潮騒

せなか。
真っ白な背中。

偶然の産物だった。
薫の居る部屋に入ろうと手にかけた扉の隙間から、着替えるために肌を晒していた彼女の背中が見えた。

そこに傷はなかった。
そんな当たり前のことが、ひどく縁を混乱させた。
彼が知っている唯一の女性の背中には、大きく袈裟斬りにされた刀創が刻まれていたから。
そしてその傷が刻まれた瞬間こそが、彼の中の何かが音を立てて壊れた時だった。
十数年前の冬。
幼く小さい自分の力を噛み締めた、雪の日。

「着替え中に入ってきてそのまま居座るなんて、いい度胸してるわね」

いつまでも立ち去らない縁の気配に気づいたのだろう。
背を向けたまま、薫が言い放った。
半ば放心していた縁が、その声で自分を取り戻す。

「俺の屋敷だ。 俺の居たい場所に居て何が悪い」
「無理矢理招待しておいて、いい言い草だわね」

縁が立ち去る気配を見せないことを悟ると、薫は溜息をついて今脱ごうとしていた西洋浴衣を羽織りなおした。

「お昼にはまだ早いと思うけど?」

もちろん、彼女は彼が空腹を訴えにやってきたわけではないことを知っている。

「お前の不味いメシなど関係ない」

幾度目かになる彼の苦言をやりすごす。
言われなくとも自分の料理の腕前くらいは分かっているし、たとえ誰もが唸るような料理を並べたところで彼は同じことを言うだろう。
交わした言葉は多くないが、数日間縁と二人きりで過ごしたことによって、薫はおぼろげに彼の性質が分かってきた。
素直という言葉からは程遠い性質。
それは彼女が東京で共に暮らす想い人と同じ性質のものだったが、発露の仕方はまったく異なっていた。

「暇そうね。ちょうどいいわ。 少し話さない?
ここ、私とアンタの他に誰も居ないんだもの。 退屈で仕方ないわ」

反射的に縁は、『なぜ俺が』という表情と仕草を浮かべる。
だが薫は、それが反射的なものであることを知っている。
髄反射的反応。
そこに後悔が含まれるのかは分からない。

白砂青松。
そんな言葉が似合う風景だった。
外洋からやって来る者には断崖となって道を阻む崖も、島に居る者にとっては単なる眺めのよい小高い丘にすぎない。
果てのない青空。
潮気を含んだ優しい風。
風にまかせて気持ちよさそうに揺れる草の海。
平和と調和がそこにあった。

「なぜわざわざこんな所まで来る必要がある?」
「いい天気だもの。 家に閉じこもってばかりじゃカビが生えちゃうわ」

空に向かって気持ちよさそうに小さな身体を伸ばす彼女からは、とてもではないが『囚われの身』である自覚は読み取れない。

「もう少し捕虜らしくしたらどうだ? 懇願してみれば、俺の気も変わるかもしれんぞ」
「裸になって、『私を好きにしていいから東京へ返して』って命乞いすればいいわけ?」
「いい手かもしれんな。
もしくは西洋の虜囚にならって『足手まといになりたくない』と自害してみたらどうだ?
俺としては、そのほうが手間が省けてうれしいんだがな」
「馬っ鹿馬鹿しい」

相手にできない、とばかりに薫はもう一度伸びをする。
うずくまっていた猫がするような、柔軟な伸び。
伸びた拍子にぎゅっとつぶられた睫毛を、太陽光がふちどる。
光を集めたまぶたが額から鎖骨に続くやわらかな稜線にちょこんと乗るさまは、どこか幸福の匂いがする。
縁がもっとも忌避するもの。

「あなたのお姉さんなら、そうしたと思う?」

いつもなら。
いつもなら、他人の口から姉を語られることを不愉快に感じるに違いなかった。
けれど、なぜかこの女の質問を素直に考え始めている自分が居る。

姉なら、どうしただろうか?
彼女が死んだあの寒い日と同じように、せめて一矢報いて死のうとするだろうか。

「思うんだけど」

質問を宙ぶらりんにしたまま、彼女は勝手に話を進める。
薫はいつの間にか、青い草むらに腰を下ろしていた。
目をそむけたくなるほど真っ直ぐな視線が縁を貫く。
それが自然な仕草なものだから、余計にたちが悪いと心の中で舌打ちする。

「巴さんはもし当初の思惑通り剣心を討ち取ったら、その後どうするつもりだったのかしら?」

考えたこともなかった。
姉が上洛した理由と過程、そしてその結果。
現実に見てきた彼には、それがすべてだったから。
その後の人生全てを縛る鎖となるほど重いものだったから。

いくら見つめても、縁から答えが返ってきそうもないことを悟ると、薫は一人続けた。

「私はね、目的どおり剣心を愛することなく清里さんの仇を討ち遂せていたとしても、巴さんは死んで居たんじゃないかと思うの」

意外で不愉快な答え。
でもどこか納得してしまう。
いくつもの命を奪ってきたから分かる。
姉のように清廉な人間は、奪った命の重みと痛みに耐えられぬこと。
もしも激情に駆られて命を背負うことになってしまったら、きっと生きていけなかっただろうこと。

「命までは奪ったことはないけれど、私は剣士だから。 きっと、あなたのほうがよく分かってるんじゃない?」

今さら言っても仕方のないことだけどね、と彼女は付け加えた。
なぜだか悔しかった。
同じ男に愛されたということを差し引いたとしても、会ったこともない姉について、どうやら自分より理解しているらしいこの女に。
こんな平和な情景に馴染みながら、さらりと死を口にできるこの少女に。

