第三章【R-18】

 朝まだ暗い時間に、剣心は目を覚ました。向かい合って眠っている薫は、もちろんまだ夢の中だ。
 あの後、夕餉も取らずに求め合い、寝落ちてしまった。今になって疲れが出たのか身体が怠いが、頭のほうはすっきりと澄み渡っている。
 数日ぶりに深く眠った。遠出して帰るたびに、剣心は思う。俺が深く眠れるのは、薫がとなりに居る時だけだ。どうしたって気を張ってしまう剣客の習性すら、薫の前では丸裸になってしまう。思えば、眠りに身を委ねられるようになったのも、ここに居着いてからだった。
 薫を起こさぬように抱きしめて、首すじの熱い香りを吸う。昨夜の汗で大分薄れてはいたが、まだ甘苦い蓮の匂いが混じっていた。幸せなまどろみに、水を差された気分になる。
 混じりけのない、生粋の薫の香りが欲しかった。後先考えずに過剰な量の香粉を使い切り、有無を言わさず薫を湯槽に引きずり込んだ己の所業が悔やまれる。
 剣心が薫の髪に額を擦りつける。さらりと流れる冷えた髪が心地よい。
 こうしているだけで満たされる。そのはずなのに。薫と居ると、あれもこれもと欲が張ってしまう。
 なぜの疑問はもう抜けた。俺は薫が欲しいのだ。心も身体も貰い受けているというのに、まだ足りぬのだ。
 故に、俺の知らぬ時間を過ごしてきた薫に苛立った。
 馬鹿なことを。そんなの、どうしようもないじゃないか。
 出会った時、俺は二十八で薫は十七だった。過去の時間とくれば、俺の方が断然長い。ましてや俺の妄論を当てはめたなら、俺の生きてきた道は、薫からすれば苛立つどころの騒ぎではないだろう。何年生きたところで年の差は縮まらぬし、過去を覗くことなど叶わぬというのに。我ながら子どもの理屈だと呆れる。
「ん……」
 手探りで薫の肌を撫でて、気づく。
「少し痩せたか……」
 撫でた肩と腰から、少しばかり肉が落ちている。留守の間、食が細ったのか。
 そんな発見で機嫌が上向く自分に、剣心はうんざりする。そこは心配して然るべきだろうに。己の不在を薫がその身で寂しがってくれたのかと、心のどこかが喜んでいる。
 今日は薫の好物をたんと作ろう。起きてからの一日を描きながら、剣心はふたたび目を閉じる。まぶたの裏で、美味しいと喜ぶ薫が笑っていた。

 朝から好物が並んだ食卓に、薫は目を輝かせた。甘辛く煮たこんにゃく、湯がいた豆腐、青菜の煮びたし、味噌汁にご飯。普段より手の込んだ朝食だ。喜びながらも、薫は「剣心は帰ったばかりで疲れているのに」と恐縮した。
「どうしたの剣心? 朝からこんなに張り切って」
「昨日は夕飯抜きでござったゆえ。さぞ腹が減ったろうと思ってな」
「お、お互いさまじゃない……夕飯抜きだったのは……」
 薫が頬を染めて、剣心を軽く睨んだ。
「それに薫殿、すこし痩せたでござろう?」
「そう? そんなことないと思うけど……」
 薫が怪訝そうに自分の前腕と手のひらを検分した。
「それならそれで重畳。さ、とにかく食べよう。今日は出稽古なのでござろう」
 それから話題は新しい出稽古先に移り、穏やかな新婚夫妻の朝が過ぎていった。

 その日は普段通り過ぎた。剣心は旅先から持ち帰った洗濯物を片づけ、薫は夕方まで出稽古に勤しんだ。忙しない日中と濃密な夜が来て、一日が恙なく終わった。
