3.春の燻火【R-18】

「脇が甘いわ、もっと切っ先をよく見て!」
「おう! ……っぁんじゅうはちィッ! ……三十九っ!」
弥彦の拍子に合わせて、薫が竹刀を振り下ろす。隣で竹刀を振る弥彦は、我知らずちらりと薫を盗み見た。
着古した道着、手に残る竹刀ダコ、張り飛ばされるようなかけ声。汗みずくの肌と髪は、化粧っけひとつない。
これが昨日洋館で見た女と同一人物だなんて。弥彦は騙されたような気分になる。
これまであまり意識したことはなかったが、稽古中、無防備にはだけている薫の道着と晒しの下にある肌が、あんなに白かったとは。
とろりと汗がつたう薫の鎖骨に、目がいきそうになる。湧き上がる邪念に、弥彦は慌てて目を逸らした。集中せねば、と、思わず目をしばたく。
「ほらまた! いま剣筋が左にぶれたの、分かった?」
「お、おうっ……!」
「まずは目に自分の剣筋を覚えさせて。そうすれば自ずと自分の間合いがつかめるわ」
「ッス! ……っしじゅうごォッ! っしじゅうろっ……」
弥彦が五十を数えたところで、薫は素振りの中断を宣言した。荒い息のなか、弥彦が尋ねる。普段なら、倍の回数はこなす鍛錬だ。
「なんだぁ? 今日はいやにラクち……」
「弥彦あなた、やっぱり疲れてるんじゃない? 昨日の帰り、ずいぶん遅かったもの」
心配そうに覗き込む薫の胸元が目に入る。なにか見てはいけないものを見てしまった気になって、弥彦はますます頬を火照らせた。
「ほら! 息切れだっていつもより早いじゃない。今日は基礎鍛錬だけにしましょう」
「だ、大丈夫だって……!」
「ダメよ。お昼からまた赤べこでしょ。それまで、少し寝なさい」
「まだまだやれるって言って……」
「無理して身体壊したら、意味ないでしょ。じゃ、腹ばい往復二百回して、今日は終わりにしましょう」
「鬼かお前は」
ぶちぶち文句を言いながら、弥彦は仕上げの鍛錬を始める。途端に今度は、となりで這いつくばる薫の、窮屈そうにつぶれる乳房に気づいてしまう。慌てて床に突っ伏すと、弥彦は煩悩を振り払うように、猛然と前進しはじめた。
「すごい速さね……ほんとに疲れてなかったのかしら……?」
目をつぶってヤケクソのように床を往復する弥彦の勢いを見て、薫は不思議そうに首をひねった。

「剣心、布団一枚持ってくぞ」
着替えた弥彦が、洗濯中の剣心に後ろから声をかけた。『ああ』と剣心が気のない返事をする。
剣心が上の空など、そうはない事態だ。洗濯ダライを前に思案顔の剣心を、弥彦はなにごとかと不審に思う。
「どうした剣心? 頑固なシミでもあったのか?」
「いや……。これをどう洗ったらよいものか考えていてな」
剣心につられて、弥彦は積みあがった洗濯物の山を見る。そこには、昨夜薫が着ていた白いドレスが、ひらひらと裾をはためかせていた。
「これ、昨日の……」
「ああ。やはり洗い方も日本のものとは違うのではないかと……」
「いいんじゃねぇ? 洗わなくて。半刻も着てねぇんだしさ」
「だが……」
「下手に洗ってダメにしたらもったいねぇよ。高いんだろ? こういうのって」
『よく知らねぇけど』と付け足しながら、弥彦は遠慮がちにドレスの端をつまんだ。だが、弥彦の言葉を聞いてなお、剣心は思案顔を崩さない。
「しかし……」
「んだよ、食べこぼしでもついてんのか?」
「そういうわけでは……」
「なら、いいじゃねえか」
「むぅ……」
煮え切らない剣心の手からドレスを取り上げると、弥彦は縁側に放り投げた。代わりに、洗濯物の山から手ぬぐいを掴むと、水を張ったタライに放り込む。剣心はまだもごもごと何か言いつつも、じゃぶじゃぶと手を動かし始めた。いつもの動きに戻った剣心を見て、弥彦は当初の目的に戻り、布団を担ぐことにした。
「その布団は、さきほど干し始めたばかりでござるが」
「いいんだよ。薫のヤツが、昼まで寝ておけってさ。ガキ扱いしやがって。昨日の夜だって、サボり魔のアイツより、俺のほうがよっぽど役に立ってたじゃねぇか」
「……なぁ、弥彦」
弥彦が物干し竿を下ろそうとしたところで、剣心は尋ねた。手は、機械的に洗濯物と洗濯板をこすりあわせつづけている。
「なんだよ」
「昨夜薫殿が会いに行った相手は……その、女性のような男だと聞いていたのだが……」
「ん? ああ、オレも京都ンときはそう思ってたんだけどよ。ああいうカッコするとちゃんと男だな、アイツも。それがどうかしたのか?」
「いやあの……服を……突然……贈ったり……するから……ちと驚いただけでござるよ」
「ホントにな。オカマの考えてることはよく分からねぇ」
そう答えると、弥彦は布団を抱えて母屋へ急いだ。弥彦が去ると、布団ひとつ分の干し場が空いた。それを見て、剣心は、ここ数日寝転がっていない自分の布団を干すことを思いついた。

「やっべー! 寝過ごした!」
昼餉のにおいに誘われて弥彦が起きてみれば、時計はすでに仕事まで待ったなしの時間を差していた。どたばたと廊下を走る弥彦を、薫が玄関で捕まえる。
「何度も起こしたのよ、もう!」
