6.指先で深淵をはかろうというのなら

「……久しぶりね」
ようやく呼吸が整うと、薫は縁に話しかけた。肩で呼吸をしていた薫とは対照的に、縁は汗ひとつかいてはいなかった。倉庫の中で見たのと変わらない、澱んだ瞳でただ薫を眺めるのみだ。
「驚かないのね、わたしがここにいること」
「俺を嗅ぎまわっている女がいると聞けば、心当たりは限られてくる。あとの二人が京都や会津とくれば、答えはひとつだ」
言われてみればそのとおりだった。縁を知っている女は、薫のほかには操と恵がいるのみだ。その二人が東京近辺にいないとなれば、自ずと答えは絞られる。
光の抜けた目とは裏腹に、縁は思いのほかはっきりと話した。薫は不思議と安心する。もっとひどいことになっていても、なんら不思議はなかったのだから。逃亡した後で、何かしら彼を動かす出来事や出会いがあったのかもしれない。
「警察に忠告したの、あなた……よね?」
まっすぐに縁を見据えて、薫が尋ねた。縁は返事をしない。縁の答えを予想していた薫は、それ以上追及しようとはしなかった。
「捕まった黒星や四星は、情報を持っていないらしいの。だから……」
「それで、あの警官がわざわざ京都から四乃森蒼紫を担ぎ出してきたわけか。手際がいいはずだ」
さして興味もなさそうに、縁は言った。
薫が剣心から聞いたところによると、武田観柳は武器の密売にも手を染めようとしていたという。あくまで薫の推測の域を出ないが、同じく武器の密輸を生業としていた縁ならば、蒼紫が阿片密売に関わっていたことを知っていたとしてもおかしくはない。
「蒼紫さんも、過去のあやまちを正そうとしてるんだと……思う……」
『あなたもそうなんでしょう?』とは口に出さなかった。
薫は縁の道程を知っている。それが正しいものではなかったと、分かってはいる。それでも、薫は彼のこれまでの人生のすべてを否定する気にはなれなかった。
ひと呼吸おく。今は、今しなければならないことを成さねばならない。明日、明後日には到着するという招かれざる荷物。それがいつ、どこに到着するのか。その情報を得るために、薫は縁を外に連れ出してきたのだから。
「ねえ……」
「離せ」
「えっ?」
縁に言われて、薫は今もって自分が、彼の右腕を胸に抱え込んでいたことに気づいた。慌てて薫が手を放すと、縁はいかにも厄介だった、というように右肩をこきこきと回した。
沈黙が降りる。強くなってきた海風が、係留されている小舟をぎいぎいと音を立てて揺らした。
用が済んだら、縁はすぐにでも薫の前から消え去るのだろう。意味もなく、薫の心がざわつく。義務感からかもしれないし、好奇心からかもしれない。たんに感傷的になっているだけなのかもしれない。
「ひとりなの? いま」
この質問にも、縁は答えない。それでも、薫は自分の言ったことが当たっていることを確信してした。おそらく彼は、まだ他の誰かと関わるほど、自分を持ち直せてはいまい。
「さびしくない?」
「二人でも寂しそうなお前に言われたくない」
「え……」
耳の奥が、ごとんと重くなるのを薫は感じる。
さびしそう? わたしが? 愛する男と一緒に暮らしているわたしが? 毎日のように剣心に抱かれているわたしが? 満ち足りているはずのわたしが?
そんなはずはない、と思う。けれど同時に、泣きたくなっている自分が居る。気づいてくれる人が居たことに。笑顔の下にある矛盾と不安を、見つけてくれる人が居たことに。迷い子が親を見つけたときの心境に、いくぶん似ているかもしれない。
「……何の真似だ」
無遠慮なまでにまっすぐ見つける薫の視線に、縁は鬱陶しそうに眉をしかめた。まるで魅入られでもしたかのように、薫はまばたきひとつせず縁を見上げていた。
なにかに驚いているように見える。けれど同時に、何かを探しているようにも見える。
「…………」
倉庫から脱出したときとは違い、今の薫は自身の首に小刀を突きつけていない。振りきることは、縁にとってそう難しいことではない。けれど、縁は動けなかった。ただ顔を曇らせて、不機嫌そうに薫を見下ろしていた。
息を感じるほどの距離にある、生ぬるくやわらかい体温。空気ごしに縁の肌へとまとわりつくその体温が、縁の足から動く力を抜き去っていく。
なぜなのだろう。この女など、どうでもよいはずなのに。本来ならば、不快に思うべき場面なのに。頭のどこかの回路が麻痺している。不愉快だと判断できるほど、頭が働かない。
倉庫の中から人影が飛び出してきたのは、それから数分が経ってからだった。先陣を切って飛び出した剣心は、目に飛び込んできた光景に混乱する。
たよりない月明かりの下、息がかかるほどの距離でならぶ男と女。ひとつに溶けたふたつの身体の稜線。大きな黒い瞳。薄い肩。白く細く浮かび上がるうなじ。見下ろす長身の男。わずかな明かりに透ける銀色の髪。途方にくれた少年と少女の繊細さ。他の者が入り込む余地のない完璧な世界。
ゆっくりと剣心が近づく。まるで、泡で満ちた海水の中を歩いているように、身体がもったりと重い。息がうまく吸えない。喉がひりつく。目が乾く。鼻柱が熱い。なのに、頬は驚くほど冷たい。熱した鉄球でも放り込まれたみたいに、肺の奥がぐわんぐわんと痛む。頭がうまく回らない。形容できない焦燥が脳を焼く。
手を伸ばす。頻度も時系列も無視して、たくさんの薫の残像が剣心の頭の中を通り抜けていく。
毎日惜しげもなく向けられる笑顔。何度かさせてしまった泣き顔。怒れば彼女は、どこまでも強気だ。剣を握ればまっすぐな侍の顔を見せる。ここ数ヶ月で身につけた女の顔は、俺以外誰も知らない。『お帰りなさい』そう言って差し出してくれた、華奢な指さき。偽者だったと分かっていても、頭にこびりついて離れない血みどろの胴着姿。『一緒にずっと居たい』そう言ってくれた、夕ざれた帰り道でのはにかんだ顔。追いかけてきてくれた時に見せた、不安そうに揺れる瞳。もつれた足を砂浜で受け止めてくれた、夏の花のようなにおい。『一緒に東京へ帰ろうね』。死の淵で見た鮮やかな手がかり。大人にならなくては、と背伸びする少女の憧れ。重なった別れに落とした肩。その後で、さびしいけれど我慢しなくては、と笑った瞳の伸びやかさ。そこには、出会った頃の強がった泣き顔には、なかった色が見えた。
