夜っぴて歩き続け、昼過ぎには本郷の丘が見えてきた。さてもう一息と剣心が刻み足になると、浅草へと続く坂で見慣れた顔に行き会った。
「剣心! 今帰りか? 早かったな」
「弥彦、今日は道場は?」
「今日は午前中だけだ。薫ならもう家に居るはずだぜ。俺らは、店で使う野菜を穫ってきてくれって言われてさ」
「こんにちは、剣心さん」
籠いっぱいの青葱と人参を手に、弥彦と燕が言った。畑仕事の帰りなのだろう。足下が土で汚れている。
「丁度よかった。土産にこれを」
剣心が旅行李から、二人に土産の守り札を手渡した。
「わぁ、豊穣祈願! 嬉しいです……!」
「俺のは武芸上達か。ありがとな」
「どういたしましてでござる」
ついでに妙にも渡してほしいと、剣心は燕に商売繁盛の守り札を渡した。その様子を見て、弥彦がしみじみと言った。
「それにしても、剣心が土産を買ってくるとは……。なんか、ちゃんとした旦那みてぇだな」
「弥彦?」
「もう、弥彦くんってば! か、薫さんには、なにを買ったんですか?」
不穏な空気を察知して、とっさに燕が話題を変える。剣心は安心させるように笑うと、「薫殿にはこれを」と蓮の香りの湯の花を取り出した。
「行った先が温泉町でな。蓮の香りがついた湯の花でござる」
にこにこと袋を片手に説明する剣心に、燕は固まって目を見開いた。頬を赤くして野菜籠に目を落とし、おどおどと笑う。
「剣心さん……お、お札、妙さんにお渡ししますね! あ、あの……が、頑張ってください!」
「おろ? 頑張るとは……?」
なにやらあわあわ言いながら、燕はぺこりと頭を下げて坂をおりていく。燕の背中が角ひとつ分ほど離れると、弥彦が苦々しく言った。
「オイ剣心。やめろよ、燕の前で……。旦那になるのはいいが、品のないオッサンになるのはどうかと思うぞ」
「お、おろ? 拙者がなにか……」
「お前らのことに口出しする気はねぇけどよぉ。気が早くねぇか?」
「なんでござるか藪から棒に」
弥彦はがしがしと頭を掻いた。遠まわしに指摘してみたものの、剣心本人はなにがまずいかまるで分かっていないようだ。
「それだよ、それ」
「薫殿への土産物がなにか?」
ここに至ってまだとぼけたことを宣う剣心に、弥彦はうんざりとため息をついた。
「蓮っていったら、子宝祈願の縁起物だろ」
「え」
驚く剣心に、弥彦は「剣心て時々変に常識ねぇよな」と言い放った。
「蓮根は種が多いからなんだとさ。蓮だらけの池がある上野、浅草界隈にいりゃあ、ガキでも知ってるよ」
「い、いやあの、欲しくないと言えば嘘になるが、今すぐにとまでは……」
「だから! そういう生々しい話を燕の前でするなっつってんだよ! 次やったらシメるからな!」
びしりと剣心を指さすと、弥彦は肩を怒らせながら燕のあとを追った。
意気揚々と登っていたはずの本郷への坂が、急にきつく感じる。剣心は懐に手を入れた。先ほどまでは誇らしくさえ思っていた土産物が、ずんと重みを増した気がする。
子宝祈願。そう言われてしまうと、妙に意識してしまう。これを受け取った薫はどう思うだろうか。さりげなく渡して意図を問われるのも気まずいし、かといって「そんなつもりで買ったわけではない」と弁明するのもおかしい。
ただ薫の喜ぶ顔が見たい。その一心だったのに。慣れない女物を選ぶのも、夜道を歩き通したのも。
なにせ、女子に贈り物をした経験など、皆無に等しいのだ。日々の生活で薫に菓子を買って帰るくらいはあるものの、一人胸の内で画策して土産を見立て、手渡すなど、三十年を生きてきてしたためしがない。
一度だけ、巴に鏡を買ってやったことがあった。今日のように一人で見立てたわけではなく、町へ出たついでではあったけれど。子どもだった俺は、巴が水桶を鏡に見立てて化粧しているのを見て、女にはそういったものが必要なのかと初めて思い至った。
あの時は、どうだっただろうか。俺が手渡した鏡を、巴は戸惑ったように、けれど大事そうに受け取ってくれた。ひと言ふた言礼を言われた気がする。それだけで、あの頃の俺は満たされた。
薫はどうだろう。きっと満面の笑みで受け取ってくれる。そしてきらきらと好奇に満ちた目をして、俺に旅先での話をせがむのだ。
そこまで考えて、冷たい汗が背中を濡らした。
『前の旦那を忘れられずに、俺と比べているのではないか』
海鳴りのようにわんわんと、頭の中で声が響く。
ちがう。忘れられないわけじゃない。比べているわけでもない。
だが、俺はそう思っていても、薫は俺をどう見ている?