 わずかな変化があったのは、その翌日だった。
 朝餉を終え、出稽古の支度をしていた薫は、着換えを終えてもう一度鏡台に向きあった。
「晒しちょっと緩いかな?」
 なんとなく胸の晒しの落ち着きが悪くて、薫は道着を脱いだ。時計を気にしながら直しにかかる。手を動かしながら、薫はまだ時間に余裕があると胸を撫でおろした。
 薫の支度を、弥彦は縁側で足をぶらつかせながら待っていた。井戸端では、剣心が曇り空を気にしながらせっせと洗濯に励んでいる。
「なあ剣心。薫、調子悪いのか?」
 弥彦が剣心に尋ねた。深刻な調子ではない。ひょっとして、という程度の首の曲げ方だった。
「調子は特に……。少し痩せたかとは思ったが」
「痩せた?」
「ああ。拙者が遠出のあいだ、自炊でござったからなぁ……」
「あー……それでか……」
 剣心の思い当たりに、弥彦は半分ほど納得した。
「稽古中になにかあったでござるか?」
「打ち込みがさ、軽い気がしたんだよ。気のせいかもしんねぇけど」
「ふむ」
 二人が考え込んでいると、ようやく支度を終えた薫が玄関に顔を見せた。「しっかり食わせろ。身体が資本の稼業なんだからよ」と剣心に訓告を垂れ、弥彦は薫と共に出稽古へと門を後にした。

 夕方、めずらしく薫が打ち身と擦り傷を作って帰った。剣心が経緯を尋ねると、練習試合で不覚を取ったのだと、薫はばつの悪そうな顔をして答えた。心配する剣心に、弥彦は修業が足りねぇと小言を投げ、薫は自分の失態だと苦笑交じりに答えた。片づけは引き受けるから着替えてこいという弥彦に、薫は礼を言って部屋へ向かった。
「なぁ、剣心」
 薫が部屋に消えたのを見計らって、弥彦が言った。弥彦の声に含まれた真剣さに、剣心は耳を向ける。
「やっぱり、薫おかしくねぇか?」
「おろ。おかしい、とは?」
「あの怪我だよ。いくら師範代たって、たまにゃ薫が一本取られることくらいあるぜ? けどよ……」
 弥彦が見たものをうまく言葉に変換する時間を、剣心は待った。
「切っ先が届いてなかったんだ。それであの有り様だよ。あんなの、薫らしくねぇ」
「間合いを見誤ったと?」
 弥彦が神妙に頷いた。
「薫が相手の面を躱して、胴一本。それで終わりのはずだった。けど、薫の胴が浅かった」
 思い出しながら、弥彦が眉に力を入れた。
「あいつは自分が力で押せないのを分かってる。それでも大の男と渡り合えるのは、自分の剣の間合いを正確に把握してるからだ。その薫が切っ先の届く距離を見誤るなんて……あり得ねぇ」
 弥彦が悔しげに言った。剣心には分かる。弥彦は傷ついているのだ。ひょっとしたら薫よりも。自分の師はこんなものではないのだと。
「薫殿とて調子の波があるでござろうよ。これを糧に、必ずやさらに強くなる」
「分かってるけどよ……」
 弥彦は納得しかねる、といった表情で頷いた。少しの間黙り込み、薫がまだ部屋にいることを確かめてから剣心に尋ねた。
「なぁ剣心。その……薫の体調に心当たりはねぇんだよな?」
「心当たり、とは?」
「ほら、この間さ……買ってたじゃねぇか。蓮の……願掛けの……」
 弥彦にしては珍しく、歯切れが悪い。顔を赤くしている弥彦を見て、剣心は言わんとしていることを察した。頭の中で薫の身体のめぐりを計算する。心当たりは山ほどあるが、出立する少し前、薫は月水を迎えていたはずだ。
