習慣とはよくいったもので、何も考えずに歩いていると、縁のある場所へ勝手に足が向く。買い物通りを通って河原を抜けると、剣心は大通りに面した警察署へ出た。門衛の巡査があくびをしている姿は、いかにも平穏な日常そのものだ。
剣心は思う。世界はこんなに平和なのに、自分ひとりなにを思い悩むことがあるのだろう。俺ひとりが考え込んでいたって、世間は当たり前に回り続けるというのに。
斜に構えてみたところで、馬鹿らしくなってやめた。どれだけ理屈を並べたところで、自分から逃れる術などない。愚かしく一人であがくこと。それだけが、剣心にできるすべてだ。
門衛の巡査に、見覚えがあることに気づく。たしか、神谷道場に入門すると薫が言っていた青年だ。新市が剣心を呼ぶ時のこそばゆい呼び名を思い出して、顔を合わせないのが得策とばかりに、剣心は密かに歩を返した。
「あ……」
振り返った先にいた少女と目が合った。父親を生き写しにしたようなその娘は、風呂敷包みを抱えていた。いかにも儀礼的に、少女は剣心に頭を下げたが、眼鏡の奥の目は、隠しきれない胡乱の色を浮かべていた。
「その節は、大変なご迷惑をかけたでござる。申し訳ない」
「いいです、べつに……。薫さんにも謝ってもらいましたし……」
「薫殿が?」
「ええ。前に、父の病室で。その……薫さんが……失踪……する前に」
言いづらそうに彼女は言葉を並べた。署長の病室を見舞った時の、嫌悪するような娘の態度を思い出す。なんの落ち度もない彼女たち家族が、剣心と関わったというただそれだけで被った被害を考えれば、恨むのは当然といえば当然だ。
腫れ物に触るように言葉を選ぶ少女もまた、薫の『死』を重荷に思っていたのだろう。すげない態度をとったその次の日に、薫が『死んで』しまったことは、少女にとって心苦しいことだったにちがいない。
「署長殿も、変わりないでござるか?」
警戒心をほどくように、剣心はなるべく穏やかな笑顔を心がける。この日常の中で、誰も少女を責めていないと、語りかけるように。
「あ……はい、ここのところ泊まり込みが続いているので。着替えを……」
「なるほど。署長殿も大変でござるな。拙者で力になれることがあったらいつでも言ってほしいと、伝えてもらえると助かるでござるよ」
「はい」
居心地悪そうにしている相手を引き止めることもあるまい。剣心は早々に立ち去ろうとする。が、意外なことに、終始よそよそしいままだった少女が、剣心を呼び止めた。
「あの……」
「おろ?」
「薫さんなら、もう帰りましたよ」
「え?」
「薫さんを迎えに来たんじゃないんですか?」
「薫殿が、署に?」
「はい。父の部屋で入れ違ったから、もう帰ったと思いますけど」
無理やり霧散させていた感情が、剣心の中で急速に形を作っていく。
『善良な一般市民』たる薫が、警察署を訪れた用件を考える。署長からの頼みごとなら、まずは剣心に話が来るはずだ。どこをどう捏ねくりまわしても、一番辿り着きたくない結論にしか辿り着かない。
「あの……」
黙ったままの剣心に、おずおずと娘が話しかけた。考えがまとまらないまま、剣心は首だけで返事をした。
「家主さん、なんですよね? 薫さん。その……あの後でも……」
『あんなひどい目に遭わされた後でも』
言葉を濁してはいるが、おそらく彼女はそう言いたかったはずだ。
それが、世間一般の物差しだ。
同居人の私闘に巻き込まれて死ぬような目に遭ってなお、笑いながら剣心と暮らし続ける薫は、彼女にとってはひどく理解しがたい人間なのだろう。世の中の大多数の人間がそうであるように。
オイボレの言っていた言葉を思い出す。
『揺るがずに普通でいられるからこそ、彼女は特別だ。』
そんなことは剣心自身が一番よく分かっている。まさしく剣心こそが、そんな薫を理解して、救われている人間にほかならないのだから。
だが、ほかの誰かが彼女の特別さに気づくことは、ひどく剣心を追い詰めた。薫の周りにいる人間は剣心だけではないし、そうあるべきだと分かっているのに。世界がこんなにも広いことが、どうしようもなく疎ましく思える。
「いや、今はちがう。たぶん」
ぽつりと呟くと、剣心は浅く黙礼して、足早に歩き去った。
「剣心。お帰りなさい」
道場で見つけた薫は、まだ胴着姿のままだった。帰ってから直接道場へ来たのだろう。壁には稽古用のかばんが立てかけられていたし、彼女も若衆姿の出で立ちのままだった。
薫は注意深く竹刀の弦を指ではじき、先革をとんとんと叩く。使った剣術道具をしまうときの、いつもの仕種だ。
「出かけてたの? あのね、前川先生の奥様から西京漬けいただいたの。夜はそれに……」
「そうか。最近は土産ものに縁があるのかもしれぬな」
薫の言葉を遮るように、剣心が言った。あくまでやさしく、穏やかな笑顔で。
「最近? 剣心も何かもらったの?」
「いや。先ほど赤べこの厨房方に会ったでござるよ。昨日の土産はどうだったかと聞かれてな」
「昨日の……? あぁ、ごめん! 剣心にってもらったお土産、帰り道で物乞いの人にあげちゃったの……。その……ごめんね」
「そうでござるか」
穏やかに笑う剣心の虚ろさは、西陽が作る影で、薫からは読み取れない。不似合いに身体にまとわりつく陽の光のおかげで、剣心からもまた、影になった薫の表情は読み取れなかった。
「ね、剣心。話しておきたいことがあるの」
防具をしまい終わったところで、薫が剣心に振り返った。
運命的なほど、真摯な目だ。この目からは、逃れられない。そこに映り込んだ自分が、逃してくれるはずもない。
「昨日ね、雪代縁に会ったの」
まっすぐに投げかけられる薫の言葉と視線は、剣心を安堵させもしたし、居心地悪くもさせた。
こちらから切り出す前にそれを告げた薫からは、後ろめたさは微塵も感じられなかった。いきさつを説明する彼女は、どこまでも真摯に剣心だけを見ていた。
そこには、普段から薫が惜しみなく剣心に与えてくれる、安定した居場所が確かにある。けれど、それでもなお、何かしらの流れが薫と縁を引き合わせた。そのふたつに意味があるのかは分からないし、あったところで剣心にどうにかできるとは思えなかった。
薫が話している内容は、オイボレから聞いたものとほぼ一致していたし、彼女が隠しごとができる女だとは思わない。だというのに、場違いな焦燥だけがつのっていく。
島で二人だった縁に、薫はなにくれとなく世話を焼いたと聞いた。殺されそうになった男に。
彼女は、ごく限定されたある種の男から、その根元の部分を引き出すことができる不思議な女だ。
普通の少女だ。それは十全に認める。けれど、喪失と傷を抱え、それを埋め合わせる術を知らない種類の人間と触れることで、彼女の存在は意味を変える。薫を前にすると、ある種の男たちは無条件で裸になり、すべてを投げ出すことになる。ごく限定された範囲で活動する娼婦のようなものだ。
