4.清濁集堰【R-18】

「薫、お前さ、髪切った?」
「え? 切ってないわよ?」
弥彦の言葉を聞いて、確かめるように薫が髪に手を当てる。当然ながら、長さも量も、昨日となんら変わりがない。
「ふうん、そうか」
「短くなったように見える? リボン、高く結いすぎたかしら」
「いや、なんとなく。なんか、昨日と違った気がしたからよ。髪でも切ったのかと思って」
「昨日、弥彦の家を出たのが夕方よ? その後に髪を切るような時間ないわよ」
「そういや、そうか」
「そうよ。もう、ちゃんと寝たの? あ、おかわりするならきんぴらもっと食べない? 昨日牛蒡を切りすぎちゃって」
「まーたしくじったのか、お前は。ほんとに進化しねぇな」
「残念でした。わたしじゃないわよ。切りすぎたのは剣心」
「へぇ、めずらしい。サルも木から落ちるってやつだな」
昼餉の茶碗と皿を抱えて台所に消えた薫の後ろで、剣心はひとりくすぐったい思いをしていた。
弥彦は、薫の変化に気づいている。
まだ幼いとはいえ、同じ男なのだから当然といえば当然かもしれない。年齢ゆえか、原因までは思い当たらないようであったけれど。
考えてみれば、毎日のように薫と剣を向けあっているのだ。その弥彦が、薫の変化に気づかない法もない。
「薫のやつ、化粧でも覚えたのかな。なにやったって無駄だっつーのに……」
口に箸をつっこんだまま、訳知り顔で弥彦が言った。あくまで彼女の外見に変化の原因を求めるあたりは、やはり弥彦もまだ少年だ。
「女性は日々、変化していくものでござるからな」
「……なるほど、原因は剣心か」
飲んでいた緑茶を吹き出しそうになる剣心をしり目に、弥彦はたくあんをぽりぽりと噛み締めつづける。
「な……ナンノコトデゴザロウカ」
「剣心が女を語るのなんて聞いたことねぇからな。包丁でケガしたっつう話も。そういうことかよ」
しまった、と剣心は自分の不用意な発言を呪った。年がいもなく、浮き足立っているのかもしれない。女性の変化の原因には気づかなくとも、目標として普段から観察している男の変化は、容易に弥彦に伝わったらしい。
「別にいいんじゃねえの。そう思ってオレだってココ出たんだし。それに薫だって……」
「私だって、なに?」
おかわりを持った薫が、会話に割り込んできた。いきさつまで言葉は聞こえていなかったのだろう、別段怒っているふうでもない。
「ああ、薫だってたまには赤べこに行きたいんじゃねえかって話。厨房の連中で、まだお前が帰ってきてから会ってないヤツらいるだろ。顔見たいってさ」
「あら、そうなの。わたしも妙さんや燕ちゃんに会いたいし、近いうち行くわ」
「そうしてくれ」
何食わぬ顔で会話を別方向へと誘導する弥彦の話術に、剣心は内心舌を巻いた。さすが、店仕事をしているだけはある。
「赤べこといやぁさ、最近、物乞いだとか惑いモンだとかがやたら寄り付くんだよな。だから下手な情けはかけんなって、妙に言ったのによ」
「仕方ないわよ、妙さんの商売人としての信念なんだから」
「鯨グチのオッサンみたいなの世話するんだったら、オレだって分かるぜ。けど、そういうの一回世話すると、聞き付けた周りの連中までたかりにくるんだよ、あいつらは。タチが悪ぃ」
「んー……そうねえ……」
昼餉の他愛ない会話の隅で、剣心はひとり危機を脱したことに安堵した。そして、色立つ変化を漂わせつつも普段となんら変わるところのない薫に、ちいさく目を細めた。
「じゃあ薫ちゃん、コイツは黄泉がえり記念だ! もってきな!」
「あはは、ありがとうございます」
「これでくいっとやると、美味いぜ、緋村さん」
「ははは、かたじけない」
きつい冗談だと剣心は思ったが、もちろん顔に出すことはしない。剣心の手の中にあった桶には、鯖が二匹入っていた。そこへ、魚屋の主人がイカを一杯ほうり投げる。
「しっかし、葬式までしたのにねぇ……。薫ちゃんも相当悪運強いな、こりゃ」
「ふふふ、富くじ買うなら今ですね」
「ちげぇねえ!」
怒鳴るような声で笑う主人に臆することなく、薫も朗らかに笑う。絵にして飾っておきたいような、平和な風景だ。
「そういや、あのつんつん頭の兄ちゃんも最近こねぇなぁ。お得意さまだったんだけどさ」
「ああ……」
薫はあいまいに返事する。左之助が出国した理由を考えれば、多くを語るべきではないだろう。
高らかに笑って大海へ漕ぎ出して行った友人を、剣心は思い出す。彼がいなくなって、まだそれほど時間は経っていない。
左之助がいなくなっても、もちろん街は変わらない。つまずきそうないびつな石段も、おかしな名前のついた小間物屋も、壊れかけた防火桶も。もし、もう一度薫が消えたとしても、なにひとつ。ただひとり、剣心を別にすれば。

「なるほど、うまい。あの主人の言ったとおりでござるな」
「わたしの人徳に感謝してよね、剣心」
縁側で剣心の盃に徳利をかたむけながら、薫が得意顔になる。肉がふっくらと厚く、とろけるような口当たりをしたイカの刺身は、なるほど玄人がすすめるだけあってうまかった。
「そろそろ、ひやじゃ寒い季節かしらね」
薫が猪口を口につけたままで言った。さえざえと蒼い月は、満月から二日ばかり欠けていた。黒く澄んだ空は、もうじき冬の高さになろうとしている。
「燗にする?」
「いや」
そう、と薫は軽くうなずく。猪口を置いた拍子に、うなじをさらりと流れた髪は、剣心を妙に落ち着かない気分にさせた。
柱に寄り掛かって、剣心はぼんやりと薫を眺める。
あらためて見ると、彼女の立ち振る舞いはいかにも武家の娘のそれだった。箸を右手でとって左手に乗せ、流れるような動作で逆手に持ちかえる。そんな小さな動作ひとつをとってみても、無駄と迷いがなく、颯爽としている。武道の心得もその一因を担っているだろう。
時代が変わらなければ、彼女は相応の身分の武家へと嫁いだはずだ。こんな、でたらめな出自と生い立ちの男ではなく。
そういう意味では、彼女もまた、剣心が創設に加担した新時代の犠牲者と言うべきなのかもしれない。そう伝えたらきっと、薫は怒って否定するのだろうけれど。
「薫殿」
二人の間にあった盆を、剣心が脇にのけた。意味を察して、薫が剣心に寄り掛かる。胸に当たるまるい肩は、確かにいま薫がここにいることを剣心に伝える。
薫の脇腹から両腕を通して、手を前で組む。彼女の腹は驚くほど薄かった。いったいこの薄い腹のどこに、五臓六腑が詰まっているのだろう。まして、そのすきまに
男を受け入れる余裕があるなど、到底信じ難い。
髪に顔をうずめるようにしていて、剣心は薫の耳にくちづける。彼女の耳は白くてこじんまりとして、眠るネコを思わせる楕円を描いていた。
「左之助も、どこかで月を眺めてるかしらね」
