乾杯さえ付き合えば、義理は果たしたろう。そう自分の中に理屈をこしらえて、緋村剣心は広間を出た。
背中ではすでに三度目の乾杯の声が聞こえる。昼餉を言い訳に始まった警官たちの打ち上げ騒ぎは、おそらく夜まで続くだろう。
「はぁ……」
まだ明るい窓の外を見て、剣心は深く息を吐いた。
ようやく一人になれたのだ。ため息ぐらい許してほしい。
帰りたい。もはや癖のように剣心はそう思う。
他の者たちと違って公僕なわけでなし。まだ陽が高いのだからとっとと帰路につこうと、何度も草履を履きかけた。が、同じ数だけ、和を乱す行動は慎むべし、根無し草生活の習慣は忘れよと自戒した。
ただでさえ乏しい社会性をこれ以上失うわけにはいかない。紆余曲折を経て、奇跡的に所帯を持ったのだ。こんな男を選んでくれた、世にも奇特な、もとい得難い妻の顔に泥を塗るわけにはいかぬ。
「とはいえ、なぁ」
剣心は玄関先に腰を下ろして、恨めしそうに外を眺めた。
緑に萌える山々、山裾にたなびく源泉の煙、ほのかに漂う硫黄の匂い。ここに薫が居たのなら、目を輝かせてはしゃぐだろう。そんな薫の姿を見て、俺もまたつられて笑うにちがいない。
幸せな想像でさらに虚しさを加速させたところで、もう何度目かも分からぬため息をついた。
去年までの俺なら、迷わずこのまま出て行っただろう。去った後に不義理な奴と思われようと、気にも留めなかったはずだ。風のむくまま気の向くままと流離っていた頃ならば。
「ううむ。さすがに……」
剣心が草履に目を落とす。しばらくそうしてから、けっきょく履かずに再度唸った。
ことは、年明けから道場へ通い始めた新市小三郎から始まった。是非にと頼まれ、本郷から丸一日半かかる宿場町で、士族くずれ同士の小競り合いに介入することになった。多少の立ち回りがあったとはいえ、丸二日膠着状態が続いたのち、今朝がた事件は片付いた。そこまではよい。
問題はその後だ。荒事の後、ひと束の男たち。とくれば、後にくるのは酒と大言、そして女だ。とはいえ、腐っても警官の集まり。加えて真昼間。さすがに大っぴらに綺麗どころは呼べない。そこで女が猥談に座を譲った。
必然、普段見ぬ顔の俺は、格好の標的となってしまう。つい春先に祝言を上げたばかりと知れたら、なおさらだ。それは御免と場を中座する術も、今や堂に入ったものだ。
「緋村さんは真面目ですなぁ」。
そう言われるのにも、もう慣れた。
ただひとりと心を定めた女に忠を貫く。さして珍しい性分でもあるまいに。男がひと束集まると、途端に虚勢を張り合うのは、さもしい男の性なのだろう。
俺が真面目といわれる所以は、その虚勢を面倒がって張らぬがゆえだ。張る必要のない見栄を張ることほど、肩の凝ることはない。
襷掛けで女房の帰りを待ち、飲む打つ買うには興味が沸かない。旅先で羽目を外したりもしない。つまらぬ男と後ろ指を差されようが、これが俺の自然体なのだから仕方ない。
俺のような男を選んでくれた薫へ、俺が差し出せる最低限の誠実さ。
金も地位も名誉もない。そのくせ、後ろ暗い過去だけは掃いて捨てるほど持っている。手前勝手な信念を抱え、身体は綻びかけている。そんな男が、それでも俺の側にいてくれと差し出せるものときたら、信を尽くして心を捧げるよりほかはない。
暇にまかせて、つらつら頭でっかちな理論を頭の中でこねくり回すも、話は至極単純だ。要するに、俺は妻に惚れ抜いているのだ。
こんなふうに何日か外にいると、とみに思う。俺にとって薫は、坂を転がる球がようやく砂地を得るがごとき場所なのだ。ゆらゆらころころと外を転げまわった後、やわらかく、けれどしっかりと受け止めてくれる砂地にすぽりと収まる。その安心感たるや。
これが、帰る家を持つということなのだろう。なにをせずとも居てよい場所。その場所のために何かせねばと、無意識に手が動く。巣作り、というと照れが勝るが、沸々と沸き上がるこの気持ちは、それに近い感情にちがいない。
草履を眺めながらそんなことを考えていると、「戻りました」と年若い警官が一人玄関をくぐった。
「おや。緋村さん、お出かけですか?」
「そうしようかと悩んでいたところでござる。お主は見回りでござるか?」
「ええ。犯人が捕縛されたとはいえ、現場は交代で見張りを立てておりますので」
「ご苦労様でござる。皆、先に盛り上がっているでござるよ」
はは、と剣心が広間に向けて首を曲げた。若い警官だ。早く座に加わりたかろう。