彼女は揺らがない。そして、寄る辺のない人間は彼女にしがみつく。この俺だ。
「さっき、署長さんに会って来たの。あの人、あのときの格好のままだったから……」
悲痛な顔で、薫は話す。
もちろん剣心には想像がつく。かつての自分がそうだった。
「署長さんに、無理を承知でお願いしたの。服だけなら、物証としての価値はないから持っていっていいって。なんとか取りはからってくれるって」
人のよい署長の笑顔が脳裏によぎる。文句の付けようがなく好人物のはずの彼が、なぜだか今は忌々しかった。
「明日、もう一度会いに行ってみようと思うの」
薫の言葉にあるのは、問いではなく決意だった。
愛した男の私闘に巻き込まれて、その義弟に殺されかけてなお。男たちを恨むことなく手を差し伸べる薫は、ひどく純粋なものに見える。同時に、彼女が剣心ではない誰かに差し伸べるその手を、横目で疎ましく思う自分の心根の醜さが、どうしようもなく剣心を苛んだ。
彼女は正しい。まったく正しい。なのに、納得できない。首の付け根がぎちぎちと痛んだ。
「ああ……。そのほうがいい……」
勝手に口から転がり出た言葉は、奇しくも以前、薫が縁に手を差し伸べたときにかけたものと同じものだった。
あの時、薫から手渡された巴の日記帳とともに縁は消えた。そしていま、ふたたび彼は現れた。
築き上げたすべてを失い、かわりに、明らかになった姉の本当の想いと、無慈悲で無限に広がる未来だけをその手に持って。
剣心の言葉に、薫はつよく頷いた。
できる限りのことをしてやりたい、という薫の慈愛だか憐憫だかの美しさが、無闇やたらに剣心を貶めた。
分かっている。
薫はどこにも行かない。
薫をどこにも行けないようにしたのは、ほかでもないこの俺だ。
分かっている。
それでも。
「大丈夫だとは思うが、一応あそこはお世辞にも安全な場所とは言えぬ。気をつけるでござるよ」
抱き締める。懐深くに、薫をしまいこむように。そうすれば、彼女から自分の顔は見えないから。
わけもわからず歪んだ顔を、笑顔の仮面で覆い隠している、この浅ましい男の顔を見られずに済むから。
醜さも、切なさも、愛しさも、なにもかも。
彼女のなかに放り込んでしまえばいい。
それができるのは、俺だけだ。
俺だけだ。
俺だけのはずだ。
「剣心……あの……ここでは……。その……や、弥彦たちも使うところだし……」
小さな抵抗をものともせず、剣心は薫の袴帯をするりと解いた。
知っている。
試すために、優越のためにする行為が、どれほど醜いのか。
それでも。
彼女は決して拒まない。
やわらかく、心も身体も受け入れてくれる。
からだが繋がれば。近付けると、なにもかもがうまく前に進むと、思っていたのに。
心配と不安を盾にして、知りたがっているだけだと気づく。
他の誰のことを何一つ理解できなくても。薫が他人だと言うことが、奈落のようにおそろしかった。
場所を変えたい、という薫の要望に聞こえぬふりをして、剣心は薫の顎をつかんでくちづけた。すべてを奪い去ろうと食いついてみる。
けれど、荒れる気持ちをぶつければぶつけるほど、そんな剣心の横暴にすら応えようとする薫が、ますます遠のいていくような気がした。剣心には重力が、薫には揚力が同時に働いて、倍の速さで遠ざかって行くような感覚に陥る。
だから、より深く奪い去ろうと、剣心はまた乱暴に手を伸ばす。すると純真に応える薫は遠くなる。不毛な追尾劇。その繰り返しだ。
「けん……ひ……ん……」
袴だけを解いて、薫を道場の床に横たえる。およそ色気とはほど遠いはずの胴着の袷は、その狭間から見えるがんじがらめの晒しと、心もとなく足下を覆う白い足袋と、裾からちらりちらりと見えかくれする淡い陰毛が添えられることによって、おそろしいほど扇情的に見えた。
普段は気丈な剣術小町が、一瞬にして女になる。たった一人の男の手によって。奇妙な優越感と、他者と比較せずには不安を拭えないという劣等感が、剣心のなかで入り乱れる。
「やぁ……陽があるところ……じゃ……」
髪のひとすじからつま先の爪まで、十全に照らされる場所での行為はいやだと薫が訴える。かわいいはずの懇願さえ、今の剣心にはひどく忌々しく聞こえた。
『人生を支える』と言ってくれた彼女の言葉は、無条件にすべてを受け入れるという意味ではない。それを知っているのに。子どもじみたわがままだと分かっているのに。
それでも、これまでそんな我を通したことも、通せる相手もなかったから。後から後から湧きあがる、このどろりとした気持ちの悪い感情を、どう片付けてよいか分からない。手がかりは、薫にしかない。
「きれいでござるよ」
耳触りのよい愛の言葉で、渦巻く感情を悟られないように壁を作る。乳房を吸っていた舌を背中に移動させるふりをして、薫をうつぶせにさせた。そのまま覆いかぶさるようにして、体重をかけながら、後ろから深くくちづける。
わざと音を立てて唾をすすりながら、前にまわして乳頭をすり上げていた指を秘所にねじ込むと、薫の背がびくりとしなった。その戦慄きが、痛みではなく快楽のそれだったから。剣心はすこしの安堵と、膨れ上がる支配欲を手に入れる。
「ん……んんっ……ふぁ……」
両手で上半身を支えられなくなった薫は、くずおれて床に頬を押しあてながら、それでも懸命に秘所を這い回る剣心の舌に応えた。這いつくばり、尻だけを高く掲げて秘部を苛まれながら、なお剣心に応える薫の姿は、ひどく隷属的で滑稽なのに、悲しいくらいに美しかった。
「やわらかくなってきた……」
「やっ……!」
尻にかかる剣心の吐息から、性器を間近で見られていることを、薫は感じ取る。反射的に手で顔を覆った薫にかまわず、剣心は人さし指と中指を使って、さらに薫の入り口を広げた。
「奥まで、覗けそうでござるな」
すでに蜜で溢れている薫の秘所に指を差し入れて、絡んだ愛液を陰核にすりつける。つまむようにして陰核の外皮をめくると、薫が息を飲んだのが分かった。
「やめ……あ……ぁ……」
明るい場所で、剣心に性器を観察されている羞恥心と、荒々しい愛撫とで、薫は何がなんだか分からなくなる。ただ目をつぶって、与えられる刺激に身を任せることしかできない。
「薫殿……」
つぷりと、秘所に剣心が割り込んでくるのが分かった。まだ馴れない侵入の感覚と、背後にいる剣心の表情が分からないという不安が、薫の身を硬くさせる。
「いいから……」
思わず振り返ろうとする薫を制して、剣心はさらに深く薫の腿を割った。さらけだされた性器が無防備に空気に触れて、薫の不安を煽り立てる。
「やっ……あ……けんしん……待っ……!」
牙を突き立てるように、剣心が薫に男根を打ち込む。奥の奥まで、自分の形を残せるように。
打ち込まれるたび、元に戻ろうと柔軟に形を変える薫のなかが、自分の形を拒んでいるようで。剣心は苛立つ。身体とはまた別の場所から、追い込まれるような気分に陥る。
