「弥彦、もうすこし右へ」
「おう。よっこらせ……っと」
どすん、と音を立てて畳を降ろす。浮き上がっている畳のへりを足で馴らすと、弥彦は満足そうに腰に手をあてた。
「よっし! これで終わり!」
「晴れてよかったわね。この時期やっておけば、年の瀬に畳干しなくてすむわ」
干したばかりの畳は、日当たりの悪い長屋へ久しぶりに太陽のにおいを運んだ。深く吸いこむと咽せてしまいそうな、埃っぽくてくすぐったいにおいだ。
「障子も張り替えたし、あとは梱をウチからいくつか運んで……」
「いや、いい。当分の着替えと布団も、もうあるしよ。オレ、今日からここに住むよ」
持ってきた置き時計のネジを巻きながら、弥彦が当然のように言った。寂しがるわけでも、突っ張っているわけでもないその様子に、薫は拍子抜けする。
「で、でも……まだ、火鉢も綿入れも……」
「今すぐ必要なモンじゃねえだろ。少しずつ持ってくるからいいって」
「そうだけど……」
「薫お前、オレがいないのが、そんなに寂しいのか?」
「そういうわけじゃないけど……やっぱり、心配だし……」
「薫殿、彦なりの決意があって言っていることでござろう。ここはひとつ、弥彦の言う通りにするでござるよ」
「うん……」
「稽古には毎日通うし、そしたらメシだってそっちで食うんだ。寝る場所が変わるくれぇなもんだって」
「そうよね……。ひとりだからって、あまり不精しちゃだめよ、弥彦」
「わかってるよ」
いつになく素直に忠告を聞き入れる弥彦に、剣心と薫は彼の決意の固さを知る。
いくら剣の腕が立ち、しっかりした気性をしているとはいえ、弥彦はまだ十年とすこししか生きていない少年だ。剣心と薫という後見があるとはいえ、一人で暮らすというのは、それなりの決意と覚悟が必要だろう。そうまでして思いつめた彼に、これ以上の心配は無粋というものだ。
「それに、左之助と約束したからよ。お前ら二人のお邪魔虫にならねーって」
「も、もう! なに言ってんのよこのコは!」
両手をじたばたと動かす薫に、弥彦はへへっと舌を出してみせる。
「さて。オレもう、赤べこに行かなきゃなんねぇ。また、明日の稽古でな」
「何かあったら、いつでも相談するでござるよ、弥彦」
「ああ!」
駆け出して行く弥彦を、剣心と薫は見送る。まだまだ危なっかしいけれど、日々目ざましく成長していくその姿は、逞しく、頼もしかった。
「剣心、それじゃ多すぎない?」
「おろ? しまった、そうでござったな……」
味噌汁をかき回す薫の隣で、牛蒡をささがきにしている剣心が手をとめた。気を張っていないと、ついいつものくせで三人前をこしらえてしまいそうになる。
「ちょくちょく食べにくるとはいっていたけど、今日からはふたり分なのよね……」
心持ち物足りなさそうに、薫が木杓子を揺らす。
元来根が寂しがりやなところに、このところ立続けに別れが続いている。まして、一緒に暮らしていた弥彦との離別だ。薫が寂しがるのも無理からぬことだと、剣心は思う。
「さびしいでござるか?」
彼女の心の隙に付け入るのは、卑怯だと思う。けれど、いたずらに重ねた年齢と、本人の預かり知らぬところで肥大していく恋心が、剣心を素直にしてはくれなかった。彼女が決して質問を肯定しないことも、知っているのに。
「ん、そんなことないわよ。弥彦にだって考えがあるんだろうし……。それに……」
「それに?」
続く言葉が分からずに、剣心は首を傾ける。薫は、所在なさげに鍋を見つめたまま言った。
「剣心とは……一緒だし……ずっと……」
その衝撃は、剣心の表情ではなく、指先に現れた。
ざくっと大きな音がしたかと思うと、左手の指先から血が流れた。それでも、剣心本人は痛みに気づいていないらしく、大仰な音をたてて、乱雑に牛蒡を切り刻み続けている。