「起きなきゃ意味ねぇだろ! もっと気合入れて起こしてくれよ!」
「なによその言い方! んもう……! それで弥彦、お昼は?」
「悪りぃ、食う時間ねぇ!」
「しょうがないわねぇ……。じゃ、いってらっしゃい。妙さんと燕ちゃんに、昨日のことよろしく伝えておいてね」
「おう! じゃ、いってくらぁ! 夕飯は食うからな!」
草鞋を履きながらそう言い残すと、弥彦は火がついたように玄関を飛び出していった。残された薫は、弥彦とは対照的に、のんびりとした動作で玄関を閉める。振り向いたところで、剣心が台所から顔を出した。
「今の見た? 剣心。……まったくあのコは。ひとり暮らし始めて、すこしは落ち着いたかと思ったら」
「しかし困ったでござるな。うどんでは夜まで残しておくわけにもいかぬ」
「もう湯がいちゃった?」
「うむ。しかも弥彦が腹を空かせているかと思って、一人前多めに……」
そこまで口にしたとき、剣心の目つきが鋭いものに変わった。一瞬で薫の前に回りこむと、右手を柄にかけながら、左手で玄関を勢いよく開け放つ。唐突な剣心の所作に火急を感じ取った薫もまた、剣心の背に身を隠しながら、反射的に身構えた。
「なんや、けったいな挨拶やなぁ」
「やはりお主か。京都のときといい、人の家を訪ねるときに、いちいち殺気を漲らせるのはやめてもらいたいでござるよ」
「ワイ流の挨拶や。気にしなや」
柄から手を離すと、剣心は呆れたように張をたしなめた。そんな剣心など気にも留めずに、張はどっかりと玄関に座り込んで長靴をほどき始める。
「いやぁ、道案内だけのつもりやったけど、ええ時に来たわ。ちょうどハラ減ってたとこやねん」
台所からぷんと匂う鰹節の香りに、張が鼻をひくひくと動かした。煮立てたばかりの、塩がきいた濃厚で香ばしいにおいだ。
「道案内?」
「アンタってほんと図々しいわよねー。長生きするわよ、その性格」
呆れたように腕を組む鎌足が、張の背中から顔を出す。昨日とはうってかわって、袴にブーツの女学生姿だ。どこからどう見ても女性にしか見えない鎌足に、剣心は面食らった。
「お前は……もしや昨日の……」
「あらあらあら。やっぱり昨日のは、見間違いじゃなかったみたいね。アタシを負かしたこの娘の想い人っていうから、どんないい男かと思ったのに。明るいところで見ても、ただの赤毛のチビじゃないの」
「コラコラ、言いすぎやで。ええ男かどうかは、お嬢ちゃんが決めることやろ。赤毛でチビで貧乏なんは、否定できん事実やけども」
「……何をしに来たのでござるか、お主ら」
ずかずかとあがりこむ珍客たちに、剣心が苦虫を噛み潰したような顔を向ける。無遠慮な客ふたりは、すでに昼餉の用意が整っていた食卓に、堂々と自分の席を築きはじめていた。
食卓には、青ネギのみじん切りとしょうが、それに胡麻と七味が並んでいる。今食べる分だけを切ってそのまま持ってきたという素っ気なさは、いかにも手軽に済ませる日常の昼食風景だ。
「あらぁ、おうどん! いいわねぇ、ちょうど西洋の食事に飽き飽きしてたところだったのよ。こういう日常の味が恋しくて」
「具はカマボコとネギとチクワだけかいな。もうちっとこう、エビ天とかイカ天とか食いでのあるもんをやな……」
当然のように食事を要求する二人に、剣心が渋々どんぶりを手渡した。途端に、剣心と薫二人きりの静かな食卓が、やかましく様変わりする。
「おお、なかなか美味いやないか! 欲を言えば、関西風に出汁の味が強いほうがワイの好みやな」
「そぉ? いいお出汁、取れてるじゃないの。お嬢ちゃんが作ったの?」
「いえ……あの……剣心が……」
薫が小さくなる。消え入りそうな語尾を、鎌足の耳は難なくとらえた。
「あらぁ。いくら亭主が刃物達者でも、料理に手を抜いちゃダメよ。男の胃袋を掴んでおくことは、それすなわち、尻尾を掴んでるのと同じことなんだから」
「うぅっ……」
「薫殿の料理は、食べるたびに味が増すいい料理でござるよ」
「なんやそら。珍味みたいなもんか」
張がどんぶりに胡麻を振り入れながら、からからと笑う。隣で意気消沈していた薫が、ふて腐れたように顔を上げた。
「……それで、何か用なんですか? 人の家の平和な昼餉にずかずか上がりこんできて!」
薫が張をじろりと睨む。刺々しい薫の口調を、張は肩をすくめてやりすごした。
「そうつっけんどんにせんといてや。嬢ちゃんとワイの仲やないか」
「あなたとは、今まで生きてきた中で一刻ほどしか顔を合わせたことがありません!」
「つれないこと言いなや。嬢ちゃんの屍人形つきとめたのはワイやねんで? 足の大きさから、腰周り、乳のでかさまでひと通り頭に……」
「ちょっと山葵を擂りすぎてしまってな。遠慮せず、たくさん食べるとよいでござるよ」
剣心が目にもとまらぬ神速で山葵を擂りおろすと、下ろし金を逆さに振って、張のどんぶりに山のように投入した。あくまで人のよい笑顔を浮かべながらの剣心の凶行に、肝を冷やした張は、慌てて話題を変えた。