「いえ、自分は……女房とちょっとありまして。こういった席は……」
「おろ」
意外にも、若い警官は乗り気ではなかった。
「そろそろ打ち上げも終わっているかと戻って来たのですが……」
剣心は若い警官を観察する。
広間へ戻りたくないが、戻らぬ理由が見当たらない。そんな顔をしている。俺と同じく、ああいった席が苦手なたちなのだろう。
「そうでござったか。では、悪いが拙者に付き合ってもらえぬだろうか」
「え? まだなにか気がかりが……」
俄かに声を固くした警官に、剣心が首を振った。
「そうではござらんよ。妻に土産をと思ってな。拙者、このあたりは不案内ゆえ。案内してもらえないだろうか」
「あ……はい! もちろん」
渡りに船と顔を輝かせた若人に、剣心は恩に着る、と笑顔を返した。
午後の温泉町は、街道沿いということもあってひっきりなしに人が行き交っていた。今朝までこの宿場を覆っていた不穏な空気はすっかり取り払われている。まずは人々に笑顔が戻ってよかったと、剣心は心を穏やかにした。
「土産といっても、ご覧の通り鄙びた温泉町ですから、大したものはないですが。女連中には膏薬やら、湯の蒸留なんかが喜ばれているみたいです。緋村さんの御新造さんはお若いのでしたっけ?」
どうやら、新市から余計な情報まで伝わっているらしい。ここで薫と自分の歳を言うと面倒なやりとりが起こることを、剣心は経験から学んでいる。
「拙者より少しばかり年若いというくらいでござるよ」
「少しばかり……。そうですよね、そのくらいが一番だ」
口元だけの笑顔に、剣心はわずかな引っかかりを覚えた。西日と制帽で目は見えない。
「湯の花なんかはどうです? 日持ちもしますし」
「いいでござるな。おろ、これは……」
手に取った湯の花の包みに書かれた書き添えを、剣心は思わずまじまじと見つめた。そこには、大きく「子宝祈願」と書かれていた。
「ここの温泉は子宝の湯と言われていましてね。他の宿場より夫婦連れが多いのは、そのせいですよ」
「なるほど」
剣心が頷いた。街道を歩き通す長旅となれば、いやでも男が多くなるはず。着いた時からやけに女が多い宿場だとは思っていたが、そういう理屈だったか。
剣心が街道をぐるりと見渡した後も、若い警官は湯の花を手にしたままだった。
「お主も、御内儀への土産探しでござるか?」
「いえ……。子どもが居れば少しは違ったのかと思いまして」
「おろ。まだそのようなことを口にする歳ではなかろうに」
剣心が言った。制帽を深くかぶっていて分かりづらいが、声の張りから、警官はまだ二十歳そこそこといったところだろう。薫よりいくらか年上に見える。
「自分はそうです。女房がね、だいぶ年上の後家だったもので」
警官は湯の花を店先に戻すと、歩き始めた。
「さして珍しいことでもあるまいよ。それに年上の女房は金の草鞋を履いてでも探せ、と言うではござらんか」
俺が言えた義理ではないが、と剣心は心の中で注釈をつけた。ひととき居た年上の妻とは上手くいくいかない以前の問題だったし、たとえ今目の前に金の草鞋があったとしても、俺が履くことはない。
「自分もそう思っていました。だから周りの反対を押し切り、俺が幸せにするなんて言って所帯を持ったのですが……」
「何事も、見立て通りにはいかぬものでござるよ」
「まったくですね。初めはよかったんです。よく気がつくし、なにかと俺を立ててくれて。できた女房だと浮かれていました」
警官が歩きながら話をつづけた。剣心を石畳の参道に先導する。参道沿いに土産物屋が並んでいるところを見ると、この先に見どころがあるのだろう。近づくにつれ、夫婦連れが目に付くようになった。行き交う人々に笑顔も増えてきた。だが、今の剣心にそれを楽しむ余裕はなかった。
背を向けて淡々と話す警官の声に、奇妙な胸騒ぎがする。風のようにさわさわとした、底冷えのする違和感だ。
「ですが、一緒に暮らすうちにね。だんだん苦しくなっていくんですよ。できた態度も、しなの作り方も、死んだ旦那に仕込まれたのじゃないか。前の旦那を忘れられずに、俺と比べているのではないか。そんなふうに、見たこともない旦那の影がちらついてしまって」
青年はほとんど抑揚なく喋っている。ほんの軽口の延長だという風情だ。だというのに、剣心の頭には、わんわんと声が響いた。得体の知れぬ重い予感が胸にのしかかる。
「ああ、いけない。緋村さんが話しやすいから、ついつい余計なことまで話してしまいました」