「ちょっ……剣心、もう牛蒡はいいって……きゃああっ、ゆび! ケガしてるじゃない!」
慌てて薫が、剣心から包丁を取り上げる。調理用の懐紙を取り出すと、剣心の指にあてがった。
「びっくりしたぁ……。どうしたのよ? 剣心が刃物の扱い間違えるなんて……」
「面目ない……」
剣心の指の根元をおさえて止血しながら、薫はしげしげと剣心を見た。
その無遠慮なまでに真直ぐで、純粋で、飾らない瞳に、剣心はふいに泣きたくなった。
彼女はここにいる。いつでも。いつまでも。
こんな男のとなりに。こんなにも自然に。
日々繰り返される、ちいさなちいさな幸せを、当たり前のように紡ぎながら。埒外にいることを言い訳にしてきた剣心を、幼子の手を引くようにして、ゆるやかに、おだやかに、巻き込みながら。
「薫殿」
それまでと違う剣心の声色に、指先を見ていた薫が顔をあげた。
きょとんと大きな瞳で見上げている彼女は。いまだ少女ではあるけれど。
紛れもなく、たったひとりの女だ。
こんなにも、自分の中の男を引きずり出す。
剣心本人ですら、持て余すほどに。
あとからあとから、尽きることなく溢れて来るこの想いを、どう伝えたらよいのかすら分からない。そんな愚かで、幼い男だけれど。
間違えようもなく、このひとが最後の女だ。
たとえそれが死であったとしても、彼女と自分を分かつことは許さない。
「死にすら、薫殿を浚わせはしない」
もしかしたら、剣心は怯えているのかも知れない。
こわばった目もとと、怒ったように力がこもった眉と、燃え盛りながらも縋るような瞳とが、薫にそう思わせた。
けれど、その決して洗練されているとはいえない剣心の態度と言葉は。体裁だとか余裕だとか年齢だとかを取り払った、抱えきれない思いに戸惑う不器用な男そのもので。それが等身大の剣心なのだと、本能的に薫は悟った。
「薫殿と一緒に、ずっと居たい」
いまにも逃げ出してしまうのではないかと思うほどの、少年らしさを残したその言葉と表情は。粗くていびつで、純粋な彼の想いそのものだったから。
「はい」
笑いながら、薫は泣いた。
「薫殿、すこし」
切り過ぎた牛蒡を水にさらしていた薫は、台所の戸口に立っている剣心へ振り返った。すでに風呂も済ませて
着替え終わり、あとは寝るばかりだ。
行灯の油でも切れたのかと思い、薫はうなずいて剣心について行く。居間を抜け、縁側を渡ってたどりついたのは、深夜の道場だった。
「剣心?」
こんな時間に何の用があるのかと、薫がたずねる。
何の前触れもなく、剣心は片膝をついて、神棚の前にふかぶかと頭を垂れた。それは、祈っているようにも見えたし、許しを乞うているようにも見えた。
剣心の表情は、長い髪に隠れて見えなかったけれど。なんとなく、薫は察する。
剣心の隣で、薫もまた、座を正して合手礼をした。
何に頭を下げているのかは、明確には分からない。育ててくれた父に、彼女を産み落とした母に、見守ってくれる周りの人たちに、今日という日に辿り着くまでに散った無数の命に、ふたりを引き合わせた道程に。そして、これからともに紡ぐ未来に。
しばらくの沈黙のあと、示し合わせたようにふたり同時に顔を上げた。
ふたりは笑う。
おだやかに。たしかに。
剣心が手を差し出す。力んでぎこちない仕種だったけれど。少年の戸惑いは、もうそこから消えていた。
重ねられた薫の手を、剣心が握る。
導くばかりではいられない、頼りない男だけれど。この手を決して離さないことだけは、誓えるから。
自由なままの左手で、剣心は薫の頬を覆っている髪をすくう。さらりと流れる髪のひとすじひとすじが、ゆっくりと剣心の目に焼き付いていく。
伺うように、剣心が薫の顔をのぞきこむ。緊張に潤んだ薫の瞳が揺れた。
ゆっくりと近づいてくる剣心の視線に耐えきれず、はにかみながら薫が目を閉じた。ほんのすこしの羞恥心と、幼い怯えを飲み込んで。