「さ、最近とんと物覚えが悪ぅなってなぁっ……! いやぁ、去年のことなんかすっぽり頭から抜けてもうて……。そ、そうそう、それで! お嬢ちゃんにちぃっとばかし協力して欲しいことあって寄らせてもらったんや。せや、それ以外の用なんて、これっぱかしもないわ、うん!」
「アンタ必死ね」
七味を振り入れて汁をすすりながら、鎌足が冷ややかに張へ横目を送る。その様子に苦笑しながらも、薫が張の言葉を継いだ。
「協力って、わたしがですか? 剣心じゃなくて?」
薫の質問に、鎌足と張が話をかいつまんで説明した。はじめは眉に唾をつけるようにして話を聞いていた剣心と薫も、縁の名前が出たところで、顔を見合わせて耳をそばだてた。
「島でふん捕まえた黒星や四星は、残った人間に関しちゃロクな情報持っとらん。よっぽど部下からの信頼がなかったんやろな」
そう言われて、薫は島で自分に銃口を向けた異国人を思い出した。倒れた部下を見捨てて逃走しようとしたあの心構えでは、確かに下の者に慕われるのは難しそうだ。
「となると、今ンとこ一番事情に詳しい人間は、唯一組織の中に入り込んだことのあるアンタってことになる。何かしら情報持ってるんちゃうかと思ってな」
「そう言われても……。たしかに、雪代縁が下屋敷の人たちと話しているのは何度か聞いたけど、そのときは大陸の言葉だったし……」
「言葉が分からんでも、顔は覚えてるやろ? 水際で検分してくれさえすれば、それでいいさかい。横浜まで一緒に……」
「アンタ、口数は多いけど、交渉ごとには向いてないわねェ」
一気に薫にまくし立てる張へ、鎌足がつぶやいた。言い返そうとする張の言葉を遮って、鎌足がぴしゃりと言い放つ。
「はっきり言いなさいよ。雪代縁をおびき寄せるためのエサになってほしいって」
剣心の周りの空気が変わる。剣心は無言のまま、威圧だけで張に続きを話すように迫った。事態を十全に理解できずにいる薫もまた、剣心にならって話の続きを待った。
「別に、隠すつもりだったわけやないけどな……。手っ取り早く情報を手に入れるんなら、アタマ張ってた雪代縁をとっ捕まえるんが一番や。けど、やっこさんは船から消えてこのかた、絶好調で逃走中。ちゅうわけで、お嬢ちゃんにヤツらの組織と関係ありそうな場所をうろついてもろて、あの若白髪を燻り出したろういうことになってな」
張が両手を重ねて、わしゃわしゃと昆虫の足を思わせる動きを作る。張の意図にいまいち賛同できない薫は、困惑して聞き返した。
「でも、わたしが危険な目に遭ったところで、雪代縁が出てくるなんて思えないわ」
「そこは賭けだけどね。勝算は割りとあるのよ、コレが」
「勝算?」
したり顔で茶をすする鎌足に、薫が聞き返す。箸を楊枝がわりにして歯根をほじっていた張が、薫の問いに答えた。
「サツに情報タレこんだんがな、おそらくヤツやねん。横浜で、上海訛りの妙な日本語を話す背ぇの高い男が、ひと言だけ残して、目を離した隙に煙みたいに消えたらしい。そないな男、そうそうおるとは思えんやろ?」
薫の目が揺らぐ。夏の名残の太陽の下、心と身体に深い傷を負って消えた男の姿が脳裏によみがえる。島を去る彼の目は、悲しいくらい空っぽだった。
「あの人が……」
縁の行動の意図が、責任感なのか気まぐれなのか、それとももっと別の理由なのか、それは分からない。
けれど、何が原因にせよ、復讐以外に興味を持たなかった縁が、それ以外の理由のために行動を起こした。それは、『よい変化』のように薫には思えた。縁と剣心にとって。
「ネチっこい性格したヤツのことや、どっかでコトの行方を見とるやろ。それに……」
「縁は、薫殿を守った。二度も」
それまで押し黙っていた剣心が、静かに言った。
鈍色の煙幕の中で。凶弾の前に飛び出した島の砂浜で。どちらも、縁は薫を殺させなかった。たとえそれが、『殺せないから』という理由であるにせよ。
「二度あることは三度ある。それがあの性悪警官の論拠や。雪代縁は、どうにもお嬢ちゃんが目の前で死ぬのに我慢ならんらしいからな」
沈黙が降りる。どう答えるべきか、薫は迷う。
縁にとって自分がどういった存在なのか。薫と縁の間から剣心の介在を差し引いたとき、そこに何が残るのかなんて、考えたこともなかった。
ただおぼろげに分かるのは、彼が途方もない悲しみと孤独を抱えた少年だということだけだ。
「それにね。例のアブナイお届け物、あながち、アンタらに無関係な荷物じゃないと思うわよ」
迷う薫を誘導するように、鎌足が意味深に微笑んだ。真剣な目をしてはいるが、どこか状況を楽しんでいるようにも見える。
「なんやそれ? またぞろミョウちくりんな改造した武器じゃないんか?」
「ちょっと考えてみれば分かるでしょ。武器ならわざわざ英国租界から盗む必要なんてないわ。自分たちで製造したほうがよっぽど安全だし、利ザヤだって大きいもの」
「ふむ、そらそうやな」
「でしょ。上海租界経由で英国が一枚噛んでる。おまけにマフィアがらみとくれば、おのずと相場は決まってくるわ」
「阿片でござるな」
剣心のひと言で、軽妙な張と鎌足の会話に終止符が打たれた。
空気が一変する。ふたたび降りた沈黙の後で、鎌足が説明を加えた。