「……くっ……かおる……」
「あはっ……う……うぅ……」
這いつくばって、唸るように声をあげる薫を見下ろしていると、自分がひどく卑小で暴悪な存在に思えてくる。
なにもかもが、ちぐはくだ。
信念とか、慈愛とか、愛しいとか、助けたいとか、男だとか、女だとか。すべてが煩わしい。いまこの瞬間には、二人だけしか必要ない。ほかの誰も、何も、存在しなくていい。
そう思うのに。
薫以外の情報を、意識の外に追いやろうとすればするほど、雑音ばかりが剣心の意識を侵食した。喘ぎながら必死に衝撃を逃している薫の背中ですら、剣心を裏切られたような気分にさせる。
「こちらへ……」
「え……? あ……っ……」
荒々しく薫から陰茎を引き抜くと、今度は仰向けに転がして再びおさめた。
すでに力が抜けて、剣心に身を任せるままになっている薫からは、抵抗すらない。
申し訳程度に腕に引っ掛かっている白い袷と、ゆるめられて意味をなさなくなった晒しを纏って、剣心にされるがまま足を開いている薫は、淫猥で滑稽で、健気で。理屈のつかない罪悪感を剣心に突きつけるから。
「かおるっ……!」
わけも分からず、腹が立った。ゆるんだ晒しの両端を床に押し付けて、薫の上半身の動きを封じる。貫かれる振動を逃そうとする薫が、逃れきれず窮屈さに身をよじらせる。そのたびに、赤く擦れるような鬱血が白い肌に浮かび上がった。
「あ……剣……心……けんしんっ……!」
謂われなく狼藉を働かれ、床に縛りつけられるようにして犯されても、なお健気に自分の名前を呼ぶ薫が、愛しいのか憎いのか。濫立する感情と、昂る快感とで、剣心にはもう見当すらつかない。
ただ分かるのは、ここにすべての感情があるという一点だけだ。それが、愛であろうと、憎しみであろうと、あるいは剣心の知らない、別の感情であろうと。
「あ……そろそろ……」
「んっ……んーっ!」
がむしゃらに腰を打ちつけつづけて、そのまま剣心は果てた。
自分でも何が起こったのか分からぬまま、剣心は目を見開いて、ただ肩で息をする。頭を働かせようとすると、後悔と自責の念が押し寄せてくるのは分かっていたから。
何も考えず、ただ暗示のように自分の呼吸音を聞いていた。顎を伝った汗が、ぽたぽたと薫の胸に落ちた。
「けんしん……」
剣心の下から、細い指が伸びる。薫はそのまま、ばさばさと乱れている剣心の髪を耳にかけて、頬骨を伝っていた汗をぬぐった。
無下な扱いを受けた後でも、薫は笑っていた。剣心の中に、何かがわだかまっていたのを察したのかも知れない。
『何があったのか』とは、彼女は聞かない。『語りたくないことは聞かない』という彼女の姿勢は、出会った時そのままだ。剣心が過去の話をしたときですら、彼女はその言葉を反故にはしなかった。
意地っ張りで世間知らずの少女だった出会いの春も、ともに生きると誓ってくれたこの秋も。薫は揺れ動くことなく、この場所に居る。まるで、道しるべみたいに。
突然、ぞくりと冷たいものが、剣心の背中を撫で上げた。
北辰のごとく変わらない彼女の確かさが、ある種の人間を引きつけてしまうのだとすれば。それは、まさに俺なのだ。
天中にて動かない彼女のまわりを、ぐるりぐるりと廻り続けることしかできない。その円は、輪を縮めることはあっても、決して天中に留まることは許されない。どこにも辿り着かない、虚しい永久運動だ。
「もー……こんな時間じゃ、七輪だせないじゃないの……」
胸にうずめていた剣心の頭のうえから、怒ったような薫の声が響いた。剣心が顔をあげると、薫は困ったように夕闇を覗かせている庇を見つめていた。
「……七輪?」
「うん。前川先生のところで西京漬けいただいたって言ったでしょ。明日までもつかしら?」
難しい顔で、薫が胸元にいる剣心に相談を持ちかける。あられもなくはだけた胴着と、押さえ付けられた晒しの痕と、男の精液が滴る太ももと。猥雑な姿そのままに、夕飯の心配をする彼女の姿に、剣心は呆気にとられる。
「……たぶん……もう一日くらいは……もつのでは…なかろうか……」
「そうよね。明日は弥彦も来るし、三人でいただきましょう。んー、でもそうなると、今日の夕餉はちょっとさびしくなっちゃうわね……」
剣心は愕然とする。それから、かつてない深さで納得した。
そうだ。この、底の見えない揺るぎなさこそが、薫なのだ。
不器用で、直情的で、世間知らずで、危なっかしくて。なのに、決して揺らぐことのない強さを持っている彼女だからこそ。こんな、明日をも知れなかった流浪人の北辰として、終着点になり得たのではないか。
「すまぬ、拙者のせいでござるな」
「そうよ。だから責任持って、今日の夕餉作りは剣心ね」
「先刻承知」
言葉にできないから身体に求めたのだと、おぼろげに理解した頃、ようやく剣心は自分も腹が減っているということを思い出した。
「おお、西京漬け! 今日は昼から豪華じゃねえか!」
「ははは、たまにはいいでござろう」
昼餉に不似合いな献立の豪華さに、弥彦は目を輝かせて飛びついた。理由を聞かれなかったことに安堵しながら、剣心はそつなく二杯目の味噌汁を弥彦に手渡す。
「薫のヤツ、最近妙にはりきって、やたら出稽古入れてるからな。大メシ喰らいの左之助もいなくなったし、ついにこの貧乏道場の傾いた家計が上向く時が……」
「悪かったわね、家計の傾いた貧乏道場で!」
向かいに座っていた薫が、弥彦をぎろりと睨み付ける。『やべえ』と目をそらして、そそくさと弥彦は話題を変えた。
「そ、そうだ! 剣心、この後、時間あるだろ? 手伝いに来られねぇか?」
「おろ? 赤べこにでござるか?」
「ああ。冬向けに品書きを見直すんで、在庫整理するんだけどよ。大口の客が入っちまってて、男手が足りねぇんだ」
「なるほど。拙者でよければ、手伝いに行くでござるよ」
「そうこなくっちゃな! 礼として一飯くらいは出すって言ってたから、今日は薫のマズいメシ、食わなくて済むぜ」
「余計なことは言わなくていいの!」
着替えに自室へ戻ろうと、居間の障子戸を開けた薫が、振り返って弥彦を咎めた。
「出稽古用の道具、とってくるわ。弥彦もそろそろ赤べこの時間でしょ? 途中まで一緒にいきましょ」
「んじゃ、食器洗っとくわ。とっとと支度しろよ」
「お願いね」
「では拙者も、布団を取り込んでおくとするかな」
それぞれの役割をもって、三者三様に居間を後にする。
食器の触れあう音や作業をする水の音、陽を吸い込んだ布団のにおい、閂を掛けるときのぎぃっという鈍い音、竹刀の先で揺れる稽古道具、姉と弟のような憎まれ口。ありきたりの日常のありきたりな手触り。
いまは当たり前になったその日常は、あって当然のもので、これからも続いて行くものなのだと、剣心はひとり心の中で自己暗示のように反芻していた。
「それじゃ、わたしはこっちだから」