はじめて重ねたくちびるは、あたたかくてやわらかくて、それ以外の感覚が麻痺するくらいに刺激的で。けれど、とても自然だった。
何度か角度を変えるうちに、薫は息苦しくなって、遠慮がちに剣心に身体を預けた。頬に添えられていた剣心の手が、背中に移動して薫を抱きとめる。剣心の右手に重ねていた薫の右手のひらは、いつの間にか鬱血するほど強く剣心に握りしめられていた。
ようやくそれに気づいた頃、剣心はおずおずと薫のくちびるを解放した。とろんと目を細めていたふたりは、期せずして正面から向かい合うかたちになる。
「行こうか」
剣心がふたたび手を差し出す。かつて愛した人の墓の前で、感謝と別離を告げたときそうしたように。
あのときほどの余裕を、いまは持てない。作ったはずの笑顔は、こわばっているかも知れない。けれど。
もしそうだったとして、なにを恥じる必要があるだろう。彼女に。
この先何十年、よろこびも、かなしみも、せつなさも、何もかもをともにする女に。
秋の墓での往時をなぞるがごとく、薫も浅く微笑んだ。
剣心が目を細める。その笑顔は、まだ残暑の香っていた頃、彼女が返してくれた笑顔とはちがっている。
そこにはたしかに、ひとりの男に愛される女の色があった。この短いあいだに、こんなにも彼女は美しくなった。なぜだか切なくなる。その焦燥すら、心地よくて。
寄り添うようにして廊下を渡る。薫の歩調に合わせて、剣心もゆっくりと歩く。薫の足どりは、普段の颯爽としたそれではなかった。それでも、おずおずと、確実に彼女は歩幅を刻みつづける。
頼りなさと覚悟が同居したその速さは、すこしずつ剣心の心臓に浸透する。木が岩肌に根を張って、やがてはそれを取り込むように。産毛のような根毛は、剣心の心臓のひだや組織のひとつひとつに入り込んで、根をおろす。そこから栄養を吸ってひとつになり、新しいひとつの生き物として生まれ変わる。
障子戸の向こうは、いつもどおりの殺風景な剣心の部屋が広がっていた。目につくものは、部屋の中央に敷かれた布団と、枕元に転がっている刀くらいなものだ。簡素な行灯はともってすらいなかったし、剣心が住み着く以前から置かれていた箪笥は、壁の一部のように無感情だった。
そこは、いつもどおり生活に頓着しない男の部屋そのものだったけれど。
今日だけは違う。今日からは。
今日からは、彼女がいる。
緊張に畏縮してはいたけれど、それでもどうしようもないほどの生命の力が、薫からはこぼれていた。その光は、夜のひんやりとした空気に散って、降り注ぐように部屋中を満たす。
まぶしい、と剣心は思う。行灯のあかりさえともっていない夜の闇の中で。
彼女の持つ明確な生きる意志は、そのあまりの強さで、時おり剣心をためらわせる。けれど、その意志の源に、自分とともにあることが含まれていることを知ったから。
処理しきれない感情が、剣心へと押し寄せて来る。このひとの前でなら、泣いても、怒っても、落ち込んでも、戸惑ってもよいのだと知る。
おそらくは、剣心がふたたび道を違えて、誰かを殺めたとしても。薫は分かち合って、となりにいてくれるのだろう。それは、寒気がするほど底のない自由だ。
すべてを許され、ありのままでいられる愉悦と安堵は、これまで剣心が経験したことのないもので。同じものを彼女に与えられるかどうかは、分からないけれど。
「薫殿」
薫の体重を預かったまま、剣心が膝を折った。あわせて姿勢を低くする薫を捉えて、剣心は左膝に彼女を乗せた。顔を直視するのが恥ずかしいのだろう。薫が背中をまるめて、剣心の胸の中におさまろうとする。
手がかりのように剣心の襟口を握りしめる薫の手は、彼女の幼さを伝えていて。剣心に、すこしの安堵と余裕を与えてくれた。
「薫殿」
