた気もしたが、剣心は特に急用があるわけでもなさそうだった。
「剣心。休んでいなくていいの? もうすぐ蒼紫さんの見送りに……」
「ああ。弥彦も寝入ってしまったことだし、出るのはもう少し後でと……思ってな」
「寝ちゃったの? なんだかんだで、まだまだお子ちゃまねー、あのコも」
ぱたぱたと廊下を歩く薫からは、洗い髪特有の甘酸っぱいにおいが香っていた。鼻孔をくすぐる蠱惑的な香りが、剣心の緊張を揺さぶる。
顔は笑えているのだろうか? 声は上ずっていないだろうか?
「剣心? 戻らないの?」
「お、おろ……。ええと……」
立ち止まったまま動かない剣心に、薫が不思議そうな顔をする。剣心の決意など微塵も知らないその表情は、かえって剣心に話を切り出しづらくさせた。きょときょとと視線を漂わせながら咳払いする剣心に、薫はますます首をひねった。
「まいった……。昨日はあれほど簡単なことだと思えたのだが……」
「剣心、やっぱり疲れてるんじゃ……」
「い、いや……そういうわけでは……」
「でも、すごい汗よ? 医務室にでも……」
「いたいた! なにしてんだよ、二人とも! 船、出ちまうぞ!」
薫が剣心の額に手を伸ばしかけたとき、弥彦が階段から飛び出してきた。その後ろには、蒼紫に鎌足、張が続いている。どうやら、もう見送りの時間らしい。
「ごめんごめん! さ、行きましょ剣心」
「……ああ」
心なしか意気消沈している剣心を、薫がせかした。ぱたぱたと一同に駆け寄る薫の後を、しょんぼりとした剣心が追う。
「なぁ。ワイら、えらい無粋なマネしたんちゃう?」
「いいのよ。言ったでしょ? どうせ八百長なんだから」
一行の一番後ろを歩きながら、鎌足が張へつまらなそうに言った。
「それじゃ、蒼紫さん。今回の件ではお世話に……」
「礼ならすでに緋村から聞いている」
舷梯に向かう蒼紫と話しながら、このやりとりを以前どこかでもした覚えがある、と薫は思った。何度話してみても、蒼紫の考えていることだけはよく分からない。
「今度は、土産を選べるくらいの余裕を持って遊びに来るでござるよ」
「けど、操は連れてこなくていいからな。あいつが来ると、銀座だ浅草だとうるさくてたまらねぇ」
「こら、弥彦!」
腕を頭の後ろで組んでそう言った弥彦を、薫がたしなめる。いつもの光景だ。
「京都かぁ。あたしもそのうち、行こうかな」
肩をすくめて、鎌足が言った。笑ってはいたが、その目はどこか寂しそうだ。
「せやな。志々雄様のことや。笑って迎えてくれるやろ。……由美姐さんは、どうか分からんけどな」
「どうせなら、一緒に船、乗って行けばいいじゃねえか」
「そういうわけにもいかないの。この後、東京へトンボ帰りして、もう何日かしたらまた海の上よ。なんだかんだいって、犯罪者ですからね、あたしは」
「そうですか……」
突然鎌足が告げた別れに、薫の目が揺れる。別れが重なることもあると、半年前に学んではいたけれど。やはり、祭りの後のようなこの感覚には、馴れることができない。
「そんな顔しないの。そのかわり、あたしの分まであんたがお参りしてきて頂戴」
「え……あたっ!」
ぺちりと音を立てて、鎌足は薫の額をはじいた。ぱちりと片目をつぶる彼女は、恵とはまた違った色を持つ大人の女性だ。
「時間だ。また、京都で」
最終の乗船を呼び込む声に、蒼紫が足を向ける。背を向ける刹那、ちらりと目が合った剣心は、彼が事情を察していることを知った。
「ああ。近いうちに伺うでござるよ」
舷梯を渡る蒼紫の口角がほんの少しあがったことを、知る者は誰もいなかった。
「ふあぁ……! さすがに疲れたな。布団が恋しいぜ」
門の前で明日の出稽古の確認をしてから、弥彦が大きく伸びをした。道場で風呂を借りて、ようやく弥彦もひと心地ついた。しばらく寛いだ後で、それではと帰ろうとした弥彦を、薫が引き止める。
「湯冷めしちゃうんじゃない? 泊まっていかないの?」
「いかねぇよ。そこまで野暮じゃねえ」
「なっ……なに言うのよ、このコは!」
ひひひと笑いながら、弥彦が神谷道場から走り出た。明日の予定を大声で確認すると、そのまま角を曲がって路地へ消えていった。
「んもー……逃げ足の早い……」