節操のない映像の順番が、数十分前に見た姿へとたどり着く。自分ではない男の外套にくるまっていた彼女の姿だ。
他の男のにおいに包まれた薫が、『あたたかい』と笑っていた。剣心ではない、誰かに。まさにいま目の前で縁のとなりに立っている薫の姿は、それと同じ胸騒ぎを剣心に与えた。
鎮めていた黒い塊が、剣心の中で急速に形を取り戻していく。内臓がぎりぎりと痛む。温度の分からない汗が皮膚を濡らす。目を背けていた可能性が、空から降って来た壁のように、音もなく目の前に立ちはだかる。
手にしたと思っていたすべてが、他の誰かのものになるかもしれない。
怖い。怖い。怖い。こんな恐怖は味わったことがない。急に足元の地面が消えたような感覚だ。
『ずっと側で支えていたい』。彼女は言った。けれどそれは、保証でも確約でもない。ただの告白であり、願望だ。風向きが変われば吹き飛び、彼女の心ひとつで反故にされる、脆く儚い架空の絆だ。
ある日突然与えられたものは、同じようにある日突然取り上げられる。半年前に別れを告げた妻が、そうだったように。
今や身体の隅々までを支配している黒い塊の正体が、見えてくる。どんなに世話になった男であったとしても。どれだけ負い目がある人間であったとしても。薫を差し出すことだけはできない。薫をさらっていくことだけは許さない。絶対に。
「薫殿……」
薫に届く最後の一歩は、しゃりりという砂利の音をともなった。闇の中、さらさらと風に揺れる薫の黒髪は、剣心に不吉な儚さを思い起こさせた。すくい取った砂が指をすり抜けていくような、質量を持たない脆弱さだ。
「剣心、怪我は……」
薫の問いかけが終わらぬうちに、剣心は薫の手を引いた。予期せぬ強い力に、薫はあっけなく縁から引き剥がされて、剣心のとなりにおさまった。そのまま、剣心は薫と縁の間を遮るようにして立った。剣心の唐突な行動に、薫は驚く。
「剣心?」
薫の肩を握り締める剣心の力は、驚くほど強かった。微笑んではいるが、目は据わっている。けれど、視線はどこか頼りなげにきょろきょろと動いている。
「剣心、どうし……」
「一緒になろう、薫殿」
それが待ち望んだ言葉であったことを理解するのに、薫にはしばらく時間が必要だった。そしてようやく理解したとき、理不尽なほど強烈な怒りと、奇妙な冷静さが湧きあがった。
なるほど彼の言葉は、わたしが望んでいた言葉そのものだ。言って欲しいと願いながら、いま以上を求めてはいけないと自分を律して、欲しがらずにいた言葉だ。それを言ってもらえたら、きっと嬉しくて、幸せすぎて、泣いてしまうと思っていたくらいに。
なのに、なぜだろう。どうしてわたしは心を動かされないのだろう。どうして、こんなにも平静なのだろう。
自問するまでもない。答えは分かっている。剣心が、わたしを見てそう言っているわけではないからだ。
剣心が見ているのは、わたしじゃない。
雪代縁? 巴さん? それとも剣心自身?
それが誰なのかは分からない。けれど、確実に分かることは。
今この瞬間、緋村剣心が見ているのは、神谷薫では、ない。
「いやよ。絶対に、いや。」
どうしてそんなことが言えたのか、薫は自分でも理解できなかった。けれど、今この時点で、その答えが自分にとって一番正しいことを、薫は確信していた。
『なんてね、冗談よ。嬉しい、もちろんわたしも同じ気持ちよ』
いまそう言えば、撤回できるのかもしれない。ただのきつい冗談で終わらせられるのかもしれない。だが生憎、そんなつもりは毛頭ない。ここで嘘をついたら、死ぬまで嘘をつき続けねばならなくなる。
『一緒にずっと居る』
その提案を最初にしたのは薫だ。単純で明快で純粋で、なればこそ困難で魅力的な未来像がそこにはある。すべては一義的であり、同じ方向性を持っている。だからこそ、嘘と欺瞞を根本に持ち込んではならない。
嘘は人を蝕むから。内側からじわじわと回る巧妙な毒のように。樹木が悪い水を吸い上げ続け、いつしか致死量を満たして腐っていくように。
剣心は表情を変えない。微笑んだままだ。なにを言われたのか理解していないのかも知れない。けれど、薫には分かった。
これがこの人の泣き顔だ。
「あ……わたし……」
泣きそうになる。謝ってしまいそうになる。『冗談に決まっているじゃない』。そう言って、受け入れてしまいたくなる。けど、わたしは間違っては居ない。ぜったいに。
泣くのは卑怯だ。それに、泣いてうやむやにして先延ばしにできるほど、もうわたしに受け入れる余地は残っていない。だから、泣かない。決して。
歯を食いしばる。誰かを許さないことが、こんなにも苦しいことだなんて。
対象が自分と他人という違いはあれども、決して誰かを許さないというこんな想いを、十五年もの間抱えてきた剣心と縁は、いったいどれだけ苦しんだのだろう。
「場所……聞き出して来るから」
限界を感じて、薫は剣心から目を逸らした。これ以上この人を見ていたら、きっと許してしまうから。おかしな話だ。こんなときになって、自分がどれだけ剣心に捉われているのかを実感している。
剣心の手をするりと逃れて、薫は歩き去ろうとする縁の背中を追った。薫の声に、最後まで涙は混じらなかった。


「それじゃ、布団はこちらを使ってください。自分たちは、念のため華僑街周辺の見回りをします。何か入用なものがありましたら……」
「おーご苦労さん。ほんなら、酒の一杯でも持ってきてもらおか」
「え……あ、は、はいっ……」
布団を運び込んだ若い巡査が、張の要求に面食らってばたばたと廊下を走り去った。その背中に、張は調子よく手を振る。鎌足が都合した、倉庫街にほど近い税関兼警備詰所の一室は、普段は資料室として使われているらしい。部屋の中には、紙と墨と埃のにおいがかすかに漂っている。それでも、深夜の混戦を済ませた後で、部屋に文句を言う人間はいなかった。
「やれやれ、ようやく一息つけるわい。あとはあのお嬢ちゃんに任せよ。果報は寝て待てってな」
積まれた布団から一組を引っ張り出して、張は手際よく自分の寝床を確保した。牢名主のごとく布団のうえにあぐらをかくと、手持ち無沙汰にまかせて資料棚から書類を引き抜く。
「剣心、布団ここ敷いとくぜ。……ちゃんと寝ろよ」
