2.合縁導線

「それじゃ、またね! また京都にきてね、薫さん! ぜったいだよ!?」
「もちろん! 操ちゃんも、いろいろとありがとう」
「カカカ! 嬢ちゃんが次に京都へ行くのは、遅けりゃ来年の盆だろ? お前が嬢ちゃんの祝言で東京へ来るほうが早ぇんじゃねぇのか? なぁ、剣心?」
「ななななな、なに言ってんのよ、もう!!」
真っ赤になってじたばたと暴れる薫のとなりで、剣心は否定も肯定もせずただ微笑む。その後も、操と弥彦の小競り合いだの、操の大仰な別れの挨拶だのが続いていたが、停車中の汽車が警笛を鳴らしたのを合図に、今度こそ別れの時がやってきた。
「それじゃ、今度こそ本当に、またね! また何かあったら、いつでも声かけてちょうだい!」
「縁起でもねぇこと言うなよ。そうそうこんな大事件があってたまるか」
「今度来たら、浅草と銀座に行こうね、操ちゃん」
「うん! オイ緋村、今度またあんな情けないことになったら、あたしがぶっ飛ばすからね!」
「ああ。操殿も身体に気をつけて。蒼紫も、世話になった」
「ああ」
「蒼紫さんも、こっちの水が恋しくなったときは、いつでも帰ってきて下さいね」
薫の笑顔に軽くうなずくと、蒼紫が迷いなく踵を返す。
神谷家ではこれといった会話をしなかった二人の不思議な連帯感に、剣心と操が狐につままれたような顔をする。それでも、他意を含んでいるとは思えない薫の笑顔と、振り返らない蒼紫の間に、特別な距離は感じられなかったから。
操は、最後にもう一度人さし指と中指を立ててぴっと別れの合図を送ると、飛び跳ねるようにして蒼紫について行った。それから、汽車は定刻通りに発車した。
「薫、おまえ、あんまり軽々しく男にそういうこと言うなよ」
隣で無邪気に手を振っている薫に、弥彦がぼそりと忠告する。
まったく薫ときたら、鋭いくせに変なところで鈍感で、見ているこっちがひやひやさせられる。何の気なしに出る彼女の言動が、男にとってどれほど眩しいか、理解していやしないのだから。
「なんのこと?」
「……なんでもねぇ」
「ヘンな子ねー」
もちろん、薫が自分で気づいているはずもなかった。とぼけた彼女の返事を聞いて、弥彦はやれやれとため息をついた。

「なあ、ジイさん。あの新入り、ほとんどメシ食ってねぇぞ。大丈夫なんかね」
「ホ?」
「アンタ、甲斐甲斐しく世話してるけどさ。言いたかねぇが、長くないと思うぜ、あの兄ちゃん」
「フム……」
老人は、崩れかけた壁によりかかったまま俯いて座り込んでいる青年を振り返る。
老人が今朝青年の前に置いた朝食は、手を付けられないまま乾いていた。左耳から流れた血が固まって、真っ白い髪にこびりついている。水さえ摂っているか分からないその青年は、ここへ来た当初に比べて、ずいぶんと痩せこけてみえた。
「すこしは食わんと、よくなるものもよくならんぞい」
青年は答えない。うなだれた前髪で表情は見えないが、眠っているのかも知れない。
「フム……」
たっぷりとした白い鬚に手をあてて、老人は考え込む。
拾って貯めたなけなしの金で水菓子を与えてみたり、市井の人々に施されたタバコを与えてみたりと、いま老人ができる手立ては、あらかた試したつもりだ。それでも、青年はほとんど反応を示さなかった。
答えを求めるように、空を仰ぐ。秋口の高い空に、なぜだか娘のなつかしい微笑みを見た気がした。