剣心によりかかって、薫は月を見上げる。たったいま腕におさめたばかりの薫が口にしたその言葉が、剣心はなぜだかおもしろくなかった。
「寝ようか、薫殿」
だから、意地の悪いことを言ってみる。うろたえる薫を想像しながら。普段やたらと闊達な舌は、こんなときなのに、呆れるほど裏目にしか働かない。
「う、うん……。昨日も、聞いていたほどは痛くなかったし……大丈夫よ」
自分に確認するように視線をさまよわせた後、きっぱりと薫は言った。『安心して』と微笑むように。
『まいった』
心のなかで、剣心は両手をあげた。
所詮、邪心が純真に勝てるわけがなかった。うろたえさせるつもりが、正面から突破されてこちらが圧倒されてしまうなんて。
それでもやっぱり、やられっぱなしは悔しいから。
「ひとつだけ」
かしこまって囁かれた剣心の言葉に、薫が振り向いた。剣心の言葉をすこしでも吸収しようとするその無垢さは、危なっかしいほどまっすぐだ。
「薫殿はすこし、ほかの男のことを喋りすぎる」
昨晩言われたことを思い出して、申し訳なさそうに謝る薫に、剣心はすこしだけ溜飲が下がった気がした。

普段と違う角度から見上げる剣心は、見たことのない表情を見せる。下腹部にずん、と響く質量を受け止めながら、薫はぼんやりとそんなことを思った。
「はぁ……」
「……ん……」
心なしか昨夜よりも性急に行為をすすめた剣心は、たったいま薫のなかに納まって、ほうっとひとつ溜め息を漏らしたところだ。低くうなるように喉を抜けるその呼吸音は、腹の底から駆け上がってきたような重さを含んでいた。
「っは……かおる……あ……」
動き出す剣心は、昨日より奔放に、悪くいえば自分勝手に薫を貫く。薫はといえば、挿入の痛みはそれほど感じないものの、いまだ挿入だけで快感を得るほどには馴れていなかったから。ただ剣心の動きに合わせて、突かれるたびに声を上げ、衝撃を逃していた。
身体の奥を掘り返されるような不思議な感覚は、痛みとも快感とも違うただの違和感に過ぎないけれど。時お
り、説明のつかない場所に剣心の先端が当ると、ぞくりとした感覚が走った。その小さな感触は、まだ痛みを打ち消すほどは強くないけれど。おそらくは、それが次第に快感に変わっていくのだろう。
馴れない感覚と感触は、薫に探るような警戒心と慎重さを与える。身体はまちがいなく鋭敏になっているし、手探りに与えられる快感は、薫を追い詰めていくけれど。馴れない自分の身体の経過を観察しようとすると、自然と頭の片隅が冷静になった。
たった二度きりの行為しか知らないけれど。一心不乱に腰を振っている剣心の顔を間近で観察していると、なるほど世間でよくいうように、男と女とは根本的に違う生き物なのだな、と薫は感心した。
大の男が、ひとまわり近くも離れた歳の女の上で、泣き出しそうな顔をして身を揺らす。その姿は、その滑稽さゆえに愛しくて刹那的で、薫を切なく満足させた。
「っつあ……かおる……っ……!」
「んんっ……けんしん……」
身体の奥で、剣心がぶるりと数度に分けて震えるのが分かった。肚に意識を集中すると、中にある剣心の陰茎が膨張と収縮をくり返しているのを感じる。
目を閉じて、だらしなく口を半開きにしながら、満足そうに身を震わせる剣心は、これまで薫がことあるごとに感じていた、どこか遠くへ行ってしまいそうなつかみどころのない剣客ではなく、薫の腕の中にすっぽりおさまってしまう、どこにでもいる小さな男だった。守ってあげたくなる、と言うと、彼は複雑な顔をするかもしれない。
「……すまぬ……」
「え?」
しばらく薫のうえでぐったりとしていた剣心が、顔だけ薫に向けてばつが悪そうに謝った。なんのことか分からない薫の表情が、よりいっそう剣心に情けない思いをさせる。
「その……拙者一人が……」
「なんだそんなこと。気にしなくていいのに」
「そういうわけにもいかぬよ……」
「でも、あの、昨日の今日で、そんないきなり気持ちよくなったりは……その……」
「それは、分かっているでござるが……」
「で、でもね!? ところどころ、当たるとむずむずするところ、あるのよ? ま、まだ馴れてないからよく分からないけど、きっとそのうち……ええと……」
言いづらそうにしながら、それでも剣心を励ましたい一心で、薫は懸命に説明しようとする。そんな、初心で一生懸命な様子が、あまりにも彼女らしくて。剣心は薫の耳にくちづけた。
「そうでござるな、お互いすこしずつ慣れればいい。これから」
「ご、ごめんね。わたし、こういうことあんまりよく分からなくて……」
「薫殿が熟知していたら、それはそれで拙者は複雑でござるよ」
「あ! 明日、赤べこ行くつもりだから、妙さんに聞いてみようか?」
「……そういったことは、控えてもらえるとありがたいでござる」
剣心の言葉の意図をよく分からないままうなずく薫の頭を、剣心はくしゃくしゃと撫でまわした。剣心の突然の乱暴な行動に、薫は小さく抗議の声をあげる。けれど、それすら被いかぶさった剣心にかき消された。
「薫殿」
こんこんと湧き上がるこの感情の名前なんて、知る由もない。そんなものは、知らなくてもいい。この感触さえ、この手にあれば。
実感は、決まってこんな他愛ないやりとりをしているときに、唐突に降ってくる。
この手の中にある純真さも爛漫さも、さきほど見せた妖艶さも、すっくと咲き誇る桜のような眩しさも。この先ずっと、となりにある。
気持ちですら収集がつかないというのに。十全に伝える言葉なんて、あるはずもないから。剣心はただ、薫の名前を呼んだ。
願わくば、昨日よりも今日、より近くに君を感じていられるように。

「おう薫。思ったより早かったな」
「うん、出稽古先で着替えさせてもらって、そのまま来たから」
ごめんください、という声に振り向いた弥彦は、店の入口に薫の姿を見つけた。午前の稽古の後別れた薫は、午後もう一軒の出稽古先をまわると言っていた。姿こそいつもの着物姿であったけれど、その手には剣術道具が詰まった稽古袋を抱えている。
見慣れているとはいえ、可憐な年頃の娘姿をしながら、野暮ったい竹刀やら防具やらを抱えるその奇妙な姿は、今日に限って、より一層ちぐはぐに弥彦の目に映った。昨日、剣心と薫の間の変化を知ったせいかもしれない。
「また薫ちゃんは! あきまへんなァ、年頃の若い娘がそんな頓着なしやなんて! せっかく剣心さんといい仲になった言うのに。薫ちゃん、元はいいんやさかい、もっとおしゃれして、化粧とかもして、それから……」
「も、もう! わたしのことはいいですってば! 妙さんこそ今年でいくつになるんですか!」
「薫さん、それは禁句!」
燕の叫び声を聞きつけて、厨房の面々が客席に出てくる。失踪前と変わらぬ笑顔を振りまく薫を見て、皆一様に安堵したようだった。