奥まったソファに腰掛けていた剣心に、弥彦が声をかけた。『ああ』と剣心は微笑む。いつもの笑顔だ。けれど、その瞳には何も映ってはいなかった。
これと似た目に、弥彦は覚えがある。半年ほど前、剣心が自分の過去を語ったときにそっくりだ。違うのは、あのとき剣心のとなりにいた薫が、今はいないという一点のみだ。
肝心の荷が運び込まれる場所の情報を、弥彦たちはまだ手にしていない。さらに言えば、多くの人間の前で、とりわけ剣心がいる前で、縁がすんなりと情報を提供するとは思えない。だから、情報を聞き出そうと薫が縁についていったことには、納得できる理由がある。
正しい。まったく正しい。おまけに、雪代縁がいまさら薫に危害を加えるとも思えない。危険さを考えれば、先ほどの倉庫での乱闘騒ぎのほうが、よほど危険だったはずだ。
それでも、弥彦にはより状況が悪くなったようにしか思えなかった。薫の傷病を恐れる心配は、確かに消えたかもしれない。けれど、誰かの心が取り返しのつかないくらい損なわれる危機がそこにあるのなら、事態の深刻さは依然変わらないではないか。
「坊主、こういうんはな、部外者が口出ししてもムダなんや。まぁいいから、飲みぃ」
酒を調達してきた張が、ごろりと転がった弥彦にぐい飲みを差し出した。受け取らない弥彦に構わず、張は勝手に弥彦の分まで酒を注いだ。
「おう伊達男、アンタもやるか?」
「俺は下戸だ。酒は飲めん」
三つ目のぐい飲みをつまみ上げた張の申し出を、蒼紫はすげなく断った。蒼紫は窓から港湾をひととおり眺めると、窓辺近くの奥まった場所に置かれていたソファに腰を下ろして目を閉じた。
「ま、アンタはそれ以上落ち着く必要なさそうやな。ほれ坊主。疲れとるやろ。一杯やりぃな、落ち着くで」
弥彦は張の手から杯を奪い取るようにしてつかむと、ひと息であおって布団をかぶった。
朝早く東京を出て倉庫街を歩き回り、寒い中見張りをした挙句、先ほどの乱闘だ。言うまでもなく、身体はへとへとに疲れている。なのに、眠れない。胸が騒ぐ。余計な心配だと思っていても、頭が勝手に回転する。
ちくしょう、薫のヤツ。なんでここにいないんだよ。
頭から布団をかぶっている弥彦を見下ろして、張はちびりと杯を舐めた。元気づけるなんてらしくない、と一人ふて腐れる。手遊びついでにめくっていた資料の紙束を、布団の脇に放り投げる。ぐい飲みを飲み干したところで、張の横から鎌足がするりと徳利の乗った盆を取り上げた。
「まったく、飲んだらちゃんと下げなさいよね! 緋村さん、コレ下げに行くから手伝ってちょうだい」
まったくもなにも、今飲み終わったばかりではないか、と張は反論しようとする。だが、すぐに鎌足の言い分がただの方便なのだと気づいた。
『ああ』と返事をすると、剣心は相変わらず笑顔のままで盆に手を伸ばした。慣れた手つきで右腕を使って、盆を脇に抱え込む。けれど盆は剣心の脇には収まらず、がしゃんと音を立てて床に転がった。
「うおっ! おどかすなや!」
「すまぬ」
「ドンくさいやっちゃなあ……」
ぶちぶち文句を言いながら、張は割れた食器のかけらを拾い集めた。それから、剣心と鎌足が扉の向こうへ消えたのを見届けると、勢いよく仰向けになった。

深夜の厨房は、当然ながらがらんと静まり返っていた。厨房とはいっても、簡単な調理台と流しがあるのみだ。かびくさい臭いと無造作に置かれた食器は、いかにもここが男所帯の台所であることを物語っていた。
「あらら、こりゃもう直らないわね」
いくつかの破片に変わった猪口を検分した後で、鎌足は諦めてそれを無駄紙で包んだ。すまぬ、と剣心が小さく謝る。
「お猪口くらいならいいけどさ。明日の夜もその調子じゃ、今度は人が死ぬわよ」
鎌足の言葉は、鉄のように固かった。低く静かなその声は、紛れもなく男のそれだ。
「大事なあのお嬢ちゃん、死なせたくないでしょ?」
「当然だ。薫殿は拙者が必ず守……」
「……ろうとする本人に逃げられたんじゃ、世話ないわよね。いいの? あの男とあのコ、今夜二人っきりよ」
挑戦的な鎌足の言葉に、剣心は困ったような笑顔を見せた。何も含まれて居ない、空っぽの笑顔だ。相手にそれを悟られていると分かっていても、その表情以外を持ち合わせていないからそうするしかない、というありあわせの表情だ。
「拙者たちが居たのでは、縁は答えないであろうよ」
普段となんら変わらることのない剣心のにこやかさは、鎌足の神経をちりちりと焦がした。
上っ面だけの笑顔。見ていれば分かる。この男は、がんじがらめなのだ。そこから産み落とされた拙い笑顔は、身動きの取れないこの男の、苦し紛れの処世術なのだろう。
「……やせ我慢」
そのとおりだ、と剣心は思う。薫は明確に自分を拒絶した。それが制限つきのものであったとしても。
何もない頭の中に、その事実だけが無造作に転がっている。それ以上のことは考えられない。事実を認めるだけで、剣心の脳髄は痺れて活動を止める。複雑に絡みあった歯車が、石を飲み込んだことによって動かなくなるみたいに。それなのに、顔の筋肉だけは無様に笑顔を作っている。
「抜け殻みたいになっちゃって。そんなに大事なら、追いかけていって連れ戻せばよかったじゃない」
鎌足が屑箱に紙包みを放り込んだ。包みは、落下先でがちゃんと鋭い音を立てた。中で、破片がさらに細かく砕けたのだろう。
「先ほどのことは、拙者が性急すぎた。このうえ追いかけては、怖がらせる一方でござるよ」
剣心が洗い桶に水をつぎ足す。食器は桶に沈むたび、ぽちゃりと律儀な音を立てた。
「それに、さっきも言ったとおり、薫殿と二人のほうが、縁は話しやすかろう」
剣心の背中を、鎌足は値踏みする。
この男はひどく落ち込んでいる。それはまったく公明正大な事実だ。十五年かけてようやく見つけた止まり木を、失うかもしれない。それが、この不安定な男にどれだけの恐怖と不安を与えているかは、想像に難くない。
それ自体は同情すべきことだ。けれど、どこか納得いかない。何かが鎌足を苛立たせる。
鎌足はもう一度剣心を仔細に眺めた。足運びや姿勢は、紛れもなく達人のそれだ。もしこの場で鎌足が全力でもって飛び掛ったとしても、瞬く間に斬り伏せられてしまうだろう。
けれど、鍛え上げられた動きとは裏腹に、剣心の目はゆらゆらと不安定に揺れている。濁流のなか、足場をどこに見つけたら分からず、立ち竦んででもいるように。