「今のところそういったことはないと思うでござるが……」
「そ、そうか……」
 男ふたりの間に、気まずい沈黙が降りる。弥彦が薫の部屋を横目で見て、ぽつりと言った。
「大変だよな、女ってのは……。そうなったら、丸一年剣を握れなくなるんだもんな」
「そうでござるな。だが、薫殿には拙者も弥彦もいる。妙殿や燕殿たちも。大丈夫でござるよ」
「頼りにしているでござるよ」と剣心が弥彦に言った。
「ったりめーだろ! 薫が一年休んだくらいで神谷活心流は揺らがねえよ!」
「それでこそ、薫殿の一番弟子でござる」
 胸を張った弥彦に、剣心がにっと笑った。ほとんど同時に、廊下の奥で襖の滑る音がした。現れた薫は、道着に羽織姿のままだった。
「あれ、薫、着替えてたんじゃなかったのかよ?」
「ん……ちょっとね。剣心、今日はお夕飯はいいわ。少し、一人で考えたくて」
「承知した」
 剣心が頷くと、薫はもうひと言謝ってから部屋へ戻った。意外にもあっさりと承諾した剣心を、弥彦は意外に思う。
「慰めねぇんだな、剣心」
「剣の道には、自分と向き合う時間も大切でござるよ」
 弥彦は知っている。普段は薫に甘い剣心も、剣術に関しては距離を置くようにしている。剣心は薫を、一介の剣士として認めている。薫の弟子である弥彦にとってそれは誇らしいが、なぜだか今は剣心の態度が冷たく感じられた。
「なんだよ、落ち込むようなタマかよ……」
 茶でも飲んでいくかと言う剣心に、弥彦は「帰る」と背を向けた。門を出て、全力で地面を蹴った。無性にひとりで走りたかった。

 薫は自室で痣のついた腕を眺めていた。受け身を取った時についた痣が、赤から紫に変わろうとしている。目を伏せ、剣心の気配が近くにないことを確かめる。ぐっと決意を固めて羽織を脱ぎ、道着を肩から落とした。
「やっぱり……」
 姿見に映る自分の裸身を見つめる。鏡越しにこちらを向いた自分は、明らかに肉が落ちていた。
 身体が角ばっている。肩の付け根には、骨の凸が浮かんでいる。外目に分からぬ程度ではあるが、尻も薄くなっている。なぜここにばかり肉がつくのだと悩んだこともある胸も、少しばかり質量を失っている。
 帰り際の弥彦に指摘されて、ぎくりとした。
 先ほども本当は、小袖に着替えるつもりだった。けれどいつも通りに道着を脱いだ後、鏡台に映った自分の姿に違和感を覚えた。直感が、それは人に知られてはならぬ種類のものだと薫に警告を鳴らした。普段着で姿を現せば、剣心と弥彦から指摘されるかもしれない。そう考えて、迷った後で薫は道着を着込み直して、二人に声をかけたのだ。
 予兆はあった。着替えるとき、いつもの長さでは晒しが余り、心なしか袖がだぶつくようになった。
 極めつけは今日の稽古だ。間合いを見誤り失態をおかした。竹刀の長さを見誤ったかと思っていたが、そうではない。
 あれは、腕の長さを見誤ったのだ。短くなった己の腕に、頭がついていっていなかった。
 帰った翌朝剣心が指摘したように、たんに痩せたのかと思っていた。だが違う。もっと何か深刻な変化が、この身に起きている。
 昨日より今日が顕著だということは、明日にはさらに進行するのだろうか?
