6.揺籃残滓【R-18】

「あのな、お嬢さん。ここは、アンタみたいな娘さんがお百度踏んでいいところじゃねえんだよ」
顎をしゃくるような動作で、男が薫に凄んでかかる。男の周りにいた数人も、同様に薫へ向かって挑発的に肩をすくめたり首をひねったりしていた。
きっと睨んで、薫はあくまで引き下がるつもりはない意思を示す。対峙した男はその眼力に一瞬怯んだが、構え直して卑屈に笑うと、薫につかみかかった。
「それじゃ、力尽くでお引取り願……」
「離せ。殺すぞ」
男の手が、薫に届くことはなかった。脇を通った風をオイボレが感じるその前に、縁は男の腕をぎりりと締め上げていた。
「てめぇ、新入り……」
「俺の客だ」
さらにきつく男の腕をひねろうとした縁を、薫が声を上げて止める。膝をついて、恨めしそうに縁を見上げる男に、オイボレは陽気に話しかけた。
「まぁまぁ。若いモンには若いモン同士のアレコレがあるんじゃろ。われわれオッサンは、シケモクでも吸って、下衆な想像で楽しむのが粋ってもんじゃよ」
「けっ、お前はオッサンじゃなくてジイさんだろうが。一緒にすんなよ」
「ホッホッホ。こりゃ一本とられたわい」
オイボレの助け舟に乗った形で、男が群の奥へと引き下がる。手を振ったオイボレの意図を汲み取って、薫はそのまま群の外へ出た。五間ほど離れて、縁が薫の後へつづく。
それを見て、オイボレは眼鏡の奥でまぶしそうに目を細めた。
『もう少しだ』
オイボレは思う。何に対してそう思ったのかは、自分でも分からなかった。
「オイ、ジイさん。もうとっくに行っちまったぞ、あの二人。頭下げたって見えやしないって」
二人の背中にふかぶかと頭を下げつづけるオイボレに、群れの一人が馬鹿にしたように声をかける。また風変わりな老人の奇行か、と覗き込もうとしたその男は、何事かとわが目を疑った。老人の目は、見たこともないほど真剣だった。
奇天烈なものを見る目をしながら男が去って行った後も、老人は頭を下げ続けた。自分がついた嘘へのせめてもの懺悔に。
薫を非難するでも、罵倒するでもなく、無言で縁はついてきた。どちらからともなく、昨日の河原で足が止まる。
距離をとって座り込む。昨日と同じことが繰り返される。ただ、二人の間の距離だけは、薫が縁に物を渡そうとすることで、必然的に縮まった。
「これ、ありがとう」
昨日縁に羽織らされた上着を、薫は差し出した。そんなものがあったことすら忘れた、という態度で縁が受け取る。おそらくは、そのまま返さなくとも彼は何とも思いはしなかっただろう。
本来なら、多少時間がかかっても、きちんと洗って返すのが筋というものだろう。にもかかわらず、ただ畳んだだけで、押し付けるように薫がつき返したのは、手元に置いておくことが怖かったからだ。
それは、直感的なものだった。これ以上深入りしないようにと、頭のどこかが警鐘を鳴らす。
『お前の人生は、緋村剣心に捧げたはずだろう』
鐘が告げる。
『ただ剣心ひとりのみを支えるのが、お前の役目だ』
そうかもしれない。剣心が多くの人を救うから、剣心を救うのが薫の役目だ。
けれど、その役目だって、勝手に自分が思い込んでいるだけのものかもしれないではないか。そして何より、剣心に縁は救えない。だから、薫が引き受けるしかない。詭弁のような口実だ。
猜疑心なのか言い訳なのかは、分からない。ただ、漠然とした不安がそこには横たわっていた。
剣心以外の人間の情報を遮断すれば、不安から逃れられるのかもしれない。そう思い込もうとする。
それは果たして正しいのか。そして、正しい必要があるのか。まるで禅問答だ。
薫にとって確かなのは。縁に近づきすぎることによって、知らないほうがよかったことまで見えてしまうという不安と興味を、自分が持ってしまっているということだけだ。
「お前に風邪を引かせたとか言いがかりをつけられて、あの男と顔を合わせるのは御免だからな」
縁が受け取った上着にするりと袖を通した。負傷しているはずの指で、こともなげに複雑な構造のボタンをはめていく。
「用件はそれだけか?」
「……たぶん」
薫の言葉に、縁の眉間がほんの少しだけ動く。しばらく薫の言葉の続きを待ってみる。が、薫自身なぜそう言ったのかを説明できないようだった。
「余計なことばかりだな」
いつもの皮肉のつもりだった。大体にして、縁が薫に投げかける言葉は、皮肉や憎まれ口がほとんどだった。薫は薫で、それに文句は言うものの、気に留めずその場で受け流してきた。それが、二人の間にある関係のすべてだった。
けれど、今ばかりは。薫は縁を見据えていた。怒りでも侮蔑でもない。ただ、そこにあるものを見ているだけの瞳で。
