7.始点憧憬

「はぁ!? 出かけるぅ!? 朝っぱらから人を呼びつけておいて、なんだよそりゃあ!」
「ごめんごめん。ちょっと、人と会うことになっちゃって」
「っんだよ、分かってたんなら昨日言えよなぁ。こっちは朝の店番、断ったんだぜ」
「悪かったってば。まあまあ、朝ごはん食べに来たと思いなさいよ」
薫が弥彦に、手を合わせて片目をつぶってみせる。弥彦は弥彦で、口は悪いが言葉ほど怒っているわけでもないから、すぐに事態は収束する。
「弥彦、時間があるなら、拙者がお相手するでござるよ」
「お! マジか! よっしゃ、頼んだぜ、剣心!」
剣心の申し出に、弥彦がいきり立つ。ちらりと目配せを送った剣心に、薫はくすりと笑って応えた。
「さて。それじゃ、わたしはそろそろ行こうかな。稽古もいいけど、お洗濯と食器の片付けも忘れないでね?」
「ああ。気をつけて行くでござるよ」
「人に押し付けやがって……」
ぼそりと文句を垂れた弥彦の頭を指で軽くはじくと、薫は笑顔で振り返った。
「それじゃ剣心。お昼までには戻るから」
「ああ。いってらっしゃい」
笑顔をかわす二人のいつもの光景に、なぜか自分が居ない錯覚にとらわれて。弥彦はほんの一瞬、首をひねった。

群の門をくぐる必要はなかった。縁は、いつもの河原に、何をするでもなく立っていた。
「ちゃんと約束守ったのね。感心感心」
わざとらしく腰に手を当てる薫を、縁は相変わらず憮然とした表情で見下ろすのみだった。『勝手な約束を押し付けられて迷惑している』そんな態度だ。
「座りなさいよ、あなたも」
何度かそうしたように、薫は河原の草むらに座った。縁は頷きもせず、面倒くさそうに腰を下ろした。
しばらくの間、二人してただ水面を見つめていた。
考えてみれば、二人で東からの光を受けるこの風景を見たのは、はじめてだった。縁と薫とが見ていた景色は、いつだって斜陽の中だった気がする。
さくりという軽い音で、薫は振り向いた。そこには、異国風の細い脇差が一本突き刺さっていた。
「斬れ」
縁が言っている意味を、薫はうまく理解できない。ただ、彼の目の揺れ動く奥行きが、薫の胸を騒がせた。
「どこにでもいい」
そう言って、縁は右腕を差し出した。
ああ、このひとは、証がほしいのだ。
薫は思う。いまだ笑顔は取り戻せなくても。誰かの想いを背負っているという証を、縁はほしがっている。
それは、ひとつの救いでもある。
完璧な絶望など存在しない。一寸先すら茫洋とした霧の中にいたとしても。自分が裏切らない限り、未来は誰一人、裏切りはしないから。
「斬らないわ。でもそのかわり、あなたがここに帰ってきたら、私はいつでも笑顔で迎えるわ」
縁を前にして、はじめて満面の笑みを見せられたような気がした。きっとそれは、本当に彼が求めている笑顔ではないけれど。
「お前の笑顔は、あの男のためのものだろう」
「いいえ、わたしが笑顔を向けるひとは、わたしが決める。あなたが帰ってきた時は、あなたのためだけに笑うわ」
「都合のいい女だ」
縁の口から出る言葉は、相変わらず辛辣なものだったけれど。今はそれでいい、と薫は思う。
「わたしはここであの人と一緒になって、子どもを生んで、老いていく。それでも、あなたを迎えることはできる。そうでしょう?」
見上げる薫の笑顔に、縁はもう姉がこの世に居ないことを、手ごたえとして実感した。
憎んできた男が求めたのはこの笑顔で、自分が求めているものもきっと、これに近いなにかなのだろう。
「なにもかも、あの男が持っていく」
ぽつりと静かに縁の口からこぼれた言葉を、薫は追おうとはしなかった。おそらくは、彼自身にも説明できる言葉ではないだろうから。
「それはもう、手に入らないものなの?」
「さあな」
突き刺さっていた脇差を、縁は音もなく引き抜いた。きん、と高い音を立てて、鈍く光る刃が鞘に収まる。
「俺はもう行く。あんたはここにいろ」
立ち上がった縁は、振り向かずに土手を登っていく。緑の草むらにそよぐ白い髪が、どこか頼りなげに見えて。薫は、まぶしさに目を細める。
「ねぇ」
振り返った縁の目は、相変わらず左右ばらばらの奥行きを持っていた。
「わたしも、笑ってほしい」
離れた場所から見下ろす薫は、ひどく小さく見えた。細く華奢なこの少女を、憎悪の象徴にしていたかつての自分が、今となっては不思議に思えた。
みちしるべで居つづけること。笑顔で送り、迎えつづけること。
このたよりなげな女に、その枷を背負わせた自分とあの男が、やたらとちっぽけな人間に思えた。
「いってらっしゃい」
手を振るその顔が、笑っているのか泣いているのかは、おそらく薫自身にも分かるまい。
「またな」
そして縁は、二度と振り返らなかった。