「あ、いや……」
「酒の席だと、どうしたってそんな話になるでしょう? なので、今は酒の席を避けている次第です」
話に落ちをつけて、若い警官は石段の前で足を止めた。急勾配の階段の上に鳥居が見える。ここが目的地なのだろう。
剣心は気づかれぬよう深く息を吸って、胸の奥の動揺を鎮めた。
「たしか、緋村さんのお宅は剣術道場だとか。ここの神社は子宝のほかにも、目鼻にご利益があると言われていまして。転じて、武道を志す者に人気があるんです。剣術・体術に目は命ですから」
剣心が沿道を見渡す。参道には子宝祈願だの商売繁盛だのに交じって、目やら鼻やらを模った守り札や菓子が並んでいた。
「門弟への土産探しには、ちょうどよいかと思いまして」
「拙者の弟子というわけではないが……。心遣い痛み入る。皆、喜ぶでござる」
「まぁ、緋村さんみたいな達人には必要ないかもしれませんが」
いやいや、と謙遜して剣心は石段に足をかけた。
「お気をつけて。頂上の社まで登れば、この天気なら富士が見えます」
階段の下で警官が言った。
「おろ、お主は行かぬのでござるか?」
「やめておきます。自分が行ったら験が下がる」
「神仏はそのように狭量ではないでござるよ。そうだ、せっかくなら、お主も奥方になにか……」
言いかけた剣心に、警官は力なく首を振った。その姿が薄ぼんやりと見えて、剣心は胸がざわめいた。
薄々分かっていた。この男の話しぶりから。彼ら夫婦がどうなったかを。予想を否定してほしかった。だから聞いた。
「立ち入ったことを聞くが、御内儀とは……」
「離縁しました」
制帽の下の笑った口だけが、去り際に見えた。
石段の上からは、警官が予言した通り霞がかった富士が見えた。鳥居の前にある小間物屋が、土産物を掲げて頂上でしか手に入らぬと、しきりに声を張り上げている。
剣心はぼんやりと今しがた登って来た階段を見下ろした。角度のきつい石段を、夫婦が支え合って登って来る。
俺と薫だったら、どうだろうか。剣術を嗜む薫は健脚だ。支えがなくとも登りきるにちがいない。それでも俺は薫に手を差し出して、薫はその手を取るだろう。幸せな想像が、今日に限って心をあたためない。
「離縁しました」。若い男は笑って言った。ごく簡潔で行き場のない結論だった。
年かさの夫と年若い妻。年若い夫と年かさの妻。申し合わせたように鏡合わせな組み合わせだ。してみれば、彼と同じ考えを、薫も持っているのだろうか。
『できた態度も、しなの作り方も、死んだ旦那に仕込まれたのじゃないかと』
『見たこともない旦那の影がちらついて』
ずわりと背骨が冷えた。思わず右手を柄にやる。冷たい鉄の手ざわりは、心を落ち着かせてはくれなかった。
己ができた夫だと思ったことはない。今だって、新妻を置いて一文の得にもならぬ遠出のさなかに居る。いつだって薫は闘いの場へ向かう俺を、笑って見送ってくれる。寂しさを億尾にも出さぬが、不安で居ないはずがないのだ。
だからせめて、側にいる限りは心を尽くしてと、そう思ってきた。
好物を知れば勇んでこしらえ、心地よく過ごしてもらいたいと家じゅうを掃き清め、薫こそただひとりと欲を向ける。
勝手に心が向き、手が動く。そんな自分の在り様がこそばゆくも心地よくて。この想いが薫にも届いていると思い、満足していた。もしもそれすら疑われたのなら、俺はどうしたらよかったのだろう。
「いかん、暗い。他所は他所、うちはうち、でござる」
頭を振る。この半年で薫に何度も言われた言葉を、頭の奥から引っぱり出す。
年明けを待たず、共に生きると誓い合った。そのための挨拶周りをするにつけ、いやが応でも己が身の上を引け目に感じる機会が増えた。
己の道程に後悔はない。けれどいざ薫の隣に立とうと思い定めたれば、呆れるほど俺はなにも持っていない男だった。そう痛感するたび、薫は俺に言って聞かせた。他所は他所、うちはうち、と。
そもそもの始まりが一風変わっていたのだ。広い世の中、うちのような夫婦が居てもよかろうと、薫は実にあっさりと笑った。妻の笑顔に、ともすれば暗くなりがちな俺は何度も救われた。
あの朗らかな笑顔の裏で、薫は苦しんでいるのだろうか。
俺の過去とそれにまつわる影に、苛立ちを募らせているのだろうか。
積もった失望の重みが、いつしか二人の結ばれた手を軋ませたなら。
もう一度頭を振る。鬱々としたもの想いを振り払うように、周りを見渡す。いつの間にか境内は人がまばらになり、土産物屋が店じまいにかかっていた。