「おう。オレと剣心は赤べこでまかないが出るから、夕飯いらねえからな」
「はいはい。それじゃ剣心、いってくるわね」
「ああ。いってらっしゃい」
うまく、笑顔を作れていただろうか。薫を信じているのに。こんなにも不安になるのは、誰かを送りだすことに馴れていないせいなのかもしれない。
かつて京都へ旅立つ前に、彼女を置いて背を向けたことを思い出す。必ず帰ると分かっていてすら、こんなにも不安になるのに。一方的に別れを告げられて置き去りに去れた彼女の心中は、いかばかりだったろう。
「わたしのほうが早いと思うから。お風呂、湧かして待ってるわ」
「ああ」
短く返事をして笑う。それだけが、剣心が背中を向けて歩き出す薫にできる精一杯だった。
「悪いな剣心、いきなり」
「いや……」
さして悪びれもせず、道すがら弥彦が剣心に話しかけた。すでに定着している剣心の微笑に、弥彦は変化を読み取らない。
「身体を動かしていた方が、何も考えずに済む」
剣心のつぶやきは、聞く者もなく雑踏の中に消えていった。
「ひゅ~ぅ、女剣士。勇ましいねえ」
隠しもしないいやらしい視線に、薫は睨みをきかせた。足を運ぶのは二度目だったし、顔見知り程度に知っている人間もいる。それでも、落人群は決して心楽しい場所ではない。
つかつかと群の最奥を目指す薫を、ある者は下卑た視線で、ある者は好奇心で、またある者は忌々しそうに眺めたが、直接ちょっかいを出そうとする者はいなかった。薫が持つ剣術道具と出稽古姿のせいかもしれないし、奥でひょうきんに手を振っているオイボレのおかげかもしれない。
「ホッホッホ。よく来たのお嬢さん、このようなむさ苦しいところに」
「こんにちは」
挨拶だけして、薫は途中で買った団子をオイボレに手渡した。受け取ったオイボレは大仰にありがたがると、仲間うちに分けに行く。オイボレが席を外すと、そこには壁にもたれて座り込む縁と、薫だけになった。
もともと不揃いな縁の前髪は、その目がどこを見ているのかを覆い隠している。伸びた縁の髪と、島とは違う陽射しの長さが、いやにはっきりと時の経過を感じさせた。昨日薫が縁に羽織らせた上着だけが、場違いな清潔さを添えている。
「立てる?」
薫の声に、縁が動くことはない。予想はしていたから、薫は膝を折って縁の腕をとり、自分の肩にまわした。その拍子に、するりと羽織りが滑り落ちる。
縁の腕の細さに、薫は驚く。島の屋敷で薫の首を締め上げた筋肉の張りは、筋に埋もれた薄いものに変わっていた。
「ちょっとは自分で歩こうとしてよね。あなたとわたし、どれだけ目方がちがうと思ってるのよ」
憎まれ口を叩きながら、引きずるようにして歩く。染み付いたまま渇いた血のにおいが、きんと薫の胸を差した。
「何の用だ」
引きずられる具合が悪いのか、縁はようやく、重そうに足を動かした。渇いた喉が作った掠れた声は、それでも驚くほど明瞭だった。
「何の用だ、じゃないわよ。そんな格好じゃ、治るものも治らないでしょう」
「だからなんだ」
「なんでもいいでしょ。いいから、ちゃんと歩きなさいよ」
重そうに足を引きずる縁の腕を、薫は肩にかけて強引に進む。大の男ひとりと剣術道具とを担いで、薫は大股で歩いていく。少女の形相の迫力に、落人群の面々は思わず道を開けた。
「めずらしい。あの白髪頭が歩くなんて」
「ホントに生きてたんだな……あの兄ちゃん」
「ホッホッホ」
門をくぐる薫と縁を、男たちはものめずらしげに見送った。
辿り着いた先は、大通りの端にある湯屋だった。見えているのかいないのか、縁は別段なんの感想も持っていないように見えた。久しぶりに聞く街の喧噪さえ、縁の耳に入っているかどうかはあやしいものだ。
「この人、ちょっとケガしちゃってて。悪いんですけど、お願いします。これ、着替えです」
無気力な縁をよそに、薫は三助へ心づけと着替えを手渡した。三助は縁の風体を見て一瞬鼻白んだが、特に縁が抵抗するわけでもないことが分かると、すぐに仕事の顔に戻った。薫に玄関で待つように言うと、そのまま縁を支えるようにして、暖簾の奥へと消えていく。
何ごとも起こらないことを確かめると、薫は番台の前に備え付けられた縁台に座り込んだ。ふぅっと長い溜め息をつくと、ほんのすこしだけ緊張から解放された気がした。
いったいなぜ、こんなことをしているんだろう。
自分を殺そうとした男のために。わざわざ時間と金銭を割いて、危険もかえりみずに。
我ながら甘過ぎる。これでは、島での教訓がまったく活かせていないではないか。
剣心の縁者だから、彼が崩壊した理由を知っているから、目の前で傷付いている人間を放っておけないから。
理由は、つけようとすればいくらでもつけられる。どれも正解のように思えるし、どれも間違っているように思える。
けれど、結局のところ。
ほうっておけないから。
この曖昧さと単純さが、一番今の薫の気持ちに近いような気がした。
知らなかった小さな幸せを教えてくれた妻だとか、命をかけて慕ってくれた部下だとか、正義を共有した血盟の同志だとか、敬愛していた師だとか。たくさんのものを失って、それでも立ち上がった男たちを、薫は幾人か見てきた。
だから、なんとなく分かる。
縁は復讐と言う外殻から、できあがってしまった人間なのだ。骨だとか、筋肉だとか、神経だとかから守られるべき内臓が、むき出しの人間。それが雪代縁という男だ。
それは、見当違いの大きさの鞘に収められた刀身みたいなものだ。
縁は、まずはじめに、あまりにも強い思いが作り出した外殻を手に入れてしまったのだ。迷ったり、磨り減ったり、妥協したりして、思いの丈とともに外殻を成長させる方法ではなく。
縁の内臓は、その外殻に沿う形で骨をゆがめ、肉をひねり、神経をねじ曲げて、いびつに成長した。精神的な纏足のようなものだ。
その外殻がきれいさっぱり取り払われてしまった今、むき出しの内臓だけが残った。外気に触れたことのないその脆弱な柔肉は、新しい容れ物を必要としている。
ただし、その容れ物は、今度は自分で用意しなければならない。ゆがんだ器官を、注意深く正しいと思われる方向におさめるために。
根本から大きな変化を起こそうとすれば、そこには、それなりの正義感が必要になる。『自分は正しい』という、独りよがりの正義感だ。そういった、自己中心的な気持ちが必要になる。
そして、縁は正義を見失ったばかりだった。
「へぇ。そうやって見ると、案外元気そうじゃない」
暖簾からあらわれた縁を見て、薫は言った。
伸びた髪の毛と若干細くなった身体はそのままだったが、血と泥を落とし、新しいシャツとズボンを身につけ
た縁は、存外まともに見えた。左耳には傷が残っていたが、三半規管を損傷したにもかかわらず、身のこなしは健常な人間と変わらないように見えた。
「父さんの着物でもって思ったけど、馴れたもののほうがいいだろうから。それ、中国の民族衣装かなにか?」