腰に手を当てて、ぷりぷりと薫が居間へ戻る。また一戦やらかしたな、と剣心は苦笑した。
「弥彦は帰ったのでござるか?」
「うん。泊まっていけばって、言ったんだけど」
「この時間だ。赤べこに寄って帰るのでござろうよ」
「ああ、なるほど! 燕ちゃんに会いたかったわけね……。さすが剣心!」
「いやなに。ひと仕事終えた後は、一番安らげる人に会いたいものでござろう」
にっこりと微笑みかける剣心の笑顔が、妙に清々しかったから。薫はどきりとする。
この人は、さらりとこんなことを言う人だっただろうか。態度はとにかく、ほしい言葉はそうそうくれない人だったはずだ。
「あの……剣心……も……?」
おそるおそる、薫は尋ねる。いつもと違う剣心を、試す意味もあったかもしれない。
「無論」
剣心の手が、薫の頬に伸びた。ふわりと顎をとられて、くちびるが吸い付く。くちづけはこれまで何度もしてきたけれど。こんなにもまっすぐに、堂々とされたのははじめてだった。
「……けんしん……」
「……ん?」
混乱してただ薫は目を丸くする。現実感がない。薫は自分のくちびるに指で触れて、剣心のくちびるが本当にそこに触れたのかを確かめた。
照れたような憂いたような、熱い目をした剣心は、間違いなく年相応な大人の男で。隠しもしないぎらついた欲望を、薫に向けている。
なにをこんなに焦ることがあるのだろう。もう、何度も抱かれたではないか。
わたしの身体で、この人が触れていないところなんて、どこにもないのに。あられもない嬌声も、動物みたいな恰好も、全部この人に見せているのに。もう、くちづけだけでうろたえるような仲ではないのに。このひとの視線だけで、こんなにもわたしはかき乱される。
「けん……しんっ……あの、お風呂……入る……でしょっ……? わ、わたし……寝間着用意して……くるからっ……!」
ばたばたと逃げるように、薫は廊下を駆け去っていく。薫の背で、剣心はひとり深呼吸した。
やれやれ。長いこと封印していると、素直になるということは、こんなにも難しいことなのか。
足音が聞こえる。正確でいてあくまで軽い、達人の足音だ。
この足音を怯えながら聞いたのは、いつだったかしら。寝たふりをしてやり過ごそうとしたのは、何日前のことだったったかしら。
先ほど剣心が見せた、ぎらぎらとした目を思い出す。男としての欲望を隠さない眼差し。品がないと言われればそうかもしれないけれど、その熱さは、薫の身体を芯から痺れさせた。 こんなにも緊張しているのに。頭と身体のどこかで、期待の火花が散っている。眠っている、女の本能がうずく。
苦しい。どきどきする。怖い。でも、わくわくする。
「薫殿、起きているでござるか?」
「……うん」
部屋に入ってきた剣心は、やっぱりさっきと同じ目をしていて。湯上りのにおいと熱さもあいまって、どうしようもなく薫を煽り立てた。
なにも気づいていないふりをして、薫は布団に転がる。けれどその実、剣心の一挙手一投足に全神経を注いでいる。
箪笥を開けるその腕が、ふとした瞬間に薫を抱き寄せたら。髪を梳くその指が、突然薫の肌を撫で始めたら。
みだらな想像を頭に隠して、薫は普段通りの無邪気な小娘を演じる。ひとりよがりの、甘酸っぱい駆け引きだ。
「薫殿……」
きしりと畳を軋ませて、剣心が手をついた。
ああついに、あの欲望がわたしを蹂躙するんだ。何日分か溜め込んだ男の欲望に、わたしはめちゃくちゃにされる。甘く痺れる淫らな期待。体の芯が震える。
「薫殿、すこし……」
上から薫を覗き込んだ剣心は、少年のような目をしていた。けれど、剣心の目の奥には、鳴りを潜めているとはいえ、先ほどの男の欲望が宿ったままだ。
肩すかしのような気持ちを、薫は味わう。それでも、怯えたように不審な挙動をする剣心は、薫を起き上がらせずにはいさせなかった。
「……なに?」
布団脇に正座している剣心に、薫は向かい合った。いつになく居ずまいを正している剣心に、薫も自然と背筋を伸ばした。道場でするように、すっくとした正座になる。
「……その」
「……うん?」
どことなく強張った顔をしている剣心に、薫も落ち着かない気分になる。剣心はといえば、視線を落ちつかなげに右往左往させて、顔色が真っ白だ。なのに、目だけは妙に爛々と血走っている。
