「大陸では着替え中に訪問するのが礼儀なわけ?」
今朝方感じた視線と同じものを背中に受けて、皮肉が飛んでくる。
その背中は朝見たのと同じように真っ白で傷一つなかったが、両肩に赤い痣がちょうど五つずつついていた。
潮騒の丘で握り締めた跡。
赤い腫れは、跡に残る種類のものではない。
明日の朝には引いているだろう。
何事もなかったように。
無遠慮なその気配が立ち去らないと分かると、薫は脱ごうとしていた西洋浴衣を羽織りなおす。
小さな溜息。
今朝の光景が繰り返される。
違うのは、時間が夜更けになったことと肩の痣だけだ。
取り立ててすることのないこの島での生活で、唯一といっていい用事は三食の食事だけだった。
その三回ともが終わったら、薫はさっさと眠ることにしていた。
夜に起きて考えごとをしていても気分は沈むばかりだし、何よりいつ剣心が迎えに来てもよいように常に万全の状態でいることを心がけていた。
結局はそれだけが、今の彼女が海を隔てた想い人のためにできることなのだから。
そんないつもの夜が、突然の来訪者に破られた。
「食事だ」
『食事』?
耳を疑う。
夕食は既に片付けさえも済んでいる。
相変わらず縁は半分しか食べていないようだったが、それにももう慣れた。
むしろ、『毒』とまで言われた自分の食事を毎食ごとにきっちり半分食べる彼に感心すらしていた。
彼の体躯を考えれば、半分という量は決して十分とはいえない量ではある。
だが、『きっちり半分食べる』という法則がある以上、あとは全体量を増やしてやればおのずと量は一人前になる。
それに気づいた薫が持ってきた食事量の多さを、当初縁は怪訝そうにしたものだった。
が、意図が分かると何も言わなかった。
いつも通り、マズいマズいと言いながらきっちり半分だけを口にした。
その成人男性の一人前を平らげたはずの彼が『食事』?
「おなか空いたの? さっきと同じものでいいならすぐ用意できるとは思うけど……」
「お前のマズいメシなど日に三度喰らえば十二分だ」
それだけ言うと、縁は背中を向けて歩き出した。
わけが分からない。
分からないながらも、とりあえず縁の背中を追う。
真夜中の廊下に、スリッパのぱたぱたという音だけが響く。
テラスには具と米が炒められた見慣れない料理と、やはり見たことのない白い紙を丸めたような料理、そして温かい汁物が二人分用意されていた。
まだ夏とはいえ、海の只中に位置するこの島の夜は肌寒い。
潮流の関係で夜になると北からの風が吹きつけるせいだろう。
海からの風など素知らぬ顔で、料理から立ちのぼる湯気は気持ちよさそうに揺れていた。
「あなたが作ったの?」
答える代わりに、縁はいつも座っている側の椅子に腰掛けた。
何となく居心地が悪くなって、薫は向いの席に座る。
数秒間の無言。
「……いただきます」
気まずさの打開への期待と好奇心。
それを聞くと、やはり無言のまま縁は箸を動かし始めた。
とりあえず、とばかりに薫も箸を取る。
「美味しい」
純粋な感動。
少し後に、羨望と嫉妬。
「何よ、作れるんならあなたが作ってくれればいいじゃない。 だいたい、なんで人質の私が自炊しなきゃならないのよ?」
聞こえているのか居ないのか、縁は黙々と箸を動かしている。
それを見て気づく。
そういえば、毎日食事を作ってはいたけれど、この男が食べている姿を見るのは初めてだった。
左手より浅いとはいえ右手にもそれなりの怪我を負っているにもかかわらず、それを感じさせない。
箸は器用に皿と口を往復している。
「食ってる姿がそんなに珍しいか?」
「初めて見たから」
「お前のマズいメシを毎日ちゃんと食ってやってるだろうが」
「嫌なら食べるな! いつも中途半端に半分食べるくせに!」
「食事中に喚くな」
行儀を注意されると、悔しそうに一瞥して薫は食事に戻った。
不思議な味の料理だ。
辛かったり甘かったり苦かったり。
普段食べているものより、ずいぶん味付けがはっきりしている。
「上海の人は普段こういうものを食べているの?」
「他の人間のことまでは知らん」
とりつくしまもない。
質問するのはいったん諦めて、食事に集中する。
野菜は食べやすい大きさに刻まれているし、米の水気もちょうどいい。
白い紙のようだと思った料理は、もちもちとした皮ににおいの強い野菜を挟んで焼いたもののようだった。
縁がしているのを真似て、なにやら赤黒い不気味な汁に浸してから食べてみる。
においの強さに驚くが不思議と辛くはなくて、不思議な主菜とよく合った。
いくら料理下手な薫だとて、それなりに手のかかる料理だということくらいは分かる。
縁が見せた意外な器用さに、心の中で舌を巻いた。
「……案外器用なのね」
「お前が不器用過ぎるだけだ」
にべもなくはねつけられる賛辞。
再び、食事に集中することにする。
美味いには美味いが、やはり慣れない異国の味。
故郷である日本を遠く離れて十数年、彼はこういったものを糧にして生きてきたことが実感として分かる。
不思議な気分だった。
まったく違う場所で、まったく違う物を食べて育った二人が食卓を囲んでいる。
だがすぐに、そんなことは自分と彼とに限ったことではないと思い当たった。
あまりにもありふれた現実。
「ねぇ。 日本語の発音を忘れかけたって言ってたけど、日本の味は覚えているの?」
「…………」
『姉さんの味を忘れるはずがない』
そう言いたかった。
けれど、言い切れなかった。
味なんて曖昧なものを覚えている自信は正直言ってなかった。
そんなふうに姉の断片を忘れていきそうな自分が許せなくなる。
やれやれ。
どうしてこんなことになってしまったんだろう?