もう一度、名前を呼ぶ。愛しさと、まぶしさと、切なさと。言葉にできないたくさんの感情を集約できる言葉は、これひとつしか持っていない。彼女の名には、あらゆる意味が込められている。
それまで遠慮がちだった薫が、剣心にすべての体重を預けた。ぎこちなく、薫が顔をあげる。覚悟だとか、決意だとか、特別だとか、そんなものを含んでいない、自然な笑顔だった。それがひどく薫らしくて、剣心は泣きたくなった。
「泣いても、いいのよ」
表情に出たはずのない剣心の感情を、薫は肯定した。馬鹿にしているだとか子ども扱いだとかではなくて、ただそこにあるものを受け入れる笑顔で。
小さく笑って首を振ってから、剣心はゆっくりと薫にくちづけた。
くちびるを開いたり、舌を尖らせたりしながら、すこしずつお互いの温度を肌になじませていく。白い敷布に広がった薫の黒髪は、なにかしらの運命的な合図のように見えた。
寝巻きを取り去ると、張り詰めた白い肢体があらわれる。幼い羞恥をうかべた顔の下につづく豊満な乳房や、くびれを描く見事な曲線は、薫をまるで別人のように見せた。
思わず手をとめた剣心の首を、手を伸ばして薫がとらえた。薫に引き寄せられる。押しつぶさないように留意しながら、剣心は身体を上からぴたりと薫の身体に押し付ける。
薫とひとまわりほどしか違わない剣心の身体は、あつらえられたように薫の身体にしっくりと重なった。剣心の左頬のすぐ横には薫の左頬があったし、緊張で冷たくなっている首筋には、同じくひんやりとした薫の首筋が吸いついていた。引き締まった胸の下では、薫の乳房が柔軟に形を変えていて、古い傷の残る腹には、女性にしては若干筋肉質な薫の白い腹が、同じく重ねられていた。
薫の左足を挟み込むようにして重ねた剣心の太ももには、彼女の淡い陰毛がざらりとした感触を残した。同じく薫の太ももには、剣心の固くなった陰茎が窮屈そうに張りついている。
しばらく、そのまま抱き合う。あるべきものが、あるべきところにおさまる。二枚貝が、決してほかの個体に重ならぬように。
剣心も薫も、いまこれだけの大きさと質量しか持たない男であり、女だった。
そこに何が詰まっていたとしても、ふたりを形成する部品は、いまここにある要素がすべてだ。手が届く範囲にある、ごく限定的な矮小さと狭くるしさが、無性に愛しい。
欲にまかせるまま、剣心はすぐ隣にあった薫の頬にくちづけた。角度を変えて、何度も、何度も。
そのままくちびるで頬骨をなぞり、額と鼻先を通る。最後に、もう一度くちびるを重ねた。
ゆるやかで穏やかな剣心の愛撫に、薫も力を抜いてこたえはじめる。探るように丹念な剣心の仕種は、彼のやさしい気性そのものだ。だから、何も怖れることはない。剣心は、剣心にしかできない方法で、確かにここにいるのだから。
やさしく笑いながら孤独で臆病に生きてきた剣心が、いまこうして一人の男として自分を欲してくれることが、ただ薫はうれしかった。
剣心が、剣心自身のために薫を必要として、こうして手に入れようとしてくれる。剣客でも人斬りでも流浪人でもなく、ひとりの小さな男に立ち戻ろうとしている。薫という手がかりを見つけて、ようやく。
その福音をひとつも聞き漏らすまいと、薫は剣心の呼吸音に耳を澄ます。
「かおる……どの……」
荒くなる呼吸の間に、自分の名前を聞く。それだけで、薫はいままで意識したことのなかった肚の奥がきゅうっと締めつけられた。
「薫殿……」
その言葉以外を忘れてしまったように、剣心は薫の名前を呼び続ける。
呼びかけに、薫がうっすらと目をあけて微笑んだ。頬は上気していて、さらけだされた裸体は汗で湿っている。赤く充血した乳頭は固く尖って上を向き、白い腹は乱れた呼吸に上下していた。もじもじと重ね合わせた両足は、おそらくその奥にある秘部の変化を恥じらっているのだろう。