「ええと……」
剣心は、咳払いをひとつする。何百、何千と命のやりとりをしてきたというのに。一番居心地がよいはずのこの場所で、なぜこんなにも逃げ出したい気持ちになっているのだろう。
一番大切な人と、この親密な場所で。一番安らげる時間のはずなのに。汗は勝手に吹き出てくるし、動悸が激しくて耳の奥が痛い。
居心地の悪さに、また笑って誤魔化してしまいたくなる。『なんでもないのでござるよ』。お得意の、その場しのぎの笑顔で。彼女はそれを許容してくれる人だから。
けれど、言わなければならないのだ。なんとしても。
言わなければ、伝わらない。だって俺と彼女は、別の人間なのだから。だからこそ、呼び合って、重なり合えるのだから。
「薫殿……」
見上げた薫の瞳は、まっすぐで、屈託なんてまるでなくて。たくさんの葛藤や重責を飲み込んできたはずなのに。そこには朝露のような純粋さがただあるだけで。
心が凪いでいく。安らぎだとか、憧憬だとか、恋心だとか、欲望だとか。そのすべてが、ここに集約されている。
『一番大切だ』。
幾度となく唱えて、何度か口にも出したその言葉が、まっさらな形で胸にしみこんでいく。
「薫殿と一緒に、ずっと居たい」
泣き出しそうな剣心から出た言葉は、いつか薫が言った台詞と同じもので。けれどその、人真似のような不器用さが、かえって薫に真実を伝えた。
「君と俺は背負っているものも、生きてきた背景も、全然違う。俺はこんなだし、何も持っていない。唯一の取り柄だった剣だって、じきに撃てなくなる」
たどたどしい剣心の告白は、ちっとも美しいものではなくて。いつもの剣心が見せる、穏やかで安らかな笑顔とは、まったく性質が違うもので。
「君の人生を、台無しにするかもしれない。それでも……それでも……俺は……」
息苦しい。言いたいことがまとまらない。それでも、剣心は話し続ける。
畳み掛けるような告白に、薫が目を丸くしている。それはそうだ。後ろ向きで、男らしくないみっともない独白。普段は回る舌が、こんなときに限って空転する。だけど。
綺麗な言葉じゃなくていい。相手に気を遣う必要も、いまはきっとない。ただ、伝えたいんだ。君に。わがままで、独りよがりで、理不尽な、俺の本当の気持ちを。
「薫殿と、一緒にずっと、居たい」
もう一度、繰り返す。何度も言うことで、真実味が増すとは思えなかったけれど。今俺にできることは、それしかない。
自分を守りながら、君を愛おしいと思っていた。近すぎるとどうしたらよいか分からなくて。新しく手に入れた世界と感情に手一杯で、君を気遣う余裕がなくて。それではいけないと、分かっていたはずなのに。どう伝えたらよいのか分からなくて。言葉にするには、気持ちの量が多すぎて。圧倒されて。
もどかしい。どうして俺は、こんな借り物の言葉しか持ち合わせていないんだろう。
「はい」
涙を浮かべた薫のその笑顔を、俺は生涯忘れまい。
つられて泣きそうになった、嬉しくて情けなくて、どうしようもない叫びだしたい気持ちも。
必要なときに、必要なものを、必要なかたちで。与えてくれる君だから。俺は、ようやっと思えたんだ。たぶん、生まれて初めて、心から。誰かが欲しいと。
「剣心、ほっとした顔してる」
くすりと薫が笑った。頬があがった拍子に弾けた薫の涙は、なにかの奇跡の象徴のようにすら思えた。
「わたしが、また断るとでも思ったの?」
いたずらっぽく笑う薫に、剣心はかの夜を思い出して、ばつの悪い思いをする。
「その……順番が……逆になってしまって……」
それが、この告白と身体の関係のことを言っているのか、それとも昨夜の告白のことを言っているのか。薫にははっきりと分からなかった。
けれど、今はもうどちらでもよい。なんていったって、わたしは過去には拘らない女なのだ。
自分でも驚くほどすんなりと、薫はそう思った。
「気にしないで。どっちもあなたの選んだことだから。言ったでしょう? ずっとそばで支えるって」
ほんの少しだけ、嘘かもしれない。だって本当は、そんなにきれいに、献身的に、あなたを思っていたわけじゃないから。
だけど。こんなときくらい、すこし見栄を張ったっていいじゃない?