自分でも不可解だ。
黙々と食べ続けてはいるものの、別段腹が減っていたわけではない。
ただなんとなく。
本当にそれだけだった。
あの丘で見下ろした彼女の、真っ直ぐで幼い怯えが妙に頭にこびりついて。
それが気持ち悪かった。
会うためには、『食事』という理由しか思い浮かばなかった。
彼と彼女の接点はそれしかなかったから。
数日間同じものを食べてきたのに、顔を突き合せて食べるのはこれが初めてだった。
こんなふうに居心地が悪くなると分かっていたからこそ、一人で食べていたというのに。
焼きが回ったもんだ、と行き先のない苛立ちを自嘲して抑える。
「一緒に食べるなんてはじめてね」
どうやら相手も同じことを考えているらしい。
視線だけで返事を返す。
「うん、こんなふうにお夜食を外で食べるのも悪くないわね」
女は夜目がきくのか、海のほうを見遣って悦に入る。
「暢気なもんだな」
「そんなことないわ、焦ってるわよ。 でも、表面だけでも暢気にしてれば少しは気持ちが落ち着くでしょ?」
おかしな女だと思う。
こんな状況でも、いつか助けが来ると信じ込んで鷹揚にかまえている。
それが縁の調子を狂わせ、苛立たせる。
「さっきの答えを教えてやる」
「え?」
「確かに俺はお前を殺せはしないが、犯せはする」
女に怯えはなかった。
驚いているようだった。
ただでさえ大きな瞳が、さらにひとまわり大きく丸くなった。
「もしそうなったとしても」
浅い思案をしているのだろう。
斜め中空に眼が泳ぐ。
「確認する術なんてないでしょ。
『明るいところでは嫌』って言えば、あの人は無理矢理するようなことしないだろうし」
この女らしいといえばこれ以上らしい答えはないな、と妙に感心する。
最悪の事態を予想した上で、その先をどうするかの展望。
つとめて明るく。
そして女らしく老獪に。
強がりだったとしても、どうやら脅し文句が彼女に響かないことを悟る。
「ヤツに覚悟があると思うか?」
「『初めてじゃない私』を受け入れる覚悟ってこと?」
「それともうひとつ、昼間言ってた『人生において必要なコト』とやらもだ」
『人を愛することは、失う怖れと共に生きていくこと。 人に愛されることは、その人を遺してはもう決して死ねないということ』
「ひとつめについては、心配ないと思う。 ふたつめは……たぶん、この間まではなかった」
殊、自分を犠牲にすることについては厭わない剣心の性質が変わったのは、ほんの最近のことだ。
少しずつではあるけれど。
それでも薫は知っていた。
「ついでにもうひとつ聞く。……姉さんにはあったと思うか?」
ようやく、薫は縁に呼び出された意味を理解した。
正直に言えば、彼女にその覚悟はなかったと思う。
結局のところ、愛する人のために犠牲になるというのはそういうことだ。
だから、少し腹立たしくもある。
笑って剣心を遺して逝った彼女を。
大切な存在を失った人間の悲しみと虚しさを知っていながら、自分の死に満足してしまった彼女を。
失う怖れと共に生きる覚悟をできず、愛してくれた人を笑って遺して死んだ彼女を。
けれど、いくら腹を立てたところでどうしようもない。
すべては十数年前に完結したことだし、そこからすでに始まってしまっていることだからだ。
巴に対する縁の狂信的なまでの愛情を逆手にとって、巴の欠落を責め立てる場面を想像してみる。
彼が崇拝する姉を偶像として貶める。
なるべく汚い言葉で。
悪辣に。
弁解の余地さえ与えぬように。
弱点に容赦なく爪を立てる。
彼が一番大切に思って居る者は、裏返せば弱点にほかならないのだから。
同じやり口で復讐を遂げようとした彼の手によって、自分はここにいるのだから。
やろうと思えばできるだろうな、と思う。
そうすれば恐らくは、ここから脱出することもできるだろう。
けれどやっぱりそういうやり方は好きじゃない。