知らないうちに、鎌足は息を細めていた。おぼろげに、苛立ちの形が見え始める。
端的に言えば、剣心が動かないからだ。
なるほど剣心は突きつけられた事実に驚き、戸惑い、怯えている。けれど、それだけだ。そこから先へと進もうとしない。なぜそうなったのか、なにが薫をそうさせたのか、薫がそうしなければならなかった理由は何なのか。考えるべきことはいくらでもあるのに、剣心は立ち止まったままだ。
あるいは、事実の手前には原因があるということ自体に、剣心は気づいていないのかもしれない。突きつけられた圧倒的な現実の壁を見上げるだけで、そこから先に踏み込むべき場所があるという発想すら、持てずにいるのかもしれない。
十五年。長い年月だ。それだけの歳月を人と深く関わらずに生きてきたなら、殻から這い出たときに身動きが取れなくなるのは、当然といえば当然の代償だ。
それでも、剣心には薫が居た。暗い洞窟にもぐりこみ、松明を掲げて出口へと先導してくれた薫がいた。薫は剣心を陽のあたる地上へと連れだして、根気よく彼に付き合い、ついに剣心を陸の住人にした。母国語を忘れた漂流民に、もう一度最初から言葉を教えるみたいに。
剣心の過失は、そこで立ち止まったことだ。『手に入れた世界はあたたかくて、発見に満ちていて、薫はそういったすべての象徴である』。そこで足を止めたことだ。
剣心にとって、薫は強くて、確かで、となりにいて当たり前のもので。いつしかそれは、彼の世界の前提として機能するようになっていた。
あるいはそれは、薫本人が望んだことだったのかもしれない。『剣心が望む存在』として、自分を仕立て上げること。ありそうな話だ。あの娘なら。
もしそうだとしたら、それは薫の誤算だ。本人がいくら剣心を支えたいと望んで、そのために確かなものであろうとしても。結局のところ、薫はまだ十八年しか生きていない生身の女に過ぎないのだから。
見返りを求めずに一人の男に尽くす。美しい生き方だ。だがそれは、生身の人間の生き方ではない。まして世間知らずの彼女なら。
病室で張から聞いた由美の最後を思い出す。
『由美姐さんは『志々雄様のために死ねた』て、笑って逝ったちゅう話や。文字通り死ぬほど愛し、尽くしたんやなぁ』
献身的な愛情。一面で、それは事実だ。だが、由美にしてみれば、美しい自己犠牲などではなかったはずだ。
同じ男を見つめ続けていた鎌足には分かる。由美の最後は、たんに由美自身の願望を体現したにすぎない。志々雄に求められて自分を変質させた結果などではない。
彼女は、ひとえに自分に正直に、したいと思ったことを遂行しただけだ。そして、それができる女だったからこそ、鎌足は由美にはかなわないと認めたのだ。
剣心に気づかれぬように、鎌足はため息をついた。
あたしは、何を言おうとしているのだろう。手助けなんて柄じゃないのに。ああきっと、あの娘のせいだ。緋村剣心に雪代縁、それにこのあたし。ひと癖もふた癖もある脛に傷持つ人間を、なぜかあのコはおかしくさせる。
「つかぬこと聞くけど。緋村さんて、もともとお武家さんの人?」
唐突な鎌足の質問に、剣心が目だけで振り返る。剣心を見据えている鎌足の目を見る限り、好奇心だけで聞いているわけではなさそうだった。
「いや」
「ああ、やっぱり」
鎌足がひとり納得したように頷いた。それから、意図を測りかねている剣心を値踏みするように、口を開いた。
「色恋沙汰のお節介なんてガラじゃないんだけど……。痴話ゲンカに巻き込まれて死ぬのは勘弁してほしいしね」
やれやれ、と大儀そうに鎌足が斜め中空に視線をずらした。『ここまで言っても分からない?』。そういう態度だ。
「あのさ、あのコはもともと生粋の武家育ちでしょ? そりゃ、今は新時代になったワケだけど」
目だけで剣心が頷く。鎌足の話の意図は、いまだつかめないままだ。
「だったらきっと、『二夫に仕えるべからず』とかそういうふうに育てられたんだと思うのよ。あけすけに言うなら、生涯かけて、一人の男にしか抱かれないってコト」
下世話な言い方ではあったが、鎌足の意図が差すところは、至極真面目なことのようだった。少々居心地が悪くなりながらも、剣心は納得の意図を示した。
「内情はいろいろだけど、武家ってのは表面上、そういうところ結構ガッチガチでしょ。これがほかの身分となると、だいぶ解釈に余裕がでてくるわけだけど」
言われて剣心は思い出す。物心がつくかつかぬかの幼い頃、まわりの大人たちは、やれどこの妻が間男を持っているだの、やれ向こうの息子がとなりの娘を孕ませただのと、軽い調子で話していた。剣心が名字帯刀を許されていなかった頃の話だ。
「育った環境が違うわけだし、想像つかないのは仕方のない部分もあるけどね……。たぶんあのコは、これ以降はないって覚悟を決めて、アンタに抱かれた。なのに、肝心のアンタは、現状に甘えてあのコを宙ぶらりんにしたまま。やっとこさ『一緒になろう』って言ったと思ったら、その動機は、他の男に取られそうになったから。これじゃ距離置かれても仕方ないって、思わない?」
「あ……」
小さく声を上げた剣心の顔は、いまにも泣きだしそうな少年の顔だったから。鎌足はため息をついて、諭すように続けた。
「氏とか身分とか、そういうつまらないこと言ってるわけじゃないの。あのコにはあのコなりのこれまでの人生があって、その結果、今のあのコが居る。背景とか環境とか、そういうヤツよ」
水に触れている指先の冷たさを、いつしか剣心は忘れていた。息苦しくなる。喉の奥がごろごろと痛んだ。
薫は、最初から薫であったわけではない。
そんな当たり前のことを失念していた自分に、愕然とする。彼女はいつだってとなりにいて、受け入れてくれて、『おかえりなさい』と剣心の場所を用意してくれる。そんなのは、ただの都合のよい思い込みだ。いってみればそれは、幸運な偶然なのだ。
『緋村剣心が満足する現状』を用意し続ける薫が、なにを思っているのか。なにを願っているのか。どういう道程を歩んで、そう思うに至ったのか。真剣に考えたことがあっただろうか。
剣心にきっかけを与えられたことを、鎌足は確信する。