「あいや、店主殿、ちと見せていただけるでござるか?」
気持ちを切り替え、剣心は土産物屋の店じまいに待ったをかけた。弥彦に武芸上達、妙に商売繁盛、燕には豊穣祈願の守り札を買い求める。
さて薫には、と店を見回した。たしかあの警官は、女子には膏薬やら湯の蒸留やらが喜ばれると言っていた。探すまでもなく、それらは目玉品と銘打たれて軒先の目立つ場所に置かれていた。が、剣心の想像の倍の値札がついていた。
「奥様にですか?」
「いかにも。しかし、なかなか値が張るものでござるなぁ」
中年の女店主が、そうでしょうと愛想笑いした。
「男衆はみなそう言われます。女の小間物は割高なものでございますからね」
「いやはや……不勉強でござった」
「では、こちらはいかがです? お侍さんのように値札に怯んだ旦那さんがた、こぞってこちらを選ばれます」
よくある接客の流れなのだろう。よしきたと、店主は手のひらに載るほどの紙包みをつまみ上げた。
「おろ、これは?」
「香りのついた湯の花です。家で温泉気分を味わえて肌も若返りますから、奥様にも喜ばれますよ。最近出回り始めたばかりですが、軽い安いで手が出しやすいと人気の品です」
女店主の説明に、剣心はふむふむと耳を傾ける。これなら薫が喜びそうだ。なにより御内儀の言う通り値段が手ごろなのがよい。
「沈丁花、金木犀……いろいろあるのでござるな」
「ええ、香りによって効能が違うんです。髪にいいやら、肌にいいやら。鼻づまりが通るなんてのもありますよ。ま、神社のご利益にひっかけただけで、どれも気のせい程度ですけれどね。一度入れば五つ若返る、なぁんて売り文句はついていますが、だったら私ぁとっくに赤ん坊ですよ」
身も蓋もなく店主が笑った。
「そういえば、こちらの神社は目鼻にご利益があると伺ったでござる」
「お侍さんもそれで詣でにいらしたのでしょ? 武芸達者に引っかけた香りもございますよ」
もう一押しで買うと睨んだ店主が、目をきらりと光らせて剣心に包みを一つ手渡した。
「蓮の香り……。なるほど、先手を見通せるという蓮根の縁起物でござるな」
「その通りです。目の神様にあやかってね」
店主が手のひらを額に当てて眺めて見せ、薬効を説明した。
「それはいい。こちらにするでござる」
「あい、毎度」
上々ことが運んだと満足げな店主から、剣心は土産物を受け取った。懐に入れると、なんだかほかほかと温まる心地がした。
「最近出回り始めた」と店主は言っていた。きっと薫も初めて目にする品だろう。剣術稼業に精を出す身なれど、あれでなかなか乙女らしいところも持っている薫だ。喜んでくれるに違いない。
渡したら、どんな顔をするだろう? 俺を魅了してやまない、あの花のような笑顔できっと喜んでくれる。
「会いたい、なぁ」
我知らずぽつりと零して、剣心はすっかり陽の落ちかけた石段を下った。
宿に戻るなり出立すると告げた剣心に、宿場の署長は困惑した顔を見せた。
「なにもこんな夜に出立しなくても……。朝まで待たれては?」
「今なら皆が揃っているでござるから。一度に挨拶を済ませられたほうが手間がないと思ってな」
剣心は人のよい笑顔を見せると、頭をひとつぺこりと下げた。
「山向こうに雲がかかっている。梅雨も近いでござるし、雨に追いつかれぬうちに歩くでござるよ」
尤もらしい言い訳をこしらえながら、我ながら白々しいと剣心は思う。
どうやら、俺にはまだまだ社会性とやらが足らぬらしい。昼にうだうだと考えていた世間体はどこへやら。土産物を手に入れた途端、今すぐ薫に渡したいと思ってしまった。思ってしまったが最後、足は勝手に東京へ向こうとするのだから仕方ない。黙って帰らぬだけ、成長したということにしておこう。
「では、拙者これにて」
半ば一方的に辞去の挨拶を済ませ、剣心は玄関を出た。念のためと、町を出る前に事件現場となった屋敷に足を向けた。交代で立っている夜番の警官は、変事なしと剣心に胸を張った。
「証拠品はあらかた検分が終わりましたし、明日か明後日には、ここも元通りになりますよ」
「それはよかった。ああそうだ、土産物屋へ案内してくれた昼番の若者にも、よろしく伝えてほしいでござる」
そう言づけると、剣心は今度こそ宿場を出発した。
「昼番の若者? いたかな、そんな奴……」
みるみるうちに遠ざかる剣心の背中を眺めながら、夜番役は首をかしげた。