陽のあたる場所

「ねぇ、剣路くん。あれ、お義父さんとお義母さんじゃない?」
本当は、千鶴が声をかける前に気づいていた。
当然の話だ。
自分の姿を鏡で覗き込んで、多少髪の色を明るくすれば、それがそのままその男になるのだから。
おまけに、そいつは俺が生まれたときからそこにいる。
さらに言えば、血筋のせいだか環境のせいだか知らないが、俺は人の二倍も三倍も注意力に長けていた。
「ほら、やっぱりそうよ!」
声を弾ませて、千鶴が急ぎ足になる。
どういうわけだか、千鶴は来月から義父母になるうちの両親に、やたらと懐いている。結納前、さんざん道場の先輩どもに脅された嫁姑問題とやらは、ありがたいことにうちには関係なさそうだ。
「剣路くん、早く! 二人とも行っちゃうわ」
振り返って千鶴が手招きするけれど、足を速める気にはなれなかった。
さっきから、気づいていても声をかけなかったように。
千鶴は千鶴で、俺のそんなひねくれた性格を熟知してるからなのか、諦めているからなのか、急かしはするが怒りはしない。
そんな千鶴に甘えて、俺はのんびり両親を目指す。少しの間、ふたりを眺めていたかったから。
息子ではなく、第三者として。

あのふたりは目立つ。
父さんの髪の色を差し引いたとしても、目立つ。
もちろん、一人ひとりのときだって、それなりに人目を引く人たちではある。
父さんはもう五十近いというのに、どう見たって三十代にしか見えない。小柄な体格も、やたら若く見える一因だろう。
道場仲間や友達連中からは、『若いし、やさしくてうらやましい』なんて言われてきたけれど。息子の俺からすれば、生まれたときからほとんど見た目が変わらないその姿は、気味が悪いくらいだ。
母さんは母さんで、俺と一緒に居ると母さんが婚約者だと間違われる始末。
三十も半ば過ぎだというのに。ついこの間の衣装合わせのときだって、仕立て屋が俺についてきた母さんに白無垢を着せようとしたくらいだ。
こっちはこっちで、女だてらに一流派の師範を務めるくらいだから、やっぱりどこか人と身体のつくりが違っているのかもしれない。
けど。
あのふたりが目を引くのは、そんな個人個人の事情なんかじゃない。
一町先にいる両親を眺める。そこだけ切り取ったように、空気の色が違って見えた。
ふたりの声だけがやたら鮮明に響くし、周りの空気の粒がぷちぷちとはじけるように舞っているのが分かる。
その一角だけ、色のちがう太陽に照らされているみたいに。
父さんだけ、母さんだけのときとは違う。
ふたり並ぶと、とにかくあのふたりは不思議と人の目を吸い寄せるのだ。
まるで今にも生まれそうな卵みたいに、ぷるぷるとはしゃいだ空気を彼らは作り出す。
それはまっさらで、安心感と生命力に満ちていて。

両親のそんな性質に気づいたのは、ついこの間のことだ。
思えば、無闇に反抗的だった俺の思春期は、そんなふたりの間に入っていけないという焦りが大きな原因だったのかもしれない。
あの二人の間にある空気を作っていた一因が、父さんの過去にあるだろうことは、ガキの俺にも目星がついていた。
毎年くそ暑い盆の時期、わざわざ京都くんだりまで行って無名の小さな墓に手を合わせる不思議な家庭内行事が、それに連なっていることも。
ようやくその奇妙な習慣の全容を明かされたのは、元服の儀と称して父と兄弟子に叩きのめされた十五の誕生日だった。

「おろ、千鶴殿。いま帰りでござるか?」
千鶴が声をかける一歩手前で、にこやかに父さんが振り返った。
父さんはいつだって、母さんの荷物持ちだ。今日も今日とて、父さんの肩には重そうな米袋が担がれている。
その一方で、母さんは財布の入った巾着袋をひとつ提げているだけだ。
「気に入った引き出物は見つかった?」
「はい! 祝言の日の朝に、できたてを道場へ届けてくれるって……」
「わぁ、楽しみ! あそこのお饅頭、美味しいのよね、剣心」
「薫殿、来賓の分にまで手を出してはいかんでござるよ」
「失礼ね、剣心! わたしそんなに食い意地張ってないわよ! それに当日は、そんな時間の余裕ありませんよーだ」
「それもそうでござるな。終わったら、拙者の分まで食べるといい」
「えっ、ほんと!?」
少女のように目を輝かせる母と、それを見て心の底から満足そうにうなずく父。
饅頭ひとつで、よくもここまで幸せになれるもんだ。
しばらく、千鶴と母さんの他愛のない話がつづく。
やれ衣装はどうするだの、席順がどうたらだの。
同じ話題を二人がしているのを、覚えているだけですでに三回は聞いている。
うんざりする俺の横で、父さんはにこにこと人畜無害そうに笑っている。
主役のひとりのはずの俺の、この疎外感はなんなのだろう。