「それなら、どうして何度もここへ来る理由を聞くの?」
薫が縁の元へ訪れるたび、縁は薫に問うている。
『なぜ俺にかまう?』
直接言葉で、視線で、態度で。確認するみたいに。何度も、何度も。
咎められた子どものように、不貞腐れた擬態を保つ縁を見て、薫はこの姿こそが、縁がようやく手に入れた等身大の姿なのではないかと思い当たる。
縁がどんなに辛辣な言葉を口にしても、突き放すような行動をとっても。子どもが、泣きながら縋りついてるようにしか見えなかった。確かめて、懇願しているようにしか聞こえなかった。
「俺がいつお前にそんなことを聞いた」
理不尽な憎まれ口を叩くその姿が、悲鳴を上げて哀願しているように見える。行き場のない幼さは、どうしたって成長し過ぎた縁の身体にはそぐわなくて。
縁はもがいている。もがき方がわからぬまま。その稚拙さと不器用さが、ひどく薫を切なくさせた。
「そうね。わたしが、来たくて来ているだけだわ」
言いながら、涙が出た。
あの人は、笑っていて欲しいひと。このひとは、泣かせてくれるひと。
かなしいくらい無防備で、純粋で。仮面を繕えない人。
だから彼の前では、薫の仮面も簡単に剥がれ落ちる。
「泣くな。殺すぞ」
「……殺せないくせに」
強がりな言葉と、制約された魂は、縁が過ごしてきた歪んだ時間の長さを物語る。
「わたしは死にものぐるいで生きて、それから死ぬの。一度、あなたに殺されたから」
薫が自身へ向けた宣言のような言葉だったけれど、縁はその言葉が自分に向けられていることに気づく。
泣いてばかりのこの女は、いつだって泣きながら何かを訴えようとする。そしてその訴えは、決まって縁のなかの何かを狂わせる。
「わたし、昨日久しぶりに泣いたの。理屈は分からないけど、あなたの前だと泣けるみたい」
『剣心の前ではなくて』
そうは言わなかった。そこにはまだ、可能性が残っていると信じたかった。
「お前が勝手に泣いただけだ」
「そうかもね。けど、一生笑っている顔を見せていたい人もいるんだから、泣き顔を黙って見ていてほしい人がいたって、いいじゃない」
「自分勝手な女だ」
「自分勝手で結構よ。そういうわけだから。あなたが居てくれないと、わたしは困るの。分かった?」
偉そうな口調で、怒ったような態度で。十八歳の少女そのままのわがままさで。薫は訴えかける。島で無理やり食事を押し付けたときみたいに。
「五月蝿い女だ。……とても、姉さんと同じ歳とは思えん」
「巴さんだって、いつまでも神様でいるのは苦しいと思うわよ。……もう、分かっているんでしょう?」
縁は答えない。ただ、眉間の皺を深くしただけだ。
もう、分かっている。
その通りだ。だから苦しい。十五年かけて歩んできた軌道を修正することは、衝撃と痛みと代償とが伴われる。
「あのときの巴さんは、あなたより年下の、私と同じ歳のただの女の子だったのよ?」
薫の言葉に、目を閉じる。
姉は悲しみを抱えた、ただの少女だった。
今になってようやく、現実として受け止められたことのひとつだ。
時が止まっていたあの頃、巴はいつだって『姉さん』だった。巴の歳を追い越しても、彼女はいつでも正しく、美しかった。盲目的な清教徒みたいに、そう信じ込んで疑いもしなかった。
「信じるって、わがままだよね。勝手に思い込んで、裏切られたら怒って泣いて……」
自分自身の手で理想と信仰を裏切ったときの代償の大きさを知っていても。なお、信念や答なんて寄る辺がないと、生きていけないのはなぜなのだろう。
未来は、誰一人として裏切らないのに。裏切るのはいつも、人間なのに。
「それでも信じたくなっちゃうのは、なんでかしらね」
涙を流し続ける薫を見下ろす縁は、あいかわらず無表情ではあったけれど。どこか、困っているようにも見えた。
「あの男は、お前を信じている」
「知ってるわ。あの人はわたしのところへ帰ってきた。そして今度はここから、たくさんの人の旅立ちを見送るの」
十年の彷徨のあとに、剣心は薫のもとへたどり着いた。流れは集積され、もう決して動かない。
薫はそれを願ったし、剣心もそれを望んだ。
けれど。
たくさんの背中を見送るうちに、薫に小さな小さな燻りが宿った。無視していられるほどの大きさだったはずなのに。知らないふりを決め込む仮面が、涙で剥がれ落ちていく。
「じゃあ、わたしは? わたしはどこへ行ったらいいの?ここにずっといなければならないの?」
薫は旅立てない。ただ、たくさんの人の背中を見送るのみだ。
『別れではなく旅立ち』
剣心が、いつだったか薫に言った言葉だ。
皮肉にも、言った本人が、薫を一歩たりとも動けないように縛り付けた。みずからは旅立ちを知らぬまま、少女は旅立つ背中を見送り続ける。それでよいのだと信じて。