「ほんとだ、ちゃんと足があらぁ」
「無事だったんだなぁ、薫ちゃん」
「ご心配おかけしました」
「どれどれ、触ってたしかめ……たら、剣心さんに斬られちまうかな」
「そりゃ、おっかねぇ!」
手早く挨拶を済ませ、からからとひとしきり笑い合う。驚いただの、泣いて損しただの、無事だったからこそできるきつい冗談が飛び交った。そのうち、入ってきた客の声に反応して、手を止めていた妙が目覚めたようにきびきびと動き始めると、集まった面々はぱらぱらと持ち場へと戻っていった。店は、いつもの賑やかさを取り戻す。
「おまたせしました、薫さん」
「ありがとう、燕ちゃん。あれ、でもこれ、ずいぶんいいお肉みたいだけど……」
「厨房の皆さんからなんです。今日は特別って」
「わぁ、ありがと! 剣心も一緒ならよかったんだけど」
「お前の祝いなんだから、お前が食っとけよ。一人にオゴるのと二人にオゴるのじゃ、額がちがうんだからな」
「まーたアンタはそういう……」
弥彦と薫のやりとりを、くすくすと燕が見守る。客がまばらな時間帯ゆえ、食事が終わっても、三人はしばらくとりとめもなく歓談を続けていた。ひと通り食休みも済んだ頃、裏方からの声で弥彦が席を外すと、薫はそっと燕に尋ねた。
「ね、燕ちゃん。弥彦のやつ、変わりない?」
「え? はい、特には……。なにかあったんですか?」
「そういうわけじゃないんだけど……。あのコ、一人で暮らしはじめたでしょ? 遅刻したり、寝不足だったりして、迷惑かけてないかなって思って」
「大丈夫ですよ。弥彦くん。いつもどおりです。薫さん、やさしいんですね」
「まあ、師範代としての責任もあるし……」
「でもすごいな、弥彦くん、あの歳で一人暮らしだなんて」
「歳のわりにはしっかりしてるコだし、心配ないとは思うんだけど。燕ちゃんもたまにこっそり様子、教えてくれる? 面と向かって聞くと、弥彦、意地張って強がっちゃうから」
「はい!」
託された使命に、燕が花のような笑顔を見せる。本人たちですら自覚がない、幼く淡い恋心に、薫は微笑む。ちょっぴりお節介かもしれないけれど、と自分に言い訳しながら。
「ごめんくだされ~」
「あ、はい! ただいま!」
戸口を叩く音を聞いて、燕がぱたぱたと入口へ走った。見渡せば、夕方も近くなってそろそろ客が入りはじめている。席空けついでにもう帰ろう、と薫が席を立った。
「それじゃ、ごちそうさまでした」
「あら、もっとゆっくりしてってえな、薫ちゃん」
「ありがと。でも、剣心も待ってるし」
「ああそうだ。薫ちゃん、これ剣心さんにお土産。持ってきな」
「わ、ありがとうございます! 剣心喜ぶわ」
「夕飯作らなくて済むから、だろ?」
「も、もう! わたしだって、ちゃんとご飯くらい作ってるんですからね!」
からかわれながら、二、三あいさつをして薫は赤べこの面々に別れを告げる。出入り口では、燕と先ほどの客の問答がまだ続いているようだった。
「あ、あの……困ります……」
「そういわずに、お嬢さん。ホレ、どこかで会ったことのあるジジイじゃろ? これも縁と思って、この哀れなオイボレに愛の手をじゃな……」
節をつけて口上する物乞いに、燕はどうしてよいか分からない。埒外の者の風体に動転しながら、ほかの客に悟られないようにするので、手一杯のようだった。
「ちょっとお爺さん、燕ちゃんが困ってるじゃないの。ほかを当たってちょうだい」
「だがのぅ、儂のほかにも腹をすかせた仲間が待って……」
「オイじいさん、どいてくれよ、店に入れねぇ」
「す、すみません! いらっしゃいませ、あの……」
入口での押し問答を見て、弥彦がきっと眉をつりあげる。
「またあのダメ人間ども! 今日という今日は許さねぇ!」
食品衛生がどうのだとか、自分の食い扶持くらい自分で稼げだとか、あけすけに毒を吐きながら、弥彦が入口へつかつかと歩み寄った。が、弥彦が辿り着く前に、脇から薫が飛び出した。
「ほらお爺さん、こっちへ来て! わたしのお土産あげるから、取り合えずここからどいて下さい!」
引きずるようにして、薫がオイボレを入口から引き剥がす。燕が心配そうに覗き込んでいたが、大丈夫、と薫は片目をつぶってみせた。それでも、心細気に燕は視線を送っていたが、弥彦の『うちの師範代だぜ』という一言を聞いて、店のなかへと戻っていった。
店脇の路地にオイボレを連れ込むと、薫は腰に手をあててオイボレへ向き直った。
「もう、お爺さん! 大変だとは思うけど、営業妨害しちゃダメじゃない」
「いやあ、あの店は儂らにもやさしいと聞いたんでなあ。つい調子に乗ってしもうた。申し訳ない」
帽子をとって素直に謝るオイボレに、薫はふっと溜め息をつく。弥彦が言うように、この種の人間が一度甘やかすとつけあがるというのは、あながち意地の悪い風評というわけではないのかもしれない。どうせこの手の輩は、その場では反省したふりをしても、次は気をつけようという心がけなど、持ち合わせているわけがないのだ。
「とにかく。これ、あげます。確かにあの店のみんなはやさしいけど。あんまり寄り付かないように、お仲間にも伝えてください」
「分かったよ。悪かった、お嬢さん」
この手の騒乱を起こす輩にしては珍しく、老人の目は澄んでいて、心から詫びているらしかった。薫はそれ以上怒る気にもなれず、やれやれと荷物を担ぎ上げた。
「ホ。剣術を嗜んでおるのか、お嬢さん」
「ええ。……お爺さんも元士族ですか」
「ホ。なぜ、そう思うかね?」
「これといって理由はないですけど……。父と、なんだか似ている気がしたから」
「お嬢さんのお父上なら、大層強かったのじゃろ。儂は文武ともからきしじゃったよ。引き合いに出しては、お父上に失礼と言うもの」
答えるべき言葉が見つからず、薫はただ困ったように微笑んだ。
たったそれだけのやりとりだったけれど。老人は理由もなく納得する。
なぜ剣心が彼女を選んだのか。なぜ、娘は彼女を必要としているのか。なぜ、息子は彼女にだけ反応を示したのか。
「ありがとう、お嬢さん。これなら、あの子もすこしは食べてくれるじゃろうて」
だから、巧妙に、薫の興味を誘う。彼女が寄越した包みを、オイボレは大仰にありがたがってみせた。
「お子さんが一緒なんですか?」
救いを求める小さな声を、彼女は聞き逃さない。小さければ、小さいほど。オイボレはそれを知っていた。彼がそうだったし、娘がそう言っているのだから。
「……いや。どこかで会ったことがあるかもしれないという、気のせい程度の知り合いじゃよ。ついこの前から儂らの群に混じった青年でな。腕の立ちそうな立派な体躯をしてはいるが、なにがあったのか髪が真っ白だ。儂も年のせいか、ほうっておけなくての」