答えない縁の上半身を、薫が無遠慮に見まわす。白を基調に、襟から前立にかけてと袖とに青い線が入った上着は、東京ではあまり見かけないものだ。
「着づらそう」
変わった形のボタンを眺めて、薫が感想を漏らした。
「お前だって、そんな格好ばかりだろうが。女のくせに」
出稽古の帰りそのままの薫の若衆姿に、縁は言った。その言葉には、以前のような毒々しさは消えているけれど、愛想といったものはもちろんない。
「これが、わたしの仕事着なの。女がまっとうにお金を稼ぐって、結構大変なのよ? だいたいね、道場を好き勝手壊してくれちゃうわ、人のことかっさらうわ。誰のせいで家計が苦しいと思ってるわけ?」
ずけずけと食って掛かる薫を、縁はただつまらなそうに見下ろすのみだった。
「ま、いいわ。済んだことだし。それより、つぎ。お医者へ行くわよ」
どかどかと歩き出す薫は、十歩ほど進んだところで、背後に気配がないことに気づいた。振り返れば、十歩手前で、縁が興味なさげに薫を眺めていた。
「何してるのよ。早くしなさいよ」
縁は答えない。『どうして俺がそんなことをしないといけないのか』と目だけで言っているように見えた。
「あなた、ひどいケガしてたのよ? あいかわらず頑丈みたいだし、もうほとんど治ってるみたいだけど。きちんと診てもらわないと。後々、ひどいことになるわよ?」
『だったらどうした』。一瞥した縁の視線は、今度はそう言っている。
「……お姉さんも、きっとそのほうが喜ぶわ」
「貴様が姉さんを語るな」
「じゃ、わたしがそうしてもらいたいから。それなら、いいでしょ」
「お前を殺そうとしたのにか」
「そうかもしれないけど、あなたは一応わたしの命の恩人ですからね」
ずかずかと縁の元へ戻って、薫は縁の手を引っ張った。縁はといえば、進んで歩いている様子はなかったけれど、かといって拒んでいる様子もない。こうなったら、勝手に引きずり回すまでだ。
小国診療所に連れて行った縁を、玄斎はひどく訝しんだ。けれど、神谷道場のこれまでの経緯や薫の『命の恩人だ』という口添えから、深い事情は尋ねなかった。
「こっち、歩きなさいよ」
帰る道すがら、薫は縁に自分の左側を歩くように言った。縁が動かないのを見ると、薫は自分で縁の右側へと移動した。
こうしてとなりを歩いていると、縁はなんら健常な人間と変わらないように見える。けれど、普通の人間ならば、歩くことすらかなわない身体の損傷を受けているはずだった。
打撲や切り傷は、自癒能力と体力の高さから、ほぼ治っているとのことだった。ただ、三半規管を引き抜いた左耳の聴力は、おそらく戻らないだろうと玄斎は診たてた。もっとも、聴力の検査に縁が協力的ではなかったため、実際彼の左耳が聞こえているのかいないのかは、彼自身にしか分からないというのが医者の言だった。
「なぜこんなことをする?」
他人事のように、縁は言った。答えてくれなくても構わない、といった態度だ。
「わたしもそれ、考えてたんだけどね」
前を向いて歩き続けながら、薫が言った。
「実際のところ、よく分からないの。自分でも」
呆れたように薫は言う。呆れている相手が縁なのか自分なのか。それは彼女自身にも分からない。
「でもやっぱり、ほうっておけないから。それが理由……だと思う」
軽く見上げる薫を、縁はどうでもよさそうに見下ろした。
「あなたと、あなたのお姉さんには、守ってもらった恩もあるしね」
素っ気なく付け足すと、薫は落人群の前で足を止めた。
「それじゃ、わたし帰るわ。あなたも……」
そこまで言いかけて、薫はやめた。状況が変わったとはいえ、縁が剣心と同じ屋根の下に寝泊まりするとは思えない。
薫の思いを知ってか知らずか、縁は足をとめることなく門をくぐる。
「あのお爺さんによろしくね」
その言葉に、縁が振り返ることはなかった。
帰宅した剣心が見た薫は、針仕事を寝巻きの膝に残したまま、うつらうつらと船を漕いでいた。
まだ深夜には届かない時間だ。よほど疲れたのだろうと、剣心は布団を敷きにそっと居間を抜け出す。
すでに抵抗なく出入りするようになった薫の部屋は、しんと静まりかえった空気のなかにも彼女の匂いが残っていて、剣心を落ち着かない気分にさせた。夜の闇と薫のにおいは、まるで刷り込まれでもしているように、剣心の身体を熱くさせる。
現金な自分に苦笑しながら、押し入れから布団を出して敷布を張る。さすがに、疲れきって寝ている薫に無理やり行為を強いるような真似はする気になれない。布団を敷き終わり、さて本人を連れて来ねばと立ち上がったとき、昼別れた際に薫が持っていた風呂敷が、鏡台の脇に戻っていることに気づいた。
頭のなかで、かちかちと歯車がまわりだす。
薫は、署長のところへ寄って縁の服を引き取りにいくと言っていた。そのとき使われた風呂敷が戻っているということは、役目を終えたということだろう。幸か不幸か怪我人に馴れている薫が、縁をどうしたかは、あらかた想像がついた。
縁の状況と、負っていた怪我の深刻さを考えれば、それは最善の方法に思える。巴だって、縁がそうあることを望んでいるだろう。それなのに。
それなのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。肺の奥が、鉛を飲み込んだように重たい。
本来なら無関係の薫が、巻き込まれてなお縁に手を差し伸べてくれるのは、ありがたいことのはずだ。それは、どれだけ誠意と謝罪を尽くしても、剣心には決してできないことだから。
なのに、置いて行かれたような気分になるのは、なぜなのだろう。これまで扱ったことのない感情が、正体も分からぬまま、おそろしい勢いで膨らんでいく。
足早に居間へ戻る。
薫さえいれば。
薫さえとなりにいてくれれば、きっと落ち着けるはずだ。彼女は剣心のとるべき道を、いつだって教えてくれるから。この感情の行き先も、きっと分かるはずだ。薫さえいれば。
先ほどと変わらずこくりこくりと眠っている薫は、そこに留まっているというただそれだけで、剣心を安堵させた。
薫はここにいる。どこにもいかない。
確かめるように手を伸ばして、抱きとめる。薫はかすかな反応を返したが、剣心に抱き上げられると、ふたたび眠りに落ちた。
腕の中の重みは、剣心が触れることのできる、唯一の現実のように思えた。
劇的に起こっている自分の変化も、日々新たな色を見せる薫のぬくもりも。すべて現実だというのに。
そこには手触りがない。
当たり前の話だ。『時代』や『人々の幸せ』なんて雲のようなものを守ろうとしていた自分が、不平を言える立場ではない。
「薫殿」
布団におろすと、薫は安らかな寝息を立てはじめた。罪のない寝顔を、惜し気もなく剣心にさらしている薫の名前を呼ぶ。肌と肌が触れあう距離で、何の警戒心も持たずに彼女は居てくれるというのに。何を不安がる必要があるのだろう。