女は男の十倍勘が鋭い。まして薫は、俺すら気づかぬ俺の心の機微を目敏く見抜く。俺が無意識に思い出している過去を察して、なにも言わず傷ついているのかもしれない。仕方ない、これがこの男なのだと、諦めているのかもしれない。諦めて、失望して、俺に興味を失くして。
『離縁しました』
笑いながら放たれた言葉を思い出す。
馬鹿なことを。薫に限ってそんなことはあり得ない。俺の過去を知ってなお、共に居たいと言ってくれたのだから。俺の恩讐と因縁に巻き込まれてなお、支えたいと言ってくれた。特別な女なのだから。
そこまで思い至って気づいた。
俺は、薫をどれだけ知っているのだろう。
語りたくないことは聞かない。幾度も助けられた薫の信条だ。己の過去に触れたくないがゆえに、その言葉に甘えてきた。必然、薫の来し方も詳しく聞いてこなかった。
馬鹿なことを。剣心は心の中で、もう一度自分に言い聞かせた。
なにを不安に思うことがある。今ともにあり、未来を誓い合った。それだけで釣りがくるほどの幸せだ。つい今だって、神谷道場の門が目の前に見えたと、こんなにも心が満ち足りている。そのはずなのに。
「ただいまでござる」
剣心が門をくぐる。庭で風呂を沸かしていた薫が、焚場からぱっと顔をあげた。
「剣心! おかえりなさい!」
笑顔で駆けてくる薫を見ると、胸を占めていた心のわだかまりが、風にさらわれるようにほどけていく。いつもの小袖姿さえ、いつになく眩しく映る。
「今朝、新市君が『無事解決しました』って知らせてくれたの。だから剣心も夜には帰るかなって思ったんだけど……。ずいぶん早かったのね?」
「おろ……いやぁ……ははは……」
びっくりしちゃった、と言う薫に、剣心は曖昧に笑った。犠牲にした社会性については、次の機会に考えることにしよう。
「怪我はない? ちゃんと食べた? しっかり寝られた? 忘れ物してない?」
笑顔から一転、薫は矢継ぎ早に質問を繰り出した。妻然とした気遣いの言葉がくすぐったくて、思わず剣心は頬を緩ませる。
「ご覧の通り、万事問題ないでござるよ。問題がなさ過ぎて、今朝がた出立するつもりが、昨日の夜に出立してしまった」
「そうなの?」
「ああ、早く……」
会いたかったから。そう言いかけて、剣心は言葉を飲み込んだ。
今さら照れくさいもないだろうに。我ながら面倒な性分だ。
「早く、帰りたかったゆえ」
はにかんだ笑顔から剣心の意図を読み取ったのだろう。薫が、「うん」と嬉しそうに頷いた。
気持ちが通じ合っている。その手ごたえに、剣心は切ないほど満たされる。
「そうだ、土産があるのでござる」
緩んだ頬を隠すように、剣心は大袈裟に懐に目を落とした。
蓮の香りの湯の花。女子に人気とお墨付きの一品だ。薫は初めて見るだろう。さぞ喜ぶに違いない。まさか俺がこんな気の利いたものを、と目を丸くするかもしれない。
「お土産? 剣心が?」
「ああ、これでござる」
満を持して、剣心は湯の花の包みを取り出した。それを見て、薫は嬉しそうにほほ笑んだ。
「わぁ、ありがとう! 蓮の香りなんてあるのね!」
「おろ……」
薫は花が咲きこぼれるように笑っている。包みを大事そうに両手で持ち、目を三日月にしてしげしげと眺めている。剣心が待ち望んでいた光景だ。けれどひとつだけ、想像と違ったところがある。
「薫殿、これを知っているのでござるか?」
「ええ、前にお土産でもらったことがあるわ。あの時は、牡丹の香りだったかな……」
あの時?