やれやれ、我ながらお人よしだ。けれど、これ以上かかわるのは御免蒙る。ちょっと背中を押してやれば、この二人なら十分だ。あとは、勝手にうまくまとまるだろう。ここから先にまで踏み込むのは、うまくない。あたしにとっても。
「さて。お節介はこれで終わり。アンタがぼーっとしてるせいであたしが怪我でもしたら、叩っ殺すわよ」
くるりと剣心に背中を向けると、鎌足はすたすたと食堂から歩き去ろうとする。明かりの足りない照明のせいかもしれない。女性らしさが染み付いているにもかかわらず、その背中は紛れもなく侍のそれだった。
「本条殿、お主も……ひょっとして……武家の……」
「『言いたくないことは尋ねない。人の過去にはこだわらない。』あのコなら、きっとそう言うんじゃない?」
鎌足の口調は飄々としていたが、剣心に『これ以上詮索するな』と伝えるのに十分だった。
男の身体に女の心を宿した彼の人生が、少なからず好奇と蔑視にさらされてきただろうことは、剣心にも想像がつく。ましてそれが、攘夷だ維新だと血気はやったあの時代であれば、なおさらだ。
「八百長だとは思うけど。結果はどうあれ、やれるだけのことはやってみたら? 相手が生きてるんだからさ」
今度こそ鎌足は出て行く。歩きながら、いかにも疲れたというように、あくびをかみ殺した。
「良かれ悪しかれ、相手が生きている間しか手出しはできない。分かってるはずでしょ? アンタだって」
そのとおりだった。

割れた食器が入った塵袋を集積所に下ろすと、剣心は壁際に積んであった木箱に腰を下ろした。そう遠くない場所で、長い汽笛が鳴った。港は細々ながらもまだ動いている。
なんとはなしに空を見上げる。雲がでてきたのだろう。月の輪郭は靄がかっていて、星はほとんど出ていない。この前こんなふうに空を眺めたのは、奥義伝授の前夜だっただろうか。足りないものを考えるときは、いつだって真っ暗な空の下だ。
薫が俺に望んでいるもの。これだけそばにいるのに、何度も肌を重ねたのに。情けないことに、皆目見当もつかない。
深呼吸する。ここで、思考を打ち切るわけにはいかない。それではこれまでと変わらない。考えねばならないのだ。息を殺して、足音を立てずに、慎重に森の奥へと入っていかねばならないのだ。
視点を変える。では、俺が薫に与えられるものは、いったい何があっただろう。
手当たりしだいに思い浮かべてみる。恋心? 少しは当たっているかもしれない。けれどそれを結論にすることは、もちろんできない。だって、それは前提だ。
今、この手にしているもの。安らげる場所、気心の知れた友人たち、頼ることのできる仲間。考えてみれば、そのすべては彼女との出会いから始まっている。一年前、薫と出逢って足を止めた。そこから、すべては連綿と続いている。
出会った頃の薫は、今と同じようにまっすぐで、頑固で、屈託がなくて、今よりもいくらか子どもだった。一度離れた関心の戻りづらさや、どんなに誠意を尽くして頑張っても伝わらないことが世の中にはあることを知らないほど、彼女は幼かった。
あの頃の薫の蛮勇は、今となっては眩しいとさえ思える。それほどに、彼女はこの一年で大人になった。
不条理な世界を知り、相容れない正義を知り、どうにもならない男と女の想いを知り、それを受け入れた。その過程は決して平坦なものでも、美しいものでもなかった。突っ伏して泣いて、じたばたと転げまわって、見苦しくもがいた。けれどその後で、彼女は決まって笑ってくれた。
剣心の頭の中で、なにかがちくりと引っかかる。成長する女、立ち止まった男。その構図に潜む違和感。
それがきっと、手がかりだ。なぜ彼女は成長したのか。自分との決定的な違いはなんなのか。
きっと、大掛かりなものではないはずだ。目を凝らせばようやく見つかるくらいの、些細なもののはずだ。
だって彼女は、決して大仰な大儀や名分を掲げない。ありふれた日常の中で、手で触れられるものを指先で撫でる。そんな当たり前の日々を繰り返して、薫はいつの間にか成長している。身の丈よりほんの少しだけ大きな殻を用意して、それにあわせて成長していくヤドカリみたいに。
堂々巡りの思案がつづく。
ああ、俺がひとりでこれだけ悩んでいるときに。君はどうして隣にいないんだろう。俺たちは二人で、『一緒にずっと居る』はずなのに。
ふいに、すとんと目の前が晴れる。
そうだ。薫のことだけじゃない。自分のことだけじゃない。神谷薫と緋村剣心、別々の人間二人の問題なのだ。
一心同体なんて、あるはずがない。俺たちは、違う人間がふたり寄り集まってできたつがいなのだ。どうして、こんな単純なことに気づかなかったのだろう。
『一人で背負い込む性格は困りもの』。当の薫から言われていたことだった。
二人で居るのに、どうして俺は一人でばかり考えようとしていたのだろう。『自分が納得したのだから、薫も納得してくれるはずだ』なんて、いつの間にそんなに傲慢な人間になっていたのだろう。信頼と押し付けが別物だということくらい、知っていたはずなのに。
薫と二人で居ることを望んでいるくせに、目の前にいる彼女の存在を忘れて、いつの間にかまた一人になっていた。
目の前にいるのに、あさっての方向ばかりを見ていた俺を、彼女はどんな目で見ていたのだろう。自分ひとりで答えを探したって仕方がない。二人で探せばよいだけの話ではないか。二人ならば、相談も協力もできる。
あっけらかんとしたその結論は、あまりに単純すぎて、剣心を圧倒した。
知らないことは相手に聞けばいい。聞いても分からなかったら、ふたりで一緒に悩めばいい。大切なのは、知っていることより、ふたりで答えを見つけようと動くことだ。たとえ最後まで見つからなくたって、ふたりで落ち込めるなら、それでいい。呆れてふたりで笑えるなら、それでいい。そのために、俺たちはふたりで居る。
俺の過ちは、『一緒にずっと居る』ことを免罪符にして、薫を試そうとしたことだ。子どもじみた独占欲で、薫がとなりに居ることすら疑った。彼女から与えられる想いに慣れすぎて、どうしてもっと寄越してくれないのだと浅ましくねだった。自分が手に持っているものを渡すことはおろか、手のひらを開いてすらいなかったのに。
一人で生きてきたから、自分を見せることに慣れていない。そんなのは、都合のよい言い訳だ。