けど、別にいい。女同士が仲良く笑っている限り、世の中は万事順風満帆に進むのだから。
二十年足らずしか生きてない俺ではあるけれど、そのくらいの世界の原則は知っている。
いま、母さんは千鶴と話している。
だというのに、やっぱりそこには、緋村剣心と緋村薫の空気が、厳然と漂っている。
俺たちにはない空気だ。それは存在を主張する種類のものでは決してないけれど。
礎石のように、いつだって底の部分にどっかりと根をおろしている。
「薫殿、千鶴殿、酒屋のほうの手はずはどうなっていたでござるかな」
女ふたりの会話に、父さんが口を挟むのはめずらしい。
ちらりとこちらへ視線を送って寄越したところを見ると、どうやら俺が父さんを観察していたことに気づいていたらしい。
「え……酒屋さんだったら、おとといに……」
「あ、わたし確認したいことがあるし、ちょっと行ってくるわ。千鶴ちゃん、付き合ってくれる?」
「あ……は、はい!」
「ついでに、赤べこ寄っていかない? 珍しいお茶が手に入ったって、妙さんが言ってたから。ご随伴に預かっちゃいましょうよ」
「えー、いいんですか?」
「いいのいいの! じゃ、剣心。わたしたちは赤べこにいるから。千鶴ちゃんもいるんだし、あまり遅くならないでね」
「ああ」
ひらひらと手を振ると、母さんは千鶴を連れて人ごみをするすると泳いでいく。
言葉にも態度にも表れていないのに。
父の意図を、母はたやすく読み取って実現する。
そしてそんな母の姿を、父はこちらが恥ずかしくなるような無邪気な目で見つめている。
こんなとき、やっぱり俺は思うのだ。ここはこの人たちの場所で。そこにはいつだって、絶対の信頼と安心が確かにあるのだ、と。

「それで、どうした?」
米袋を右肩から左肩にうつすと、父さんが尋ねた。
いつになくゆったりとした歩調は、本腰を入れて俺の話を聞こうとする態度のあらわれだ。
「いまさら、家を出たくないなどと言うのではあるまいな」
「そんなわけないだろ」
『安心した』と父さんは笑う。
悔しいけれど、父には自然に人から本音を聞きだす才能がある。
こんなふうに、話に水を向けるのがうまいせいなのか、決して人を見下さないその心根のせいなのか。
「ならよかった。薫殿と千鶴殿の泣き顔は見たくないでござるからな」
「千鶴はとにかく、母さんは泣かないだろ。……怒りはするだろうけど」
「いや。薫殿は泣くでござろうよ。怒るのは、拙者のほうだ」
「『薫殿を泣かせたから』」
『その通り』とでも言うように、父さんがにっこりと笑う。
母はいつでも笑顔を絶やさない。
たぶん、母の笑顔が何より好きだという父のためなのだろう。
母は表情豊かな女ではあるけれど、基本的にはいつだって笑っている。
そして父は、そんな母の笑顔を守るためなら、どんな些細なことにだって本気で取り組んできた。
会津にいる恵さんに言わせれば、それは『間接的かつ積極的な自癒能力』なのだそうだ。
父の左頬にある十字傷が薄くなってきていることに、少しは関係があるのかもしれない。
「それで?」
もう一度、父が尋ねる。緩んだ空気に、白状しないわけにはいかなくなる。
「……俺たちとは違うなって……思って……さ……」
投げやりに答える。父親といえど、同じ男に弱みを見せるのは気持ちのいいものじゃない。
「それはまぁ、剣路と拙者も、千鶴殿と薫殿も別の人間でござるからな」
「そういう当たり前のこと言ってるわけじゃない。……いいよ、うまく言えないから」
実際、俺の感じている違和感を、うまく言葉にできるとは思えなかった。
敢えて言うなら、父さんの言っていることが原因であり、帰結するすべてだ。
「ふむ……。どうちがう?」
話題を終わらせようと思った俺とはちがい、父はまだ考えているようだった。
やわらかい口調ではあったけれど、その言葉には必ず答えさせようという意思があった。
「俺はただ……千鶴が好きって……それだけだなって……思ってさ……」
「それだけとは随分でござるな。その気持ちが、一番必要なものだろうに」
「そういうんじゃなくてさ……。なんて、いうのかな。もっと大きな意味での好きっていうか……いろんな角度からの気持ちっていうか……そういうのじゃない気がしてさ……」
この先何十年と一緒にいる女に対して、ただ好きって、それだけでいいんだろうか。
そこにはもっと、深遠で、多角的な意味での愛情が必要なのではないだろうか。
たとえば、父と母の間にある、水も漏らさぬ信頼と愛情のような。
「拙者と薫殿は、これでも二十年近く連れ添っているのでござるよ。最初から同じものを求めるほうが、無理というものだ」
「そりゃ、父さんと母さんだって最初から今みたいだったなんて、思ってないけどさ……。ああでも、弥彦兄や由太郎さんは、『剣心と薫は俺らがガキの頃からちっとも変わってねぇ』ってよく言ってるけど」
「弥彦と由太郎がそんなことを? はは、確かに、変わっていないところもあるかもしれぬな」
「外見とかな」
余裕綽綽の父さんの態度がむかついたから。
ちょっとした嫌味をはさんでみる。
きっと今、懐かしそうに遠くを見ている父の目には、出会った頃の十七の母の姿が浮かんでいるにちがいない。
「息子の俺の目から見てもさ、やっぱ違うよ。父さんと母さんは。……右喜さんのとことか、新市さんのとことかとは……やっぱ、ちがう」
この際だからあらためて言ってやった。十数年間、俺が思っていたことだ。
俺だけじゃない。
たぶん、弥彦兄も由太郎さんも、央太さんだってそう思ってる。それが当たり前になりすぎて口にしないだけで。
「どうちがう?」
「なんていうか……戦友って……いうのかな……父さんと、母さんは」
一瞬驚いたあと、父がうなずく。
そう。俺と千鶴との間に足りないのは、その顔だ。
すべてが満たされた男の顔だ。
「そうでござるな。薫殿と拙者は、夫婦であり、父母であり、男と女であり、同志でもある」
手の中の感触を確かめるように、父さんは言う。とても誇らしげに。
「……ガキくせぇ……」
本当にガキくさいのは俺のほうだって、わかってる。
それでも、この捻じ曲がった根性はそう簡単には直らない。
「それは仕方がない。なにせ、初恋だからな」