「アンタは、どこにだって行ける」
見上げた縁は、ただ茫洋と薫を見下ろしていた。
こんなにも対等でまっすぐに、縁の目を見たのは初めてだった。彼の目は、いつだって眼鏡で隠されていて、表情を明らかにはしなかったから。
初めて凝視した縁の瞳は、ひどく弱々しい光を湛えていた。そして、痛々しいほどに何もなかった。かつてそこにあったものがすっかり抜け落ちた、そんな澄み方だ。
「生まれ方は選べないが、死に方は選べる」
死に方を選べた姉は、幸せではなくとも、納得はしていたはずだ。
自分の中で変わっていく姉の姿に、縁は戸惑う。けれど、それでよいのだと思う。おそらく姉は、信仰の対象となることを望んではいなかっただろうから。
「生き方だって、選べるはずよね」
そして、薫は剣心と生きることを選んだ。選んだはずだった。

『元気そうだったわ』
帰ってきた薫が剣心に伝えた言葉は、それだけだった。
日を追うにつれて、彼女の言葉が少なくなっていくことに剣心は気づいていた。
けれどそれが自分への気遣いゆえなのか、なにがしか言いたくないことがあるゆえなのかは見当がつかなかったし、聞く勇気も持てなかった。
それでも、今日ばかりは。帰った薫の目が、明らかに泣いた後のそれだったから。自分でも不思議なくらいに、剣心は動揺した。あるいは、聞くべきか聞かざるべきかの危うい均衡の崩壊を迎合したからかもしれない。
「……目が……」
赤く腫れた薫の目元に触れようとして、気づく。
もうどのくらい、薫の泣き顔を見ていなかっただろう。
よく泣く娘だと思っていた。怒っては泣き、悲しんでは泣き、うれしいときにもまた、薫は泣いた。
そんな表情豊かな薫から、いつからか泣き顔が消えていた。思い返せば、ここ最近の彼女は、笑顔しか見せていなかった気がする。
ぞくり、と冷たい手が剣心の背中を撫でる。
張り付いたような笑顔。
まるで、剣心そのものだ。
「あ……なんでもないの。ちょっと、砂ぼこりが入っちゃっただけで」
腫れぼったいまぶたを閉じて、薫は笑顔を作る。空々しい笑顔だ。
「今日、夕飯いらないから」
歌うように言いながら、剣心の指をすりぬけて、薫は廊下を渡る。
「何か食べねば、身体に毒でござるよ」
「一食くらい抜いても大丈夫よ。最近、ちょっと太り気味だし」
わざとらしくため息をついてみせた後、薫はそのまま歩き去ろうとする。
「そんなこと……」
『ない』と続けようとしたとき、すでに薫は剣心の前から消えていた。

薫がしまい込んでいた梱のふたをあけると、かすかに樟脳のにおいがした。
血のこびりついた胴着も、折れた木刀も、しまったときそのままの姿だ。静止した時間と、ひとつの死がそこにある。過ぎ去った場所にあった、辛く悲しい時間の象徴だ。仮初めの死だったはずなのに。その死には、確かな手ごたえがあった。
思い出す。あの頃は、ただ明日があればいいと思っていた。剣心も弥彦も左之助も恵もそこにいて、明日も笑っていられれば、それでいいと思っていた。それが永遠に続けばよいと。
薫の死はきっかけに過ぎなかったのかもしれない。ただそれが少し、性急で深刻だっただけの話だ。
時はながれる、人はうつろう。
そんな理のなかで、薫は剣心と生きることを願った。そして、剣心もそれを望んだ。素直で純粋な想いだったし、変化といえばそれはこのうえない変化だ。とりわけ、剣心にとっては。
けれど。変わりたくなかったから。
その思いから薫は剣心にしがみついたのではなかったか。二人だけは、ながれていく時に浚われないように。
今となっては分からない。分からないほどに、その強い想いと薫はひとつになってしまった。
「薫殿」
戸の外から、剣心に名前を呼ばれた。彼がそうするだろうと分かっていたから、いつものように返事をする。
「はーい?」
「入っても?」
『いま、着替えてるから』
もう一度、いつもの調子で返事をするだけでよいはずだった。なのに、声が出なかった。彼に嘘をつきたくないという恋心と、隠し通すことへの疲弊と、幼いわがままを通そうとしてる自分への猜疑心と。たくさんの思いが混ざり合う。
「御免」
踏み込んだのは、剣心だった。薫の背中から、同じように梱を覗き込む。中身を知って、剣心は息を飲んだ。
死のにおいを嗅ぎとる。同時に、剣心の本能は死の概像と薫とを結びつけることを拒絶した。
「これは……」
「少し前に、引き取ってきたの」
穏やかな声で、薫は微笑む。『ただそれだけなのよ』そう語りかけるように。
「なぜ?」
この剣心の声には、聞き覚えがある。動揺と感情を押し殺しているときの声だ。
「わたし、生きているから」