「ホレ。これは儂のとっておきじゃ。こぼしなさんなよ」
「おお。ありがてェ」
屋根のない群の片隅で、オイボレが欠けた茶碗に酒を注いだ。振り返った壁には、もう誰もいなかった。
「行ったのか……」
「ああ。行ったよ」
「ったくアンタは……。本当に人が善過ぎるぜ」
「ホッホッホ」
「ヘンな野郎だったな。大人しくあの嬢ちゃんのヒモにでもなっときゃよかったのによ」
「ホッホッホ。そういうわけにもいかんよ。彼にはまだ、やらにゃぁならんことがたんとある」
「そんなもんかね……って、おいジイサン、なに泣いてんだよ?」
「ああ……」
涙で曇った眼鏡を拭いたのなんて、何年ぶりだっただろう。割れたガラスに映る空は、奇妙なほど蒼く澄んで、老人の心を苦しくさせた。
「気持ちいいもんじゃねェぞ、ジジイの泣き顔なんて」
「ホホ、そうじゃのう―――……」
手持ち無沙汰に見下ろした手は、無数の皺が刻まれていた。自分の身体の変化すら気にかけなくなってから、もう幾久しい年月が過ぎていた。
止まっていた時が、動き出す。
諦めたと思っていたものが、もう一度手に入ったように。何も、遅すぎることなどないはずだから。
「御馳走様。さて……儂はそろそろ行くかの」
ことりと杯を置く。役目はまだ果たしきれていない。この足が、動くのだから。
「オイ、行くってどこへ行くんだよ」
「京都。娘に、報告せにゃならんことができてしもうた」
「なんでえ、また墓参りかい」
「ああ。それにひとつ、懺悔したいことができてしもうたからな。娘に聞いてもらいたくての」
「懺悔ェ? 人の善いあんたが?」
「ホッホッホ。儂だって、たまには嘘のひとつくらいつくわい」
「フーン。ま、どうせ他愛のないことなんだろうけどよ」
だったらいいのだけど、と老人は思う。老人のついた嘘が、剣心と薫の間をどう乱したのかは分からない。そして、知る必要はない。
納まるものは納まるべき場所へ帰り、旅立つべきものは立ち上がった。埒外の老人ひとりが罪悪感に苛まれるくらい、安いものだ。
「また帰ってくるとき、ヘンな野郎を拾ってくんじゃねぇだろうな」
「ホホ、どうかのう」
底の抜けた麦藁帽子をかぶりなおして、なけなしの持ち物をかき集めた頭陀袋を背負う。持っているものはこれだけだと思っていた自分の浅はかさに、苦笑しながら。
「あんな兄ちゃんにも優しかったアンタだ。三度目があるとも限らねェ」
軽口を聞き流しながら、男はもう一度、縁が居た場所を振り返る。
縁は歩き出した。もう、一緒に歩いてやることはできないけれど。
「彼は、特別だから」
「なんのこった?」
「ホッホッホ」
立ち上がったオイボレを見上げながら、隈は壁にもたれて酒を一気にあおった。
「あの兄ちゃん、大丈夫かねェ」
「大丈夫。心配無用!」
空のどこかから舞って来た二羽の雀が、老人の肩で歌うようにさえずった。

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