「原料が手に入れば、次はいかに効率よく利益をあげるかを考えるのが常道よ。つまり、荷物が到着したあかつきには、もれなく……」
「恵さん……!」
「蜘蛛の巣なら、通常の四倍の利益が手に入る。放っておかないでしょうね」
秋風の中、颯爽と会津に去っていた恵を、薫は思い出す。
気丈で蓮っ葉で意地が悪くて、時には叱って窘めてくれて。最後に、薫に自信をくれた。深い葛藤と悲しみを背負ってなお凛としたその姿は、薫が思い描く大人の女そのものだ。
剣心と形は違えど、彼女もまた、贖罪への葛藤を経て闘いの人生を選んだ。日々忙しく、けれど生き生きと闘うその姿は、時おり交わす手紙からひしひしと伝わってくる。
「それで。わたしは、何をしたらいいんですか?」
「そうこなくっちゃ」
鎌足が、くいっと右肩をあげてみせる。それから、『どうだ』と言わんばかりに、張に目線を送った。まんまと交渉の手柄を鎌足に持っていかれた張が、不承不承手のひらを見せて降伏の意思を示した。
「となれば、当然あなたも協力してくれるわよね? 緋村さん?」
「ああ」
「よし! 決まり! それじゃとりあえず……」
「とりあえず?」
「お夕飯作りましょ。もうこんな時間だし」
言われて三人は、すでに日が暮れかけていることに気づいた。張り詰めていた空気が緩み、夕刻を告げるカラスの声が耳に入り始める。
散会の空気が漂う居間で、薫が剣心にそっと目配せした。その視線を受けて、剣心はあきらめたように笑った。
「どうやら、夕飯は五人分のようでござるな」
『願わくば、これ以上若い男の食客を増やすのは勘弁願いたいものでござるな』
幾日か前の晩に冗談で言った言葉が、剣心の頭にのしかかる。同時に思い浮かびそうになった『瓢箪から駒』という諺を、剣心は縁起でもない、と頭から追い払った。

「ホラホラ、そんなに力まないの。皮どころか、身を通り越して指まで剥けちゃうわよ」
「は、はい!」
「あぶなっかしい手つきねぇ。あたしの膝を叩き割ったときの凛々しさはどこへいったのよ?」
「そ、それとこれとは別問題です……」
涙目になりながら、薫が芋の皮を向いていく。
人が剥いているのを見ると、いかにも簡単に見えるのに。薫の手から零れ落ちる皮ときたら、身は厚いしやたらと細切れだしで、不恰好なことこのうえない。たっぷり鎌足の三倍の時間を使っても、できあがりは雲泥の差だ。
「リボンをしてるときはただのコムスメって、ほんとね」
珍しいものでも見るような目で、鎌足が薫を見下ろす。萎縮して肩を落とす目の前の不器用な娘と、京都の大路で果敢に挑みかかってきた剣士が同一人物とは、にわかには信じがたいくらいだ。
「ま、それもいいのかもね。さっきはああ言ったけど、緋村さん、あなたの世話焼くの楽しくてたまらないみたいだし」
「……どうかしら……」
「あら、えらく自信なさげじゃない」
薫は目を伏せると、鍋の中でせわしなく浮いたり沈んだりしている鰹節を箸でつついた。鎌足が芋の皮を古懐紙に包んでまとめる音だけが、台所にがさがさと音を残す。
「昨日のこと?」
薫は、ぐるぐると対流する鰹節を見つめたままだ。
鍋の中の色は、まだ透明に近い。出汁を取りきるまでにはもう少し時間がかかるだろう。手持ち無沙汰の鎌足が、手にした竹ざるを意味もなくくるくると回した。
「なに着てても一緒って……言われちゃいました」
困ったように薫が笑ってみせる。無理にでも笑い話にしないと。そんなからっぽの笑顔だ。
「似合わないって?」
「そこまでは言われてませんけど」
薫は、水にさらしてあったきぬさやをザルに移した。何度かゆすって水気を切ると、注意深くスジを取りはじめる。
「鎌足さんは、わたしを買いかぶり過ぎです」
ぷちりぷちりと、薫は機械的に豆のスジをとり続ける。出汁を取り終わった鰹節を鍋からすくいあげながら、鎌足は視線だけで薫の話に耳を傾ける。
「わたしは、料理が苦手でお転婆なだけの、ただの小娘です」
薫が爪の先でスジをはじいた。濃い緑色のスジが、孤を描いて束を作っていく。薫の指先の動きには、乱れひとつない。
「雪代縁だってきっと、わたしじゃなくても同じようにしたと思います。だから今回のことも、協力するなんて言いましたけど、お役に立てるかどうか……」
「あたしたちは、今ある選択肢から一番確実な方法を選んだ。経験と直感でね。あたしに張、不良警官、それから緋村サン。四人が同じ答えを出したのよ」
空気の中に杭を打ち込むように、静かに鎌足が言った。薫が小さく笑う。その笑顔には、ほんの少しの懐疑と申し訳なさが含まれている。
「もうちょっとワガママで欲張りになったって、バチは当たらないわよ?」
「はぁ……」
「ワガママ叶えてもらえたら、少しは自信もつくでしょ。人を好きになったらワガママになるって、そういうコトよ」
「そうなんですか?」
「そうよ。自分のワガママ叶えてくれようと、相手がドタバタ駆けずり回るところを見て、『ああそんなにするまでアタシが好きなのね』って安心するわけ。タチの悪い話だけどね」