薫が言葉にできたのは、それだけだった。死者とのちがいや足もとのあやうさを、説明しきれるとは思えなかった。それでもなお、薫は笑っていた。
「泣けないのは、拙者のせいでござるか」
薫だけは、揺るがないと思い込んでいた。いつでも笑顔で迎えてくれると、何があってもとなりで笑っていてくれると。そう思っていたかったし、そう思えるだけの態度と行動を彼女は剣心に与えてくれた。
けれどいま。薫が自分に向けている困ったような笑顔の下で、本当は泣いているのだとしたら。たった十八年しか生きていない少女にした無茶な要求が、彼女から笑顔以外の表情を奪ったのだとしたら。
「薫殿の泣いている顔も、笑っている顔もほしい。そう思うのは、拙者の過ぎたわがままでござろうか」
それでも、まだ間に合うはずだ、と剣心は思う。
だってふたりは一緒にずっと居るのだから。そのはずなのだから。
「わたし、生きてるよ。生きてるのに。どこにも行けない。わたしだけが、置いてけぼりだわ」
虚ろな笑顔だった。それでもまだ、薫は笑っていた。
自分が植えつけてしまった病巣の深さを、剣心は思い知る。
「ここではないどこかへ旅立ちたいと、そう思うのでござるか?」
声が震えそうになるのを、剣心は懸命に抑える。呆けそうになる頭を、必死に蹴り起こしながら。
『別れではなく旅立ち』
いつか、自分が口にした言葉。彼女だけが埒外だなんて、都合のよい思い込みだ。
「わからない」
薫は静かに首を振った。瞳は、潤んでさえいなかった。
後ろから抱きしめていた剣心が求めたくちづけに、薫は控えめに応える。触れるだけのくちづけは、それでも剣心をほんの少し安心させた。
襟口から、剣心が手を差し入れようとする。やんわりと、薫はその手を制止した。
「痛いから……」
昨日の行為を思い出して、剣心は自責の念にとらわれる。思えば、その前の行為だって無理やり犯したようなものだった。
「すまぬ」
肩から回されていた剣心の腕に、力が込められたのを薫は感じた。なだめるように、そっと剣心の腕に手のひらを乗せる。
「ごめんなさい。疲れているだけなの」
それでも微笑む薫が痛々しくて、剣心はそのまま腕の中に薫を引き込んだ。
二人は動かない。空気の流れすら、止まっているようだった。そのまま、時だけが過ぎ続ける。
「俗に、男は女の最初の男に、女は男の最後の女になりたがると言うでござるが」
虚ろなぬくもりに抵抗するように、剣心が言った。
次の言葉を、剣心は一瞬ためらう。それは、尊大でわがままな宣言なのかもしれない。けれど、大人の仮面も男の尊厳も脱ぎ捨てて、正直で誠実にいることだけが、いま剣心にできる唯一の正しいことのような気がしたから。
「何があろうと、薫殿が拙者の最後の女でござる」
剣心が持つ唯一の真実は、それだけだった。

「前川先生のところに?」
「ああ、『先日の借りを返す』と宣言されてしまったのでな」
「先生も隠居してヒマをもてあますくらいなら、また道場へ出ればいいのに」
「前川殿も馴れぬ隠居生活で、時間の使い方が難しいのでござろうよ」
「だからって、大の男が二人そろって昼間っから将棋っていうのも、絵にならないわよ」
「ははは……それは痛いところを突かれたでござるな」
そそくさと退散しながら、剣心は『夕刻には帰る』と告げた。遠ざかる背中は、必ず帰る男のそれだったし、剣心が少しずつこの街に根を張り始めていることは、薫を安心させた。それは同時に、彼が張り伸ばしていく根が、薫を絡め取っていく想像に繋がりそうになる。
感傷的になっているだけだ。自分にそう言い聞かせて、薫は道場へと踵を返す。
道場には手入れ途中の竹刀が、何本か転がったままだ。剣心が向かった前川道場からも、師範不在を補うべく、これまで以上に出稽古に来るよう要請されているし、門下生も増える予定だ。弥彦だって、どんどん腕を上げている。加えてここは、父から受け継いだ流儀を育てる場所だ。なにより、剣心の帰る場所でもある。
薫をこの場所へ縛り付ける理由は、いくらだって見つかる。現実的にも、感情的にも、自分はここ以外の場所に行けっこない。
だいたい、『旅立ち』の意味は、なにも場所を変えるというだけではないはずだ。自分の生きる道を見つけることが目的だというのなら、薫はもうそれを持っていた。どこでそれを探すかというだけの話だ。外洋を泳ぐか、足下を掘るか、ただそれだけの違いではないか。
そう、ただ感傷に酔っているだけだ。蒼紫と操、恵、左之助、そして縁。立て続けに別れが続くから、物寂しくなっているだけだ。
『別に今生の別れって訳じゃねェ。誰とだって、会おうと思えばいつでも会えるじゃねェか』
左之助だってそう言っていた。さびしがることはない。