「は……?」
意外な言葉に、思わず聞き返す。
『初恋』? 祝言控えた息子を持った、五十近いオッサンの口から、『初恋』?
「……なに言ってんだ。母さんの前にだって……」
思わず口調が荒くなる。
母さんと出逢う十五年前、父さんには妻が居た。
奇妙な事情を抱えていたとはいえ、夫婦には変わりなかったはずだ。
なのに、母さんが初恋だなんて、よくも堂々と。
「もちろん、彼女は大切なひとだ」
ふわりと目を閉じる父のまぶたには、おそらく何も映ってはいまい。
十字傷にまつわる話を聞いたとき、質問したことがある。
『まだその女を思い出すのか?』
それは、母以外の女を愛したことがあるという父への、挑発に近い質問だったと思う。
そう聞いた俺へ、父は首を横に振った。
『もう、姿も見えない。声も聞こえない』
息子に気を使った言葉とは思えなかったし、別段残念がっているようでもなかった。
なにより、十五年間見てきた父の姿は、母以外の人間を愛しているはずがないと確信できるものだったから。
俺はそれ以上追及しなかった。
彼女はもう随分前に、父の中から出て行ったのだ。
意外なほどすんなりと、それが理解できたから。
「今にして思えば、拙者は三十近くなるまで、恋というものを知らなかった。けれど、一挙手一投足に目を奪われて、小さな言葉ひとつに振り回されて、それを心地よいと思うことを恋だというのなら―――」
ありありとその様子が目に浮かぶ。それは、俺が十数年過ごしてきた日常生活そのものだ。
朝起きては、寝起きの悪い母の包丁捌きにうろたえ、昼話しては要領を得ない母の話を整形し、夜寝床に入っては寝顔に見入る。
時に母は声を荒げたし、警察の手伝いだとかで父が家を空けることもあったけれど。
おおむね、俺の知っている夫婦という集団の在り方は、そういったものだ。
「拙者は、生まれてはじめて恋をしている」
歯が浮き上がるかと思った。
けれど、無邪気なくらい満足そうに歪んだくちびると、いまだ貪欲に期待を探す目は、たしかに父の言葉を証明していたから。
『初恋はかなわない』という教訓が嘘だということを、俺は知ることになった。
「あーあ、バッカみてぇ」
「おろ……」
大げさに、腕を頭の後ろで組んでみせる。
なんだよ、結局のろけじゃないか。祝言前の息子の相談をのろけ話にすり替える父親が、どこの世界にいるっていうんだ。
恋してるって、本当だよ、父さん。
息子の悩み事すら吹き飛んじまうくらいに、アンタは恋をしている。
俺が証人になってやるよ。ありがたいだろ? 実の息子のお墨付きだ。
「父さんと母さんと同じじゃないないて、当たり前だ。俺は父さんみたいな、みっともない愛し方はしないからな」
バカらしい。まったくバカらしい。
これまでと同じまんまでいいってわけかよ。
つまり、こういうことだ。
太陽の色は、ひとつなんかじゃない。

遠回りしてようやく見えてきた赤べこに、大股で歩いていく。ちょうど客を送り出したところだった燕さんが、こちらへ向けて手を振っていた。
「ああ、それでいい」
満足そうにうなずいた父親の笑顔が、ほんのすこしシャクだったから。
父さんが入り口に足を踏み入れる瞬間を狙って、母さんに質問してやった。
「なぁ、母さん」
「ん? どうしたの、剣路」
「母さんは、父さんが初恋だった?」
「………………ひみつ」
一瞬目をまるくしたあと、あさっての方向を向いて母さんが答える。
背後で、米がざらざらと盛大に零れていく音がした。

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