男から与えられるはじめての感覚を、戸惑いながらも受け入れようとするその健気さが、剣心の頭をやわらかくしめつける。こめかみが、絞られるように鈍く痛んだ。その痛みに追い立てられるようにして、身体はどうしようもなく薫を求める。
「あ……けんしん………」
剣心が薫の閉じた腿に手をかけると、ぎゅっと目をつぶって薫は足の力を緩めた。腿の間に剣心が身体を滑り込ませる。そのまま、のしかかるようにして剣心が薫の胸に吸いついた。
「あっ……やっ……!」
すでに充血して鋭敏になっていた乳頭への刺激は、強烈な快感を薫に送り込む。快感に羞恥を取り払われて、たまらず薫が嬌声をあげた。
「ぁ……あ……ぅ……はん……んんっ……!」
手ごたえを感じた剣心は、左の乳頭を舌で弄びながら、右の乳頭を指の腹で押し上げるようにしてすり上げた。腿を薫の陰核にあてがって、ねじりこむように押し付ける。
「ひぁっ……!! けんし……っ…! …んっ……やぁあっ!」
一点の刺激に耐えていた薫は、突然多角的になった刺激に混乱する。処理しきれない快感は、もはやどれが上からでどれが下からのものかも区別がつかない。
無数の点から受け取った快楽は、ひとつの大きな奔流に集約され、出口を求めて薫のなかで暴れまわる。持て余す刺激を鎮める術も、解放する術も分からず、薫はただ本能に忠実に、声を上げて懸命に快楽を逃そうとする。
「やーっ! けんひ……んんー! けんしんっ……」
何度も昇りつめそうになる。けれど、なけなしの理性と未だ見ぬ絶頂への恐怖で、薫はどうしたらよいか分からない。達しかけてはまた昇ってを、幾度もくり返す。肚の底から駆け上がる、むずむずともどかしい感覚を持て余して、薫は必死に剣心にしがみつく。
押し寄せて来る快感に、眉根を寄せて涙を流す薫は、剣心をこれまで味わったことのない感覚に追い立てる。
もっと感じさせて、もっと追い詰めて、もっと哭かせたら、この女はどうなるんだろう。どんな反応を見せてくれるんだろう。
すでに剣心の腿をぬめらせている薫の秘部に、指を伸ばす。うっすらとした陰毛に覆われた薫の性器は、外敵の侵入を守るように内側にやわらかく閉じていた。
充血して固く尖った陰核を、剣心は指でかきわけてむきだしにする。なまあたたかく、こりこりとしたその突起を、剣心は人さし指と親指を使って、こよりをつくるようにして摘まみあげた。
「あーっ! けんひ……あ……あぁ……」
剣心の下で、薫は必死に身をよじる。けれど、逃れようとする身体とは逆に、固く閉じた薫の膣口と陰唇は、徐々にやわらかくほぐれはじめた。
「薫殿……」
直線的な刺激にぼんやりとしていた薫は、剣心の声と、秘口にあてがわれた亀頭で、これからなにが起こるかを知った。
「あ……」
ちゅ、ちゅ、と音を立てて、剣心が薫の愛液を亀頭にまぶす。身を硬くして、思わず身体を起こしかける薫に、剣心は困ったように笑ってみせた。
「薫……」
伺うように、はにかんだ微笑みからこぼれた名前は、特別な女にしか使わない呼び方だったから。薫は浅くうなずいて身を横たえ、細く息を吐いた。
「ん……」
侵入は、ひどくひそやかなものだった。十分に潤って、弾力に富んだ薫の膣口は、思ったよりすんなりと剣心を受け入れた。
「……っく……」
亀頭が埋まったところで、薫が喉から声を出した。身体のなかに異物が侵入する、不思議な感覚。まわりの内臓を押し出すようにして、薫の内側が剣心の形に変わっていく。
「もうすこし……だから……」
余裕のない剣心の声は、先に進みたい気持ちと薫を気づかう気持ちが同居していた。こんなときにまでやさしい剣心に、薫は言いようのない気持ちになる。違和感を伴う身体のなかの質量が、急に愛おしくなる。
「けんしん……」
その声と笑顔に吸い込まれるように、剣心は最奥まで到達した。ぎちぎちと痛いくらいに締めつけて来る柔らかいぬめりけは、それだけでざわざわと剣心の脊髄を撫で上げる。