だいたい、青臭い感傷に浸って溺れてばかりはいられない。剣心と生きるとは、そういうことだ。そして、この生き方を選んだのは、他でもない自分自身だ。
深呼吸する。
少し湿気を吸った柱のにおい、陽を受けた瓦のもったりとしたにおい、道場にこびりついた汗のにおい、そして、ほんの少しの熱を含んだ剣心のにおい。
ここが、わたしの生きる場所だ。それでいい。そう望んでいたではないか。
止めていた足を、薫はもう一度道場へと向かわせる。幼い耽美主義は、無慈悲な現実が拭い去ってくれるはずだ。
いやな顔で笑う女だと思った。
まるで、義務で笑っているみたいだった。自然すぎる笑顔。自分がどこにもいない。
なのに、彼女に笑いかけられると苦しくなった。何も持っていない、空っぽの自分を照らし出されるみたいで。居心地が悪かった。
だから突き放した。怒りや憎しみが、一番分かりやすい表現だった。欠落した時間が、縁にそれ以外の表現方法を忘れさせていた。
それでも、薫は縁から離れていかなかった。怒って泣いて、叱咤して。やかましい女だと思った。それなのに、時折見せる薫の笑顔は、気持ち悪いほど縁の脳裏にこびりついた。
『お前なんかに笑ってほしかったわけじゃない。』
そんな言い訳は、虚しいだけだった。
少女の不安定さと、すべてを包むような笑顔の二律背反が、奇妙に縁を苛立たせた。そこに理由を求めれば、おそらくは不快な結論にたどり着く。だから、それ以上の理由を、縁は自分の中に求めなかった。
「なにしてるのよ」
道場の入り口に立っていた縁へ、薫が訝しげに話しかけた。掃除したての部屋に、ずぶ濡れの男が入ってきたような顔だった。
「返しに来た」
いつだったか、薫が縁に渡した羽織を手渡される。ばさりと音を立てて、それは薫の腕の中に返ってきた。
「……どうも」
およそ礼を言うにはかけ離れた胡乱な目をして、薫が縁を見上げた。縁の薄いくちびるは、引き結ばれたまま、上がりも下がりもしなかった。石に刻み込まれたみたいに。
「どこへでも行けたところで、どこにも行くつもりはなさそうだな」
道場に転がる手入れ途中の竹刀や、庭でたなびく洗濯物は、薫がこの場所の住人であることを告げるのに十分だった。
「どこに居たって、同じだもの」
言い訳みたいだ、と薫は思う。縁も、それ以上何も聞かなかった。
「……どこかへ行くの?」
「あの爺さんのお節介にはもう飽きた」
「……そう」
「なぜ泣く?」
言われて気づいた。いつの間にか、涙で視界がぼやけていた。昨夜、どれだけ剣心に問われても、涙なんて出やしなかったのに。
「わからないわ」
鼻にかかったその言葉を、縁が聞き取れたかどうかは分からない。理由のない涙が、ひどく苦しかった。
「姉さんも、あんたみたいに泣いたと思うか?」
見下ろす縁の顔は、相変わらず何の感情も浮かんでいなかったけれど。奥行きの生まれた目のいたいけさは、薫に迷子の少年を思わせた。
「きっと」
姉の泣き顔を、縁は見たことがなかった。笑顔さえ、数えるほどしか見せないひとだった。
縁の中の巴は、十五年間微笑み続けていた。微動だにせぬ笑顔で。
けれど、笑顔を失ったいま。なぜだか、彼女には表情が生まれた。
少しでも変化が起きるのなら。変わる余地ができたのなら。いつか、巴の笑顔を取り戻せるかもしれない。そのための場所は、おそらくはあの埒外の群ではないはずだ。
「明日、もう一度会いに行くから」
なぜそんなことを言ったのかは、薫自身にも分からなかった。それが自分に設けた期限なのか、単に別れを惜しんでなのかすら。
「ちゃんと居てよね。あなたが居ないとあそこ、入りづらいんだから!」
しゃくりあげながら、薫が怒ったように命令する。無理やり強がる薫の視線を、縁はつまらなそうに見下ろした。
「分かった!?」
「何度も言わなくても、聞いている」
鬱陶しさを隠しもしない縁の声に、薫が顔をあげたとき、縁の姿はもうそこにはなかった。
ただ、残された異国のにおいだけが、彼が確かにそこに存在していたことを告げていた。
「あなたも、わたしに手がかりを探すのね」
その言葉は、誰にも届くことなく消えた。

「剣心、お帰りなさい」
台所に立つ薫が剣心を迎える姿を、剣心はずいぶんと久しぶりに見た気がした。
薫はあいかわらず危なっかしい手つきで包丁を握り、馴れない要領で土間を右往左往していた。
「ただいま、薫殿」
そう言って手をすすぐと、剣心は薫の隣で、刻んであった葱を水に晒した。いつもの夕刻の、いつもの風景だ。けれどそこには、不思議な緊張感が同居していた。
今日の将棋はどちらが勝っただの、決め手はなんだっただの、他愛のない会話がつづく。