薫がこぼした小さなひと言。それが、剣心の心に墨を落としたようにじわりと広がった。
包みの上からでも香るかしら、と薫は楽しそうに袋に鼻を近づけている。
剣心はその様子を見つめる。
薫は俺からの贈り物を喜び、心いっぱいに興味を向けてくれている。夜通し歩く道中で、幾度となく思い描いた通りに。くりんと機敏に動く瞳は可愛らしく、仕草ひとつひとつがいちいち愛くるしい。懸念していた蓮の謂れにも触れられなかった。けれど。
あの時とは、いつのことだ。
贈ったのは、誰だ。
俺の知らない時間に、俺以外の誰かが薫を喜ばせた。「初めて見た、ありがとう」。そんなふうに笑いかけられた。俺ではない誰かが。
「薫殿」
呼ばれて、薫は顔を上げた。
「風呂を焚いてくれたのでござるな」
「あ、うん。新市君は夜にはって言っていたけど、剣心の足なら夕方には着くんじゃないかなと思って」
「忝い。では、湯をいただいてもよいでござるか?」
「もちろん! 待っててね、今支度を……」
「いい。このままで」
「え?」
剣心がいつもの笑顔で、左手を差し出した。条件反射で薫が手を乗せる。途端、ぐいと縁側に引っ張り上げられた。勢いで脱げた下駄のからんと乾いた音を、薫は背中で聞いた。
「剣心?」
「それ、気に入ってくれたでござるか?」
薫の手を引きながら、剣心が風呂場を目指す。顔にはいつもの笑顔を浮かべている。
「え、あ、うん。当たり前じゃない! 剣心がわたしのために選んでくれたなんて……」
「それはよかった。では、さっそく使おう」
「使うって……んっ……!」
薫の質問は、剣心のくちびるに遮られた。剣心は左腕で薫の腰を支え、くちびるで薫の口内を貪りながら、右腕でもどかしく薫の帯や小袖を毟り取っていく。廊下を渡り、脱衣場を抜けた頃には、薫は湯文字一枚の姿になっていた。
「けんし……ね……! ま、待っ……!」
合わせたくちびるの隙間から、薫が戸惑いを訴えようとする。剣心は聞こえぬふりをして、薫の手から湯の花をもぎ取ると、一気にすべてを湯にぶち撒けた。
湯気に乗って、むわりと蓮の匂いが広がる。ねっとりと甘ったるい、鼻の奥を苦くつく匂いだった。
「ちょっと、剣心……」
「会いたかった」
かすれた声で剣心が言った。湯文字一枚の薫を、剣心は自分の身体を使って壁に押し付ける。露わになった薫の豊かな乳房が、剣心の胸板に窮屈そうに押しつぶされて白く光っている。丸く潰された白い双球と傷の残る男の肌の隙間から、淡紅色の乳頭がわずかに顔をのぞかせていた。少しばかり揺すってやると、んん、と薫が身をよじり、淡かった胸の先の薄桃色が、朱を差したように濃く変わった。
「わたしも……会いたかった……」
とろりと潤んだ目で答える薫が、剣心のなけなしの罪悪感をすっかり洗い流していく。
帰って早々こんな狼藉を働かれても、心と身体を開いて「会いたかった」と言ってくれる。なんて女だ。いじらしくて、愛おしくて、どうしようもない。
「薫殿……」
じれったく自分の衣服を脱ぎ捨てながら、剣心は熱くなった身体をさらに薫に擦りつける。心臓が耳に移ったかのようにうるさい。
「薫殿、もうここに……」
剣心が立ったままの薫の右ももを持ち上げる。まだ開きかけの薫の花肉の上で猛った先端を往復させて、訪いを請うた。これといった愛撫を施していない薫の蜜口は、常に比べて潤いが足りない。
「ん、いいよ……。だい……じょうぶ……!」
「は……あ……!」