薫の目に走った衝撃を、オイボレは見逃さない。
驚きと、痛ましさと、悲しみと、切なさと、懐かしさと、やさしさと、そのほか読み取りきれないたくさんの感情が、彼女のなかを飛び交っているのが分かる。薫自身、その感情をどう扱ったらよいか、分からないでいることも。
「どこに居るんです……? そのひと」
「落人群じゃよ。儂ら不逞者の吹きだまりだ」
薫のなかに、もうひとつ新しい感情が加わる。落人群。かつて、剣心が身を落としたと聞く場所だ。
「連れて行ってもらえますか?」
「お嬢さんみたいな娘さんが行って、楽しいところではあるまいよ。それに、なにかと物騒なところじゃ」
「これでも、師範代です」
「それは失礼」
老人は賽を投げる。深淵に向かって。その行方は娘すら知りはしないだろう。
目を伏せたその先に、なす術もなくこぼれていったものが、落ちていたならいいのに。

群の一員たるオイボレが一緒にいたせいだろう。あっけないくらいすんなりと、落人群の門は薫を通した。
その男は、群の一番奥にある壁に寄り掛かって、銅像のように座っていた。色素を持たない髪が、西日を受けて透き通り、金色に輝いて見える。美しいはずのその色は、疲労と絶望と喪失を湛えた縁に添えられると、場ちがいな不吉さしか持たなかった。まるで、ずいぶん前に役目を終えた偶像のように。
「お客さんじゃよ」
オイボレが知らせても、薫が目の前に立っても、縁は微動だにしなかった。目は開いているが、眠っているのかも知れない。動かない縁を見下ろしたまま、薫は口をひき結んでいる。その目が何を思っているのか、オイボレには伺い知ることができなかった。
オイボレが薫を見るのは、今日がはじめてだった。
美しい女だ。
ひとすじの傷みもないつややかな髪と、武道を嗜んでいるとは思えぬほど真っ白な、しみひとつない肌。すっきりとした楕円を描く輪郭には、きりりとした鼻筋と、ふっくらとしたくちびるが乗っている。とりわけ、大きく深く澄んだ目が印象的だ。人の目をまっすぐ見て話すその瞳には、無防備のようでいて底の知れない不思議な奥行きがある。伸びた背筋は意志の強さを見る者に与えるが、人を寄せつけない頑なさは感じられない。
老人は気づく。娘もまた、美しい女だった。けれど、目の前にいる女の美しさは、娘のそれとはまったく違う種類のものだった。
薫の美しさはたぶん、未完成ゆえの光によるものだ。無知で無鉄砲で未熟で、けれどそれゆえに成長と変化の余地を残した未知数が、彼女をより美しく見せるのだろう。
生きている人間が誰しもそうであるように、娘もまた、未完成な人間ではあったけれど。薫の持つ、貪欲に完成を求める怖れないひたむきさと、地に足がついた真剣さを持ち合わせてはいなかった気がする。
ただそれだけの違いだ。だが、まさにその小さな違いこそが、薫の特別さなのだと、老人は思う。
人間は死んで完成品になる。本人が望んだ形にせよ、
そうでないにせよ。
周りに「終わったもの」として認識される。そうやって、完成品として固定される。そこには永遠と、定着と、完結と、ひとつの死がある。
そこから先は、ひとつとして加わることはないし、欠けることも許されない。往々にして、信仰というものはそうやって成立していく。ひどく不完全で不安定なしくみのうえに。縁が、彼が知る姉の像に、ひとかけらの変更も許さなかったように。
「これ、あなたに貸すわ」
老人は一瞬、薫がなにを言ったのか分からなかった。薫は剣術道具が納まった稽古袋から、胴着用の羽織をひっぱりだすと、縁の肩に羽織らせた。
「いつまで夏の格好してる気よ。そんな薄着じゃ、もう夜は寒いでしょう」
呆れたように薫は縁に文句を言った。まるで、家で交わす会話のように。驚くでもなく、怖れるでもなく、叱咤するでもなく、目を背けるでもなく。その言葉は、どこまでも日常の延長にあった。
石のように動かなかった縁が、わずかに動いた。羽織らされた上着に、のそりと手を滑らせる。それだけの動きだった。
「貸すだけですからね」
大袈裟に不遜な態度をとって、薫が縁の前で仁王立ちにしてみせる。ぜんまいが切れかけた人形のようにのったりと、縁はわずかに顔を上げた。
「ちゃんと返してよ」
それだけ言うと、薫は踵を返した。通り抜けざま、オイボレは薫から黙礼を受けたが、あいにくそれに応えるだけの余裕はオイボレにはなかった。
「へぇ、あの兄ちゃん、死んでるワケじゃなかったんだな」
気だるそうに寝そべっていた一人が、別段興味もなさそうにオイボレに言った。
「彼はすこしの間、ここで休んでるだけだからの」
穏やかに笑う老人は、どうやらもう一人会わねばならない人間がいることを悟る。
奇しくも、いまの縁と同じ場所で、心と刀を閉ざしてその青年はうずくまっていた。もう、ずいぶんと遠い昔の話のような気がする。
「ふぅん。じゃ、あの兄ちゃんもそのうちここから出ていくんかね」
「ああ。来る者拒まず去る者追わずが、儂らのやり方じゃろ、隈君」
縁が立ち上がるその日が来ても、追い縋りはしない。けれど、決して捨てはしない。こんなぼろくずのように身を落とした父親をも、娘は見守ってくれているのだから。
老人は眼鏡の下で、ひとり淡く目をほそめた。
「赤べこの皆、さぞ喜んでいたでござろう」
「どうかしら。なんだか、話のネタにされに行った気がするわ」
「ははは、それも彼ら流の歓迎なのでござろうよ」
敷き布団に敷布を張りながら、剣心が笑った。薫が失踪した原因を考えれば、胸が痛むところはあったけれど、とりあえずは薫が以前の生活と立場を取り戻していることに、安心するべきだろう。
「剣心も一緒に来ればよかったのに」
「次はそうするでござるよ」
「そうそう、弥彦ね。ちゃんとやってるみたいよ。今のところ」
「それはよかった。妙殿や燕殿たちもいることだし、この分なら大丈夫そうでござるな」
行灯に油を注ぎ足しながら、薫が満足そうに微笑む。弥彦の成長を、我がことのように喜ぶ彼女の素直さは、剣心の心をあたたかくさせた。
「となると、やっぱりこれからは、ずっと二人なのね」
ゆらゆらと揺れる火の具合を見る薫には、一昨日口にしていたさびしさは感じられなかった。
「すこし寂しいけど……我慢しなくちゃね。送り出すわたしたちが不安になってたら、弥彦だって安心して旅立てないものね」
彼女は笑う。いつか剣心が彼女に伝えた言葉を口にして。
自分が何気なく言った言葉を、薫はこんなにも大切に扱ってくれる。そんなささいなことが、剣心の胸を締めつけた。どこまでも、薫は自分を特別に思ってくれている。小さな声も、ささやかな変化も、剣心本人が忘れてしまうくらい何気ない風景でさえ、薫は剣心の一部として愛おしんでくれる。