時折、剣心は薫に尋ねたい衝動に駆られた。剣心が出て行った後、彼女がどう過ごしたのか。今日は縁に会いに行ったのか。行ったとしたら、そこで何を話したのか。
聞きたいことはいくらでもあったけれど、口には出さなかった。昨夜見た薫の不安定を、快くない方向へ揺り倒す引き金を引いてしまったら。そんな想像が、どう明るく考えようとしても脳裏にまとわりついた。
つい先日、薫に思いを伝えた場所もここだった。あのときの自信と誇らしさは、どこへいったのだろう。ころころと変わる自分に笑いさえ漏れそうだ。
「ん、これでいいかしら。剣心、どう?」
渡された木杓子から、味噌汁をすする。薫の料理も、春先よりはずいぶんと上達している。そんな些細なことが、剣心に時の流れを感じさせた。
「ふむ。よいのではござらんか。少し、塩気が強いかも知れぬが」
「それってよくないってことじゃない! んー、味見しすぎると、どうも味が分からなくなっちゃうのよね……」
「なに、何度かすれば、すぐに加減が分かるようになるでござるよ」
「むぅ……」
難しい顔をして味噌汁に湯を足すと、薫は椀を膳へと運んでいった。
背筋が伸びた薫の後ろ姿は、普段と変わらないように見える。不安定だった薫が、いつもの凛然とした彼女に戻るのはよいことのはずだ。けれど、それが決別の意思を固めたからという理由だったら。そんな疑念にとらわれた剣心に、自立した彼女の背中は、氷の壁のように映った。
食卓では、記憶に残らないような会話が続いていた。笑顔ばかり繕うのが巧い自分に、剣心は嫌気が差した。
「さっきからどうしたの? 剣心」
「おろ……」
「言いたくないことなら聞かないけど、聞きたいことがあるなら、話すわ。私で分かることなら」
「いや……」
「じゃあ、わたしの話をしていい?」
薫はいつものように笑っていた。それが、剣心の居心地を悪くさせる。
「さっき、雪代縁がここに来たわ」
『そうか』とくちびるを動かしたはずだ。おそらくは。笑顔さえ浮かべていたかもしれない。他人事のように、身体だけが動いた。
「明日、落人群を出るって」
もともと、恵まれた体躯と行動力を持った男だ。魂の空白は、時間が埋めていくだろう。そして、巴はそれを望んでいる。
立ち上がる縁を想像する。そのとなりに、薫の姿を描きそうになる自分に嫌気が差した。
「これで、よかったのよね。剣心」
心なしか、薫の微笑みはさびしそうだった。彼女はまたひとつ、旅立つ背中を見送ることになる。ここから動かないままに。
満面の笑みで微笑んで頷いた自分が、剣心はひどく薄汚い人間のように思えた。

とんとん、と乾いた音が部屋に響く。返事をした薫に、剣心はおずおずと戸から顔だけを覗かせた。
所在なさげにはにかむ剣心を見て、ああ同じだ、と薫は思う。
「どうしたの?」
「あ……いや……」
うまい言い訳を思いつけずに、視線を彷徨わせる剣心は、まったくもって幼くて。
薫は思う。剣心もまた、縁と同じように少年のまま大人になった男なのかもしれない。
「眠れないの?」
「そんなところでござる」
軽く微笑んで見せると、剣心は安心したように腰を下ろした。不器用で分かりやすいその仕草は、出会った春には見せたことがない姿だった。あの頃の剣心は、薫にとって、手の届かない大人で、謎と深さに満ちた人物だった。
「ちょっと待ってて。明日の支度、済ませちゃうから」
ごそごそと箪笥を漁ったり風呂敷を広げたりと忙しない薫に、剣心が不安そうな目を向ける。どうにも、悪いほうにしか考えられない自分を嫌悪しながら。
「支度って……」
「明日は朝から弥彦の稽古だし、お昼過ぎに上越館へ来月の出稽古の日程を決めにいかないといけないから。いまのうちに支度しておかないと」
「あ……そうか、そうでござったな……」
途端にほっとした表情を見せる剣心に、薫が不思議そうな顔をする。
「なんだと思ったの?」
「い、いや……」
あからさまにうろたえて、剣心が目を白黒させた。なんとなく理由を察した薫が、呆れたように言い放つ。
「あのね、剣心。わたしは忙しいの。剣心や縁みたいにフラフラしていられるヒマはないの。道場だってあるし、家事だってしなくちゃいけないし、弥彦を一人にするわけにもいかないし」
「おろ……」
「それに……わたしがここに居なかったら、誰が剣心におかえりなさいって言うのよ」
あるいはそれは、薫が無理やり自分に踏ん切りをつけさせるための言葉だったのかもしれない。無言のうちに、彼女に強要した言葉だったかもしれない。それでも、その疑問を言い出すだけの謙虚さを、剣心はもう持ち合わせてはいなかった。
「なるほど。その通りでござるな」