剣心がぐいと薫の中に踏み込んだ。湿りきっていない薫の秘路が、戒めるようにきつく剣心を食い締める。なかなか剣心を受け入れようとしない狭道を、剣心はねじり込むようにして進む。薫は初めこそ歯を食いしばって擦れる感覚に耐えていたが、剣心が浅く何度か往復すると、じゅわりと内側から蜜を滴らせた。
「すごい、薫殿……もうこんなに……吸いついて……」
「あぁっ……! だって……だってぇ……!」
もはや痛みは遠のき、薫は剣心に突き上げられるままその身を震わせている。壁際で片ももを上げて刺し貫かれ、男の首に縋って涙を流す薫は、凄絶なまでの色香を放っていた。
「剣心に……会いたかった……から……」
駆け引きも取り引きもない純粋な言葉が、剣心の脳を焼く。
「拙者も……!」
会いたかった。帰りたかった。感じたかった。それから。それから。なんだったろう。なにも考えられない。
「は……かおる……!」
「けんし……! ひ……ぁ、ああ……!」
薫の足が浮くほど強く突き上げると、剣心は薫の最奥に精を放った。硬く張った雄茎が、薫の潤肉でやわらかく捻られ、搾られる。誘われるまま、薫の中に何度も契水をまき散らした。
「かおる……薫……どの……」
射精の余韻に浸りながら、剣心が角度を変えて薫にくちづけた。壁と己の間でくたりと力が抜けている薫を、立ったまま支える。胎中に潜り込んだ先端で、薫の荒い呼吸を直接感じた。興奮の波が引くのと引き換えに、五感が戻って来る。浴室を満たす甘く気怠い匂いが、鼻腔にまとわりついているのに気づく。蓮の花の香りだ。
「薫……」
蓮には遠くを見通すという謂れがあるという。過去も未来も見通すことができたなら。もっと上手く愛せるのに。知らない薫の時間に、心を波立たせることもなく。こんなふうに、欲や激情に任せて身体を蹂躙したりせずに。見えない不安に揺れることなく。
「剣心……なに、考えてるの……?」
「薫殿……?」
「どこを見てるの……?」
乱され、貫かれたまま薫が問うた。ほどけかけたリボンとすっかり緩んだ湯文字一枚きりのその姿は、濃密な色香と儚さを纏っていた。薄く開いた目は、見えない剣心の意図を探り、自信を失くして揺れている。
『前の旦那を忘れられずに、俺と比べているのではないか』
じくりと、剣心の首の後ろが疼く。得体の知れない寒気が足下から走り抜ける。
「事件のこと? まだ気になる?」
労わるように薫が聞いた。不自然なほどの穏やかさに、剣心は心の中で歯噛みした。
薫が本当に俺に問いたいのは、そんなことではないはずだ。
心の中を覗けはしないけれど、それだけは分かる。身体を繋げている今この時にさえ、問いたいことさえ問えぬように薫を縛っているのは、この俺だ。
「薫殿しか見ていない」
「んっ……んん……!」
噛みつくように薫のくちびるに吸いつく。薫の口内を味わい、素肌を撫でるだけで容易に硬さを取り戻す雄根で、ふたたび薫を擦り上げる。胎の中でふたたび硬くなった剣心を感じて、薫が身をよじった。
「やっ……剣心……! また……」
「足りない、薫」
間を置かぬ再開に、薫が思わず身を引こうとする。そうはさせじと、剣心が薫の肩を抱き込んだ。抑えた肩の冷たさに、剣心は薫を湯船に引きずり込んだ。
「やぁっ……! けんし……! 奥、くるし……ああっ!」
薫の手を壁につかせ、叩きつけるように肉茎で最奥を穿つ。湯の花が溶けた甘ったるい湯が、ざぶざぶと盛大に飛沫をあげた。
「苦しい……? こんなに吸いついてくるのに……?」