「はー、やっと京都! 翁たち、五条大橋まで迎えに来るって言ってましたよね」
「ああ」
「ふっふ~ん、このごろ都にはやるもの~、おきな、おかしら、みっさおちゃあ~ん♪」
鼻歌を歌いながら、操がかばんから錦絵を取り出す。
「ふっふっふ。これを見れば、翁のヤツも、しばらく見ない間のあたしの成長っぷりに度胆を抜かれるってもんだわ。ほら、見てくださいよ、蒼紫様! あのネクラ兄ちゃんにお色気三割り増しで描いてもらっ……ああっ!」
操が得意げに錦絵を広げてみせたのと、突風が吹いたのは、ほぼ同時だった。操の指をすり抜けた錦絵は、風に乗ってゆらゆらと舞い上がり、最後に川面へ着水した。
声にならない叫びをあげると、操は橋の欄干にかじりつく。川の流れはゆるやかだったが、かといって、今から河原に降りて追いつける速さではないようだった。
「きゃー! な、なんでぇ……ひどい……」
「身の丈にあわぬ真似をするからじゃ」
聞き馴れた声に、操は振り返る。呆れたように鬚を撫でる翁がそこにいた。
「爺や!」
「よう帰ったの操、蒼紫。ご苦労じゃった」
「なんのなんの。ただいま!」
先ほどまでの落胆はどこ吹く風で、操が翁に満面の笑みを向ける。泣いた烏がもう笑うとはこのことだな、と翁は操の無邪気さに顔を綻ばせた。
「ところで操、いま飛んで行ったのは……」
「あ、そうなの! 聞いてよ、爺や。せっかく描いてもらった錦絵が……」
「ほう、ありゃ錦絵じゃったのか。そりゃ残念じゃのう」
「まぁ、もう一枚あるからいいんだけど」
「……さよーか」
「なによその顔は。『隠密の本質は徹底した現実主義』って教えたのは翁でしょ。予備の用意くらいするわよ」
「ふむ。見せてみい」
「へっへー、これこ……」
「隙あり! 一度の失敗で学べておらぬ! また飛ばされることを見越して、家で取り出すのが正解じゃ」
「むっきー! ハメたわねぇっ!」
操がくり出した快鳥蹴りを、翁は軽々と避けた。往来で繰り広げられる元気の見本のような光景に、蒼紫は人知れず気を緩める。
修練を積んだ人一倍聡い蒼紫の耳が、ちゃぷりという水音とともに流れていく錦絵の音をとらえた。常人にはとらえられない微かな音は、やがてどこへともなく消えていった。