心が満ちていく。傲慢で、浅ましくさえあるその思いは、それでも自分が等身大のただの男だと教えてくれて、心地よかった。
「それとね、剣心、今日……」
「薫殿」
話を続けようとした薫の言葉をさえぎる。火を扱っている薫の指を慎重に捉えて、剣心は薫をうしろから抱き締めた。洗いたての薫の髪は、不思議と夏を思わせる花のにおいがした。
旅立った十年前。流離った十年間。あてどない旅のどこかで、自分の人生は終わっていくのだと思っていた。
けれどいま、剣心は辿り着いた。こんなにもあたたかくて、こんなにも穏やかで、こんなにも愛しい場所が、この世にあるなんて知らなかった。あったとしても、自分からは一番遠い場所だと思っていた。
誰かが持っているその場所を、ただ遠くからぼんやりと守る。そうやって、自分の命は使い果たされるのだと思い込んでいた。
なのに。なのに、いつの間にか、見送る立場になっていた。見送るべき人間と、ともに見送ってくれる人間を手に入れていた。知らない間に。
偶然出会った、頼りないとばかり思っていた少女が、よろよろと拙く歩く剣心を、ここまで連れてきてくれた。おそらくは、薫本人も無自覚なままに。ふと見渡せば、そこは剣心が辿り着きたくてやまなかった場所だった。
「剣心、怒った……の……?」
おそるおそるかけられたその言葉に、剣心は目を白黒させた。剣心に抱きすくめられたまま抵抗する様子はなかったが、薫は怯えたように剣心を伺っていた。
「怒る? 拙者が? いったいなぜ?」
「また、弥彦のこと話しちゃったから……怒ったのかと思った」
腕のなかで見当違いの安心に胸を撫で下ろしている薫を見ると、剣心は無性に笑い出したくなった。あるいは、そうすればよかったのかもしれない。突然剣心が笑い出したところで、薫は驚きながら受け入れてくれるだろうから。

ああ、俺はこんなにも自由だ。

「まさか。こんな薫殿を前にして、怒れるわけがない」
くっくっくと肩を揺らしながら、剣心はするりと身八つ口から薫の寝巻きに手を滑り込ませた。突拍子もない場所から人の体温を感じて、薫は思わず逃れようとする。
「……剣心! もう、わたしまだ話してるでしょ」
「話なら後で聞くでござるよ」
「む……」
「時間はたくさんある。ずっと、一緒だから」
なお剣心の不作法をたしなめようと、薫が鋭い声をあげる。けれど、乱された寝巻きの合わせ目を直そうとした薫の手は、あえなく剣心に取り払われた。
「どのみち、布団に入れば同じこと」
「それは……そうかもしれないけどっ……!」
「拙者とて、男でござるよ。薫殿」
「……それは知ってるわ」
「光栄至極。では、身を持って証明してみせるゆえ」
「この口八丁! 剣心がこんなに毎日こういうことしたがる人だなんて、知らなかったわ!」
「当の拙者ですら知らなかったのだから、薫殿が知らなくて当然でござる」
それでもなお、もごもごと反論しようとする薫の声を、剣心はくちびるで封じる。
どうせ、なにを聞かれたって答えられるはずがないのだ。だって、剣心本人ですら知らない領域なのだから。こんなにも身も心も一人の女に夢中になれるだなんて。
滑稽だの、年がいもなくだの、自分を皮肉る余裕だけは持っているけれど。この、落ちていくような甘い陶酔は止めようがない。
「さ、これで文句はあるまい。薫殿」
抱き上げた薫を、すとんと布団に降ろして横たえる。すでにあられもなく寝巻きがはだけている薫の白い肌は、敷いたばかりの敷布によく映えた。
「もういいわよ……。好きにしたら?」
「僭越至極」
首筋に顔をうずめる剣心に、薫は身をゆだねる。生乾きの剣心の髪は、冷たく肌を撫ぜて薫を敏感にさせていく。首筋を這う剣心の舌は、ぬるぬると虫のように動き回って、薫の身体の奥にある小さな火種に熱を起こした。
「あ……ん…ん……ふぁ……」
「すこし……馴れてきたようでござるな……」
確実に反応が早くなっている薫に、剣心は笑いが込みあげるような充足を感じた。
まっさらだった薫の身体が、着実に剣心に合わせて変化している。髪をかきあげる仕種も、吐息に混じる声も、かわいそうなくらい鋭敏に震える肌も。すべてが、剣心の動きに合わせて、流れるような変化を見せる。たった三日肌を合わせただけでここまで変化するのなら、この先何十年ともに過ごすうち、彼女はどんな変化を見せるのだろう。
何十年も先の未来なんて、想像もつかないけれど。ついこの間まで持っていなかった、未来への期待という習慣を、知らないうちに手にしていることに気づく。この家にたどり着いてから、一年足らずの間に、いったいどれだけのものを手に入れたのだろう。
「あっ! ……ふ……ぅ……ぁ……」
ひざ裏から腿へ往復させていた指を、そっと薫の秘部にあてがう。冷たく骨張った剣心の指がやわらかい内側の肉に触れるのを、薫は本能的に怖れる。ほぐれていた緊張が、また形を持とうとする。
「こわいでござるか……?」
「ん……へいき………」
わずかに潤っている薫の性器に、剣心はそっと指で触れる。そのなめらかさとあたたかさと、驚くほどの柔軟さは、同じ生き物とは思えないくらい剣心とは違っている。
にじみ出ていた愛液を陰部にすりつけるようにして、剣心は指を滑らせる。触れるか触れないかの刺激が、薫のなかでわだかまっている快感を増幅させた。
指に絡む粘液が増えているのを感じ取ると、剣心はそっと指を薫のなかにしずめてみる。外側でさえ、あれだけやわらかく傷つきやすいのだ。まして内側の脆さはどれだけだろう。決して爪をたてぬように、そろりそろりと剣心は指を埋め込んでいく。
「やっ……へん……それ……! そっと……して……」
「んん……」
沈み込んでいく指先に、剣心は意識を集中させる。あたたかくぬかるむ薫の中は、剣心の指を内側に取り込もうとするように蠢いている。ひだの一つひとつが意志を持っているかのように別々の動きをして、湿った軟体生物のようだ。
「やっ! だめっ! そこ……こわい……!」
探るように薫の膣をかき分けていた指の腹が、ある一点に触れたとき、彼女は明らかにそれまでとは違う反応を返した。
「……ここ……?」
位置を見失わないように、慎重に指の先でそのしこりのような一点をさする。何度かこすりあげているうちに、薫がふるふると震えだした。その目は焦点があわない場所を見つめるように、薄く開かれている。
「ぁやぁ……やめて……! な、なんか……」
明らかに動揺している薫の動きと声に、剣心は手をとめる。何かしらの変化が彼女に起きているようではあったけれど、それが好ましいものなのか好ましくないものなのか、剣心には分からなかった。
「痛いでござるか……?」
「あ……ちがうの……っ! あの、なんか……へんなの、そこ……。外側とはちがう感じなんだけど……なんだか……」