「自信を持って。なにがあっても、わたしだけは、そばにいるから」
誓いの後のくちづけは、はじめてのときと同じくらい余裕がなかった。頬を撫でる剣心の指も、鼻にかかる息づかいも、熱に満ちた眼も。すべてが、薫の神経をぴりぴりと焦がした。
「薫殿……」
遠慮がちに、けれど力強く、薫はするりと寝間着をはぎとられる。酔ったような眼で剣心に全身を見つめられると、それだけで胎の奥がきゅうと締め付けられた。
伸びてきた剣心の手が、薫の肩に触れる。首から腕に続く稜線をなぞられると、首筋がぞくぞくと総毛立つ。
「んっ……」
薫から漏れた声に、剣心はぞくりとする。目を閉じて剣心の愛撫に身を任せる薫は、まるではじめて抱いたときのように敏感に反応した。剣心の仕草ひとつひとつに驚いて羞恥する、手応えのある初々しさだ。
薫が漏らす息ひとつさえ、剣心を刺激する。このときにしか表に出てこない征服欲が、剣心の中でむくむくと膨らんでいく。
獲物をいたぶる肉食獣のような優越感。見上げる薫のその視線すら、剣心をあおり立てる。
「ひあっ……」
腕を撫でていた剣心の手のひらが、唐突に薫の乳房をつかんだ。きつめに握られた肌に、薫が思わず声を上げる。瞑っていた目をそっと開くと、挑むような眼をした剣心が見上げていた。
「……やっと鳴いた」
「あ……ぃやっ……!」
にやりと笑う剣心に、薫が思わず口を押さえようとする。が、薫の手の甲は、口に到達する前に、剣心に絡め取られた。
「抑えずに。聞かせて」
剣心の熱を帯びた懇願に、声よりも身体が正直な反応を見せた。薄紅に染まった薫の両の乳頭がぴぃんと立ち上がる。剣心は待ちわびたように、それに吸い付いた。
「んあぁっ……!」
鋭敏になった薫の先端を、剣心の舌が容赦なく這い回る。ぴちゃぴちゃと舌で転がしたかと思ったら、今度はきうきうと音を立てて吸い上げる。剣心がわざと大仰に音を立てて責めているのだと分かっていても、薫は声を上げずにはいられない。
「こっちも見せて、薫殿」
剣心を抱きしめたり、逃れようともがいたりして動き回るうちに、自然と薫の腿は開ききっていた。自分でも気づかぬうちに、足を開いて秘部をさらけだしていたことに、薫は思わず眼をつぶった。
「ここ……開いてる……きれいな……桜色……」
「やめっ……」
乳房から腹へ舌と指を這わせながら、剣心の顔が薫の秘所へと到達する。指先で、薫の陰唇をくいくいと開いては閉じる。そのたびに、内側に溜まっていた薫の愛液がとぷりとあふれ出した。
「見ちゃ……いや……」
薫は真っ赤になって、剣心の愛撫を拒否しようとする。その残された薫の理性が、剣心の気に障った。
拒絶の言葉が出てこなくなるくらい、酔わせたい。追いつめて追いつめて、俺にしか見せない顔を引き出してやりたい。
ぞくぞくするような嗜虐心が、剣心の背中を撫で上げる。
「ん……」
「あ……ひゃあぁあん!」
薫の陰部に顔を埋めると、剣心はちゅるちゅると陰核を吸い始めた。同時に、人差し指と中指を薫の膣へ出し入れする。奥までは挿れない。すぐにでも薫のなかに押し入りたくなる衝動と戦いながら、剣心はあくまで薫からねだられるのを待つ。
「ほら、いくらでも……出てくる」
「やっ……そんなの……っ……」