薫のわがままのために奔走する剣心の姿を、想像してみる。たとえば、高価な服が着たいだとか、豪奢な家に住みたいだとか。そんな気まぐれを薫が言ったとしたら、彼はどうするのだろう。
想像の中の剣心が、申し訳なさそうに笑った。
きっと、それで終わりだ。たとえ、薫が他の男のとこ
ろへ行くと言い出したとしても、剣心が追い縋ってくれるとは思えなかった。
「いいんです、わたしは……そういうのは……」
「堂々巡りね。自信がないからワガママが言えない。ワガママが言えないから確かめられない。確かめられないから自信がない。ぐるぐるぐるぐる。そのうち目が回ってブッ倒れるわよ。コマとおんなじ」
「そういうんじゃないんです。剣心は、死ぬより辛い生き方を選んだ人だから……。……わたしまで、あのひとの重荷になりたくない」
「優等生ね。自己犠牲なんだか自己満足なんだか。似たもの同士よ、あんたたち。ああいう男に惚れたからって、物分かりよくいなきゃいけないって法もないでしょうに」
「それは……分かってますけど……」
「一途なのはいいけど。真面目すぎるとがんじがらめになるわよ。アレもできないコレも言えないって、亀みたいに手足縮めてさ。身動きとれなくなったら、行き着く先は自滅するか相手に当たるか、どっちかよ」
薫が答えあぐねている間に、洗濯物をたたみ終えた剣心が土間に顔を出した。自然、鎌足との会話はそこで立ち消えになった。
「いいにおいでござるな」
「あ、うん。あとは煮込むだけだから、弥彦が帰るころにはできるわ」
「何か手伝うことは?」
「火、見てて、緋村さん。あたしたちお膳出してくるから」
「承知仕った」
鎌足に促されて、薫が小走りで台所を出て行く。その背中の薄さが、不思議と剣心の胸を騒がせた。

「で、何でお前らがココに居るんだ?」
仕事から帰った弥彦が見たのは、食卓を占拠する招かれざる客たちの姿だった。事情は理解したものの、我が物顔で箸を動かす張と鎌足の姿が、どうにも弥彦には納得できかねる。
「メシは大勢で食ったほうが美味いやろ? 感謝しいや。あ、お嬢ちゃん、醤油取ってや」
「あ、はい。どうぞ」
「薫も馴染むんじゃねぇよ! お前、人よすぎ! 師範代の名が泣いてっぞ!」
「やかましい坊主やなー。メシん時くらい静かにしいや」
「ったく、左之助がいなくなったと思ったら、まーたタダ飯食らい抱え込みやがって……。大丈夫なのかこの家の経済は……」
弥彦が呆れながら味噌汁をすする。弥彦の独り言に、隣で焼き魚をほぐしていた張が反応した。
「そういや、ホンマにあのトリ頭おらんのやな」
「ああ。海の藻屑になってなきゃ、今ごろは大陸にいるはずだ」
「アイツとも決着つけんままやったなぁ」
「決着? なんかあったのか、お前ら?」
「たいしたこっちゃないけどな。ま、トリ頭の場外負けで、ワイの勝ちやな」
ふふんと鼻を鳴らして、張は魚から小骨をとる作業を再開する。今度は、弥彦が張に食ってかかった。
「左之助がお前なんかに負けるわけねぇだろ」
「なんやと?」
横目で弥彦を見下ろして、張は威圧しようとする。もちろん、弥彦も負けじと眼光を鋭くする。
「お尋ね者になったゆうて、シッポ巻いて日本から逃げ出したヤツに、ワイが負けるわけあるかい。政府が怖くて海の外までトンズラなんて、背中の『悪』はカッコ悪いの『悪』やってんなぁ!」
「あんだと!? アイツの悪一文字にはなぁっ……」
「静かに食べなさい、もう!」
「あーもう! 静かに食べられないのアンタたちは!」
まったく同時に、薫と鎌足が声を張り上げた。動きを止めた弥彦と張の向かいで、薫と鎌足が顔を見合わせる。
「あらま。気が合うわね」
「はぁ……」
生返事をする薫に、鎌足が振り返った。薫を挟んだ向こう側で、珍しそうに二人を眺めている剣心の素惚けた顔が、鎌足を無性に苛立たせた。
「そうそう、気が合うのよね~、アタシたち。服の趣味だってドンピシャだったしィ」
鎌足がわざとらしく声を高く張り上げる。鎌足の意図に気づかない弥彦は、そういえば、と昼間の出来事を思い出した。
「そうだ剣心。ついでだから、あの洋服の洗濯の仕方、教えてもらえよ。悩んでたじゃねぇか」
「おろ」
話を振られて、剣心が箸を止める。剣心が答える前に会話に割って入ったのは、張だった。
「服ぅ?」
「昨日薫が着てた白いアレだよ。洗い方が分からないって、剣心、昼間悩んでたんだ」
「小一時間も着とらんやないか。洗わんでもええんちゃう?」
「オレもそう言ったよ。けど、剣心、妙に気になってたみたいだからよ」
かき込んでいた茶碗から口を離して、弥彦が剣心を顎でしゃくった。剣心の苦笑は、いかにも『日常の中のちょっとした困ったこと』に対するものだったけれど。鎌足は意味ありげに目を細めた。
「ふぅ~ん。妙に気になって洗おうと……ねぇ」
「ああ。いつからそんなに潔癖症になったんだか」
なお向けられ続ける鎌足の物言いたげな視線に、剣心はわけも分からず居心地が悪くなる。ばりばりと沢庵を噛み砕いていた弥彦に、張が茶をすすりながら言った。