「ん……剣心……」
夢うつつの中ですら、自分を呼んでくれる薫が、ひど
く愛しい。なのに、なぜか怖い。
次々と自分の知らない『緋村剣心』を引きずり出す薫は、未知数にすぎる。けれど、決して離れられない。
そこまで考えて、剣心は愕然とした。
この、ぐらりぐらりと昇り立つ感情を剣心に植え付けた人間こそが、薫だった。
「おや緋村くん。また怪我かね?」
「いや、そうではござらぬが……」
昼下がりの診療所に、ふらりとあらわれた剣心を、玄斎は上から下までざっと見渡した。別段、手当てが必要なようには見えない。これまでありとあらゆる怪我で運び込まれてきた剣心にしては、めずらしいくらい健康そのものだ。
「恵殿に、たまに診察してもらえと言われたものでござるから」
「ああ、なるほど。感心な心がけじゃな」
まるで言い訳してるみたいだ、と剣心は思う。だが、そんな剣心の思惑など知るはずもない玄斎は、よい患者だと機嫌よくうなずくのみだ。
「それじゃ、ちょいと待っといてくれ。季節の変わり目のせいか、風邪っぴきが多くてな」
「拙者は急を要する患者ではないでござるし。後回しでよいでござるよ」
「時間がかかるが、いいのかね?」
「ああ。そのほうがいい」
剣心の語尾まで聞かぬうちに、玄斎は診察室からの呼び声を聞いて戻って行った。
残された剣心は、待ち合い室の隅で、ひとり目を閉じた。老人たちのさわさわとした囁き。子どもをなだめる母親の声。具合の悪さに深呼吸する青年の呼吸音。ここには、生活の音がある。だから、無理やり理由を作ってここへきた。
それでもやはり、剣心は孤独だった。
薫がとなりに居ない。ただそれだけの理由で。
「へ~ぇ。そうやって娘っこのカッコウしてりゃ、なかなかの別嬪じゃねえか、お嬢ちゃん」
「あの兄ちゃんも、昨日帰ってきたら、あらびっくり。しゃんとすりゃ色男だしな」
「カカカ! お嬢ちゃん、ヒモにでもするつもりかい?あの若白髪をさ」
薫が持ってきた酒を旨そうに飲みながら、酔った一人が不作法に笑った。からかいとも侮蔑ともつかぬ軽口を無視して、薫は奥へ進む。来訪者を嫌う落人群の人々も、土産さえ与えておけば、とりあえずは荒々しい真似に出ないようだった。
「ほら、立って」
薫の気配に顔は上げたものの、縁は相変わらず自分から腰を上げようとはしない。昨日と同じように、薫は縁の腕をとろうとかがみ込む。だが、引っぱり上げようとしたところで、縁が音もなくするりと立ち上がった。
「自分で歩ける」
吐き捨てるように言うと、縁は薫を見もせずに、すたすたと歩き去る。小言を言いながら追いかける薫の声も、まるきり無視したままだった。
それでも、隈と呼ばれる男は、縁の変化に目を見張った。
「驚いた……。昨日の今日で、あんなに動けるもんかね」
「ホホ、そりゃあ、あの子は誰よりも何よりもやさしかったからの」
誰のことを言っているのか分からない老人の意味不明な言葉を、隈は酒のせいだろうと聞き流した。
「もうそんなに動けるんだ。塩を送った甲斐があたってもんだわ」
「お前のお節介など関係ない」
縁の嫌味など島で慣れっこになっているから、薫は無視して河原に座り込む。立ったままの縁に強引に握り飯を受け取らせると、怒ったように竹筒から茶をあおった。
「不味いな、あいかわらず」
「失礼ね、あいかわらず」
縁も薫も、川面を眺めたままで言葉を紡いだ。となりに座っているとは言い難いほど離れた距離は、第三者が見たら、他人なのか知り合いなのか判断が難しいところだろう。
「あのお爺さん、心配してたわよ」
川のせせらぎと交ざったその声は、縁の聴力では捉えづらかったらしい。意識しているのかいないのか、縁は首を左に傾けて、もう一度言うように薫を促した。
「……心配かけるんじゃないわよ、って言ったの」
答えずに、縁はただ小さく口を動かし続ける。
「なぜ俺に関わる」
昨日も聞いた疑問を、言葉を変えて縁は尋ねる。
「まあ……乗りかかった船ってやつよ。それに……」
続きを口にしたものかどうか、薫はためらう。
縁は、おそらくこれから辛い時間を歩むことになる。時間が動きだした今、縁は気づいてしまったから。
姉の命を奪った男への復讐の道すがら、自分自身が幾人もの命を奪った罪深い人間であることに。
だからきっと、縁に今してやらなければいけないことは、嘘のない確かなものがあることを示してやることなのだ。そう薫は思い当たる。
現実はいつだって無慈悲で、無表情で、矛盾に満ちている。そしてそれが絶対の法則だ。
絶対の法則。
だから、現実は裏切らない。裏切るのは、いつだって人間だ。
世間は簡単に答なんて示さない。答など、他人から与えられるほうが珍しい。それが、世間の外郭で生きてきた男に対してならば、なおさらだ。
縁はこれから、ひどく辛いぬかるみの広がる土砂降りの中へ、歩き出すのだろう。
だから、せめて今だけは。この、雨やどりの間くらいは。
「あの人が一番辛かったとき、わたし、そばにいられなかったから」
言ってから、薫は自分がずいぶんとひどいことを言っていると嫌悪した。過去への埋め合わせのために、縁を利用しているのかも知れない。
「俺も、アイツの代わりか」
『あんたと一緒だな』とは言わなかった。
剣心にとって、薫が巴の空蝉などではないことは、もう苦しいくらいに知っている。
「あなたはあなたよ」
薫が、心もとなげにつぶやいた。
そんな当たり前の言葉が、言い訳がましく聞こえて。少女が、暗くなるのが分かる。
自分の気持ちを自分でも把握しきれずに。それでも、いま分かっている事実だけをかき集めて、薫はできる限り精一杯答えたのだと、縁は感じ取った。
不器用で、正直な女だ。要領の悪いところだけは、姉と似ているのかもしれない。
「なんでもかんでも理由があるわけじゃ……ないでしょ。後から理由がついてくることだって、あるわよ」
いじけたように薫が言った。
別人だ、と縁は思う。
もちろん、容姿も、性格も、気性も、まったく姉とはちがっている。
けれど、薫と巴がもっともかけ離れているところは。
「あんたは、答えるんだな」
『帰りなさい、縁』
幼い日。冬の夕暮れ。なぜ復讐を遂げないのかと問うた縁に、姉はただそう言った。
まだ幼い弟を巻き込みたくなかったとか、心変わりを知られたくなかったとか。理由はいくらでもあっただろう。
けれど、本当の理由を真摯に話してくれていたなら。もしかしたら。
そこまで考えて、やめる。
いまさら言っても仕方のないことだ。すべては十五年前に終わったことだったし、すでに始まってしまっていることだ。そして、その過程で自分が償いきれない罪を犯した事実も、何を知ったところで変わるものではない。
ただ、思う。