剣心の手が伸びてくる。いつもなら頼もしく思うはずの、包むようにまわされた腕が、今ばかりは宝物をしまい込む少年の仕草に見えて、薫はひとりくすぐったい思いをした。身体をひねって、剣心の胸元に鼻をすりつける。乾いた太陽のにおいと肌のにおいが懐かしかった。
「ここが、わたしの居場所だから。本当はなにも、持っていないのかもしれないけれど」
何も持ち合わせてない。このからだと、魂のほかには。それで十分だ。ほかになにがいるというのだろう。
「がらんどうを生涯かけて埋め合えるならば……それはそれで幸せだと、拙者は思うでござる」
「うん……。そうだね」
どこまでも続く空のように、果てしない道のりだけれど。となりにこのひとが居るなら、それでいい。審判の日、青い空の下で手に入れた答と、薫さえこの手の中にあれば。
「触れても……?」
伺うように小さく尋ねた剣心の頬を、薫が両手で捉える。薫から求められたくちづけは、剣心を驚くほど興奮させた。
「ん……」
剣心にのしかかるようにして、薫が体重をかける。剣心は畳に片肘をついてささえながら、もう片方の手で薫の帯を解いた。
「けんしん……」
剣心の身体に沿って肢体をしならせる薫は、妖艶な猫を思わせた。剣心の胸に手をついて、ちろりと赤い舌を出したかと思うと、恥ずかしそうに剣心の首筋をなぞりはじめる。たどたどしくつけられる唾液の跡は、剣心の五感を鋭敏にさせていく。雫ひとすじまで、ぞくぞくするほど熱さを含んでいた。
少しためらったあと、薫が意を決したように剣心の帯を取り去る。男をあからさまに求める少女の羞恥が、手に取るように剣心に伝わる。
羞恥に染まりながら、淫猥に男を求める薫の変化を見られる人間は、この世に自分しかいない。そう思うだけで、安っぽい征服心と満足感が、剣心をなみなみと満たした。
「ん……ちゅ……」
「は……ぁ……」
舌を首すじから胸へと下らせると同時に、薫は剣心の下腹部に手を伸ばした。すでに屹立して下帯の中で窮屈そうにしているそれに、遠慮がちに触れてみる。その熱は、剣心への愛撫が効をなしていることを伝えてはいたけれど。そうだといって、大胆に撫でまわせるほど、薫は男の身体に慣れてはいなかった。
「ふ……ぅ……」
上半身と下半身から来る微流にうち震えながら、剣心が細く息を吐いた。すでに肘に引っかかるだけの用しかなしていない薫の寝巻きを、するりと剥ぎ取る。
「あ……」
すべて露になった肌を、薫が肩を縮めて隠そうとする。羞恥に震えるその姿は、みずみずしい蛹を脱ぎ捨てて羽化していく蝶のようで。象徴的な薫の素肌は、剣心を切なくさせた。薫が、ずいぶんと遠い場所にいる人間に見えた。
「薫殿……」
下帯を解いて、胸にあった薫の顔を陰茎の前に導く。すこしでも、近づけるように。すこしでも、彼女を下卑た欲望に巻き込めるように。すこしでも、汚せるように。
「ん……」
剣心が何を欲しているかを理解して、薫がおずおずと男根に触れる。二、三度指の腹を亀頭に往復させた後で、小さな舌先をちょこんと着地させた。ちろちろと這う舌と指からの弱々しい刺激に、剣心はもどかしくなる。
「かおる……」
吐き出すように名前を呼んで、ずいとさらに陰部を突き出した。切なそうに見下ろす剣心を見て、薫は大きく口を開けた。目をぎゅっとつぶって、歯を立てないように陰茎を口に収めようとする。
「はぁ……」
「ん……ちゅ……む……ひゅ……」
一度思い切ると抵抗が薄れたらしく、薫は健気に剣心の生殖器をついばみ始める。赤黒い獰猛な陰茎と、すりつけられる小さな舌と、唾液にまみれていく赤いくちびるが、どこか背徳的で。生々しいその光景が、剣心を煽り立てた。
「ひぁ……んっ…あむ……ちゅ……」
足の間に薫の顔を埋めたまま、膝立ちになって薫の尻を持ち上げさせる。薄く潤んでいる薫の秘部を、剣心は指を使って開いて撫で回した。
「あ……はむ……ぅん……」
急な刺激に、薫は身をよじって逃れようとする。が、両手で開くようにして尻を押さえつけられているおかげで、うまく刺激を逃すことができない。涙を流す薫ができることといったら、口と舌と陰部から受け取る刺激に、身を任せることだけだった。
「ふ……」
下腹部から受ける刺激に目を細めながら、剣心が薫の陰核を指でそっとめくる。ぷるりと顔を出す突起は、すでに赤くとがっている。人差し指でつついてみると、小さい悲鳴が上がったと同時に、薫の膣からこぷりと愛液があふれた。
「ひゃ……ぃい……ひゃめ……」
尻を振って逃れようとする薫を捕らえる。指で性器を開いたり、芽をつまみあげたりして刺激を加えると、透明だった薫の愛液が、徐々に白く濁ってくる。
「かおる……」