「薫殿」
 考えごとに沈んでいると、廊下から名前を呼ばれた。薫は慌てて手近にあった夜着を着こんだ。剣心が襖の向こうから、せめて茶と簡単に腹に入れられるものを持ってこようと思うと、薫に伝えた。薫はそれを断ると、剣心を部屋へ招き入れた。
「薫殿、拙者に遠慮することはない。今日は、一人で居たいのではござらんか」
 剣心が後ろ手で襖を閉めて尋ねた。障子を背にした薫の顔は、傾いた西陽で影になって見えなかったが、首を横に振ったのが分かった。
「剣心と、一緒に居たい」
 濃密さを増す空気に、剣心が一歩前へ出た。薫も歩み寄り、剣心に身を預けた。
「剣心……」
 求めに応じるように、剣心が薫にくちびるを落とした。啄ばむようにくちびるを重ねるうち、薫が舌を差し出して剣心の口内を探った。
「薫殿……」
 剣心が薄い夜着越しに薫の身体をなぞる。薫がびくりと震え、熱い吐息を吐いた。薫は剣心の長着の合わせ目から手を差し入れ、直に肌を撫でる。
 剣心が立ったまま薫の裾を割り、足の付け根を指で探った。指先で、すでに熱く湿っている薫の中心を撫でる。薫は深く息をつくと、足の力を抜いた。指を伸ばし、剣心の袴を解く。下帯越しに熱く蒸された雄茎を、両手で包み込むようにして撫でた。
 薫は剣心の硬くなった先端をそっと握りこむと、下帯を緩めて畳に落とした。剣心が身体をずらして、薫の背を支えた。剣心が身をかがめ、薫を横たえようとする。薫は剣心の腕から抜け出し、剣心に腰を落とさせると膝の上に乗った。
「剣心……」
 薫が片手を使い、剣心の肉杭を身の内に導き入れた。剣心が目を閉じて身を震わせる。薫の内襞はどこまでも柔らかく、剣心のすべてを包んでいった。
「かおる……」
 躊躇なく締め上げてくる薫の肉をもっと感じようと、剣心が両手で薫の尻たぶを掴んだ。それを合図に、薫はしなやかにその身を動かし始めた。
「は……あぁ……! けんしぃ……ん……!」
 剣心の首にしがみつき、波に揺られるがごとく薫が上下に揺れる。小さな船が大波に揺られるような大胆な動きだった。汗で薫の額に前髪が張りつき、剣心は大雑把にそれを耳にかけた。火花のようなくちづけを繰り返し、お互いの余裕が消えていく。
「はぁ……薫……!」
「やっ! う……あぁっ……! ん、んん……!」
 剣心がわずかに身体をずらし、己の下生えが薫の花芽を擦るように位置を調整する。急激に直線的になった刺激に、薫はますます動きを大きくした。恥じらいの混じっていた薫の声から抑制が失われ、二人が繋がる場所から溢れる薫の蜜が、透明から白に色を変えていく。
「けんしん、剣心っ……!」
「薫……もうっ……!」
「きて……いっぱいに……してぇっ……!」
 白い喉を反らす薫の尻を思い切り掴み、剣心は先端を薫の奥にねじ込んだ。最深部に狙いを定め、精を奥に飲み込ませる。やがてすべての放出が終わると、鷲掴みにしていた薫の尻を労わるように撫でた。剣心のすべてを飲み込んだ薫は満足そうに目を細めると、剣心の膝の上に乗ったまま、くたりともたれかかった。
「薫殿……」
 糸が切れたように身体の力が抜けている薫を、剣心はやわらかく抱きしめた。結び紐がほどけ、乱されたままになっていた薫の長い髪をゆっくりと撫でる。そうしていると、驚くほど心が凪いでいく。
 ときおり、薫はこんなふうに剣心には理解が及ばぬ姿を見せる。初々しい新妻の姿でも、凛々しい剣士の姿でもない、知らぬ女のような姿を現すときがある。
 それでいい、と剣心は思う。
 理由は分からない。けれど、薫がその姿を俺に見せることと、その姿を俺が受け入れると信じてくれていること。それこそが肝要だ。
 理屈などいらない。夫婦ふたりだけに共有できることがある。こんな秘密めいた満足も、薫と出会って初めて知った。
「風呂を沸かしてある。このままでは足下が暗いでござろう」
 いつのまにか、陽はとっぷりと沈んでいた。薫を膝に乗せたまま剣心が行灯に手を伸ばす。その手を、薫が止めた。
「灯り……つけないで……。今日、痣だらけだから……」
 恥じらう薫に、剣心は承知したと手を下ろした。
「拙者はそのようなこと気にせぬよ。剣士の傷は名誉でござる」
「そうかもしれないけど……。乙女心は複雑なのよ」
「おろ。乙女心……でござるか……」
「そ。剣心には一生分からないモノよ!」
 おろろ、と眉を八の字にする剣心に、薫は思い切り笑顔を見せた。
 とびっきり優しくて、女心にとんと疎い、愛しいひと。剣に生きるわたしの夫。
 健やかなうちに、抱かれておきたかった。剣心がわたしの身体を忘れないように。

<以降鋭意制作中>