「坊主。なんだかんだ言うても、まだまだお子様やな」
「あんだよ、唐突に」
「男が女に服を送るのはな、それを脱がしたいからや」
「ごほっ!」
「んぐっ!」
成り行きを見守っていた剣心と薫が、同時にむせ込んだ。苦しそうに咳き込む二人をよそに、弥彦が感心したように唸った。
「なるほどなぁ」
「ほかの男の寄越した服なんざ、手アカを落としたくなるのが当然やろ?」
めずらしく素直に、弥彦が張の言葉にうなずいた。呼吸困難からいち早く復活した薫が、真っ赤になって叫ぶ。
「な、なに言うのよ、もう! だ、だいたい剣心がっ……!」
「せ、拙者は決してそのような……」
途端に始まるいつもの二人のやり取りに、弥彦がうんざりとため息をついた。味噌汁からつまみあげた豆腐ごしに、二人の騒ぎを遠巻きに眺める。
「静かに食えって言ったの、どこの誰だよ……」
知らぬ存ぜぬを決め込みながら、隣でぽりぽりときぬさやをかじっていた張が、弥彦に尋ねる。『別にどっちでもいいけれど』というその態度は、弥彦同様どこまでも他人事だ。
「ええんか? 止めなくて?」
「いつものことだ。すぐ怒る薫も薫だが、剣心も剣心だぜ。よくあんな沸点の低い女に毎回付き合えるよな」
「後学のために教えたる。女っつうのは、最初火がついたときに怒らせておかんとあかんねん。溜め込ませて後で爆発すると、そりゃもう手がつけられん」
「そんなもんか」
「そんなもんや」
黙々と食事を続行する二人の目の前で、寸劇のように剣心と薫の言葉が応酬する。薫が口をとがらせれば剣心がなだめ、それにまた薫がつっかかる。その繰り返しだ。
繰り返すうち、だんだんと薫は興奮が収まって、剣心の話に耳を貸すようになる。さらにある程度時間が経てば、剣心が薫を教え諭して、事態は収束していく。どこまでもいつも通りだ。
「毎度毎度、同じようなやりとりして、よく飽きねぇなぁ」
「夫婦喧嘩ってそういうモンやで、坊主。大岡裁きのト書きと同じや。ネタは違えど、過程と決着はだいたい似たようなとこに落ち着くねん」
張の言うとおり、いつもの過程といつもの決着をもって、剣心と薫の諍いは終結を迎えようとしていた。
もう一人の部外者である鎌足もまた、関わるのが面倒だという態度を隠しもせずに箸を動かしていた。が、最後の最後に、呆れたように言った。
「やめておけばぁ? こんなケツの穴の小さい男」
「妙な目で拙者を見るのはやめてもらおう……!」
「失礼ね。あたしを、男なら誰でもいい尻軽オカマだと思ってるの?」
言葉遣いに不似合いな、低く太い声だった。それを聞いて、弥彦はかつての彼女の殺気を思い出す。
かつてそこにあったのは、悲壮なほど真っ直ぐで、見返りなど求めない、信仰のような一途さだ。剣心の強さとも、左之助の強さとも、斎藤の強さとも、蒼紫の強さとも違っている。性質からすれば、もしかしたら薫や操の強さに近いのかもしれない。
けれども、そのどれとも決定的に違っているのは。おそらくその強さの源には、希求ではなく覚悟が座っているからだ。
『何も得られなくてもかまわない』という献身。言い換えればそれは、得た先に何があるかではなく、その行為と想い自体が目的という、極限まで尖鋭化した覚悟だ。
「そうだ、お前、志々雄ひとすじだって……あれほど息巻いてたじゃねえか。なのに薫に……」
死すら霞むその覚悟を鎌足が翻すとは、弥彦には到底信じられなかった。弥彦が言わんとしていることを察した鎌足は、途端にいつもの口調に戻る。
「それは、ヒ・ミ・ツ」
きゅっとくちびるの端をあげて見せた紫色の剣士の心根は、きっと一生分からないのではないか。
騒ぐ剣心と薫と、その隣で面白そうに修羅場を眺める鎌足を見て、弥彦はぼんやりとそう思った。

「あら、緋村さんひとり?」
膳を拭き終わった鎌足が台所を覗くと、剣心がひとりで水場に向かっていた。気配を探る。どうやら、外の井戸場にも薫はいないようだった。
「ああ。薫殿は、道場で稽古道具の手入れをしているでござるよ」
「こんな時間に?」
「明日は朝から出稽古だということでござる」
鎌足が、土間へつづく板間のへりに腰掛ける。別段それを気に留めず、剣心は食器を洗い続ける。皿を積み重ねるかちゃかちゃという音だけが、夜の台所を支配する。
「寝ても覚めても剣術、剣術……。色気のないことね」
土間用のつっかけを、つま先で履いたり脱いだりしながら、鎌足が言った。
「本人が楽しそうなら、それでよいでござるよ」
しゃりしゃりと皿をこすりながら、剣心が答える。たすきがけで皿をすすぐその背中は、ひどく満ち足りて見える。満足そうな剣心の姿は、ちりちりと鎌足の神経を炙った。
「竹刀ダコつくって、髪振り乱して、気がついたら立ち枯れて……。花の命は短いのよ? 緋村さんは、そうこうしてるうちにあのコがバーサンになっちゃってもいいわけ?」
「なに、老婆であろうが老父であろうが、拙者は一向に構わぬよ」
抑揚も昂揚もなく言った剣心の背中を、鎌足は値踏みする。何の衒いもなくそう言ってのけるこの男は、存外純粋なのかもしれない。