自分ですら説明できないことであっても、できうる限り伝えようとしたり、顔を赤くしたり青くしたりする、薫のがむしゃらさを持っていたなら。あるいは、姉はこの新時代にも生きていたのかも知れない。泣いて縋れないまま、結ばれることなく散った、幼馴染みの婚約者とともに。
自分の変化に驚く。
これまで、姉の肖像に、『もしも』などという余地を差し挟んだことなんてなかったのに。
すん、と鼻をすする音を聞いて、縁は我に返った。川面を見つめて頬杖をつきながら、薫は怒ったように泣いていた。意地を張ったその表情は、まるで少女そのものだ。
「何を泣いている」
「……分かんないわよ……そんなの……。ただ……あなたとこんな、普通の場所で話してると……ああわたし、生きてるんだなって……なんだか……」
ぐじぐじと、美しくない泣き方だった。意地を張って目を開いているせいで、薫の大きな瞳が、みるみるうちに赤く染まっていった。
「なんでよ……あんたなんか、わたしを殺そうとしたヤツなのに……」
『あんたみたいな男の前で、泣きたくなんてないのに』
小さく震える薫の肩は、そう言っているように見える。突然場違いに泣きだしたことに、一番驚いているのは、どうやら薫のようだった。
「好きにしろ。お前が泣こうが笑おうが、俺には関係ない」
目障りだ、とでも言うように、縁は無造作に薫に上着をかぶせた。それから、笑うでも皮肉るでもなく、ただ離れた場所で川を眺めていた。突き放した縁の言葉と態度に甘えて、薫はしばしの間少女のように泣きつづけた。
「はーぁ、泣いたらすっきりちゃった」
そう言って、はにかみながら薫が笑った頃には、すでに陽が大分傾きかけていた。
縁は薫をちらりとだけ見て、また視線を川へ戻す。たっぷり一時間のあいだ、縁は薫に声をかけることも、笑いかけることもしなかった。しかし、そこを立ち去りはしなかった。
忙しい女だ、と縁は思う。
怒って人を引っ張ってきたと思ったら、飯を食わせて、今度は急に泣き出した。そしていま、何ごともなかったように笑っている。
とてもではないが、あの時の姉と同じ歳の娘とは思えない。この細くて小さな身体のどこに、そんなにくるくると動き回る力があるのだろう。
「あーあ、目が腫れちゃった……」
薫が、赤くなった目元をごしごしと揉んだ。涙につられて出てきた鼻のつまりを取り除こうと、何度か深く呼吸する。
そういえば、もうどのくらい泣いていなかっただろう。島から帰ってきてこのかた、事情聴取だの、近所への挨拶だの、居候だらけの神谷家の切り盛りだので、息つく暇さえなかった。泣くことも落ち込むことも忘れるくらいに。なにより、剣心が確固とした意思を持って薫のとなりに居てくれたから。以前とはちがう安心を、いつも感じていられたから。
口さがない噂話や、戻って間もないぎくしゃくとした日常は、薫を揺さぶりはしたけれど。剣心がとなりに居れば笑っていられたし、そうあるべきなのだと思っていた。剣心の十字傷に対する恵の助言も、原因のひとつだったかもしれない。
「こんなの、久しぶりだわ」
涙が乾いてぎこちなくなった頬を、指の腹でかるく叩く。
薫はもともと、涙もろいたちだ。日々を泣かずに笑っていられることは、きっと幸せなのだろう。それ以上、考える必要はない。きっと。
ぼんやりと、川面を眺める。涙でぼやけた景色を最後に見たのは、いつだっただろう。泣いた後の、桶をひっくり返したような爽快感も、やたらめったらに心の中の汚濁を吐き出したような虚無感も。
「もう帰れ」
肩にかけられた縁の上着は、当然ながら、薫の身の丈にはずいぶん大きかった。その大きさは、縁の抱えている空洞を納めるのに、いかにも不似合いな寸法に思われて、薫を切なくさせた。
立ち上がった縁は振り返りもせず、すたすたと土手を進んで行く。迷いのない足取りなのに、どこか迷子のように見えるのは、薫が彼の背景を知っているからかもしれない。
夕闇に消えていく縁をしばらく見送った後、薫も立ち上がった。縁の上着からは、しんとした見知らぬ異国の匂いがした。
「おかえり、薫殿」
まだ土間の扉から三間ほど手前だと言うのに剣心の声が飛んできたことに、薫は驚いた。だが、考えてみれば、驚くには値しない。気配に聡い剣心のことだ。帰ってそのまま台所に向かった薫の気配を察知するなど、朝飯前なのだろう。そう薫は納得する。
「ただいま、剣心」
随反射のように明るい声を出している自分に気づいて、薫は愕然とした。
『笑わなきゃ』
とっさにそう思っている自分に、気づいたから。
もしかしたら。
もしかしたら、わたしは、泣かなくなったのではなくて。
笑うことしかできなくなってしまったのかもしれない。
いつから。
いつの間に。
本来あったはずの自由を、いつの間にか失っていた可能性に驚愕する。
もうどのくらい泣いていなかっただろう。このひとの前で。
「薫殿?」
剣心の声が、尋ねるものに変わる。どうやら、動かない薫の気配を心配したようだった。薫は早足で引き戸まで行くと、顔だけをひょこりと土間に覗かせてみせた。
「足袋が泥で汚れちゃったから、洗ってくるわ。すぐそっち、手伝うわね」
それだけ告げると、薫は小走りで自室へ戻った。
無意識に笑顔を作った自分と、なぜか縁の上着を隠そうとした自分に、不思議なほど強く戸惑いながら。
身体を包む異国の衣装からは、この家にはない匂いがした。
「一応、食べてたけど。あいかわらず、不味い不味い言うのよ、アイツ。人の善意をなんだと思ってるのかしらね」
ぷりぷりと文句を言いながら鏡へ向かっている薫を、剣心は布団から見上げた。熱心に髪を梳く薫の毛先からは、時おり雫が飛んでくる。落人群の匂いには辟易すると言っていたから、髪を洗ったのだろう。
「だが、食べるようになっただけでもよかったでござるよ。血を作らねば、あの怪我では後に残る」
それは、自分に言い聞かせるために言ったのかもしれない。薫と縁が二人で暮らしたという島での生活の想像を、剣心はじりじりと振り払う。
いま薫が縁に手を差し伸べていることは、縁にとって必要なことなのだと。本来無関係のはずの薫がそこまで自分の過去のために尽力してくれることはありがたいことなのだと。剣心はもう一度確認する。
「扱いやすい気性ではないが、いまの縁にとっては、きっとそのほうがいい」
声に出すことで、剣心は自分の気持ちが絵空事ではなくなることを期待する。もっとも、剣心が縁の何を知っているかと問われれば、そこには十五年の空白があった。
「分かってるわ。明日も、顔を見にだけ行ってみるつもり」
薫の声には抑揚も感動もない。たんに義務感から出た言葉のようだった。それでもその言葉は、剣心に今日味わった午後の時間の長さを思い出させた。
「だが、薫殿。あの場所は危険だ。気持ちはありがたいが、それほど足しげく通わずとも……」
規則的に動いていた薫の手が止まる。ほの暗い行灯の光は、鏡の中の薫の表情を映し出してはくれなかった。