「気持ちいい……?」
「……うん」
「……薫殿、その……つづけても……?」
「…………うん……」
心臓の音が、耳の奥にびりびり響く。喉の付け根が熱くなって、吐く息が重くなっていくのを、剣心は余裕なく感じ取った。
指は、先ほど探し当てた場所を見失わぬよう、細心の注意をはらってその一点をすりあげる。同時に剣心は、入口の上でちょこんと硬くなっている突起に、くちびるを押し当てるようにして吸い付いた。
「ぅあ……あーっ、あーっ! けんし……!!」
「は……ぉる……そのまま……!」
馴れない身体の内側からの刺激と、びりびりと走るような外からの刺激に、薫は思わず声をあげる。突然送り込まれた多すぎる狂熱に、わけもわからず涙がこぼれた。足からせり上がってくるような高揚感に、どちが上でどちらが下かすら分からなくなる。嵐のような見知らぬ悦楽は、薫を不安にさせたから。ただ、手がかりのように剣心の名前を呼んだ。
「けんしんっ……けんし……けんし……ぃ……あァん!」
押し寄せていた享楽が、一瞬どこかに届いたように充足して、はじけた。なにが起こったか分からないまま、像を結ばぬ瞳で息を荒げていた薫に、今度は剣心が身体ごとのしかかった。
「……かおる……俺も……」
達した後の熱を保ったままの薫の入口に、剣心が自身をあてがう。先端が埋まっただけでも、昨日までとはちがう熱さと、びりびりとするような圧迫が薫の中から伝わってくる。たまらずに剣心は一気に奥まで押し入る。あまりの歓楽に、ちりちりと膝の裏がしびれた。
「すごい………」
「あ……あああ……けんしぃん……」
ぬめったやわらかい生き物に絞られているような感覚に、剣心は夢中で薫のなかを往復する。奥を突いて薫が声をあげるたびに、膣内がきゅうきゅうと剣心をつまみあげた。
「かおる……かおるっ………」
「あああ……っんっ……! なか……が……へん……!けんし……」
「あ……も……ぃ……っく……」
剣心の限界を察知したように、薫のなかがひときわ大きくすぼまる。根元から握りしめられるような感覚に、剣心は耐えきれず身をゆだねた。もったりとした下半身の澱みが駆け上がって、放出される。惚けたような顔で、うっとりとそれを受け止める薫の姿を、剣心は言いようのない満足感を持って見下ろしていた。

「ねぇ、剣心、今日ね……」
「ん……」
「剣心、寝ちゃったの?」
「ん……明日……で……いいでござるか……」
「いいけど……」
「あした……も……ずっと……いっしょ……だから……」
「分かってるわ。おやすみなさい」
うとうとと睡魔に負けていく剣心は、すっかり深い眠りに馴れたように見えた。ふたりで紡ぐ未来の手触りが、彼にそうさせるのかもしれない。
がんばりすぎよ、と小さく毒づいた後、薫も布団にもぐりこんで目を閉じた。

「いつまでもグースカグースカ寝やがって! シャキッとしろこのブス!」
「ブスって言うなっていってるでしょ!! そりゃ、寝坊したのは悪かったと思うけどっ!」
居間で朝餉をかきこむ弥彦と、出稽古の準備に廊下をばたばたと往復する薫の声が、威勢よく飛び交う。触らぬ神に祟りなし、とばかりに、剣心は弥彦のとなりで味噌汁をすすった。原因を鑑みると若干心苦しいが、もちろん顔には出さない。
「あんなんで師範代だから困ったもんだぜ。なぁ剣心?」
「ははは。人間、たまにはそういうこともあろう」
「だいたいアイツは、後先考えなさすぎなんだよ。昨日だって、赤べこにきた物乞いの相手なんて買って出てさ。物分かりがいいジイさんだったらしいからいいようなものの、アブねーオッサンだったらどうすんだよ」
「おろ。昨日、そんなことが?」
「ああ。オレが厨房から出て行く前に薫が追っ払っちまったから、燕から聞いた話だけどな」
「妙殿たちの商徳でござろうな、人が寄り集まるのは」
「客ならありがてぇけどよ。物乞いはほどほどにしてほしいぜ」
そう言うと弥彦は箸を置き、冷めたほうじ茶を一気に流し込んだ。時を同じくして、準備の終わった薫が居間に駆け込んできた。
「おまたせっ! 弥彦、いそぎましょ!」
「おせーよ! んじゃ剣心、またな!」
「いってきまーす!」
門を駆け出ていく二人を見送ってから、剣心はまるまる残された薫の膳に苦笑した。
自分も倒れ込むように眠ってしまったけれど、同じように薫を疲れさせてしまったことに反省する。いくら彼女が武道を嗜んでいるとはいえ、自分と同じだけの体力を要求するのは酷というものだろう。
「握っておいて、昼食べるかな」
食器を片付けながら、剣心はこの後の予定を頭のなかで組み立てる。洗い物が終わったら布団を干して、洗濯物を済ませる。門下生が増えると薫が言っていたから、道場の掃除もしておいたほうがいいかもしれない。神棚の榊の水もそろそろ替え時だったはずだ。ぬか床も忘れないうちにかき混ぜておこう。
「ハアァ、ええじゃないかぁ~」
調子はずれのその歌が聞こえたのは、居間に残った薫の膳に手をかけたその時だった。
「ごめんくだされ~。どなたかおらんかの」
見覚えのあるその姿に、剣心は困惑した。久しぶりに目にした彼は、以前となにひとつ変わらないでたらめな風体で、人がよさそうに笑っていた。
「ホッホッホ、気が向いたからまた来たぞい。週に一度の物乞い行脚じゃ。なんかおくれ」
「おろ……」
「オヤ、君はいつぞやの……。元気そうでなによりじゃ」
さも今気づいたかのように装う老人の擬態を、剣心が見破れるはずもない。困惑したまま、とりあえず残った薫の朝餉膳を縁側へと持ってきた。
「ありがたや、ありがたや」
長くたくわえた鬚を動かしながら美味そうに食べる老人は、汚らしい風体とは裏腹に、確かな育ちを感じさせる。元士族の人間かと剣心は思うが、現在の自由を満喫する彼に、過去を問い尋ねることはあるまい、と口には出さなかった。それに、『人が善い』と自称するだけのことはあって、彼には敵意も悪意も感じられなかったから。剣心は老人の来訪を、行脚ついでの偶然と片付けた。
「その節は、世話になったでござる」
食後の茶を出してから、剣心はオイボレに頭を下げた。笑って流されるだろうと思っていたが、予想に反して、唐突に老人が剣心へふかぶかと頭を下げた。
「なぁ君。たしか、剣心君といったかな。以前のことを恩義と思ってくれるのならば、この哀れなオイボレをひとつ助けてはくれんじゃろうか」
想定外のできごとに、剣心が戸惑っているのがオイボレには分かった。けれど、彼は決して突き放せはしないのだ。『助けてくれ』という声を聞いては。
「拙者にできることなら、なんなりと」
老人の予想通り、剣心は笑顔で頼みに応じた。