我ながら甘すぎるけれど。
だから答えない。
「あなたはどうなの?」
薫が問いに答えず質問を質問で返したことに、縁は不機嫌そうにする。
「俺に失うものなどない」
やはり、この負の縁で結ばれた兄と弟は似ているのだと思う。
だからこそ、お互いの剣先が他に向かないのだろう。
「うそつきねぇ」
「何だと?」
「失うものが何もないってことは、何も持っていないってことだもの。 本当に何ひとつ持っていない人間は目的なんて持たないもの。
剣心もそうだった。 失うのが怖いから、何も手にしないようにしてた。
……私たちとも距離を置いてた。 いつ離れてもいいように。
けど、壊れるくらいに落ち込んでいるのだとしたら、何も持っていなかったつもりでも何か手にしていたってことだわ」
女はどこか、自分に話しかけているのではないように見える。
恐らくは、今彼女が想っている男に言いたいことを縁に向かって口にしているのだろう。
目の前で話している自分は、海を隔てた場所にいる男の憑代というわけだ。
それがひどく不愉快だった。
「奪われたものは取り戻せなくても、どこかで似たものを手に入れられるかもしれない」
「だったら、お前も抜刀斎の代わりをどこかで手に入れるコトだな。 ヤツは俺が殺すのだから」
「捨てなければ、勝てはしなくても負けないわ。 だから私は何ひとつ捨てない。 それがどんなに重荷になったとしてもね」
それが彼女の覚悟なのだ、と縁は思う。
姉の覚悟について話さない代わりに、薫は自分の覚悟を語ったのだ。
聞いても居ないのに、とどこか捻る自分が居る。
「あなたも捨ててないから、たぶんまだ死ねないわよ」
それまでとは打って変わって強い視線。
射すくめられる。
けれど、それは癪に障るから。
「俺が生きているなら、抜刀斎は俺に殺されることになるな」
無言で薫は縁を見つめる。
笑いもせず、怒りもしない。
真剣な眼差し。
そこに何かを探しているように。
そんな視線が遠慮なしに真っ直ぐ投げかけられるものだから、縁は居心地が悪くて仕方ない。
睨むようにして眼を合わせる。
けれど、彼女は決してひるまない。
ひと睨みすれば裏社会の人間でさえ裸足で逃げ出す彼の視線を、そよ風とも感じていない。
そんなに見たければ好きなだけ見ればいい、と投げやりになる。
どうせ見られて穴が開くわけでもないのだし。
だが、開き直ったところで纏わりつく視線を無視できるはずもなく。
何度も感じたことをあらためて思う。
変な女だ。
彼にだって審美眼はある。
見た目は綺麗な女だと思う。
けど、中身が珍妙過ぎる。
なぜあの男は美しく聡明だった姉の代わりに、よりにもよってこんな風変わりな女を選んだのだろう?
飽きもせず向けられる視線に辟易する。
いっそのこと首でも絞めてやろうかと思う。
自分の手で命を絶つことはできないけれど、脅しくらいにはなるだろう。
だが彼女の座っているテーブルの対面へ届くには、彼の長い腕を持ってしても尺が足りないようだった。
運のいい女だ、と毒突いてみる。
なんの害もなさない毒。
眼で尺を測ってから、柄にもなく思う。
これが自分とこの女との距離なのだろう。
遠くもなく、近くもない。
けれど、触れられない。
近くに居られると居心地が悪いけれど、無くすと物足りない気もする。
そこまで考えてから、下らない、と頭の中から考えを追い出した。
さらに数秒の後、薫は二、三思案して席を立った。
昼間草原でしたように、猫のような伸びをする。
「もしそうなったら、上海に連れて行ってよ。 マフィアのボスの奥さんってのも悪くないわ」
突然で意外過ぎる発言に面食らう。
……本当に妙な女だ。
「料理の作れない女がか?」
「いいじゃない、あなたが作れるんだから」
「とっとと寝ろ」
「とっとと寝るわ。 ご馳走様。 おやすみなさい」
「……オヤスミ」
真夜中は、誰にも平等に訪れる。