「ハアァ~、ええじゃないか~」
右に左にのたりのたりと揺れながら、オイボレは歩く。その陽気なさまを見た道行く人が、みちみち饅頭をふたつばかりオイボレに施した。
施された饅頭を懐に入れるわけにもいけないから、老人は器用に二つともを右手のひらに載せて歩き続ける。大京都の往来だ。歩いていれば、包み紙になる号外や新聞の一枚や二枚は落ちているだろう。
「ええじゃないかぁ~」
調子っぱずれな老人の鼻歌に、河原で語らっていた男女がくすくすと笑う。底の抜けた帽子を持ち上げて、オイボレが笑い声にこたえると、娘はひらひらと手を振って返した。
容姿も服装もごくごく普通の娘だったが、その満たさ
れた笑顔は、老人の胸をひどく切なくさせた。
亡き娘は、こんなふうに笑ったことがあっただろうか。秀でた容貌を持ってはいたけれど、何の因果か、娘は笑うことが苦手だった。
幼い頃から想いを寄せていた幼馴染みとの祝言が決まった時でさえ、娘はただ目をまるくしていただけだった。その後の不幸で、彼女は表情をますます凍り付かせ、ついに父親にすら満面の笑みを見せられないまま、旅立った先で儚くなった。
救いといえば、どのような形であれ、彼女が想いを遂げたということだ。最後のその瞬間を迎えるまでに、一度でも心から笑ったことがあったなら、よいのだけれど。
裸足で歩くようになって、もうどのくらい経つだろう。すっかり足の裏の皮が厚くなって、痛みなど久しく感じたことがないというのに。河原の砂利道は、やけにちくちくと土踏まずを刺した。
思い返せば、食うに困ったときや物思うとき、自然と河原に足が向いていたことを思い出す。かつて、税がかからないという理由で、埒外の者たちは河原に住み着いたという。なるほど、河原者とはよくいったものだ。世間の部外者に、ここはひどく居心地がよい。
「ハアァ~、ええじゃないかぁ、ええじゃないかぁ……」
陽気に歌いながら、社会の外枠にいる立場が板についてきたものだと思う。何もかも失って、失ったことからすら逃げ続けて、ここまできた。なのに今さら、何を拾おうとしているのだろう。沈み込んだ傷だらけの青年を思い出す。
知らぬ間に、手に力が入っていたことに気づく。気づけば、手のなかの饅頭が、窮屈そうに押し潰されていた。
「ホ。いかんいかん」
いつものごとく脱力する。緩さと能天気さが、いま持っているすべてだ。それでよいではないか。
千鳥足を気取って、ふらりふらりと歩き出す。五歩ほど進んだところで、左足の下でくしゃりという音がした。
「オヤ? こりゃ、おあつらえ向きじゃの」
石に引っかかって今にも飛ばされそうな楮紙を拾い上げる。上流から流されてきたのだろう、端はまだ湿っていた。それでも、おおむね乾いているその紙は、饅頭を包むのにちょうどよい大きさだった。
「ハアァ~、ええじゃないかぁ……」
手早く饅頭を紙で包むと、懐にしまって、のらりくらりと歩き出す。このぶんならば、いまなお同じ場所でうずくまっているだろうあの青年に、今日の収穫を無事届けられそうだ。
足取り軽く歌う老人からは、いつの間にか足の痛みが消えていた。

「薫、この時計、持って行ってもいいか?」
普段自室で使っている置時計を片手に、弥彦が居間を
覗き込んだ。弥彦の衣類を、夏向けと冬向けに分類していた剣心と薫が振り返る。
「いいわよ。ええとね、ぜんまいはここから巻くの。二日にいっぺんくらい巻けば大丈夫よ」
「なるほど」
薫に言われたとおり、弥彦がぜんまいを巻いてみせた。時計に耳をつけて、こちこちと規則正しく刻む音を確かめる。
「ほかに入り用なものってある? 弥彦」
「うーん、ぱっと言われても思いつかねぇよ」
かりかりと頭を掻きながら、弥彦が答える。
引越しとはいえ、毎日神谷道場へ顔を出すことには変わりがない。必要かと問われれば、何もかもが必要な気もするし、特になにも持って行かなくてよい気もする。
「そうよねぇ……。ねえ剣心、なにかあると思う?」
「拙者も特には……。ここを出ると言っても、稽古や食事で毎日来るのでござるし、そう一度にすべてを持って出なくとも、よいのではござらんか」
「それもそうね。あ、弥彦、敷布の替え、持って行きなさいな。ないと不便だわ」
「あのなぁ、言ったそばから荷物を増やすなよ! 一度に運べる量だって、限りがあるっての」
あきれたように言う弥彦に、薫はむっとした表情を作る。
せっかくまとめた荷物を、いつものケンカで乱されてはかなわないと、剣心が話題を変えた。
「そういえば、蒼紫と操殿はそろそろ京都へ着いたころでござるかな」
「そうね。翁さんたち、きっと喜んでるわ」
「あの爺さんが、操がいないくらいでしょぼくれるようなタマかよ」
うまく話題が反れたことに、剣心は一人ほっとする。さしあたり、騒動は免れたようだ。
「とりあえず、明日は大掃除かしらね。左之助が住んでた長屋だから、きっとすっごく汚いわよ」
「ああ。せめて、生ゴミが残ってないことを願うばかりだぜ……」
「ははは……」
日本を離れた、賑やかな友人に思いを馳せる。結局、当面の衣類と布団、それに少しの食器さえあればよいだろう、と三人は結論づけた。