剣心が腰を引くたび、薫の内側は健気に狭路を元に戻そうと窄まる。閉じようとする花筒を雄杭で割り拓くと、今度は一斉に粒だった肉襞が絡みついて吸いついて来る。腰ごと吸われるような感覚に支配され、身体が勝手に動きつづける。
「薫、かおる……!」
肺を痺れさせるような香りと湯気の中で、剣心は薫を穿ちつづける。
ちがう。ちがう。俺が薫に捧げたいのは、こんなみっともない、荒ぶれた想いじゃない。もっと穏やかに、包み込むように愛したいのに。薫の安心できる場所でありたいのに。
語りたくないことは聞かず、どこまでも俺を気遣ってくれる薫に、どうして俺はうまく応えられない。きみこそただひとりの女だと、信じさせてやることすら碌にできない。
『子どもが居れば少しは違ったのか』
その言葉にぎくりとした。考えたことがないわけじゃない。
子さえ宿れば、薫はもう俺から逃げ出せなくなる。薫を絡めとる強固な鎖が手に入る。ただひとり、薫だけが俺にできることだと、この身の証を立てられる。俺が選んだのは、ほかの誰でもなく薫なのだと。
「けんし……おなか……奥までいっぱいで……! わたし……!」
「奥まで満たしたい……かおる……」
剣心が薫の背中に覆いかぶさる。薫の中を行き来しながら、揺れる乳房と赤く熟した花芽を爪で引っ掻いた。薫はひときわ高く啼いて喉を反らし、きつく身の内にある剣心の肉茎を食い締めた。
「ぐ……! 薫……!」
甘ったるい蓮の匂いが、剣心の神経を逆撫でする。
縁起物を信じたことはない。縁起を担いでもらえる身の上とも思っていない。だがこの胸に重い香りが、眼に著効を示すというのなら。
薫の眼が、俺の心まで見通せるようになればいいのに。俺の心まで見透かしてくれたなら。こんなにも俺の中には薫しかないと、信じてもらえるのに。
「けんしんっ……! わたし……もう……!」
「あ……薫……!」
奥へと引き搾られる感覚に、剣心は身を任せる。放った精が薫との繋ぎ目からぽたぽたと溢れ、甘苦い湯に溶けていった。
「のぼせかけた」、「洗濯物を増やして」。そんな小言を両手いっぱい薫から頂戴しながら、剣心は寝室の箪笥から引っぱり出してきた夜着を薫に手渡した。薫が身支度を整える間、剣心は脱衣場に散乱した衣服や小物を拾い集める。その中に、くしゃくしゃになった湯の花の包みがあった。
「しまった。使い切ってしまったでござる」
「えーっ!? そんなぁ……」
剣心が申し訳なさそうに差し出した湯の花の包み紙を、薫が受け取る。花の絵があしらわれた可愛らしい包み紙は、濡れて皺だらけになり、見るも無残な姿に変わっていた。
「これ、五回分って書いてあるわよ? どうりで、匂いがきついと思ったのよね……。うー……もったいない……」
「申し開きもござらん……」
肩を落とす薫に、剣心は平身低頭して謝るしかない。
苛立ちと欲の勢いのままに、袋の中身を景気よく全て振り撒いてしまった。どうもいけない。頭に血が上りやすいとの自覚はあるが、薫を前にするとそれに拍車がかかってしまう。
「済まぬ……薫殿……。つい拙者、夢中になってしまって……」
「えっ……」
「周りが見えなくなっていたでござる。誠に申し訳ない」
頭を下げる剣心に、薫が少し拗ねた顔で思案する。
「そ、そうでござる! 代わりに、今度なにか一緒に買いに……」
「それじゃ意味がないの!」
ぴしゃりと薫が言った。またしても機嫌を損ねたかと、剣心がびくつきながら薫を伺う。そんな剣心を見て、薫がふぅ、とひとつ息をついた。
「これ、剣心がわたしが居ない場所でわたしを想って、選んでくれたんでしょう?」