「あのとき……剣心が一番辛かったとき……剣心のそばには……いられなかったから……」
言い訳みたいな理由だ、と薫は思う。縁に伝えたものと同じ、正直なはずの言葉が、なぜか屁理屈のように聞こえた。
「そうか……」
後ろから抱き締めた薫からは、風呂上がり特有の水の匂いがした。ずいぶんと念入りに洗ったのだろう。髪も、頬も、首すじも、耳の裏も、色のない水の匂いで満ちていた。
「その代わりにってわけじゃないけど……せめて……」
「ああ。分かっているでござるよ」
ささやくように交わしたくちづけの向こう側でも、剣心は笑っていた。
たくさんの優しさに、ほんのすこしの悲しみがまざったいつもの顔で。
習慣のように笑うこの男のいる場所こそが、自分の居場所なのだと、薫は思う。
たとえ、いまこうして彼にくちづけている自分が、本来の自分ではなかったとしても。このひとのとなりで生きたいという願いは、自らの手で作り上げたものだから。
「剣心」
剣心の首に顔を埋めるようにして、薫が抱きつく。いつものような包み込む抱擁ではなくて、しがみつくような抱きつき方だった。薫の髪や薄い肩は、震えてはいなかったけれど。なぜだか剣心には薫が泣き縋っているように思えた。
男としては頼りない自分の小さな体躯にさえ、すっぽりと納まるこの少女に。何を背負わせてしまったのだろう。あるいはそれは、彼女の意志なのかも知れないけれど。けりをつけたはずの罪悪感が、頭をもたげようとする。
剣で罪を背負い、剣で咎を雪ぐこの闘いの人生に、彼女を巻き込んでしまったことが、そもそもの間違いだったのではないか。
妻をも殺めた男に。それでも、薫は共にいたいと言ってくれた。そして、その翌日に剣心は薫を殺させた。
そんな、奈落のように深い業を背負った自分の人生に転がり込んできた薫を、これ幸いと渦中へ引きずり込んだのは、ほかでもない剣心自身だった。
もう一人では背負うには限界だったとか、飛び込んできたのは薫からだったからとか、理由はいくらでも並べられるだろう。
それでも。突き放すべきだったのではないか。どれほど悲しませても、また失うくらならば、自分から放棄すべきだったのではないか。あの五月の夜のように。
「剣心……痛いよ……」
居心地悪そうに肘をずらす薫の声に、はっとして剣心は腕をゆるめた。
「薫殿……」
生きてはいけるだろう、と思う。
答は、見つけたから。この剣と心を賭した人生を完遂させるための部品は、逆刃刀一本あれば十分のはずだ。
それでも、手離せるわけがない。
薫のいないこれからの人生を考えてみる。そこには、地獄の釜が蓋をあけているような恐怖があった。彼女に出会う前、自分はどうやって生きていたのかすら、今となっては分からない。
「んっ……」
噛み付くように薫のくちびるを奪うと、そのまま敷き布団のうえに横たえる。せわしなく帯をほどくと、邪魔だと言わんばかりに脇に投げ捨てた。
「ひゃ……」
しっとりとした薫の胸に顔を沈ませて、手当りしだいに舌を這わせる。
このあたたかさも、すべらかさも、心地よく響く嬌声も。すべて現実のはずだ。
手触りは確かにここにあるのに、何を不安がる必要があるのだろう。そう自分に言い聞かせる。それでも、剣心の身体は、ひとりでに余裕なく薫を求める。一昨日した野蛮な行為が脳裏をかすめる。二度とあんなことはしたくないと思うのに。
「あ……っ……やっ……!」
ろくな愛撫もせずに、両手で薫の腿を割る。まだ湿りきっていない彼女の秘部は、ひそやかに内側を向いたままだ。そんな当たり前のことが、ひどく剣心をいらつかせた。
受け入れる用意が整っていない薫が、自分を拒否しているような気分になって。理屈もわからぬまま、暴力的な気持ちが湧き上がる。
「いたっ……! けんし……待っ……」
「すまぬ……すぐに……」
ぬめりが足りない薫の膣に、尖った体の先端を無理やりねじ込む。皮膚が擦り切れるような感覚は、剣心にとっても心地よいとはいえなかった。
引きつれるような鈍痛に眉をゆがめる薫を見下ろしながら、乾いた秘部をぎちぎちと往復する。くぐもった薫の呻きが、やっと吐息に変わった頃、ようやく奥から掻き出された愛液ですべらかに行き来できるようになった。
「あ……んっ……! んんっ……!」
ようやっと、とろんと瞳を潤ませて、薫が快楽を享受し始める。本来なら、自分に限界が来るまで薫を悦ばせるところだが、今ばかりは、頭と別で動く身体が、自分の快楽を優先させた。
「ん……かおる……」
「あ……ぃあっ……」
自制することなく、高まる熱をそのまま薫のなかにぶち撒ける。頭に空白を作るはずの射精が、ひどく重たげに感じられた。
八つ当たりもいいところだ、と剣心は思う。
不安を共有してほしいと懇願するならまだしも。その姿すら見せられずに、理由を告げぬまま力まかせに薫を苛んだ。何も告げずに突き放すことは、自分のみを守る行為だということも、薫が教えてくれたことのひとつだったのに。
「剣心……」
気だるそうに肘をついて、薫が身体を起こす。うすく微笑む彼女の寛容さが、剣心を余計に居心地悪くさせた。
無言のまま薫のとなりに倒れこんだ剣心を、薫はそっと胸の中にしまうようにして抱きしめる。指を滑らせた色素の薄い剣心の髪は、闇の中で、不思議と少年のにおいを感じさせた。
「おやすみなさい、剣心」
「ん……」
答えにならない返事をして、剣心が薫の腕の中で目を閉じる。裸の胸に吹きかかる剣心の細い吐息は、どこか心細げだった。
剣心が何かしら漠然とした不安定さを抱えていることを、薫はおぼろげに感じ取る。それでも、少年の不安と、男の虚飾との間の葛藤がそうさせていることまでは気づけない。薫が思い当たったのは、剣心が縁にかつての自分の姿を見ているのかもしれない、ということだけだった。剣心の葛藤を察するには、薫はあまりにも幼かったし、剣心は自分をごまかす術に長けすぎていた。
ふいに薫は、剣心も自分もやさしいふりをして、自身を守っているだけなのではないかという不安に襲われた。
薫が剣心の抱えている漠然とした不安定さに、なぜと問えない理由も、剣心の前で涙を見せられなくなった理由も、剣心が薫に不安のすべてを明かさない理由も。
距離が近くなりすぎた今。距離が遠かった頃にはなかった摩擦から、自身を守ろうとしているのかもしれない。
どれだけ一緒に居ても、毎夜肌を重ねても、結局はどこまでも他人だ。
さびしいはずのその事実が、なぜか薫を安心させた。
剣心にすべてを捧げて生きようと思っても、それは結局、不可能で、無駄なことなのだ。どこまで突き詰めても、自分は自分でしか居られないのなら。
薫がいくら剣心へ心身を尽くしても、結局自分のための余地を完全に失くすことはなできない。すべてを彼で埋め尽くせなくても仕方ないという不完全さが、いまはひどく心地よかった。
吸い込んだ夜の空気は、冷たく澄んで薫を満たした。