その微笑みには、老人のとなりでうずくまっていた頃には持っていなかった何かが含まれている。答を手に入れたからかも知れないし、一番大切な人と生きるべき場所を手に入れたからかも知れない。あるいは、そのすべてが理由なのかも知れない。
考えてみれば、剣心とこうしてまともに話をするのははじめてだった。もしかしたら、これも娘の意志なのかもしれない、とオイボレは思う。
父から立ち去るその前に、自分が確かに幸せであったこと、その幸せから連なって、こうしてささやかで幸せな日常が紡がれていることを、知らせてくれようとしているのかもしれない。
「儂は文武ともにからきしじゃった。頭もよくなければ、君みたいに剣術の腕が立つわけでもない。けど、世の中のしくみは君より知っているつもりだ。うまく伝えられるか分からないが……」
そこでいったん、老人は言葉を切った。世を捨てた老人にとって、本心から誰かになにかを願うことは、本当に久しぶりだった。
「なあ、剣心君。儂が思うに、世の中には人と人との組み合わせというものがある。夫婦だったり、兄弟だったり、友達だったり。ある場合には、それは強固な力を生んで、時代まで動かしたりする。けれど、それこそ悲劇的な破滅にしか向かわない組み合わせもある。本人たち一人ひとりにはなんの落ち度もない、善男善女でもだ。それは、止めようがないことなんじゃ」
『たとえば、儂の娘のように』
もちろん、それは口に出さなかった。
「それはあくまで、組み合わせの問題なんだよ。儂が思うに。歯車と歯車が噛み合って、どんな力が生まれるか。そういう問題じゃ。そして生まれた力の責任は、歯車にあるわけではない。なにせ彼らは、くるりくるりと回ることだけで精一杯。それが何を生み出すかなんて、考える余裕もない。まったく責任がないというわけでもないだろうが、それは程度と責任感の問題じゃ」
老人はひとくち茶をすすった。剣心は黙って聞いてい
る。
「それで、そう、組み合わせの問題だ。率直に言って、君が『今一番大切なひと』と呼ぶ女性。彼女はまったく稀有な存在だ。特別といっていい。もちろん、ごく普通の娘さんだ。多少変わったところはあるし、奇妙な経験もしてる。けれど、彼女本人の性質と基盤に限ってみれば、別段奇特なところは何もない。なにかをしでかそうと分不相応な野望を抱くわけでもない。ごく当たり前に朝起きて、若干世間とは違った方法で働いて、食事をとって、夜になったら眠る。健全な人の営みそのものだ。けれど、だからこそ彼女は特別だ。何があっても、ゆるぎなく普通で居られることが、ある種の人間にとっては大きな意味を持つ。この意味が、君なら分かるね?」
おぼろげに剣心が感じていることを、老人が言葉にしていく。客観的に、無慈悲に。そこに酷さは微塵も含まれていないのに、剣心はなぜか寒気がした。
「組み合わせじゃよ」
老人はもう一度言った。そこにある手触りを確かめて、具現化するみたいに。
「彼女は若干変わり者ではあるが、まあ普通の範疇にいる少女だ。けれど、組み合わせによっては、おそろしく強大な力を生み出す歯車として機能する。本人が望む望まないにかかわらずね。つまり彼女は、もうひとつの歯車が伝えたろくでもない力を、まったき力に変えてしまうことができる。どうしてそんなことができるのか、本人は分かるまいし、おそらく気づいてもいまい」
老人は、もう一度茶をすすった。剣心に考える時間を与えているのかも知れない。
「君が一番、分かっていることじゃないかね? そして君の直感通り、あのお嬢さんと君の組み合わせはうまくいっている。たぶん、これからも。失礼ながら、彼女くらいの強度を持った歯車じゃないと、君という歯車の伝える力は、浄化できない。処理しきれないと言い換えてもいい。強い力を受け止めるには、それだけの強靱さが要求されるからだ。普通の強度だったら、おそらくはぽきんと折れてしまう」
老人の言葉は、剣心と薫を肯定している。だというのに、剣心はどうしようもなく足もとがぐらついていくのを感じた。
「儂が言っているのは、だから彼女を大切にしろ、とかそういう年寄りじみた説教じゃないよ。儂は懇願しにきたんじゃ。のう、少しの間でいいから、薫さんのちからを、あの沈みこんだ青年を助けるために貸してはくれまいか」
老人は注意深く言葉を選んだ。「助ける」この言葉が大切だ。剣心にとっては。
「青年?」
「ついこの前、儂らの群に混じったんじゃ。若いのに真っ白な髪をした青年での」
知らない間に、拳を握り込んでいたのに剣心は気づく。それが誰のことか、彼がいまどうしているのか、ありありと目に浮かんだ。それは、かつての自分の姿だ。
「それまでうんともすんとも言いやしなかったんじゃが……。たまたま薫さんを見かけた時、わずかながら反応しての。なにかしら、縁があるんじゃろ」
そっくり同じだ、と剣心は思う。
おそらくは、剣心が奈落にいたあの時、薫が現れたとしたら。縁と同じ反応しかできなかっただろう。
抱きしめることも、縋りつくことも、泣くこともできずに、ただ名前を呼んだだろう。意味なんて考えないままに。
「必要なら、儂がなにもしなくても、あの子はもう一度薫さんに出会うじゃろ」
『娘がそれを望んでいるとしたら』と老人は心の中でだけ続けた。
「もしそうなったとき、どうかすこしの間だけ見守ってやってほしい。それが言いたかったんじゃ」
「あの二人が……出会ったら……」
「ああ。君には愉快とは言えないじゃろうが……。どうか、あの青年を助けてやってほしい。彼も君と同じように、あの群を出ていかねばならない男だから」
くちびるが震えそうになる。『分かりました』そう発音すればいいだけなのに、剣心は喉がびりびりと焼けるように痛むのが分かった。
「答は、自分で見つけて立ち上がるしかない。いずれはあの子も、自分で答を見つけて前に進むじゃろう。だが、背中を押してやるくらいは、助けてやってくれまいか」
「分かりました」
ほとんど自動的に、その言葉は剣心から転がり出た。その答は、嵐の海の小舟を係留する碇のように、沈黙のなかにしずみこんだ。
「大丈夫。彼女は、きみのものじゃよ」
去り際に老人が言ったその言葉は、遠い雷鳴のように剣心の耳にこびりついた。

「よう緋村さん、今日はひとりかい」
「ああ、薫殿は出稽古で……」
「おらぁ別に、『薫ちゃんは一緒じゃないのかい』なんて聞いてねぇぞ? 緋村さん」
「おろ……」
「かっかっか! 照れるなって! 薫ちゃん、弥彦が出てったから、最近出稽古増やしたって聞いてるよ」
「弥彦は、赤べこで変わらずやっているでござるか?」
「ああ。あの歳で、見上げたもんだよ。そうそう、昨日は薫ちゃんも来たぜ。土産、美味かったろ? 賄いで好評だったから、今度から店にも出そうと思ってんだ、あの佃煮。ショウガとみりんの使い所がミソってな」