「……何が言いたい?」
「お生憎だけどあなたのお姉さんと違って、私は死ねないわよって言っておこうと思ったの」

確信に満ちた微笑み。
どこか悪戯っぽく。
それが、縁の居心地を悪くする。

「……ふてぶてしい」
「ええ、ふてぶてしいわよ。 このくらいふてぶてしくないと、あの人を支えるなんてできないもの」

冗談めかした彼女の言葉を冗談と受け取れる余裕が縁にないのを察すると、薫は困ったように苦笑した。
きっとこの生真面目すぎる思い込みの強さが、今の彼を形作ってしまったのだなと、少し寂しくなる。
その生真面目さは、彼女の想い人が持っているそれと同じものだから。

「人を愛することは、失う怖れと共に生きていくこと。 人に愛されることは、その人を遺してはもう決して死ねないということ」

だから、歌うように口にする。
彼女だけが紡げる愛の形を言葉にする。

「……なんだそれは」
「人生において必要なコトのひとつ。 覚えておいて損はないと思うわよ」
「俺には関係ない。 じき抜刀斎が殺されれば、お前にも関係なくなる」
「先のことなんて誰にも分からないわよ。 たとえば、殺されたはずの私が生きていたりすることだってあるわけだし」

ふいに、悲しくなった。
何に対してかは分からない。
『悲しい』なんて気持ち、姉のことに対して以外感じたことがなかった。
思い出さねばならないほど、遠い感覚だった。

なぜ悲しいのだろう?
それは、自分がこの少女にあまり触れたくなかったことと同じ理由。
たぶん。
たぶんこの少女に比べて、自分があまりにも空っぽだからだ。
薫がいかに多くのものを持っているのかを知るたびに、自分の空っぽさを痛感する。
空っぽな器を満たすために、憎悪と怨恨を溢れさせ続ける己。
それは一つの完結した機械を思わせる。
完結していたから、これまでは他のものは必要なかった。
それなのにこの少女ときたら、あざ笑うかのように彼に必要なものを提示し続けるのだ。
まるで手品みたいに。
だから苦手だった。
だけど、どうしようもなく気になった。
愛であるとか恋であるとかといった感情ではないと思う。

柄にもなく、どこかできいた御伽噺を思い出す。
知恵を持った鏡の話。
それを覗くと、鏡は覗いた者が王様になるために必要なものを教えてくれる。
けれど、同時に覗いた者の真の姿を映し出してしまう。
王になるためには、醜い自分を見なければならないという皮肉。
だから国中の者がその鏡を恐れるけれど、同じように国中の者がその鏡を見たいと思っている。
そんな類の不毛な御伽噺。

自分だったら、その鏡をどうするだろうか?
覗けもしない。
けれど気になる。
気になる自分に苛立つ。
それならば――――

「殺せはしないけど、犯せはするの?」

見上げられた眼は、相変わらず真っ直ぐで。
彼の肩越しにある青い空を映し出していた。
押し倒した時に握り締めた薫の肩に、ぎりりという音を立てて爪が食い込む。
彼女はやや眉をしかめるが、抗議はしない。
けれど握り締めた細い肩の震えが、少女の精一杯の虚勢を伝えていた。

「ここでお前を犯したら、抜刀斎はどんな顔をするかな」

その言葉は、確かに少女に恐怖を与えたようだった。
けれど、少女が怯えをみせたのは僅かに一瞬。
立て直して、元の強気な偽りの眼に戻る。

「悲しむでしょうね。 でも、受け入れてくれると思うわ。 剣心は自分以外の人間には優しいから」

そうだろう、と縁も思う。
生きてさえいれば、どんな状態であってもあの男はこの女を愛し続けるのだろう。
かといって、縁に薫を殺すことはできない。
自分の手では、あの男にとって一番大切なものを奪うことはできない。
その皮肉がひどく縁を苛立たせる。
そしてふいに悲しくなる。
この少女と二人で過ごすようになってから、何かが崩れていっているのが分かるから。
その崩壊は砂時計を思わせる。
崩れていくさまは見えるのに、音も聞こえず、触れることはできない。
不可侵な場所で、『それ』は確実に崩壊へ向かう。
それまでの彼にとっての支柱だったものだけれど、もしかしたらないほうがいいかも知れないもので。
知りたくないけれど、知らないふりをしていたいけれど、たぶん遠くない未来に知らねばならぬことで。

「それでももう、俺は止まれない」

意地のように吐き捨てる縁の眼は、薫のそれから二寸ほども離れていなかった。

「うん、止まらなくていいと思うわ」

似ている、と薫は思う。
剣を交えようとしている二人は、悲しいくらい似ている。
二人とも、魂を縛るいばらから逃れたがっている。
血を流してもがきながら。
どれだけ自分と相手の血を流しても決して救いは来ないことを知っているけれど、どうしようもなくて。
分かっているのに、見ていることしかできない自分がもどかしくて堪らない。
そこから何が生まれるわけでもないのに、彼らはぶつかり合わなければならないのだ。
勝利も敗北もない闘いを、血と肉をもって繰り広げねばならない。
自分が抱える幼い想いが、酷く滑稽にみえる。
だから、信じてみる。
男をではなく、自分の想いを。

「剣心がきっとあなたを止めてくれるから。 止めてくれる人が居ることは喜ぶべきことよ」

そう言った女の笑顔は、それまで見せていた強気なものとは違っていた。
どこか虚ろで、根拠のないものだった。
まるで願いのような。

「……止まるのは、ヤツの息の根だ」

折り重なった二つの影は、近づくことも離れることもなかった。
抜けるような蒼穹の天蓋と規則的な潮騒に、ただ虚ろな言葉が揺れていた。

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