「ホレ、今日もらった饅頭じゃ。うまいぞぉ」
「ジイさん、よしとけよ。何しても無駄だって、その兄ちゃんはさ」
「ホッホッホ、まあそう言わずに。これも性分でな」
「ホント、あんたは人がいいよなあ」
「それだけが取り柄じゃからの、ホッホッホ」
朝と同じ体勢のままうずくまっている青年の前にしゃがみこむ。あいかわらず、彼は無反応だった。
「無理にとは言わんよ。気が向いたら、食うといい」
いつも通りにやさしいオイボレの言葉と態度に、後ろから様子を見ていた男は、やれやれと肩をすくめた。どうせ、いくら優しくしてやったところで、あの白髪の青年が反応を返すわけがないのだ。期待するほうがおかしい。
オイボレも同じことを考えていたようで、包みを置くだけ置くと、とよっこいせ、と腰を上げた。
「……や……ぉ……る……」
実に十数日ぶりに、青年が声を発した。
長いこと使われていなかった声帯はうまく震えず、渇いた喉は流暢な撥音を許さなかったけれど、そのくちびるは、確かに音をつづった。
その微かな声は、ただひとり、オイボレにだけ届いた。振り返ったオイボレが見たのは、置いた包みをぼんやりと見つめる青年の姿だった。
青年の視線は、中身の饅頭ではなく、包み紙ただ一点のみを見つめている。
何か変わった模様でもあったか、と老人は目をこらす。水でにじんでうまく判別することはできなかったが、そこには年頃とおぼしき少女二人の絵がかかれているようだった。
ひょいと持ち上げて、さらに検分する。地面に接して隠れていた部分には「明治十一年秋 於神谷道場」の文字が読み取れた。
思い当たる。
まだ残暑厳しい季節に、一飯を提供してくれた少女は、たしかにここに描かれている少女だ。年頃の娘にしては奇抜な格好をした、弾けんばかりの元気にあふれる少年のような少女。たしか、武士の輝きを瞳に残した少年は、彼女を『操』と呼んでいた。
操のとなりに描かれているもう一人の少女は、操よりひとつふたつ年上のように見える。その少女は、長い黒髪をリボンで高くまとめて微笑んでいた。紙の中からであっても、包み込むようなその笑顔は、見る者を安心させる。
描き手の巧手もあるのだろう。その絵は、少女たちが微笑む楽しさやうれしさ、ほんのすこしの照れくささを、見事に捉えていた。
直感する。
詳しくは語らなかったが、オイボレが神谷道場を訪ねたころ、操と弥彦は、誰かを探しているようだった。そして、絵の中の操は、悩みとは無縁といった表情で、隣の少女と笑っている。
市井の営みの邪魔はすまいと思いつつも、見聞きしたこと、経験したことをオイボレはつれづれと思い出す。
崩壊した剣客、彼が愛し失った女、多くの人間が涙したという葬儀、誰かを探す少年少女、再び立ち上がった男。急に恋しくなった娘と、墓前で自分なりにつけた決着。そして、落ち着き先で出会った傷ついた青年。
老人のなかで、すべてが繋がる。
だれよりも何よりも、優しい娘だった。だからきっと、これは彼女の意図だ。
最期を看取った夫からようやく離れたのは、もう、彼には自分が必要ないと安心したからなのだろう。その証拠に、いま娘はこんな駄目な父親と、純粋すぎる弟のそばに居てくれる。
「もうふた月もすれば、雪も降ろう」
老人は、縁の前にふたたび包みを置く。あたかも今雪が降っているかのように、手のひらを上に向けてみせた。
「京都の冬は、このオイボレにはちと堪える。いまのうちに、場所を移したほうがよいの」
例えば東京など、と老人はおどけながら付け足した。縁は老人の話を聞いているのかいないのか、ただその包みだけを視界に入れていた。
「一緒にいこう、お若いの。気分転換くらいにはなるじゃろ」
その言葉には答えないまま、縁は包みに手を伸ばした。

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