「薫殿でさえあれば」
「ああ」
剣心の口調を真似た鎌足に、剣心はするりと賛同した。
鎌足はしばらくつま先でつっかけを弄んでいたが、ふいにからりと蹴り飛ばすと、音もなく板間から出て行った。
沈黙はいつも、誰かの燻火の温度を湛えている。

「もう弥彦! 子どもがお酒呑んでいいことなんてひとつもないって、何度も言ってるでしょう!」
「うるへー……」
大の字で横たわった弥彦が、力なく薫に反論する。壁によりかかって杯を舐めていた張は、それを見てざまをみろとばかりにカカカと笑った。
「アンタもよ! 子ども相手になにやってんの」
呆れて腕を組む鎌足の横をすり抜けて、薫が客間の押入れを開けた。小言を言いながらも、手はてきぱきと敷布と枕を探している。
「んぁー……かおるぅ……酒もっと持ってこぉい……」
「ハイハイ、もう寝なさい」
押入れから布団を引っ張り出すと、薫は弥彦の寝床を整えはじめた。『まだ呑める』だの『酔ってない』だのとわめく弥彦を薫がなんとか布団に押し込んだところで、剣心が客間に顔を出した。
「おろ、これは……」
「見ての通りよ。明日弥彦が起きたら、剣心からもほどほどにするように言ってちょうだい」
うんざりした顔で立ち上がると、薫はもう一枚の布団に手をかけた。
剣心がみせた、ほんのわずかな揺らぎを、鎌足は見逃さない。
ごくわずかな変化だ。剣心本人すら、気づいているかどうかは分からない。一瞬だけ目を泳がせると、剣心はすぐにいつもの笑顔に戻った。
「ほらアンタも。目が赤いわよ。顔洗ってきたら」
「んー?」
「おぶってなんてやんないわよ。目ぇ覚ましてらっしゃい」
「……オゥ」
鎌足に促されるまま、張は立ち上がった。厠で用を足し、薄暗い台所で水を飲む。柄杓に口をつけていると、そこに残る苛立ちの残照が、ぴりぴりと肌を焦がした。
その苛立ちが誰のものかは分からない。けれど、それを残したのが男であることだけは、おぼろげに察しがついた。
ぐびりと水を飲みくだす。すすいだ柄杓を木桶に投げ込むと、のったりと薄明かりの差す廊下へ戻る。玄関ではすでに、辞去の挨拶が始まっていた。

頭の後ろで手を組みながら、張はわざとらしくがに股で歩く。となりを歩く鎌足とは、かれこれ二十分ちかくひと言も話していなかった。
張にとって沈黙は苦痛ではなかった。だがかといって、暗く沈むのも気分ではない。横目でちらりと鎌足を伺うと、独り言のように張は言った。
「てっきり、泊まっていくもんやとばかり思っとったわ」
「そこまで図々しくないわよ、あたしは」
あんたと一緒にしないで、と鎌足が毒づいた。存外、鎌足は普段どおりのようだと踏んだ張が、逆立てた毛先をいじりながら尋ねた。
「なにイラついとんのや」
鎌足は答えずに、視線だけを張へ送った。
『苛立ちを否定するほど青くはないけれど、明瞭に原因が分かる段階でもない。』
目でそう伝える。
張が目だけでうなずく。張は、この一見おちゃらけた女が、その実、裏に悲壮なほどの諦観と決意を持った剣士であることを知っている。だからこそ彼女が、のらりくらりと局面から逃れつづける人間の余裕を、なによりも嫌っていることも。
「惚れたんか? あのお嬢ちゃんに」
「まさか。いまさら女なんて無理よ」
間髪いれずに、鎌足が答える。もっともだ、と張はうなずいた。
「同族嫌悪ってやつかしらね。……たぶん」
「なんやそれ?」
「あのコ言ったのよ、京都のとき、あたしの膝を叩き割った後で。『剣心とみんなで一緒に東京に帰るって約束だけは、私も譲れないの』って」
「ホウ?」
「だからあたしも、素直に負けを認めたの。同じ想いを抱えてて、そのうえで負けたなら仕方ないって」
「フム」
張が顎に手を当てる。張は分かったような分からないような顔をしていたが、鎌足は特に気にとめていないようだった。
「なのに、よ。あたしとちがってうまくいったっていうのに、二人そろって気を遣い過ぎてウジウジグジグジ。たまんないわ」
呆れたように鎌足が言い放つ。
まるで姉気取りだな、と張は思う。
殺そうとしたと思ったら、次に会ったときはかばおうとする。見ていて苛立つくらいならば、かかわらなければよいだろうに。これだから、女というのはよく分からない。
鎌足の苛立ちが、張の答えを待ちながらそこに腰を下ろしている。どう答えたらよいのか分からない張は、ありきたりの同意を示した。
「神谷の嬢ちゃんはあの通りの世間知らずやし、抜刀斎は抜刀斎で、いろいろと面倒くさい野郎みたいやからな」
二人は一旦そこで話題を打ち切った。部外者ふたりが、ここでいくら議論を戦わせたところで、埒が明かない話題だ。
「ゼイタクよ」
ぽつりとそう言った鎌足が、怒っているのか悲しんでいるのか、張には見当がつきかねた。分かるのは、彼女のその領域に、自分が足を踏み入れることができないということだけだ。
「飲みなおすか?」
「ごちそうさま」
くいと、お猪口を傾ける仕草をした張に、鎌足がしれっと礼を言った。
「アホ。案内料や。お前持ちに決まっとるやろ」