「は……ぁ……薫……」
薫を気づかう余裕もなく、剣心は揺れはじめる。奥歯を食いしばっている薫の表情は、決して悦んでいるようには見えなかったけれど。すでに気づかう余裕は消えていた。
「んっ……んっ……剣心……」
「はぁ……あ……薫……」
不規則に剣心の陰茎を絞ったり包んだりする薫の膣内は、往復するごとに形を変える。局部に神経を集中させると、薫の内壁のひだやくぼみの一つひとつや、最奥のこりこりとした感覚が伝わってくる。それぞれに違う動きをするそれらは、剣心が奥まで腰を打ち込んだその瞬間のみ、びくりと動きを揃えて震えた。思い思いに遊んでいた子どもたちが、誰かのひと言で手をとめて一斉に振り向くように。
その感覚をもう一度よこせ、と剣心の身体は、強欲に傲慢に剣心に迫る。欲望の求めにまかせて、取り憑かれたように剣心は男根をねじりこみ続ける。尻の下がむず痒くなるような感覚が、幾度もせり上がってこようとする。
「んんーっ……! あぁっ……ぅあ……」
貪欲に薫の内壁をかきまわす剣心にしがみつきながら、薫は懸命に応えようとする。内臓をひっぱられたり、持ち上げられたりする不思議な感覚は、いまだ快感からはほど遠かったけれど。剣心が動く度に擦れる陰核からは、びりびりと痺れるような快感を受け取れるから。薫は自ら腰を押し付けるようにして、陰核からの快感を得ようとする。
快楽を貪るあさましい姿を剣心に見せるのには、もちろん抵抗があったけれど。たぶん。たぶん、いま彼が欲しがっているのは、そういう薫だから。本能のまま淫猥に乱れて、発情期のネコみたいに雄を求めて鳴く、女としての薫だから。
剣心が望むなら、そうありたい。彼が求めるのも、わがままを言うのも、それを通せるのも、わたしだけなのだから。ほかの誰でもない、わたし一人なのだから。
「あ、あ、あー……っ! んんっ……ひ……ぃんっ……」
陰茎の付け根に、ぐにゃりと芯を持った突起を押し当てられていることに、剣心は気づく。それと同時に、薫の喘声が変わったことも。
頬を上気させて目尻に涙を浮かべながら、右に左に身をよじって、剣心から与えられる快楽を貪欲に拾おうとする薫の姿は、あさましくて猥雑で、なのに悲しいほど美しかった。
知らない場所から、なまあたたかくてどろっとした感情が涌き上がる。
薫のこんな姿を見られるのも、こんな声を出させるのも、俺だけだ。ほかの誰でもない、俺一人だ。淫らがましい女としての薫を知る者は、最初から最後まで、俺ひとりだけだ。
醜い征服欲が、ぎちぎちと苦しいくらいに剣心を満たす。自分の動きに合わせて、涙を流しながら喘ぐ薫の姿と、その快楽を自分が与えているという嗜虐心は、酩酊したような開放感と満足を剣心にもたらした。
「……かおる……」
「ぁ……けんしん……」
ぞわぞわと血流とも電流ともつかぬものが、剣心の中心をめざして腰の下から這い昇ってくる。限界を感じた剣心が、倒れ込むようにして最奥まで押し入り、ほとんど無意識のうちに薫の名を呼んだ。
肚のなかで剣心が何度か跳ね上がるのを、薫は感じる。剣心から放たれた体液を、一滴たりとも逃さぬように収縮する自分の身体の動きも。
その一連の受け渡しが終わった後で、薫はようやく、顔のすぐ横でだらしなくうつ伏せになっていた剣心へと顔を向けた。剣心は肩で息をしながらも、目と口と頬と、顔のすべての筋肉を使って笑顔を見せてくれた。普段のやさしい笑顔のようでもあったし、いたずらをやり遂げたあとの少年のようにも見えた。
繋がった部分から、受け止めきれなかった体液がとろりと流れ落ちていく。まざりあった体液は、すでにどちらのものかすら分からなかったし、それでよいと薫は思った。
「かおる……」