薫が丁寧に包みの皺を伸ばした。両手で持って、その袋をじっと見つめる。
「側に居ないあいだも、剣心がわたしのこと考えてくれたんだなって……嬉しかった」
ゆるりと薫が笑う。手にした袋に愛しいものが詰まっているかのように、満ち足りたほほ笑みだった。
「薫殿……」
ため息のように、剣心が呼んだ。熱い塊が肺をせり上がって来る。息が苦しい。嬉しい時にも胸が痛くなるのだと知ったのは、薫と出会ってからだった。
「側に居ても、居なくても。拙者の中心にはいつも薫殿がいる。どれほど遠く離れようと」
「うん……」
そろりと剣心が薫の背を引き寄せる。薫は引かれるまま剣心に身体を預けた。
「妻の気持ちを汲めぬ、不甲斐ない夫で済まぬ」
「仕方ないわよ。剣心だもん」
「それは……少し傷つくでござるよ」
「ふふ。いいの。剣心が女心をすっかり分かっていたら、それはそれでちょっと複雑だもの」
淡い笑みを浮かべて目を伏せる薫を、剣心は強く抱きしめる。
「女心」の言葉の裏に、薫が誰を見ているか知っている。
ああ、今すぐこの胸を割って、薫に見せられたらいいのに。薫の胸の内を透かして見ることができたらいいのに。
蒙昧は毒だ。正体も手ごたえもない。姿なきものを相手にすることほど怖ろしいことはない。
「わがまま言っちゃ駄目だよね。剣心が無事に帰って来てくれたんだもの。それで十分だわ」
薫が剣心を抱き返して笑った。
「もっとわがままを言ってほしいでござるよ、薫殿には」
「そんなこと言って、あとで後悔しても知らないわよ?」
くすくすと笑う薫の振動を、剣心は胸で感じる。
わがままなのは俺だ。勝手に薫の心の裏側を探って、ひとりで焦れて。期待通りの反応が返って来なかったといじけて荒ぶって。けっきょくこうして薫に許されている。独り相撲で揺れる心を、薫に慰められて鎮めている。
普段は、誰になにを言われようと聞き流せる。けれど。
『離縁しました』
ほんのひと言で、容易く心が曇った。
在り得る未来だからだ。在り得ると知っていて、それでも俺が目を逸らしたかった可能性だからだ。
いつかの未来、薫が俺に疲れて、手を振りほどく。
「今までありがとう。そして、さよなら」。
己が吐いた呪いの言葉が、自分自身に返って来る。頭から追い出していた想像が、たった一言で波紋のように広がっていく。
「薫殿……」
心を落ち着けようと、剣心は薫の髪に顔をうずめた。
甘くやわらかな薫の香りに、むったりと重たい蓮の香りが混じっている。人の手で作られた、わざとらしく胡散臭い匂いだ。薫の身の内から立ちのぼる蘭麝が妨げられて、神経に障る。
余計なものはいらない。薫だけが欲しい。
どうして俺はこのひとに関してだけは、こうも貪欲なのだろう。
縁がない、他所ごとだと飼い慣らしたはずの欲が、ひと所に集約されたが如く薫だけに向かって行く。主人にしか懐かない猟犬のように。
そんな俺の中の獰猛な獣を、薫はそれでよいと撫でてくれる。それで十分なはずなのに。まだ足りぬ、まだ渇くと心が叫ぶ。
過去も未来も、薫のすべてを見通せたなら。今は薄い薫のこの胎に、子を宿させることができたなら。この行きどころのない不安は消えるのだろうか。些細なことで揺らがず、薫に気を遣わせることもなくなるのだろうか。
「薫殿、このままでは身体が冷える。部屋へ行こう」
「ん……」
剣心は夜着を申し訳程度に羽織って、薫の手を引いた。剣心の意図を察した薫は、耳を赤くしてきゅうと剣心の手を握り返した。
灯り取りの窓から、淡く西日が差し始めている。夜はまだ始まってすらいなかった。