すでに抵抗する気力も失せている薫の身体を、もどかしげに横たえる。力の抜けた薫の腿を両手で割ると、性急に剣心は薫のなかに分け入った。
「あ……かおる……」
閉じていた肉がみりみりと開いて、剣心の形に変わる。あたたかく粘ついたその感覚に、剣心は吸い込まれそうになる。
「あ……あぁっ……ひぃ……んっ……!」
夢中で腰を振る剣心に、薫が悲鳴のような嬌声をあげる。胎の奥が満たされては引き抜かれる感覚の繰り返しがもどかしい。自分のものではない熱と質量で胎を抉られる感覚が、不思議と薫を物足りなくさせていった。
「おく……に……ふぁ……けんし……おくぅ……」
「かおる……あ……かおるっ……」
剣心の男根が、根元から急速に硬くなっていくのが分かった。それにあわせて、自分の身体が、剣心を取り込もうとでもするように内側へめくれていくのも。
「かお……る……ん……っ……!」
「あぁ……ぃ……あー……」
いつになく重い質量を、身体の奥で受け止める。数度震えて、薫の中を剣心の体液が満たしていく。放出を終えた後、薫のうえで荒い呼吸を繰り返す剣心へ、薫は満足げに微笑みかけた。
「けんしん……」
「ん……」
「剣心と……一緒にずっといたい」
「ああ」
「わたしは、ここから動けなくても……。あなたと同じ景色を見ていられれば、それでいいわ」
「薫殿……」
何を言ったらよいのか分からず、ただ剣心は薫を抱きしめた。
かつて、薫の存在が剣心を引き止めたように。いつの間にか、剣心が薫を引き止める役を負っていたことに気づく。
それは決して重荷ではなくて。だれかの礎として場所を持つことが、こんなにも満たし合えることなのだとはじめて知った。
ふいに、薫が剣心に背中を向けた。子猫のように背中を丸めて、散らばった衣にくるまる。薫の背中へ覆いかぶさったとき、剣心は薫が声を殺して泣いているのを知った。
「薫殿……」
「ごめん……ごめんね……」
嗚咽を噛み殺そうとするその震えは、ひどく弱々しい。理由の分からぬまま、剣心はただ薫を抱きとめ続ける。
「ごめんね……」
「何を謝るのでござる?」
動揺を押し殺す。宥めるように、剣心はなるべくやさしく穏やかな声を出そうとする。
握り締めた薫の爪先は、白く鬱血していた。
「……剣心の前では……笑っていたいのに……ごめんね……」
奈落の罪を告白するように声を絞る薫に、剣心は泣きたくなった。
揺れ動かないと、いつも笑って支えていてくれると。何を根拠にして、無条件に思い込んでいたのだろう。
気づけたはずだったのに。薫だけは特別だなんて都合のいい絵面を描くために、彼女に弱さを切り捨てさせた。
「薫殿。昨日も言ったとおり、拙者は、薫殿の笑っている顔だけが見たいわけでは……」
「ちがうわ、剣心のせいじゃない。いやになったの。結局、楽なほうに逃げているだけじゃないかって」
さめざめとした泣き顔とは裏腹に、ひどく冷めた声だった。その目が何を見ているのか、剣心には想像もつかなかった。
「楽なほう?」
「剣心を傷つけるより、わたしを傷つけたほうが楽だから。自分だけを傷つけて、かわいそうなふりをして、一番痛い部分を他人に任せっぱなしなんて……そんなの……」
その潔癖さに、剣心は薫の幼さを知る。
なるほど彼女は人を受け入れるには長けている。だが、自分の暗部を受け入れるだけの老獪さは持ち合わせていない。その姿は、不安定な、大人になりきれぬ少女そのものだ。自分のような男と生きることを望んだからといって、彼女にそれ以上のものを求めるのは、あまりにも酷過ぎる。そんな当たり前のことを、今ようやく理解する。
手に入れたり、失ったり、捨てたり、拾ったり、奪われたり、取り戻したり。そうやって、あるものだけを手にして生きていくことしか、できはしないけれど。その事実を受け入れるには、薫はまだ幼すぎた。
それが、ほんの少しだけ剣心に安心と優越をもたらした。
薫は決して、特別な人間ではない。
オイボレの小さな嘘に気づく。オイボレの言っていたことは、ある面では的を得ていた。けれど決して、それが薫のすべてではない。そのことに気づけたという事実が、剣心を満たした。
「それでいい」
「え……」
「いくらでも、傷つければいい。拙者のことも、薫殿のことも。薫殿につけられた傷なら、拙者はいくらでも歓迎するし、薫殿が受けた傷は拙者がいつまででも看る」
「剣心……」
「だからもう少し、ありのままでいてほしいでござるよ。薫殿が、拙者にそうしてくれているように」
照れたように笑う剣心に、薫はもう涙を隠さなかった。声をあげて幼い涙を流す薫の背中を、剣心は確かめるようにさすりつづけた。

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