みっともない上っ面だけの笑顔を張り付かせて、薫の提供してくれる居心地のよい場所に甘えていた俺を、彼女はどんな目で見ていたのだろう。
現状で俺が満足しているのならと、薫が自分の望みや背景を言い出せずにいたとしたなら。その状況に、自分を馴染ませようとしていたとしたなら。薫の失望と諦観は、どれほどのものだったのだろう。
俺は、ひとりではない。
皮肉なものだ。彼女がいなくなった今このときになって、ようやくそんな単純なことに気が付いた。
やっと分かった。俺の内側からあふれてくるこの感情を、抑える必要なんてなかったんだ。おびえて、隠して、閉じこもる必要なんて、どこにもなかったんだ。
『言いたくないことは聞かない』。君は言うけれど。俺は見せたいんだ。それすら、押し付けなのかもしれないけれど。
誰かと比べてではなく。俺の中に、こんなにも君の場所があることを伝えたい。そんな簡単なことに気づくのに、これほど時間がかかった俺の愚かさすら、知っていて欲しいんだ。君だけには。
俺が、どれほど薫のなかに居たいと願っているのかも。俺ではない男のそばにいることに、気が触れそうなほどの恐慌を味わっていることも。

音を立てずに扉を開けると、鎌足は足音をひそめて本棚へ近づいた。立てかけておいた大鎌の柄を手癖のように何度か握り、感触に変化がないことを確かめる。寝返りを打った張と目が合ったのは、そのときだった。
「まだ起きてたの?」
「お前がとっとと酒を片付けよったからな。……足らんかったわい」
張の皮肉を気にかけず、鎌足はソファに沈み込んだ。目を閉じて深くため息をついた彼女を見て、張は事態がひと段落したのだと知った。
「お節介なやっちゃ」
「お互いさまよ」
鎌足が、ちらりと張の横で眠る弥彦を見る。鎌足の言いたいことを察した張が、気にくわなそうに目を細めた。
「やっこさん、元気になりそうか? 巻き添えくって死ぬんは御免やで」
「さあね。……どうせ八百長でしょ」
「えらい愛想ない返事やんか」
張はさらに鎌足の話の続きを待った。が、どうやら彼女はこれ以上話すつもりはなさそうだった。
「ひと波乱ふた波乱あるんは、男女の常やで。俺らみたいな世界に居るロクでもない男に、あんな普通のお嬢ちゃんが惚れたんなら、なおさらや」
「おおむね同意するわ」
「お嬢ちゃん、ババ引いてもうたな。ま、『ロクデナシ』って札を首から下げて歩くわけにもいかんし」
張がカカカと笑った。鎌足は、どうやら本棚近くのソファを寝床に陣取るつもりらしい。床に積んであった毛布を一枚拾い上げると、胸元へと引っ張りあげた。
「そいつがロクかどうかを知りたいなら、そいつの周りを見ればいいのよ。ロクでもない男は、まず同性から好かれないから。けど逆に、ロクでもなさそうなヤツだけど、いくらかマシな人間が周りに居て、そいつらから好かれている男なら、たいていババは掴まされないわ」
「フム。一理あるかもしれんな」
「けどね、問題は」
「ン?」
「用意周到に、周りの人間を見渡してから恋に落ちる人間なんて、いやしないってことよ」
それだけ言うと、鎌足は頭の後ろで手を組んで目をつぶった。『周りの人間』と言われて、真っ先に思い浮かんだ斎藤の姿を、張はあわてて頭の中からかき消した。

瀟洒な洋館の中は、外観の小奇麗さとは裏腹に、埃のにおいで満ちていた。家具や小物は整頓されているが、ところどころ床に引きずった跡があったり、無造作に本が積み重ねられていたりと、人の手によって乱された形跡がある。おそらくは、警察の捜査の過程でできた痕跡なのだろう。
生活感のない洋館は、その巨大さゆえに、現実味がない場所だった。別荘地だけあって、となりの家まではかなり距離がある。人の声や生活音が聞こえないことが、この屋敷をよりいっそう気味悪く感じさせた。
高台にあるこの館の窓からは、それなりの大きさの墓地が見下ろせた。その墓地は、腑分け場のようだったという地下室と、剣心ですら見分けられなかった薫の屍人形に、無関係な場所ではあるまい。根深く周到な悪意の残照だ。理解はしていたが、その事実を目に見える形で突きつけられると、薫は陰鬱な気分になった。
「ここで、暮らしているの?」
前を歩く縁に、薫が尋ねた。縁は無視して進み続ける。歩いているうちに、薫はなんとなく、自分の言ったことは外れているのだろうと悟った。整然と滅びを待つようなこの空間は、昨日今日に人の手が触れた空気を持ってはいない。
「……どこに向かっているの?」
やはり縁は答えない。長い廊下を過ぎて、縁は階段を上りはじめた。次第に薫は不安になってくる。
勢いだけで縁についてきたものの、冷静になって考えてみれば、色々な意味でこの状況には問題がある。怒りをぶつけたまま置き去りにしてきた剣心も、薫の胸を重くさせた。なにより、問題を放り出したままで逃げ出してきた後味の悪さが、薫をしんしんと落ち込ませた。
無言でいると、ずぶずぶと暗鬱な考えばかりにとらわれていく。薫の自己嫌悪が最高潮に達したところで、前を歩いていた縁が足を止めた。
縁が入った部屋は、位置的にいって、どうやら広間として使われていた場所らしかった。壁には油絵がかかっており、部屋の中ほどには暖炉があった。床は大理石でできていて、暖炉の前には毛足の短い絨毯が敷いてある。部屋の奥には、大きな窓を背にして一人掛けの椅子が置かれていた。おそらくは、誰かがそこから他の者に話しかけたのだろう。たとえば、雪代縁が仮初めの同志を唆したりだとか。
部屋のどこに落ち着いたらよいか分からずにいる薫を置いて、縁は暖炉の脇に腰を下ろした。縁がこの部屋から出るつもりがないことを悟ると、薫も居心地悪そうに絨毯に腰を下ろした。無言のまま、十分が過ぎる。
「お前が知りたいのは、どこに荷物が運び込まれるか、だろう?」
意外にも、先に口を開いたのは縁だった。闇に溶け込んでしまいそうな、低い声だった。
「ええ……。もう、時間があまり……」
「知りたいのなら教えてやる。それが済んだら、今後俺の周りをうろつくな」
それから縁は、倉庫街の一角にある、それなりに大きな規模の貿易会社の名前をあげた。もったいぶる素振りも、後ろめたさも、縁は見せない。