手にいれたものの手応えを確認するように、剣心が薫の名を呼ぶ。重たげに指を伸ばして、乱れた薫の前髪を払った。そのときになってようやく、薫は身体の芯から力を抜くことができた気がした。
うるさかった心臓の音が、ようやっと落ち着きを取り戻してきた。肺から喉を通って出て行く空気の音も、もうほとんど気にならない。剣心がばふりと大仰に音を立てて投げ出した腕は、冷えた布団の上に着地して、心地よい冷気を吸い取った。
「……弥彦、ちゃんと寝てるかしら」
剣心のとなりで、ひと足さきにひと心地ついていた薫がつぶやく。身体に冷気が戻ってくると、頭の端が妙に冷静になった。さらりと髪をかきあげた拍子に、この家に弥彦がいないことを薫は思い出した。
もちろん、剣心がその答えを知っているとは思っていない。まばたきをするのと同じ程度の、意味をもたないひとり言だ。
「……くくっ……」
つぶやいた薫は、疑問に答えが返ってこなかったことなど気にもかけず、情事の名残りにぼんやりと天井を眺めつづけている。薫のとなりで、剣心が押し殺したように笑った。
「剣心?」
剣心が笑っている理由が分からず、薫は不思議そうに剣心へ顔を向けた。
ふすふすと空気を噛み殺しながら笑う剣心は、理由を語らない。「なんなの?」と薫が目尻をつり上げたと同時に、薫は意外なほど強い力で剣心に抱き寄せられた。
「……なによ、剣心?」
「いや。薫殿らしいと思って……くくっ……」
「どういう意味?」
「いやまさか、こんな時にほかの男の名前が出てくるとは……。ははっ……」
「え? あ……!」
いかにもおかしそうに笑いながら、剣心は薫を腕の中に閉じ込め続ける。
まさか、はじめて抱いたそのすぐ後に出てきた言葉が、違う男の名前だとは。本当に、彼女の行動だけは予測がつかない。お手上げだ。
その未知数に振り回されることが、こんなにも楽しいだなんて、きっと彼女は知らないだろうけど。
「あ、あの……ごめんなさい……」
「いやいや。謝ることもないでござる」
「で、でも……その……ほかの男の人の名前って……」
「いくらなんでも、弥彦に嫉妬したりはせぬよ。拙者も」
「そ、そうよね。弥彦……うん、弥彦だものね……」
難しい顔をして右上方をにらみながら、薫は確認するようにくり返した。
生真面目に受け取る彼女の姿は、ますます剣心の笑いを誘ったから。もういいよ、と言わんばかりにもう一度薫を強く抱き締めた。
薫は、どんなときにも薫らしい。たとえ、知り合った男が人斬りだったり、想いを通わせた男に妻帯した過去があったりしても。彼女はいつだって、揺るがない。
『なるほど、そういうこともあるわよね。それで、これからどうしようか?』
そうやって、今と未来を見つめ直す。
ある面では、彼女は蒼紫以上の現実主義者なのかもしれない。夢見がちな現実主義者。悪くない二律背反だ。
「剣心」
するりと剣心の腕を抜け出して、薫は剣心の上に寝そべった。無表情な視線が、剣心へまじまじと注がれる。表情として笑ってはいなかったけれど、その視線には、好奇心だとか、昂揚だとか、とにかくきらきらとした、「興味」という方向性が含まれていた。そして、観察するようなその光は、不思議と剣心を居心地悪くさせることがなかった。
「どうしたでござる?」
「なんとなく、まだ実感わかなくて……」
「実感?」
「剣心と……こういうこと、したこと」
疑問を持て余すように、薫はぱたぱたと両足をぶらつかせた。
そう言われると、剣心も不思議な気持ちになってくる。
だって、あまりにも自然なのだ。俺たち二人は。
剣心の胸の上で、たぷんと形を変えている薫の豊かな乳房も、自然と手が吸い寄せられる見事な腰の曲線も、腿に当たっている精液の湿り気が残る性器も、しみひとつない太ももも。すべては今日はじめて目にしたものだし、おそろしいほどの感動をともなってはいるけれど。