ゆらりゆらりと動く薫の尻を眺めながら、剣心はほくそ笑む。もう少し。もう少しで、彼女は雌の顔になる。俺しか知らない方法で、俺しか知らない顔に。
たまらない。火花が脳髄を炙る、この感覚。
「っも……おねが……い……」
「ん……なにが……?」
「いじわる……」
「聞きたいんだ」
わざと舌を出したまま、薫の陰核から口を離した。剣心の口の周りを濡らした自分の愛液に、薫はますます頬を赤らめた。けれど、もう羞恥心は歯止めにならない。身体は、そんなものでは納められない段階に来ている。
「聞かせて」
薫に見せつけるようにして、剣心が薫の陰核に男根をすりつけた。熱を持った堅さを、薫の一番鋭敏な部分が感じ取る。びりびりと痺れるほどの刺激が生まれる。剣
心が中に挿入ったときの快感を、薫の身体は知っている。植え付けられた記憶が、早く早くと薫を急き立てる。もう、待ちきれない。
「ほしい……の……剣心……の……」
消え入りそうな声で、薫が言った。剣心の眼に、安堵と深い熱が宿る。余裕の仮面を被って、彼女の要求を待っていたけれど。剣心とて耐え切れなくなる寸前だったのだから。
「ん……はあっ……あぁ……」
薫に覆いかぶさると、剣心は一気に奥まで貫いた。粘りついた肉が、剣心の男根の形にこじ開けられていくのが、薫には分かる。ぎちぎちと音を立てて、内臓をかき回される。手の届かない場所で起こるその変化は、明らかに自分の身体とは異質なものなのに。自分の胎内にある、自分のものではない熱さと堅さが、どうしようもない快感を生む。
奥まで詰め込まれると、息が詰まる。引き抜かれると、物足りなくなる。何度もそれを繰り返されて、幾度となく膣壁をこすりあげられて、なにがなんだか分からなくなる。
「んあぁっ……! ふぁん……!」
「あ……かおる……」
自分の上げた声が、明らかに剣心を射精に追い込んでいることに薫は気づく。
もちろん、薫にだって余裕なんてあるはずはなかったけれど。受身であるが故の、ほんのすこしの意識の余地が、薫を老獪にしていく。
「ぃあぁあん! あぅっあくぅっ……!」
だらしなく口を開けて、溺れるようにみっともなく喘いでみせる。その仕草が、ますます剣心の余裕を奪っているのを、薫は身体で感じ取る。
演技といわれれば、そうなのかもしれない。けれどそれは、本能だ。男を誘い込む、女の本能。
ねぇ、見たいって言ったのはあなたでしょう? 見せてあげる。奥の奥まで。教えてあげる。わたしが女だってこと。あなただけの女だってこと。
「んぅっ……薫……もう……!」
「んんっ……きてぇ……いちばん……奥に……っ……!」
我を失ったような薫の要求に健気に応えて、剣心が薫の一番奥に精を放つ。何度かに分けて、胎の奥で剣心が跳ね上がるのを、薫は目をつぶって堪能する。
分かってる。こんなの、彼の一面に過ぎない。
だけど、今この瞬間だけは。剣心は、わたししか見ていない。
剣心は、わたしで埋め尽くされている。
意識も身体も、すみずみまでぜんぶ、わたしのもの。
優しすぎて、真面目すぎて、正直すぎて。がんじがらめのあなたが、こうまで解放される場所。それがわたしだったとしたら。
これ以上の幸せなんてあるかしら。ほかに、何が必要かしら。