それはたぶん縁にとって、いらなくなったものを自分から切り離すというだけの作業なのだ。抑揚のない声で淡々と薫に伝える縁を見て、薫はそう思う。それが消極的なより分けの作業であったとしても。これまで自身を省みなかった彼が、自身のためになにかをしようとしていることは、歓迎すべきことのはずだ。
「ありがとう」
薫がそう言ったとき、縁ははじめて薫のほうに顔を向けた。窓を背にした薫の表情は、外からの光を受けていて、縁から読み取ることができなかった。縁には分かったのは、薫の声色が静かで穏やかであることだけだ。
「なぜ、あんなことをした?」
自分でも気づかないうちに、縁はそう尋ねていた。先ほどの華僑街のことだけではない。縁にとって、出会ったそのときから、薫の行動は理解不能なものばかりだった。
鈍色の煙の中、薫は歯が立たないと分かっていながら、縁に剣を向けてきた。そうかと思えば、浚われた先で首謀者の男の分まで飯を作った。弱点を突けば脱出がかなったはずなのに、この女はそれをしなかった。愛しい男の仇であるはずの自分を最後の最後まで気遣って、姉の想いが綴られた日記帳を手渡した。
さっきもそうだ。『殺させない』と言いながら、自分自身の命は盾にする。やっていることが支離滅裂だ。
おかしな女だ。なぜこの女は、俺なんかのために命を賭けるのだろう。
「さっき言ったままよ。あなたにはもう、人を殺して欲しくない」
意思に満ちた、しんと静かな声だった。表情は相変わらず見えないが、きっとその目はまっすぐに前を見据えていたはずだ。島で何度も縁を居心地悪くさせた、あの瞳で。
「あなただって……」
言いかけて、薫はやめた。
『これ以上無関係な人を死なせたくないから、警察に密告したんでしょう?』
そんな世間一般の良識や大儀で、縁を測れるとは思えなかった。
縁にとって、武器組織は人誅のための部品に過ぎなかった。挫けた信念と姉に拒まれた復讐に関わった部品が、自分の皮を盾に好き勝手動きまわっている。それが、縁にとって許し難かったのだろう。戦地を撤退する残兵が、それまで使っていた陣営を徹底的に破壊せずにはいられないように。
暖炉の脇にうずくまっている縁を、薫は見つめる。窓から入る光を避けるようにして、縁は影のもっとも濃い場所に居た。
身の置き所にそこを選んだ縁を見て、薫は思う。
半年の間に、縁になにか出会いや変化があったのかもしれない。そうでなければ、虚無にとらわれていた縁が目立った行動をとることはなかっただろう。たとえそれが、ひどく自己中心的な都合だったとしても。
ようやく外の世界とかかわり始めたといっても、十五年間培ってきた素地は、そう簡単には変えられない。外界からの影響を、拒むことも、まっすぐに認めることもできず、不器用によろよろと歩く縁は、薫を苦しくさせた。
変えられない性質。成長を終えた大きな身体。傷だらけのまま歩みをとめない足。見つからない答。
小さくうずくまった縁の姿は、そのすべてを象徴しているような気がした。無数の矛盾を、ばらばらに解けないようにただ抱え続ける。捨てることも、拾うことも、助けを呼ぶこともできない。
息苦しくなる。彼と同じ背中をしていた男を、薫は知っている。
緋村剣心。神谷薫にとって、ただひとりの男。
振り切ってきた剣心の表情がよみがえる。微笑んだままの泣き顔。
置いてきてしまった。わたしの腕の中でしか、あの人は泣けないのに。あの人には、わたししかいないのに。あの人を、ふたたび一人にすることなんて、わたしにはできやしないのに。
「ねぇ」
呼びかけられて、縁は顔を上げた。薫の声は、さきほどの毅然とした女の声ではなかった。ただの突っ張った少女の声に変わっていた。
「背中、貸して」
命令のように強い口調ではあったけれど。薫の依頼は、弱弱しく幼いものであったから。縁はなぜか逆らう気をなくした。それまで理解不能だった薫が、歳相応の幼さを見せたからかもしれない。
大儀そうに縁は立ち上がる。そしてそのまま、部屋を出て行った。一人部屋に残された薫が、はなから期待はしていなかったと一人みじめな気持ちになった頃、ガラス瓶を携えた縁が戻ってきた。縁は暖炉の前の絨毯に腰を下ろした。瓶には水滴がすじを作っている。部屋の外から聞こえた物音を考えると、最近建てられたらしいこの洋館には、水道が通っているのかもしれない。
絨毯の中央に座っている縁の背中は、暖炉と壁に寄りかかっていたときよりも、歳相応に見えた。二十代半ばの男の背中だ。そっと薫が近づく。背を向けて、縁の背中に寄りかかると、今度は薫が小さくうずくまった。
「……っぅ……」
思ったほど涙は出なかった。
本当は、泣く資格なんてない。剣心を置いてきたわたしに。あの人は、わたし以外の前では泣けないのに。わたしは誰かに甘えて泣いているなんて。
だけど、どうしたらいい? もう、ごまかせない。わたしは、すべてあの人のものになんかなれない。剣心に都合のよい場所でありつづけるには、わたしはわたしで在り過ぎている。
自分で自分を過大評価しすぎたのかもしれない。ありのままのわたしは、こんなにも幼いのに。ありのままのわたしを受け入れてほしいと願うくらいに、わがままなのに。

「忙しい女だ」
振り向かずに縁が言った。声を出す筋肉の動きが、背中ごしに薫に伝わる。すぐ後ろから聞こえる声は、剣心より低くて、響く場所も違っている。
『ああ、生きてるんだ。このひと』
そんな当たり前のことを、今このときになって、薫はようやく実感した。
「……あんたのせいよっ……!」
「なんの話だ」
「あんたが……わたしのこと……寂しそうとか言う……からっ……」
八つ当たりもいいところだった。頭の中がぐちゃぐちゃだ。
「寂しかったところで、アンタはどこにも行けないだろう」
縁の言葉に、薫が目だけをあげた。
なぜそれを知っているのだろう。この男は。
「どうして……」
「どうしても何も、アンタは武家の娘だ。決めたひとりの男と添い遂げる。そういうものだろう」
知らない間に、涙があふれていた。せっかく、泣きやみかけていたのに。どうしてこの男は、そんなことが分かるのだろう。どうして、それを分かってくれるのが、この男なんだろう。
「そっか……あなた……御家人の……」
縁は答えない。縁にとってそれは、もう死んだ世界のできごとだ。
気がつけば、薫は嗚咽を漏らしていた。