考えれば考えるほど、納得がいく。はじめからそこにあったように、頭と身体にしっくりと馴染む。
だって、これが自然だ。もともとこうあるべきだったのだ。
『そんな当たり前のことに、今さら気づいたのか』
そんな、誰かの呆れ声が聞こえてきそうなくらいだ。それが誰かは分からない。あるいは、自分自身かも知れない。
「実感がわくようになるまでの時間は、たくさんある。ずっと一緒だから」
「うん、そうだね」
その笑顔で、剣心は理解する。
手に入れたのは、答だけではなかったのだ。
俺は、俺という人間を手に入れた。手もとにあったけれど、ずっと放ぽっておいた『緋村剣心』ないしは『心太』という人間を、ようやく取り戻したのだ。
それは、あまりに長い年月放っておいたため、ほころび、色褪せて、埃にまみれていた。いくつか傷もついていたかも知れない。
もちろん、剣心は剣心だ。頭の先から、爪の先まで。緋村剣心という容れ物は常にここにある。鬱陶しいくらいに。
けれど、その中身は、理想だとか贖罪だとか後悔だとか義務感だとか、そういった背負わなければならないはずのもので隙間なく埋め尽くされていた。本来そこにあるべきだったものは、押し合いへし合いするうちにねじ曲げられ、ひしゃげ、いびつに歪められて、ついには隅に追いやられた。そんな剣心の有り様を、かつて師は『自分も一個の人間だということを分かってない』と端的に言い表わした。
自覚はあった。自分の在り方が、ひどくいびつだということに。
けれど、自覚があったところで、すでにそれは三十年ちかい年月をかけて形成されてしまっていたし、今となっては、剣心本人すらどうにもできないほど複雑に絡み合い、凝り固まっていた。地中深く根を降ろした植物みたいに。
根幹は深く地中にめり込み、根を張って、根毛は細部まで行き渡って貪欲に勢力を拡大しようとする。根ざしている大地の養分を吸い尽くしたそのとき、共倒れになることなんて考えもしない。
不毛の大地を掘り起こし、根にからめとられていた種子を掘り起こしたのが、薫だった。
どうしてだか、彼女は知っていた。どこをどう掘れば、隠れている一番やわらかい部分にたどりつけるのか。そこへ辿りつくためには、何が必要なのか。
本人ですら忘れ去っていた緋村剣心の原型を、薫は注意深く取り出し、陽にさらして土を払い、また元の場所に植えなおした。まとわりついた根はそのままだし、穴の深さも変わらない。
彼女は立ち去らなかった。さあこれからは、わたしと一緒に育てましょう、とそこに座り込んだ。笑いながら。
その発見に、剣心は口が聞けなくなるほど驚いた。けれど、なにかしらを伝えなければならないということは分かっていたから。
ただ、抱き締めた。薫の身体が、自分の身体に埋まってしまえばいいのに。そう思った。いまなら、彼女もそれを受け入れてくれるかも知れない。
「剣心……」
抱き締めてどのくらい経ったのかは分からない。安心したのだろう、薫はゆらゆらとまぶたを揺らしていた。
「眠ろうか、薫殿」
「……ん……」
もともと眠りが深く目覚めの悪い薫は、身じろぎしてから目を閉じた。薫を上に乗せたまま、剣心も目を閉じる。
「難しいことは、明日考えよう」
「あした……」
薫は眠りの境界線を、いままさに踏み越えようとしていた。薄れゆく思考のすみで、薫は不思議に思う。今日という日を未来へ先送りするなんて、剣心にしては珍しい物言いだ。
「ずっと一緒だから」
剣心が言った。
急がなくていい。明日も明後日も、百年経っても、千年経っても、俺の未来はここにしかない。
「ずっと一緒だから」
繰り返された言葉をぼんやりと聞きながら、薫は今度こそ深い眠りに落ちていった。後を追うように眠りに落ちた剣心は、十数年ぶりにおそろしく芯の深い眠りについた。