「それが、久々に母国の土を踏んだ人間に言うセリフ?」
「細かいこと気にするなや。そうと決まったら、さっさと行くで! 酒はいけるクチなんやろ? 九州男児!」
「あんただけはないわー。ほんと」
鎌足は巾着袋を振り回すと、先導するように早足になった。
語るべきことは山ほどある。
それが、愛しい人が唯一残してくれた責務だから。

「はぁ、嵐のようだったわね……」
戸締りを終えた薫が、ぐったりとため息をついた。胸の前で手を組んでぐっと伸ばす。力なく廊下を歩く薫を、剣心がねぎらった。
「疲れたでござろう。風呂を沸かすから、先に入るといい」
「あれ? さっき、沸かしに外に出ていたんじゃなかったの?」
「いや」
「そう。お台所を覗いたら居なかったから、てっきりお風呂沸かしてるんだと思ってたわ」
首を振る剣心に、薫は不思議そうな顔をした。だが、さして気に留めていたわけではないらしい。すぐに薫は、別の他愛ない話題を剣心に振った。それから、客間を覗き込んで弥彦の安眠を確認すると、そのまま自室へ戻っていった。
「夕方、風呂に水を張っておいたゆえ、すぐに沸くでござるよ」
縁側から、剣心が薫に呼びかけた。剣心の呼びかけには、すでにからころと薪を投げ込む音が混じっている。薫は箪笥を漁る手をとめ、風呂場に向かって声を張った。
「ありがと! 着替え用意してすぐ行くわ」
障子越しに返ってきた薫の声に、剣心はわずかな違和感を覚える。その声には、昨日の夜にはなかった澱みが混じっているように思えた。
「今日は、千客万来でござったからな」
あるいは、久しぶりに弥彦が泊まっているからかもしれない。
そう結論付けると、剣心はもう一本薪を釜に投げ込んだ。

風呂上りで火照った身体に、布団の冷たさが心地よい。しばらくの間、薫はうつぶせになって全身で布団の冷気を吸い取った。それからころりと仰向けに転がって、行灯の明かりをゆらゆらと映している自室の天井を眺めた。
しばらくぶりの風景だ。自分の部屋をこの角度から見上げるのは、何日ぶりだろう。
枕元には衣桁と衣装箱があって、足元には引き出しの滑りが悪くなった箪笥がある。今朝方磨いたばかりの鏡は、うっすらと行灯の橙色の明かりを反射している。
一人きりの寝室は、しんとした親密さに満ちている。こんな時間が長く続けば、いつかこれが寂しさに変わるのかもしれない。
目を閉じる。
彼の気配はない。
耳を澄ます。
水の跳ねる音が聞こえる。彼はまだ風呂場にいる。
彼の裸体は、容易に想像することができる。昨日の晩も、その前の晩も、それに触れたのだから。
彼の身体は、見た目の割りに太い骨と、無駄のない薄い肉でできている。肌の色はもともと濃いほうではなかったが、冬が深まるにつれて、ほんの少し白さが増したように思える。
肌のうえには、無数の傷が散っている。白く跡を残す古い刀傷に、ひっつれた火傷の跡、青く色づいたまま色が戻らなくなった内出血の名残。噛み裂かれた肩口の傷は、比較的まだ新しい。
腕や脚の体毛は、髪の色と同様に色素が薄くて、光に透かすと黄色く透きとおった。陰毛はまわりの体毛に比べると暗い色をしていたが、臍の下から性器にかけて茂っているそれは、とても自然に肌になじんでいる。
すでに見慣れたひと揃いの男性器は、必要なときに必要な役割を果たすのに、十分な大きさと機能を備えている。まだまだ直視するのは躊躇われるけれど、限られた人間に必要な形で披露する分には、性器は恥ずべきものでも醜いものでもないのだと、薫はすでに知っている。
常に優しさを崩さない彼の態度と、赤黒く猛る彼の性器のちぐはぐさは、時に薫を戸惑わせるけれど。
たぶんそれは、彼がつい最近身につけた感情や欲望に直結しているものだから。それでよいのだ、と薫は思った。
まぶたの筋肉が緩む。呼吸が深く、規則正しく変化する。ひとり分のぬくもりは、無事に薫を眠りに沈めていく。
「薫殿」
障子の向こうから、ひかえめに剣心が薫を呼んだ。
もったりとした意識の中で、薫は返事をするか迷う。返事がなければ、剣心は薫の眠りを妨げるような真似はしないだろう。
寝たふりをすることはできた。けれど、拒絶のうえに沈黙を重ねるには、薫は潔癖すぎた。薫を求める剣心を拒んだうえで、それを疲れと眠りのせいにして追い払うことは、剣心に対していかにも不誠実であるように、薫には思えた。
「今日は、弥彦がいるから……」
眠りに落ちる寸前の、とろりとした口調で薫は言った。
「そうか」
薫の言葉に、剣心は嘘を探さない。
彼女の言葉は剣心にとって、いつだって安らぎと救いの象徴だ。
「おやすみ、薫殿」
「おやすみなさい、剣心」
目を閉じる。
遠ざかっていく剣心の足音を聞きながら、薫は小さく安堵した。
『なにもかもが、彼のものではない。わたしは彼と異なるものとして独立している。まだ。』
言い訳のような抵抗を、自立と呼ぶべきなのかわがままと呼ぶべきなのかは、薫自身にもついぞ分からなかった。

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