理解されること。わがままを言えること。それが剣心ではなかったこと。たくさんの感情が混濁する。
本当に知ってもらいたいのは。本当に守りたいのは。本当にそばにいてほしいのは。
ああ、それすら、今は分からない。
薫の嗚咽を聞きながら、縁は瓶に手を伸ばした。瓶に直接口をつけて、水をひとくち飲み込む。
右腕には、先ほどしがみつかれた薫の重みが残っている。ただでさえ小柄な薫だ。右腕にぶらさがって縮こまると、縁からはつむじしか見えなかった。
背中では、薫が泣き続けている。ようやく泣き声は静かになり始めた。小刻みに震える彼女の体温は、なぜか縁を安心させた。
こんなに穏やかに、客観的に、周りを見渡せたのはいつぶりだっただろう。室内は相変わらず暗かったが、不思議と縁の目は、部屋の隅々までを捉えることができた。
「ぅくっ……う……」
薫はまだ泣いている。薫の泣き声は、どうしてだか縁を白けさせた。
腕の一本、背中のひとつくらい、気が済むまで好きにしたらいい。この女のことだ。どうせすぐ立ち直るに決まっている。
肩を震わせて泣くこの女は、いつだって俺の調子を狂わせる。俺だけじゃない。十五年怨んできたあの男も、この女に狂わされた人間のひとりだろう。どういうわけだかこの女には、一人きりで生きてきた人間が持つ壁をすり抜ける能力が備わっている。
「……ごめんね」
泣き声がやんだ頃、鼻にかかった声で、薫はそう言った。ふたたび、縁は薫へと振り向いた。
「なぜ謝る?」
「八つ当たり……しちゃった……から………」
「知らん。お前が勝手に泣いただけだ」
突き放した縁の言葉が、薫には不思議と心地よかった。慰められるよりは、よほど座りがいい。
縁の横にあった瓶に手を伸ばす。こくこくと三回ほど喉を鳴らすと、薫は浅いため息をついた。
「ありがとう」
腫れぼったい目をした、美しくない笑顔だった。けれどそれが、今の薫の正直な笑顔だと理解できたから。縁はなぜか苦しくなった。
この女が理解不能なことを、俺は承知している。なのに。どうして今なお、俺はこの女に『なぜ』と疑問を持つのだろう。理解を諦めてうち捨てておけば、こんなに苛立たなくて済むのに。どうして俺は、この女に関わることをやめないのだろう。
今夜だってそうだ。振り切ろうと思えば振り切れた。なのに、ここへ連れてきた。ご丁寧に、風雨のしのげるこの場所に。そのうえ、泣きじゃくるこの女に背中まで貸して。
「久しぶりね。あなたと二人で居るの」
もう薫の声に涙は混じっていなかった。縁と背中合わせのまま、ドアをぼんやりと見つめて、薫は言った。
「思ったより元気そうで、安心したわ」
『安心した』。こともなげに、この女はそう言う。自分を殺そうとした男に。愛する男を殺そうとした男に。
「おかしな女だ。俺が元気になれば、またお前らを殺しに来るとは考えないのか」
「それであなたの気が済むのなら。あの人は何度だって受けて立つでしょうね」
そのとおりだった。それが、緋村剣心が選んだ道だ。縁が今もがいているのと同じ奈落を通り抜けて、緋村剣心はその答を導き出した。
「あの男を殺せるのは、お前だけだ」
抑揚のない声だった。だからこそ、そこに嘘は含まれて居ないと薫は確信した。
縁の言うとおりだ。理屈ではない。剣心がどれほど強くても。どれだけ強力な奥義を会得していても。たとえ、どんなに安全な場所にわたしが居たとしても。剣心は、わたしを失うことを怖れている。答が見つかった今も、おそらくそれは変わらない。
「……そうかもね。でももう、あの人は答を見つけたから。わたしが死んだとしても、前のようには……」
「そこまであの男は単純じゃない。だからこそ、あのとき俺はお前を……」
「でも、殺さなかったじゃない」
縁の言葉を、薫は遮った。縁の行動の道理も理屈も、薫には理解できる。そして、彼自身にそれが実行できないことも知っている。
「それが、あなたなのよ」
縁に剣心も薫も殺させなかったのは、あるいは巴の力だったのかもしれない。はっきりと薫に分かるのは、縁には『殺させたくない』と思ってくれる人間が居る、という事実だ。巴と剣心、それに薫。そしてきっと、この半年の間に縁が出会った誰か。
「ねぇ。怒らないで聞いてくれる?」
常時不機嫌そうな縁へ、求めるだけ意味のない了承だった。もちろん、縁は何も言わない。それでも薫は構わなかった。
「あなたたちって似てるわ。……わりと」
十五年前の結果が、違うものになっていたなら。剣心と縁の立場は入れ替わっていたのかもしれない。かつて薫は、剣心と清里明良の関係をコインの裏表にたとえたが、剣心と縁の関係もまた、同じように不可分だ。
いたずらに重ねた年齢。前に進めない精神。閉じた世界。立場や原動力は違えど、彼らには驚くほど共通項がある。
縁は何も言わない。大なり小なり、薫の言うことを理解しているのだろう。以前の彼なら、一も二もなく薫に食って掛かっていたはずだ。
それは、分かりづらくて小さな変化ではあったけれど。このろくでもない夜に、薫が見つけることができた数少ない好ましいできごとだった。
「今夜一緒に居てくれたのが、あなたでよかった」
背中にもたれていた薫の重さが増したのを、縁は感じた。
『やっかいな女だ』
説明のつかないいくつもの感情を、縁はそんな言葉にすることしかできなかった。
あたたかい。心地よい。悪い気がしない。けれど、それを否定したい。居たたまれない。座りが悪い。
半年前もそうだった。この女は周りに翻弄されているようで、その実、いつの間にか中心に立っていて、事態の根幹に居座っている。
「もう寝ろ」
これ以上、この女と話さないほうがよい。
なぜだか、縁はそう思った。
薫と話していると、何かを思い出してしまいそうになるから。何かが、形になってしまいそうになるから。それはきっと、ひどく縁を掻き乱すことになるだろうから。
「そうするわ。おやすみなさい」
そう言ってから三分と経たぬうちに、背中の重みが薫の全体重に変わった。細く、規則正しい呼吸音は、縁の神経を静かに研ぎ澄まさせた。
水滴の残る瓶に手を伸ばす。くちびるを濡らした水は、先ほどよりやわらかい味がした。

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