「佃煮?」
「おう。薫ちゃんが持って帰らなかったかい?」
「いや……」
「ありゃま。ああ、昨日また物乞いが来てやがったからな。あげちまったのかもしれねぇな。薫ちゃん、お人好しだから」
「物乞いでござるか?」
「ああいう連中の間で『赤べこへ行きゃあ恵んでもらえる』ってウワサになっちまってるんだろうなぁ。妙さんが優しくするから、最近多いんだよ。妙さんの気持ちは分からんでもないけどさ」
「その人のよさが、赤べこの繁昌の秘訣でござろうよ」
「そういってもらえると、ありがたいね。おかげでこうしてオレは、店抜けて買い出しってワケだ。さっきの佃煮、こんど弥彦にでも持たせるからよ。食べてみてくれ。ウマイぜぇ!」
「楽しみにしているでござるよ」
笑いながら手を振って去っていく知り合いに、難なく作り笑いできてしまうこの身が、剣心はひどく滑稽に思えた。人と関わらぬように生きるべく身につけた、薄っぺらい処世術だ。
『必要なら、何もしなくても二人は出会う』
オイボレは言った。彼の言が正しければ、時の流れは確実に薫と縁を出会わせようとしていることになる。
いいことじゃないか。
剣心はそう思い込もうとする。
いまの縁には、寄る辺が必要だ。だがもちろん、剣心がそうなってやることはできない。決して。寄る辺というのは、裏を返せば、何に代えても守りたいもののことだから。
縁とっての寄る辺は、まぎれもなく巴だった。
『俺が唯一守りたかったものは、すでに貴様に奪い取られている』
血と涙を流しながら、そう言った縁の顔が、苦く剣心の胸を突く。縁が守りたかったものを、剣心は奪った。もう返すことは決してできない。
守るものなどないと、縁は言った。けれど、縁は守った。剣心を兇弾から守ろうとした薫を、縁は守った。
それは薫と在りし日の巴が重なったからかもしれないし、闘いの中で錯乱したからかもしれない。心因による体質が、反射的にそうさせただけだったのかもしれない。
けれど、原因は何にせよ、守るものを持たないはずの縁が薫を守った。
よろこぶべきことだとは分かっている。薫にとっても、縁にとっても、剣心にとっても。だというのに、こんなにも不安になるのはなぜだろう。
縁にとって、薫が特別な存在になってしまったら。浅ましくてどろどろした感情が、剣心のなかにわだかまる。
そうなったとしても、薫は揺るがないだろう。あの老人が言うように。それでも。
ずるずるとした黒い感情が、剣心の足下を撫でる。剣心は縁から巴を奪った。その逆が起きても、なんらおかしくはないではないか。今度は剣心にお鉢が回ってきただけの話だ。
そこまで考えて、剣心はむりやりに大きく息を吸い込んだ。
突拍子もない考えだ。感情にまかせて、悪いほうばかりへ考えすぎている。
純粋に考えれば、縁は薫を殺そうとした男だし、薫は縁に捕われていた女だ。そしてその二人を繋いだのは、ほかでもない自分自身だ。
もう一度、肺に空気を取り込む。身体の中心にわだかまっている障気を、新鮮な空気と入れ替えるように。
縁は、動き始めてしまった時間のなかで、これから生きていかねばならない。
縁がまだ動けずにいるのは、たぶん、突然手に入ってしまった自由と現実に、どうしてよいか分からないからだ。人間は、自由を願いながらも不自由を好む動物だから。たとえば、剣を学んで広い世界を手に入れようとするくせに、流儀が必要だったりするように。
だれしも、道筋と正統さを欲しがる。たとえそれが、復讐だとか報復だとかであったとしても。
縁はそれを失った。
だから持て余している。流れていく時間に圧倒されている。不自由に馴れきった彼には、自由がもたらす情報量を処理しきれない。
そこには、不自由と言うふるいがない。なに一つ削ぎ落とされず、すべてがそのまま彼に押し寄せてくる。
だから、立ちすくむ。前にも進めない。後ろにも退がれない。横に避けることすらできない。
堰に雑塵が溜まっていくように、縁は飽和していく。ただ、ひたひたと、崩壊を待つ。
巴はそれを望まない。本当の巴は、誰よりもなによりも優しいから。
ああ、どうしていまここに薫がいないのだろう。
君さえいてくれれば、泣いていいのか、怒っていいのか、喜んでいいのか、分かるかもしれないのに。
こんな、張り付いた上っ面だけの笑顔なんてかなぐり捨てて。

「ジイさん、ホントにあの兄ちゃん、ココ出ていくのか?生きてるのかすらアヤシイってのに」
「出ていくさ。彼はすこし休んでいるだけじゃよ」
「すこしって段階通り過ぎてんだろ。昨日あの姉ちゃんが来て、はじめてオレはアイツが動いたの見た気がするぜ」
「鯉みたいなもんでな。川にかえって行く前には、泥抜きが必要なんじゃよ」
「コイぃ? ま、確かにあんだけのケガしてて、まだくたばらねぇんだから、鯉なみの生命力かもしれねぇな」
「ホッホッホ。鯉というのは、たいていの環境で生き抜くが、捕ってきてそのまま他のものに混ぜると、馴れずにダメになってしまうじゃろ。それと同じじゃよ。しばらく、きれいな水で泳がせて泥抜きが必要なんじゃ。そうすれば、必ずまた泳ぎ出すさ」
「アンタやさしいな、相変わらず。あんなお侍さんにも、こんなボロボロの兄ちゃんにも、やさしいんだもんな」
昨日とかわらず、壁に寄り掛かったままぴくりともしない縁を、オイボレはもう一度見遣った。
やさしさと、哀れみと、申し訳なさと。押し寄せる幾多の感情に、そっと眼鏡の奥で目を伏せる。
もう決して、自分は縁の寄る辺にはなってやれない。あるいはあの時代の節目に、自分がもっと歯を食いしばって耐えていれば、死にものぐるいで拾いってさえいれば。彼の姿は、違っていたのかも知れない。
けれど、すべてはもう遅すぎる。すべては、十五年前に終わってしまったことだったし、十五年前に始まってしまったことだった。
だからせめて、立ち上がる背があるなら、それを押すくらいはしてやりたい。いまさらだとは分かっている。
それでも。捨てたと思っていた親心が、老人に嘘をつかせた。
『彼女は特別だ』
少女と男の間に打ち込んだ、小さくて、重い嘘だ。
けれどそんな嘘をついてまで縁を守ろうとする自分が、なぜか嫌いにはなれなかった。
「彼らは、特別だから」
それは願いだ。
それでもこれから始めることはできるという、思い込みのような願い。ようやく時間を取り戻した縁は、時のない場所にあった安寧のかわりに、未来を手に入れたのだから。
いまはもう、気づかせる助けにすらなれない自分を、歯がゆく思うことしかでないけれど。

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